ルカ・モドリッチ(; 、1985年9月9日 - )は、クロアチア・ザダル出身、レアル・マドリード所属の同国代表サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。地元クラブであるNKザダルのユース出身。国内の強豪クラブであるディナモ・ザグレブにてプロキャリアをスタートさせた。2008年からはプレミアリーグに活躍の場を移し、トッテナム・ホットスパーFCではスコット・パーカーやガレス・ベイルらとチームを牽引した。2013年、レアル・マドリードへ移籍。幼少期はユーゴスラビア紛争真っただ中で、祖父をセルビア軍に殺害されるなど過酷な環境で過ごす。7歳から本格的にサッカーを始め、地元クラブのNKザダルの下部組織に入団。16歳でディナモ・ザグレブの下部組織に移籍する。18歳でトップチームに昇格するものの、同じポジションにニコ・クラニチャールが居たため、HŠKズリニスキ・モスタルにレンタル移籍。ここで年間MVPの活躍を見せるものの、ディナモへの復帰は叶わず、翌年NKインテル・ザプレシッチに再びレンタルに出され、年間最優秀若手選手賞を受賞。転機が訪れたのはクラニチャールがハイデュク・スプリトに移籍してから。2005年1月に急きょ呼び戻されると、ヨジップ・クゼ監督の下、エドゥアルド・ダ・シルヴァ、ヴェドラン・チョルルカ、オグニェン・ヴコイェヴィッチらとともに、リーグ優勝を達成。モドリッチもチーム内で確固たる地位を築き、リーグ3連覇に貢献。2007年にはリーグ年間最優秀選手に選出された。2008年5月30日にトッテナム・ホットスパーFCへ同クラブの当時史上最高額となる移籍金2300万ユーロ(37億6000万円)で移籍。8月16日のミドルスブラFCとの開幕戦でプレミアリーグデビュー。ファンデ・ラモス監督の下では中盤の底で司令塔としての役割を求められたものの、プレミアリーグに適応できない中での不慣れなポジションでのプレーとあり、また膝の怪我もあり低調なパフォーマンスが続いた。しかし10月末にファンデ・ラモスが解任されハリー・レドナップが就任すると、セントラルハーフや左サイドでプレーするようになり、レギュラーに定着。2008年12月18日のUEFAカップ、FCスパルタク・モスクワ戦で移籍後初得点を挙げると、その3日後にはニューカッスル・ユナイテッドFC戦でプレミアリーグ初得点を挙げた。移籍初年度から計44試合に出場し、5得点を挙げた。2009-10シーズンもレギュラーとしてスタートしたものの、2009年8月29日のバーミンガム・シティFC戦でリー・ボウヤーと接触し右足の腓骨を骨折。当初は6週間の離脱とみられたが復帰は遅れ、12月にようやく戦列に復帰した。復帰後はトッテナム躍進の原動力となり、クラブ史上初のUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献した。シーズン終了後、トッテナムと新たに6年契約を結んだ。2010-11シーズンは自身初めてチャンピオンズリーグ本戦に進んだ。2010年9月29日のグループリーグ第2節、ホームでのFCトゥウェンテ戦でチャンピオンズリーグ初出場を果たし、ガレス・ベイルの得点を導くなど4-1の大勝に貢献。続く10月20日のアウェーでのインテル戦ではゴメスの退場により前半11分で交代となるも、11月2日のホームでのインテル戦ではラファエル・ファン・デル・ファールトの先制点をアシストし、3-1での勝利に貢献。続く11月24日のヴェルダー・ブレーメン戦ではチャンピオンズリーグ初得点を挙げた。チャンピオンズリーグでは8試合に出場し、グループリーグ首位通過と初のベスト8進出に貢献した。プレミアリーグでは32試合に出場し、パス成功数とインターセプト数でリーグベスト3に入る活躍をみせた。トッテナムは2シーズン連続のチャンピオンズリーグ出場権獲得は逃したものの5位につけ、UEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。これらの活躍により、プレミアリーグで最もクリエイティブな選手の1人という評価を得た。2012年夏の移籍市場では、トッテナムとパートナーシップ契約を結ぶレアル・マドリードがモドリッチへ強い関心を示した。モドリッチ自身も移籍を希望し、練習の欠場やアメリカ遠征を辞退した。プレシーズンツアーに参加しなかったモドリッチに対し、クラブは罰金を課した。2012年8月27日にレアル・マドリードへの移籍を発表した。契約は5年間で、移籍金は推定3500万ユーロ+出来高700万ユーロ。8月29日、FCバルセロナとのスーペルコパ・デ・エスパーニャ第2戦で途中出場し、レアル・マドリードデビューした。試合は2-1でレアル・マドリードが勝利し、移籍後およそ36時間後にスペインでの初タイトルを手にした。しかし、移籍1年目はマルカ読者によりシーズン最悪の補強に選ばれるなど、不本意なシーズンとなった。2013年にカルロ・アンチェロッティが監督に就任すると先発の地位を確立、翌シーズンにはLFPアワードのリーグ最優秀MFに選ばれるなど重要な選手の1人となった。レアル・マドリードでの100試合目となるUEFAチャンピオンズリーグのバイエルン・ミュンヘン戦ではアシストを記録して4-0での大勝に貢献し、決勝においてもコーナーキックからセルヒオ・ラモスの同点ゴールをアシストした。チャンピオンズリーグの優勝を祝ってトレードマークでもあった長髪を切り、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでのセレモニーでは短髪で姿を表した。2014年夏の移籍市場では中盤で共にプレーをしていたアンヘル・ディ・マリアとシャビ・アロンソが揃って移籍し、入れ替わるようにトニ・クロースが加入。アンチェロッティは10番タイプであるモドリッチとクロースを中盤の底で併用した。前シーズンにチャンピオンズリーグ優勝の立役者の一人となったモドリッチだが、11月に行われたEURO予選のイタリア戦で大腿部を負傷したことによってFIFAクラブワールドカップに参加することは出来なかった。2015年3月10日、チャンピオンズリーグのシャルケ04戦で戦線復帰。チャンピオンズリーグ準々決勝となったアトレティコ・マドリード戦前、アトレティコのディエゴ・シメオネ監督は「モドリッチの復帰によりチームの中盤はアグレッシブかつダイナミックになる。彼はレアル・マドリードの物凄いポテンシャルを一段と高めることができる」と影響力の高さに言及した。しかし、4月18日のマラガCF戦で靭帯を損傷したことにより再び長期離脱を強いられた。チャンピオンズリーグ決勝に向けての復帰を目指していたが、チームはベスト4で敗退しシーズン中の復帰は叶わなかった。2015-16シーズンは2年ぶりとなるチャンピオンズリーグ優勝を手にし、FIFProからは2015年のベストイレブンに選出された。各世代の代表に選出後、2006年3月1日のアルゼンチンとの親善試合でフル代表デビュー。ドイツワールドカップのメンバーにも選出されるが、同じポジションのニコ・クラニチャールも選出されたため、グループリーグの日本戦とオーストラリア戦に途中出場したのみに終わった。監督がスラヴェン・ビリッチに交代すると、それまでより1列下がったポジションを任され、代表のレギュラーに定着。ニコ・クラニチャールとの共存にも成功する。ワールドカップ後最初の試合となった、世界王者のイタリアとの親善試合で代表初得点を記録。EURO2008予選で全試合に出場し、アウェーでのイングランド戦ではドリブルで数々のチャンスを作り出しクロアチアの本戦出場に貢献するとともに、イングランドを予選敗退に追い込んだ。EURO2008ではグループリーグ初戦の開催国オーストリア戦でPKにより決勝点を記録。グループリーグ第2戦のドイツ戦ではマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる活躍で金星に貢献。準々決勝のトルコ戦では延長後半14分にイヴァン・クラスニッチの先制点をアシストしたものの直後に同点とされ、PK戦では最初のキッカーとして失敗し、チームはベスト8で敗退した。しかし「EURO2008最大の収穫」と評される活躍により、自身はUEFA選定大会優秀選手に選ばれた。UEFA EURO 2012予選では全ての試合に出場し、本大会出場権を獲得する。グループリーグ初戦のアイルランド戦では勝利するも、第2戦イタリア戦で引き分け、最終戦であるスペイン戦で敗れた。その結果、イタリアと勝ち点1差でグループリーグ敗退となった。2年後のワールドカップにおいても、開幕戦でブラジルに敗れるなど1勝2敗となり、グループリーグ突破はならなかった。EURO2016では、初戦となるトルコ戦でボレーシュートを決めるなどグループステージ突破に貢献。しかし、決勝トーナメントでは延長の末ポルトガルに敗れた。攻撃的MFとして年代別代表でプレーしていたが、20代半ばよりボランチとして新境地を開拓。両足で精度の高いボールコントロールが可能で、ボールを散らしたりFWへの楔のパスなど鮮やかなキックを持つほか、オフ・ザ・ボールの動きも良い。小柄で線は細いが的確な読みと激しい寄せで守備にも優れ、2010-11シーズンのプレミアリーグでパス成功数とインターセプト数の両方でベスト3に入り、スペインリーグでもトップクラスのインターセプト数を記録するなど攻守に高いレベルでプレーができる。ハリー・レドナップはモドリッチを「模範的で、違うレベルのプレーヤー」と表現し、そのプレーやサッカーへの真面目な姿勢、プロ意識を高く評価するなどガレス・ベイルらとともに「代えの利かない売却不可能な選手」であるとしている。ダレン・アンダートンはモドリッチがトッププレーヤーであり、ポール・スコールズの完璧な後継者となり得ると賞賛した。ジョン・テリーはモドリッチを「対戦するのが難しいワールドクラスのプレイヤーで、機敏な素晴らしいフィニッシャー」と賞賛した。かつてNKディナモ・ザグレブやレアル・マドリードでプレーした同郷のロベルト・プロシネチキは「テクニックと判断力を兼ね備えたうえ、強い意志を持った本物のミッドフィルダー」と評している。ズボニミール・ボバンはEURO 2012でのイタリア戦前に「イタリアにおけるピルロのように極めて重要な選手であり、モドリッチ抜きのクロアチアは想像できない。試合を読む力が素晴らしく、チームリーダーとしての自覚も高い」と語った。HŠKズリニスキ・モスタル時代にプレミイェル・リーガ特有の激しくダーティなプレーの中で、心身の強さを培った。モドリッチ自身も「ボスニアでプレーしたなら世界のどこでもプレーできる」と語っている。そのプレーや容姿、背番号「14」からヨハン・クライフと比較される。憧れの選手として、母国の選手であるボバンのほかフランチェスコ・トッティの名を挙げている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。