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パイオニア戦志

パイオニア戦志(パイオニアせんし)は、日本のプロレス団体。日本のプロレス界におけるインディペンデント(インディー)団体の嚆矢とされる。元国際プロレスの選手であり、全日本プロレスに参戦しなおかつ元国際プロレスの選手の内、剛竜馬・高杉正彦・アポロ菅原(いずれも「国際血盟軍」メンバー)の3人が、選手過剰による人員整理要員とされ、1986年4月に全日本正式参戦が決定していたカルガリーハリケーンズ(スーパー・ストロング・マシン・ヒロ斎藤・高野俊二〈現:高野拳磁〉)と入れ替わるように、「エキサイティングウォーズ'86」シリーズ中の1986年3月2日の岩手県陸前高田市民体育館大会をもって全日本を解雇された。当時全日本プロレスと新日本プロレスとの関係が悪化していたことから、3人は上がるリングを事実上失ってしまった。その後剛と高杉は全日本にスポット参戦した他、菅原はリングに上がれぬまま自費でトレーニングを行うなどして辛うじてレスラー生活を過ごしていた。1988年11月15日にアニマル浜口ジムで行われた旗揚げの記者会見が行われた際、取材に来ていた記者達によって、国際プロレスのキャッチフレーズだった『パイオニア精神』にちなんで『パイオニア戦志』と命名される。当初は団体名は無かった。旗揚げ戦は1989年4月30日、後楽園ホールにて行われた。当時の男子プロレス界は新日本・全日本・UWFの3団体時代であり、物珍しさもあって、滅多にない旗揚げ戦をこの目で見ようと駈け付けたプロレスファンで1600人(主催者発表)の観客を集める。所属選手が3名しかいなかったため、剛と当時フリーだった大仁田厚のシングルマッチをメインに、高杉対菅原をセミファイナルとして、2試合のカードしか組めず、苦肉の策として練習生の公開練習と、一般参加のアームレスリング大会を試合前に行っている。すなわち、記念すべき旗揚げ戦のリングに最初に上がったのは素人、ということになる。その後、新日との提携が決まり、藤波辰巳や獣神サンダー・ライガーを招聘するが、メジャー団体の力を見せ付けられる結果となってしまう。さらに、菅原が元横綱双羽黒の北尾光司のコーチ役を務めた縁で、新日に移籍してしまう。この時期、新日にも参戦し、剛&高杉組で長州力・佐々木健介組にフォール勝ちするなどの活躍も見せるが、地味な勝ち方で評価もあまり芳しくなかった。同時期に、FMWで大仁田と抗争を行っていた青柳政司率いる誠心会館の参戦も決まり、青柳や松永光弘との対戦や、ジャパン女子プロレスの試合を招聘するなどしていたが、プロレス界に確固たる地位は築けず、また興行に関しては素人であったため、経営に行き詰まって1990年に興行活動を停止し、後にオリエンタルプロレスとして再出発するも1993年に興行を停止してしまう。FMWよりも先に旗揚げし、その点においてはインディー団体の先駆けとなった団体ではあるが、デスマッチ等の奇抜な試合は行わず正攻法なプロレスにこだわったこと、興行に関しての専門家がいなかったこと、なまじ新日本プロレスと交流したため格下のイメージがついてしまったことなどから、FMWのようなムーブメントは起こせなかった。

出典:wikipedia

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