LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

小牧山

小牧山(こまきやま)は、愛知県小牧市にある標高86mの山。かつて織田信長の居城であった、小牧山城(日本の城)があった。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られる。公園の分類は「史跡公園」。なお現在、山頂にある天守閣風建物は、昭和48年(1967年)に建てられたものである(小牧市歴史館(小牧城)参照)。小牧山城(こまきやまじょう)は、日本の城。織田信長が美濃攻めの拠点として築城し、後の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康の陣城となった。濃尾平野の孤峰である小牧山に築城された城で、織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかったため、急造の砦に近いものと想像されていたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見された。そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見され、戦時急造の城ではなく、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した。現在は小牧山城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされる。南山麓から本丸のある頂上に向かう位置には防衛に不向きな大手道が設けられている。途中の中腹から折れのある道へと変化しており、後の安土城の縄張りとの類似性が指摘されている。標高86mの小牧山頂上に本丸を築き、その周囲を三重の石垣で守りを固め、中腹も削平して数多くの曲輪を構築している。東麓の帯曲輪地区では、堀で仕切られた武家屋敷があったと推定される。この東麓の帯曲輪南端の区画は他の武家屋敷よりも敷地が広く、これが信長の屋敷ではないかと推測している。平成17年度(2005年)に行われた第2次試掘調査で現在の大手道の地下に永禄期の大手道があることが発見された。永禄期の大手道は、山側谷側にもそれぞれに石積を設け、道の両端を区画していた。道幅は約5mで、道に並行して幅 20cmの排水溝を設置していた。この構造は安土城の正面にある大手道と構造的に似通っており、安土城が初見とされる大規模な大手道は、この小牧山城が最初であったと推測されている。小牧・長久手の戦いの際には、陣城として大掛かりな土木工事が行われ、山の周囲全体を土塁と堀で囲み、要所には防衛用の虎口を設けている。小牧山築城以前の歴史は明確ではない。しかし、発掘結果等から、寺院などの宗教関係の施設が存在していたと考えられている。また間々観音に残る縁起(寺院の沿革)では、「元は小牧山に寺院(間々観音)があったが、織田信長の命によって、現在の地に移設された」とある。織田信長は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利したのち、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。早速、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山城に移した。この小牧山移転にはあるエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中で囁かれ、誰もが不服に思っていた。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山(現・愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)に城を築き移転すると布告した。果然清須城内は反対一色となった。信長は反対意見が十分に出た頃を見計らい、家中の意見を吟味した結果として、移転先を小牧山に変更することを申し渡した。すると、今度はほとんど反対意見もなく、皆小牧山への移転に同意したという。この計略は人間心理を巧みに利用したものであり、似たようなエピソードが古今東西に存在するため真偽は不明であるが、応永年間以来、約150年間に渡って守護所として栄えた清須から他の地へ移ることへの抵抗が大きかったことが推測される。なお、平成22年(2010年)の発掘調査により、本丸部分から信長の家臣、佐久間信盛を指す可能性の高い「佐久間」と墨書された石垣の石材が出土した。信長が家臣を競わせ築城を進めさせたとも考えられている。従来小牧山城は、後述のように4年間しか使用されなかったため、美濃攻略のための土塁による仮住まいの城と考えられていたが、2004年からの試掘調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明し、当初信長は長期滞在も考えていた可能性が指摘されている。信長が築いた小牧山城の構造は、山全体(約21ha)を城域とし、多数の曲輪と重臣の館から成っていたということがわかっている。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻を繰り返し、ついに永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃稲葉山城は落城、信長は稲葉山城を岐阜城と改めて移住した。これにより、小牧山城は約4年間の役目を終え、廃城となった。天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。元和9年(1623年)には、尾張徳川家が上街道を整備する為、山の南側にあった町を東に移転させた(移転先に作られたのが、小牧宿である)。明治維新後も尾張徳川家の所有地であったが、昭和2年(1927年)に、時の当主徳川義親によって国に寄付された。同年、国の史跡に指定される。現在でも山中の各所に石垣、土塁、空堀、井戸跡、曲輪、虎口や若干の石垣などが残り、往時を偲ぶことができる。なお現在、小牧山山頂にある「小牧城(小牧市歴史資料館)」は、昭和42年(1967年)に建設されたものである。また昭和22年(1947年)から平成9年(1997年)までは、山の東側の現在の史跡公園の位置に小牧中学校があったが、現在は別の場所に移転している。現在ある小牧城の建物は、名古屋市に住んでいた実業家の平松茂が、自身の財産を投じて建設し、小牧市に寄贈したものである。西本願寺の「飛雲閣」(伝聚楽第の遺構)をモデルとしている。中世から現代にかけての小牧市の歴史的資料が各階に展示されているほか、最上階は展望施設となっている。入場料は大人100円、小中学生30円(ただし土日祝日に限り小中学生は無料)。開館時間は午前9時から午後4時30分。休館日は毎月第三木曜日(祝日の場合は、翌日)と年末年始。施設の管理運営者は小牧市施設活用協会。施設の老朽化とアスベストの使用の問題から、2006年11月に改装工事が始められた。そして展示物の追加や変更なども行なわれ、2007年3月にリニューアルオープンした。また夜間にはライトアップが行なわれている。1階2階3階4階1年間で約3万人の利用者があった(2006年度)。愛知県小牧市堀の内1-1、山頂に二等三角点が設置されている。 こまき巡回バス・ピーチバス・とよやまタウンバス・名鉄バスの「小牧市役所前」停留所下車。※以下、右にある[表示]をクリックすると一覧表示される。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。