LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

デジデリウス・エラスムス

デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年10月27日 - 1536年7月12日)は、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。ラテン語名には出身地をつける当時の慣習から「ロッテルダムのエラスムス」とも呼ばれる。なお、名前の「エラスムス」は洗礼名でカトリック教会の聖人フォルミアのエラスムス(Erasmus of Formiae)からとられているが、「デジデリウス」は1496年から自分自身で使い始めた名前である。主な著作に『痴愚神礼賛』(Moriae encomium)、『エンキリディオン』(キリスト教戦士の手引き、Enchiridion militis Christiani)、『平和の訴え』などがあり、著作の中では一貫して「キリスト者の一致と平和」をテーマとした。また、エラスムスの『校訂版 新約聖書』(新約聖書のラテン語・ギリシア語対訳、Novum Instrumentum)は広く読まれ、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の原版になった。エラスムスの思想は宗教改革運動と対抗宗教改革運動の双方に大きな影響を与えた。『ユートピア』を著したトマス・モアとの親交や自由意志に関するマルティン・ルターとの論争でも知られる。宗教改革の時代を生きたエラスムスは「カトリック教会を批判した人文主義者」と表現されることが多いが、実際にはローマ教皇庁を含めカトリック教会内に知己が多く、生涯を通してカトリック教会に対して忠実であり、カトリック教会の諸問題を批判しながらも中道を標榜してプロテスタント側に投じることはなかった。エラスムスは1536年にバーゼルで逝去し、もともとカトリック教会のバーゼル司教座聖堂だった教会に埋葬された。1460年代の後半(1466年と1467年の2説がある)の10月27日、エラスムスは司祭であった父ロゲル・ゲラルド(Roger Gerard)と医師の娘で未亡人だったという母マルガレーテとの間に、私生児としてロッテルダム近郊のハウダで生まれた。エラスムスにはピーテルという名の兄がいた。1483年に両親が伝染病によって相次いで世を去ると、親族の相談によって兄弟はスヘルトーヘンボスの寄宿学校へと送られた。寄宿舎は共同生活兄弟団の経営するものであったため、若きエラスムスは「デヴォツィオ・モデルナ」(Devotio Moderna:新しき信心)の精神の影響を受けた。1487年、再び親族の意思に従ってデルフトに近いステインにあった聖アウグスチノ修道会の修道院に入った。このころからエラスムスはラテン語の古典に親しみ、イタリアに行きたいという望みをもつようになった。古典の素晴らしさを強調する著作『反蛮族論』はこの時代に書き始められた。このころエラスムスはキケロ、クィンテリアヌスといったローマ古典の大家やアウグスティヌスやヒエロニムスのような教父たちの著作の研究に励んでいた。また、文体についてはロレンツォ・ヴァラやロドルフス・アグリーコラから影響を受けていた。エラスムスは修道会司祭として生きていくことが本意ではなく、修道会を離れる機会を狙っていた。彼は1492年に司祭叙階を受けると、卓抜したラテン語能力を認められてカンブレー(Cambray)の司教秘書に抜擢され、合法的に修道会を離れることができた。 1495年にはカンブレー司教の許しを得、神学博士号の取得を目指してパリ大学へ入学し、モンテーギュ学寮に入った。(モンテーギュ学寮では後にジャン・カルヴァンやイグナティウス・ロヨラも学んでいる。)1496年から「デジデリウス」という名を用いるようになり、『古典名句集』(Collectanea Adagiorum)の執筆を始めた。同書はギリシア・ローマの古典などから格言を集めながら、それらがキリスト教の知恵と一体的なものであることを示そうとしたものであった。貧しかったエラスムスは学資を得るため、勉学のかたわら外国人学生の家庭教師を始めた。これが縁となって1499年にイングランドへ赴く機会を得、同地の上流社会に多くの知己を得た。その中にはエラスムスと同年齢ながら彼が師とあおぐことになる人文主義者ジョン・コレット(John Colet)、終生の友となった政治家トマス・モア、若きヘンリー王子(後のヘンリー8世)などがいた。ジョン・コレットは当時オックスフォード大学で教鞭をとっており、エラスムスは彼の聖書研究の方法論(当時の主流であったスコラ学的アプローチでなく、サン・ヴィクトル学派の流れを汲んでいた)に影響されている。ジョン・コレットはエラスムスのギリシア語の知識が不十分であるとし、さらに研鑽を続けるようすすめた。この頃からエラスムスの関心がギリシア・ローマの古典から、聖書と教父などのキリスト教的著作へと移っていく。1500年『古典名句集』の初版が、1504年には一般信徒向けの信心書である『エンキリディオン』 があいついで出版され、エラスムスは著作家としての名声を高めていった。さらに同年、ルーヴァンでロレンツォ・ヴァラの手による『新約聖書註解』の写本を見出したことは彼の人生の方向を決める出来事となった。1506年には念願のイタリア行きを果たし、訪れたトリノ大学で神学博士号を授与された。その後イギリスに向かうためアルプスを越えたが、その道中で『痴愚神礼賛』の構想を得たという。これは古典をモチーフにしながら、エラスムスの風刺とユーモアの精神が遺憾なく発揮された作品となった。1509年以降、エラスムスは ケンブリッジ大学で教壇に立ち、イングランドの学会での名誉あるポストにつくよう何度か申し出がなされたが、自由な立場で研究を続けたかったエラスムスはそれを断った。1514年イギリスを離れてスイスのバーゼルに到着したエラスムスは書店店主ヨハン・フローベン(Johan Froben)と知り合う。フローベンとエラスムスは意気投合し、以後のエラスムスの著作はフローベンの書店から出版されることになる。1516年に出版された『校訂版 新約聖書』("Novum Instrumentum") と9巻からなる『ヒエロニムス著作集』は学識者の間で高く評価され、人文主義者としてのエラスムスの評価を決定付けることになった。『校訂版 新約聖書』の出版ではギリシア語テキストの出版の重要性および革新性が強調されることが多い。すなわち、「人文主義者エラスムスの手によって、西欧で初めて学術的に校訂されたギリシア語新約聖書が世に出た」というような言い方である。このような表現は、古典研究者であったエラスムスが当時のカトリック教会言語、学術言語であるラテン語を軽視し、新約聖書のオリジナル言語であるギリシア語を重視してその出版に力を注いだというような印象を与える。だが、実際のエラスムスはこの聖書の出版においては、むしろ優れたラテン語新約聖書を世に出そうとラテン語版の校訂に力点を置いていた。実際、エラスムスの出版したギリシア語テキストは正文批判のレベルからすれば稚拙なものであった。その理由はエラスムスが手にいれたギリシア語新約聖書がフィレンツェ公会議(バーゼル公会議)に参加した東ローマ帝国の聖職者によって西欧にもたらされたもの(ビザンチン写本)であり、テキストとしてはせいぜい12世紀にさかのぼるのがやっとのものであった(ヴルガータと呼ばれた当時のラテン語定本は古代のギリシア語版から翻訳されており、その痕跡を随所に残していた)。さらにエラスムスは『ヨハネの黙示録』の完全なギリシア語版を入手できなかったため、その一部を手元のラテン語版を見て自分でギリシア語に翻訳した。つまりエラスムスにとって『校訂版 新約聖書』に添付したギリシア語テキストの重要性はその程度のものだったのである。これに反して彼はラテン語テキストの校訂および新約聖書の注釈書の執筆には相当に力を入れている。エラスムスの思いと裏腹に、自信を持ってまとめたラテン語テキストより稚拙なギリシア語テキストのほうが広く受け入れられ、1521年にルターがドイツ語訳聖書を著したときに、1519年の第二版を底本として用いたこともよく知られている。このころのエラスムスが学者として高い評価を受けていたことは、1516年にブルゴーニュ公シャルル(後のカール5世)の名誉参議官に任命されていることからもうかがえる。また、当時のスペインの摂政ヒメネス・デ・シスネロスは自ら進めていた多言語対訳聖書(『王の聖書』、Complutensian Polyglot)の校訂のアドバイザーとしてエラスムスを招聘している。若き貴公子シャルルのためにエラスムスは『キリスト教君主教育』("Institutio pricipis Christiani") を著している。以後もアントウェルペン、バーゼル、ルーヴァンなどをまわりながら研究・執筆活動を続けた。1517年に若き聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターが発表した『95ヶ条の論題』は本人の予想も超えるほどの大きな反響を呼び起こした。ルターが自分を尊敬し、自分の著作に影響されていたことを知ったエラスムスは当初、ルターとその「聖書中心主義」思想に対して好意的な態度をとっていた。このころ、ルターはエラスムスからの励ましを受けて感激している。エラスムスはルターが不当に断罪されることがないよう手を尽くしながらも、ルターに対して党派を作ったり、教会の分裂を引き起こさないよう自重を求めた。しかし、ルター自身の活発な活動により、事態は過激化・複雑化し、当時のドイツ情勢とからんで政治問題化していった。このような状態はエラスムスの想定を超えたものであり、徐々にルターとエラスムスの思想の違いが明らかになっていった。エラスムスはあくまでキリスト者の一致が最優先事項と考えており、教会の分裂を望んでいなかったのである。結果的にエラスムスはルターに反対する立場の人たちとルターを支持する立場の人たちの両方から疎まれるという難しい立場に立つことになった。ヘンリー8世のアイデアとトマス・モアの書簡に触発され、エラスムスはカトリック教会内で古代から議論が続けられてきた自由意志の問題についての著作『自由意志論』("De lebero Arbitrio

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。