LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

マルティン・ハイデッガー

マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、ドイツの哲学者。ハイデガーとも表記される。フライブルク大学入学当初はキリスト教神学を研究し、フランツ・ブレンターノや現象学のフッサールの他、ライプニッツ、カント、そしてヘーゲルなどのドイツ観念論やキェルケゴールやニーチェらの実存主義に強い影響を受け、アリストテレスやヘラクレイトスなどの古代ギリシア哲学の解釈などを通じて独自の存在論哲学を展開した。1927年の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事にその努力が向けられた。他、ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られる。20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。その多岐に渡る成果は、ヨーロッパだけでなく、日本やラテンアメリカなど広範囲にわたって影響力を及ぼした。また1930年代にナチスへ加担したこともたびたび論争を起こしている。ハイデッガーの生まれたメスキルヒは帝政ドイツ南西部のバーデン大公国ウュルテンベルク州の小村であった。「メス」はミサを意味し、または中世荘園領主メッソに帰する異説もあり、「キルヒ」は教会を意味する。メスキルヒはアレマン語とシュヴァーベン語の境界にあり、ハイデッガーは後年、アレマン人のヨハン・ペーター・ヘーベルとシュヴァーベン人のフリードリヒ・ヘルダーリンを好み、ハイデッガーも自分自身を「空の広大さに身を開き、同時に大地の神秘に根を下ろしている」と書いている。1889年9月26日にマルティン・ハイデッガーはメスキルヒにてフリードリヒ・ハイデッガーとヨハンナの第一子として生まれた。父のフリードリヒはカトリック教会の聖マルティン教会の堂守(寺男)で、教会の家屋管理人であった。聖マルティン教会は守護聖人聖マルティヌスに奉献されており、マルティン・ハイデッガーのファーストネーム「マルティン」はこの教会に因み、祖父も同じ名前であった。父は個人営業の樽桶職人であり、大小の桶や肥桶、酒樽を毎日制作し、合間に教会の堂守を務めた。父フリードリヒは無口であったが、講演会などにはよく参加し、シラーの「鐘の歌(Das Lied von der Glocke)」を暗誦していた。シラー「鐘の歌」は鐘造りの親方による職人たちへの指示と人生論について描いた詩で、「地上においては幸福は長続きはしない」、火は人間の手中にある時には創造の重要な手助けとなるがその本性は破壊であるといった詩句があり、火事や暴動という危険に立ち向かう市民的道徳が描かれた。母のヨハンナ・ケムプフ・ハイデッガーは陽気で率直な性格で、「人生はこんなにすばらしく整えられているのだから、いつも何かを楽しみにしていていいのよ」というのが口癖だった。マルティンの弟フリッツは、この母親の口癖の背後には「恩寵のあるところ、生のなべてのいとわしき事どもは、いつもたやすく耐えらるるべし」という宗教的な経験があったと言っている。ハイデッガーの生まれた南ドイツはカトリックの勢力が強い地域であったが、またバーデンには自由主義の伝統もあり、1815年には代議制が採用され、1848年の革命の牙城でもあり、教会は自由主義陣営と激しく対立していた。1854年に州政府がフライブルク大司教を逮捕した時には紛争は先鋭化し、カトリシズムの住民は教会には従順であったが国家には反抗的で反プロイセンであり、ナショナリズムよりも地域主義が強く、反資本主義、反ユダヤ主義、郷土主義が根付いていた。1870年にバチカン公会議で教皇の不謬性教義が決定されると、ビスマルク宰相は文化闘争(Kulturkampf)を開始する一方で、ピウス9世ローマ教皇はドイツカトリック中央党を支援し、ドイツ帝国国家とローマ・カトリックの対立が激しくなった。メスキルヒ村では上流階級を占めた「古カトリック派(旧カトリック派)」が形成されると自由主義的な近代化を目指し、ローマ・カトリック派と対立した。古カトリック派はバーデン政府から援助を受けており、バーデン政府から聖マルティン教会の利用許可を獲得したため、ローマ・カトリック派は撤退せざるをえなくなった。1875年、メスキルヒのローマ・カトリック派は城の近くの果物倉庫に新しい教会を設立し、ローマ・カトリック派であったハイデッガーの父はその一翼に自分の仕事場を設け、この臨時教会でマルティン・ハイデッガーは洗礼を受けた。親戚のコンラート・グレーバー博士もローマ・カトリック派であった。コンラート・グレーバーは代表的なローマ派で、当時の対立の実相について「裕福な旧カトリック派の子供たちは貧しいカトリック派(ローマ派)を除け者にし、彼らはもとより司祭にもあだなをつけ、さんざん小突き回し、もう一度洗礼を受けさせてやるといって水飲み場の桶に頭を突っ込んだりした。」「旧カトリック派の教師は悪人と善人を区別して、カトリックの生徒たちに黒い病人とアダ名をつけ、罰を受けずしてローマの道を歩むことは許されないと、これを腕力沙汰で思い知らせていた」、旧カトリック派は全員離教しており、メスキルヒで就職するには旧カトリック派に参加しなければならなかったと回想しており、このような時代のなかハイデッガーの父フリードリヒは不利益があったが節操を守り、ローマ派にとどまった。メスキルヒではローマ・カトリック派は古カトリック派の三倍の教徒数であり、バーデン政府も1895年にはローマ教会がかつての資産を取り戻し、ハイデッガー家も教会広場沿いの家へ戻った。父フリードリヒは、対立していた古カトリック派に寛容の精神で接した。ハイデッガー家では寛容をふくめた「すべてにおいて節度を守ること」は不文律であった。ハイデッガーの生家は聖マルティン教会の左手にある三軒の家の真ん中にあった。一階はベイビー・フェヒトの店で、ハイデッガー家はその二階に住んでいた。生家の右隣りには教会資産勘定役のクリーゼゴン・カウトが住んでおり、寺男であったハイデッガー家よりも上の身分であった。市立楽団・教会聖歌隊の指揮者でもあるカウトの地階には理髪店があった。隣にはクサーヴェル・ヴァーグナー司祭と皮なめし職人フィッシャー家が住んでいた。ハイデッガーの家族は1903年時点では2000マルクの基本資産と960マルクの所得税が査定されており、経済的には低い水準で生活していた。1891年11月12日には妹のマリーが、1894年2月6日には弟のフリッツが生まれた。日曜日には修道服を着て男子は教会の掃除、女子は教会の花飾りを手伝い、ロウソクの交換やミサの鐘を鳴らすことも手伝った。当時たいていの人たちは時計を持っておらず、塔の時計と鐘によって時間を知った。寺男の子供は毎日、午後三時に鐘を撞く役割であった。晩の鐘が撞かれると町は静まりかえり、ハイデッガーはのちに「静寂は、最後の鐘の音とともにいよいよ静かになる。それは二度の世界大戦の犠牲になって寿命をまっとうすることもなかった人たちのもとへも届くのである」と書いている。家では節約が重視され、使い古したからといって棄てられずに大事に物が使われた。ハイデッガーは小学校では夏には水泳、冬にはヘーゲル水車の側の池でスケートやサッカー、鉄棒、スキーなどのスポーツを好み、父の樽作りも手伝った。サッカーではレフトウイングとして活躍した。ゲッギンゲン村の子供とインディアン戦闘ごっこ、兵隊さんごっこを遊んだ際には、ハイデッガーは指揮官で、隣の皮なめし職人の家から借りた本物の鉄製のサーベルを持ってきたためメスキルヒ村がたいてい勝利した。メスキルヒには高等小学校までしかなく、ギムナジウムはなかったため寄宿生の学校へ進学し、そのために高等小学校の課程とラテン語を習得しなければならなかった。1900年より、町村司祭カミロ・ブラントフーバー神父から弟フリッツとともにラテン語の個人指導を受けた。カミロ・ブラントフーバー神父はカトリック中央党のプロイセン州議員、ホーエンツォレルン地方議員をと務めた。中央党は、ビスマルクがカトリック教会を弾圧した文化闘争の時にはローマ・カトリック勢力を代表した。1903年秋、ボーデン湖畔のコンスタンツにあるハインリヒ・ズーゾ高等学校(Heinrich-Suso-Gymnasium)に入学し、この学校はギリシア語、ラテン語など古典人文主義の校風であった。フライブルク大司教区(Erzbistum Freiburg)付属宿舎(コンラディハウス)に住んだ。学校の哲学の授業ではリヒャルト・ヨーナス『哲学入門』が教材であった。当時マイナーセミナリー(Minor seminary.神学準備校)の牧師であったコンラート・グレーバー(Conrad Gröber)から「決定的な知的影響を受けた」とハイデッガーは述べている。コンラート・グレーバー博士はハイデッガーにとって「父のような友人」で、1905年にはマイナーセミナリーからコンスタンツ三位一体教会司祭で1932年から1948年に死去するまでフライブルク大司教を務めた。1905年、シュティフターの『石さまざま』を読む。1906年に課程修了後、フライブルクのベルトホルト高等学校(Berthold Gymnasium)でアビトゥーアの準備をする。数学、神学、物理学、進化論生物学などを学習した。最終学年にギムナジウムのドイツ語・ギリシア語の教師フリードリヒ・ヴィダー(Friedrich Widder)の講義でプラトンを学習し、これによってハイデッガーは哲学的問題に意識的になったと述べている。ヴィダーは学内で文学サークルを組織しており、ギリシア語の講義ではプラトンの『エウテュプロン』、トゥキディデスの『ペロポネソス戦史』VI,VII巻、ホメロスの『イーリアス』、ソポクレスの『オイディプス王』、エウリピデスの『タウリケのイピゲネイア』とゲーテによる翻案を教材とした。1907年夏、ギムナジウム最終年にコンラート・グレーバー博士から、フランツ・ブレンターノの1862年の学位論文「アリストテレスにおける存在者の多様な意義について」を贈られ、影響を受けた。ブレンターノの論文がギリシア語原文が長々しく豊富に引用されており、ハイデッガーは図書館でアリストテレス全集を借りだした。ハイデッガーはこの時に「存在の問い」に目覚めたと後年述べている。1908年、レクラム文庫でヘルダーリンを読む。1909年にはフライブルク大学神学部教授カール・ブライヒ (Carl Braig)の1896年の著作『Vom Sein: Abriß der Ontologie (存在について:存在論綱要)』も入手している。ハイデッガーはブライヒについて「ヘーゲル、シェリングとの対決を通じてカトリック神学にしかるべき地位と拡がり」を与えた「テュービンゲン思弁学派の伝統を受け継ぐ最後の人」と『現象学への私の道』で評している。1909年9月30日、オーストリアのフォールアルベルク地方のフェルトキルヒ近郊ティジスのイエズス会修練士修練期用新入生宿舎に登録する。しかし10月13日、病気を理由に修練士監督より除籍される。フライブルク大学神学部に冬学期から入学し、入寮当日から図書館でフッサールの『論理学研究』を借りだし、研究を始めた。ブレンターノ学位論文を理解するのに役立つと考えたからだという。カール・ブライヒ教授からヘーゲルとシェリングを、ヴィルヘルム・フェーゲ教授から芸術史を、ゴットフリート・ホーベルクの聖書解釈学、ユリウス・マイアーのカトリックにおける所有権講座、ゲオルク・フォン・ベロウの憲法史講座を聴講した。ゲオルク・フォン・ベロウは国家は人間の本質的な絆であり文化の根源で、等族制を擁護し、民主主義はドイツ民族を脅かすものであり、ユダヤ人が普及させていると考え、第一次世界大戦時にはドイツ祖国党の指導者の一人であった。1910年8月15日、メスキルヒ隣村のクレーンハイツシュテーテンでアーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ記念碑除幕式に参列し、その感想文をミュンヘンの雑誌『アルゲマイネ・ルントシャウ(公衆評論)』に発表した。アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラの著書『ウィーン覚書』は1683年のトルコ軍によるウィーン包囲に際して書かれ、トルコ人は「紛れも無いアンチ・キリスト、虚栄の塊の看守、貪欲な虎、呪われた世界破壊者」とされ、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、ペストはユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたとし、「神はドイツ人を見放すことはない」と説教し、『幕屋II』では「イエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない」と書いている。こうした反ユダヤ主義は、カトリックでは中世からの伝統であり、アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラの説教はオーストリアや南ドイツでの反ユダヤ主義の発展にも貢献したとされ、またクレメンス・マリア・ホフバウアーをその精神上の父とし、啓蒙合理主義を主要な敵とするキリスト教社会運動(Christlichsoziale Bewegung)に影響を受けたカール・ルエーガーのキリスト教社会党(Christlichsoziale Partei)へと受け継がれた。アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ記念碑はウィーン市長となっていたカール・ルエーガーから1000クローネの援助を受けて建設されたものであった。また雑誌『アルゲマイネ・ルントシャウ』はルエーガーの「祖国を救うために、ユダヤ人に握られている自由主義と戦う」と主張した論文を掲載していた。ハイデッガーは銅像について「天才的な頭(老年のゲーテに見紛うほど似ている)を見ると、広く浮きだしている額の背後には、多年風雨に耐えてきた不屈のエネルギーと、脈打ち続ける行為への衝動を実行に移さんとする深く汲み尽くせない精神とが宿っている」「アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラのようなタイプの人は、静かに国民の魂の中に保持されて、我々のためになるものでなければならない」と書いた。この論文ではウィーンのリヒャルト・フォン・クラーリク(Richard Kralik)のカトリック保守主義と、カール・ムートのモダニズムとの間で起こっていた文学論争についても主題となっており、ハイデッガーはクラーリク派の「グラール同盟」に参加していた。クラーリクの立場はモンタノス派の厳格な禁欲主義であった。クラーリク派の学生同盟は、若者を一つの「共同社会」に結集させ、近代文明や技術に公然と対立して「素朴な生」を獲得することを使命としていた。クラーリクは「すべての民族には、ダニエル書にもあるように、それぞれに独自の守り神ないし守護の天使、導きの守護神がある。しかし身体の四肢が、それぞれに同等の尊厳はあるにしても、違った機能を果たしているように、民族が異なり、国家が異なると、神の摂理によって、異なった役割、異なった使命が割当られる。[…]重要なのは、種族ではなく、肉体でもなく、精神、魂である。あの偉大な歴史家タキトゥスが、当時のゲルマン人をその他すべての民族の中から選び出したのも、彼がゲルマンの精神に畏敬の念を抱いていたというただそれだけの理由からであった」と書いており、これはカトリックのオーストリアが主導する「新しいドイツ国民の神聖ローマ帝国」の理念と結びついたものであった。クラーリクはまたカール・ルートヴィヒ・フォン・ハラー(Karl Ludwig von Haller)、フリードリヒ・フォン・シュレーゲル、フランツ・フォン・バーダーらのロマン主義的カトリックを引き継いで等族国家をモデルにした。ファリアスはクラーリクが等族国家をモデルにして社会民主主義と対抗したことは、ハイデッガーがコミュニズムに対抗してナチズムを持ちだした仕方と同一であると論じた。クラーリクは暫定的な国歌の歌詞として「神よ、我らの国を守り給え、ユダヤ人から我らの国を守り給え」と公表してもいる。ハイデッガーはクレメンス・マリア・ホーフバウワーやウィーンに住んだフリードリヒ・フォン・シュレーゲルの生の哲学に共感している。神学部在籍時にハイデッガーは、教会の権威を保守しモダニズムに対抗するカトリックアカデミー同盟 (Katholischen Akademiker Verbandes)の月刊誌「アカデミカ−」に8篇寄稿した。「F.W.フェルスター(Friedrich Wilhelm Foerster)の『権威と自由 教会の文化問題についての考察』書評」では、「教会がその永遠の真理という宝を守ろうとして、モダニズムの破壊的影響を防ぐのは当然のことである」と書かれた。ジグマリンゲン郡のドナウ川上流沿いのボイロン村にあるベネディクト派のボイロン修道院をハイデッガーは好み、大学が休暇になると自転車でメスキルヒからボイロンまで行き、405,000冊というドイツ内の修道院で最大の蔵書数を保管する図書室で勉強し、司書P・アンゼルムと親しくなった。1930年代にもハイデッガーはボイロン修道院をたびたび訪れ、図書室でアウグスティヌス研究を行った。1911年1月、デンマークの作家ヨハネス・ヨルゲンセン(Johannes Jørgensen)の『旅行記 光と暗い自然と精神』書評を執筆した。1911年2月、勉学のしすぎによる喘息性の神経性心臓障害により静養する。エーリナー奨学金は司祭就職になるという契約であったので、ハイデッガーが神学の勉強を中断をしたため打ち切られる。静養中にヨーゼフ・ガイガーの著作を読む。1911年5月にはオットー・ツィンマーマン『神の必要』の書評を執筆した。ハイデッガーは友人ラズロウスキーに数学、哲学、神学の3つの道について相談している。フライブルク大学神学者で『カトリックドイツのための文学展望』誌編集者ヨーゼフ・ザウアーには「論理学についての最近の諸研究」発表をハイデッガーは申し出て1912年3月17日付ザウアー宛書簡ではこの論考は「数学的論理学の多岐にわたる探求に着手するための支点」であり、「空間時間の問題は数学的物理学に定位することで暫定的解決」に近づくと書かれている。1911年/1912年冬学期にはハイデッガーは数学・自然科学部に在籍し、数学、物理学、化学、アルトゥール・シュナイダーのキリスト教哲学、西南ドイツ学派(新カント派)のリッケルトの哲学講義を受講し、1912年夏学期からは400マルクの奨学金が給付された。のちにハイデッガーの学位論文主査をするアルトゥール・シュナイダー(Artur Schneider,1876 - 1945)はアルベルトゥス・マグヌスにおけるアリストテレスやアウグスティヌス的要素を研究した哲学者であり、またカトリック保守派で1912年の著書『一元論的世界観の哲学的基礎』では唯物論や社会民主主義を批判し、のちには国家社会主義教師連盟(Nationalsozialistischer Lehrerbund)や国家社会主義公共福祉(NSV)に参加した。リッケルトは副査、教授資格論文では主査となった。また、ハイデッガーはリッケルトの高弟エミール・ラスク(Emil Lask,1875 - 1915年戦死)にも影響を受け、ラスクが1911年に刊行した著作『哲学の論理学と範疇学』について「存在者と妥当するものによって、思考可能なもののすべてを包括する範時論をうちたてようとしたラスクの試みは、カントの超越論的論理学の継承発展」と評価し、フッサールの範疇論や範疇的直観が取り入れられていると評価している。またラスクが1912年に刊行した『判断論』も労作であるとハイデッガーは評価している。1912年、ハイデッガーは「現代哲学における実在問題」をゲーレス協会哲学年報に発表する。5月には「宗教心理学と下部意識」を執筆。同5月、ベネディクト会修道士J・グレートの1989年の著作『アリストテレス=トマス哲学綱要』の書評を書いている。夏学期にトラークルの詩を読む。「論理学に関する最近の諸研究」を発表。1913年7月26日、指導教官はアルトゥール・シュナイダー教授を主査とし、副査ハインリヒ・リッケルトのもと学位論文『心理学主義の判断論──論理学への批判的・積極的寄与』を提出し、最優秀(summa cum laude)の評価を得た。ハイデッガーはこの学位論文において、判断は「論理学の細胞」で、「論理学の根源要素」であるとし、ヴィルヘルム・ヴント、ハインリッヒ・マイヤー、フランツ・ブレンターノ、人格主義倫理学者テオドール・リップス(Theodor Lipps)などは心理主義であるとして批判的に分析した。1913年1月にはヘリングハウス編『短編小説集』書評を書き、同年ニコライ・フォン・ブーブノフ(Nikolai von Bubnoff)『時間性と無時間性  Zeitlichkeit und Zeitlosigkeit』書評を書いた。シュナイダーはシュトラスブルク大学に移ったため、歴史学者ハインリヒ・フィンケがハイデッガーの面倒を見た。ハインリッヒ・フィンケはカトリック中央党員でゲルマン民族は国民的原則を世界史に再統合したことを偉大な業績と考えていた。博士課程学生ハイデッガーは、ハイデッガーの親友ラズロウスキーの師でもあったフィンケの講義「ルネサンスの時代」を受講した。この頃の奨学金はシュナイダーと、フライブルク司教座教会首席司祭ユストゥス・クネヒトの仲介で「聖トマス・アクィナスに敬意を表するコンスタンティン=オルガ・フォン・シェツラー財団」から奨学金が斡旋され、授与にあたってはトマス・アクィナス教説を規範とすることが前提であり、ハイデッガーも願書にキリスト教哲学の研究に献身すると書き、1915年の願書でも「キリスト教カトリックの生活理想をめぐる将来の精神的闘いのために、スコラ学に蓄積された思想的富を活性化」すると書いた。ハイデッガーの回想では1910年から1914年にかけての時代にはニーチェ「力への意思」、キルケゴール、ドストエフスキー、ヘーゲル、シェリング、リルケ、トラークル、ディルタイなどが読まれていた。この頃、カトリック哲学者のクレーメンス・ボイムカーとヨーゼフ・ガイザーと文通していた。1914年7月、第一次世界大戦勃発。8月はじめハイデッガーは志願兵として登録したが、心臓発作のため入院後、登録を免除された。1914年にはフランツ・ブレンターノ『心的現象の分類』、シャルル・サントルール『カントとアリストテレス』書評、『カント語録』書評を執筆した。1915年には国民軍として動員され、郵便監察業務を朝7時から夕方5時までこなし、1918年初頭まで続いた。1915年に教授資格論文(Habilitation)『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』を提出し、7月27日に試験講義「歴史科学における時間概念」を行った。主査は新カント派の西南ドイツ学派のリッケルトであった。また、リッケルトがハイデルベルク大学に転出した後にフライブルク大学に赴任したエドムント・フッサールに現象学を直接に学ぶ。1915年冬学期より私講師としてパルメニデス、カントのプロレゴメナを講義し、日中は動員されていたので、講義は夜行われた。聴講生にエルフリーデ・ペトリがいた。ハイデッガーが影響を受けたマックス・シェーラーはこの頃カトリックに改宗し1915年の「Der Genius des Krieges unde der deutsche Kriege (戦争の守護神とドイツの戦争)」において戦争を「形而上学的覚醒」に喩え、真の犠牲精神、真の愛を要求するもの、神へ至るものとして論じ、ドイツの勝利によってヨーロッパは再び覚醒すると論じた。またフッサールの弟子で1942年にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で死去したエーディト・シュタインは1917年2月9日のローマン・インガルデン宛書簡で民族は国家において組織され表現されるときほど力強いものはなく、国家とは自らの行動を律する自覚した民族のことであり、スパルタやローマ以来、プロイセンとドイツ帝国にみられる国家意識ほど健全なものは他に見られず、ドイツが戦争で敗北することは考えられないと書いており、ファリアスによればハイデッガーは政治的に無菌の世界でなく、こうしたフッサールの周囲での哲学的政治的環境にいたと述べている。1915/16年冬学期にはハイデッガーは「古代哲学史」を講義し、1916年夏学期にはフライブルク大学の神学者エンゲルベルト・クレープスとアリストテレスについてのゼミナールを、1916/17年冬学期に「論理学の基本問題」を講じた。1917年、ハイデッガーはプロテスタントルター派で、プロイセン陸軍将校の娘であったエルフリーデ・ペトリとフライブルク大聖堂で結婚した。立会は神学者エンゲルベルト・クレープスであった。エルフリーデ・ペトリはフライブルク大学で国民経済学を勉強したが当時では珍しいことであった。女子教育と女性の就業の発展を求めた女性解放運動家でドイツ民主党議員でもあるゲルトルート・ボイマー(1873-1954)の支持者であった。1917年夏学期に空席になっていたフライブルク大学神学部教授にヨーゼフ・ガイガーが就任し、ファリアスはこのことと、がハイデッガーをカトリックから離反させることになったと論じている。1918年1月17日、第一次世界大戦に際してドイツ帝国陸軍兵士としてハイデッガーは入営し、ホイベルク駐屯地に配置され、2月28日には第113補充大隊第4中隊に、7月8日にはベルリンのシャルロッテンブルクに駐屯するヴュルテンベルク編隊第414前線測侯(気象観測)部隊配属され、9月には西部戦線第一師団に配属され、マルヌ=シャンパーニュの戦闘に従軍したあと、11月5日に1等陸士に昇進し、休戦後の11月16日に第10航空補充部によって動員解除された。復員後、ルターを研究した。1919年、ハイデッガーはカトリックからプロテスタントに宗旨変えをした。1919年1月9日のエンゲルベルト・クレープス宛書簡で「歴史的認識の理論を越えた認識論的洞察から私にはカトリックの体系が疑問視されるようになり、それは受け入れがたいものになってしまいました。しかしキリスト教と形而上学が受け入れがたくなったのではありません」として、今後は哲学者として自分の「現存在と活動そのものを神の前に正当化する」ことができると確信していると書いた。ただし、ハイデッガーは1936年帝国文部省の調査に「所属宗教:カトリック」と記していた。宗旨変えの理由は、ローマ教皇教皇ピウス十世の反近代主義の強権的路線への反感や、妻エルフリーデ・ペトリがルター派であったためともいわれる。ピウス十世の1907年7月3日教令検邪聖省発令のラメンタビリ (Lamentabili sane exitu)では科学的で批判的な聖書釈義と和解できないと非難命題が提出され、ローマ教会に対して反モダニズムの宣誓をするよう命じられた。1911年、ドレスデンで大学教授協会は、教皇の命令に従って宣誓した教授の除名を決議した。これに対してカール・ブライヒ(ブライク)やクレープスは教皇指令を擁護した。またピウス十世は1914年の教義信条Motu proprio(モトゥ・プロプリオ、固有の動機)でトマス・アクィナスを唯一の権威教義とした。1919年の戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブルク大学の教壇に立つ。一般的にこの時期は初期フライブルク期と呼ばれる。この時期の主要な著述・講義としては、ドイツ留学中の田辺元も聴講した1923年夏学期講義『存在論 ― 事実性の解釈学』や、マールブルク大学のナトルプに提出した1922年の論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報告)などがある。1919年の戦時緊急学期講義では「哲学の理念と世界観問題」が講じられ、哲学史でなく「始原学(Urwissenschaft)」としての哲学理念を提示し、リッケルトを克服することが目指された。1918年〜19年に講義はされなかったが講義草稿が残っている「中世神秘主義の哲学的基礎」では「マイスター・エックハルトにおける非合理性」と題して、「宗教的体験の直接生、すなわち聖なるもの、神的なものへの献身の妨げることのできない生き生きとした性質は、規定され、史的に条件付けられた認識論と心理学の頂点として生じる」として、エックハルトのいう離脱について「多様なものは、生すなわち主体を分散させ、落ち着かなさへともたらす」と論じられた。また、フリードリヒ・シュライアマハー『宗教の本質について』の抜粋を作成し、クレルヴォーのベルナルドゥスの『雅歌についての説教 』にも触れている。この他、アビラのテレサ「魂の内なる城」、アッシジの聖フランシスコの伝記「聖フランチェスコの小さい花」、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」などを読んでいた。1919年、フライブルク大学で「哲学の使命について」講義。同年、長男イェルク生まれる。1919年〜20年のフライブルク大学冬講義「現象学の根本問題」ではフッサールのいう「記述」は認識論によって方向付けられており、これは「古い思考習慣の残滓」 と批判され、対象化、客観化することなしに経験-「事実的生経験」のなかで、「予期連関において、十全な動機付けの網を、非反省的に生きながらも、省察的に経験する」 ことが求められる。この「省察」という用語にはポメレリア貴族のパウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (Paul Yorck von Wartenburg) 伯の影響があるとされる。また、生としての世界の現象を「環世界」「共世界(Mitwekt)」「自己世界」の3つに区分し、各世界はそのつど自己表出の性格と持つとされた。1920年4月8日、フッサール61歳祝賀会でヤスパースと出会う。二男ヘルマン生まれる。1920年夏、「直観と表現の現象学;哲学的概念形成の理論」講義。1920年、マールブルク大学員外教授招聘候補に上げられ、パウル・ナトルプとフッサールがハイデッガーを推薦したが、イェンシュは反対し、就任したのはニコライ・ハルトマンであった。1921年、講義「アウグスティヌスと新プラトン主義」が開かれた。1921年6月、カール・ヤスパース『世界観の心理学』書評をヤスパースに送った。1921年から1922年にかけて冬学期にフライブルク大学で「アリストテレスの現象学的解釈/現象学的研究入門」講義。1922年夏学期、「アリストテレスの存在論と論理学の現象学的解釈」講義。日本人留学生からのポンドによる謝金でトートナウベルクに部屋数が3つある山荘を建てる。トートナウベルクはシュヴァルツヴァルトの標高1000mの高地にあり、ヴォージュ山脈、スイスアルプス山脈を眺望できる保養地である。ハイデッガーは1934年のラジオ放送された講演「我々はなぜ田舎に留まるか」において、「南部シュヴァルツヴァルトの広い谷間の急斜面の海抜1150メートルのところに小さなスキー小屋がある。広さは縦6メートル、横7メートルで、低い屋根の下に部屋が三つ、リビング・キッチンと寝室と勉強するときの独居房がある」「山々の重み、その原生岩の厳しさ、樅の木のゆっくりとした成長、花咲く牧草地の輝くばかりの、それでいて素朴な華やかさ、秋の夜長に聞こえる谷間の小川のせせらぎ、雪に埋もれた平地の厳しいまでの素朴さ、これらすべてが、あの山の上の毎日の現存在を突き抜けて行き、その中を揺れ動く。」とトートナウベルク山荘について語り、「冬の真夜中に、激しい雪嵐が小屋の周りに吹き荒れて、すべてを覆い尽くすとき、そのときが哲学の絶頂期である。そのとき、哲学の問いは、簡明かつ本質的たらざるをえない。すべての思考を徹底的に究明することは、厳しく鋭くあること以外ではありえない。これを言葉で表す苦労は、聳え立つ樅の木の嵐に向かっての抵抗のようなものである」と述べた。1922年11月、フッサールの推薦でハイデッガーはゲッティンゲン大学教授に招聘され(ヘルマン・ノールが教育学部に移ったため)、ゲオルク・ミッシュの報告ではハイデッガーは学生に人気があり、その哲学は生の哲学、フッサールの解釈学的方法、ディルタイの精神史を補完させようとしたものとされた。選考の結果、第一候補はモーリッツ・ガイガー、ハイデッガーは第二候補となった。1923年夏学期、「オントロギー、事実性の解釈学」講義の序言で「探求における同伴者は若きルターであり、模範はルターが憎んだアリストテレスであった。衝撃を与えたのはキルケゴールであり、私に眼をはめ込んだのはフッサールである」と書いた。1923年から28年の間、フッサールやゲオルク・ミッシュの推薦でマールブルク大学哲学部外教授として教壇に立った。1923年9月1日には神学教授クレープスを訪問し、クレープスがカトリック信仰に帰ることはないのかと質問すると、ハイデッガーは「いまのところはまだはっきりとそうとも言えない」がアウグスティヌスとアリストテレスの研究をしていると述べ、クレープスは「話しているとき、私はしばしば昔からの若い友人、完全なカトリック信者の学者と向かい合って座っていると思った」という。マールブルク大学ではハンス・ゲオルク・ガダマー、フライブルクから移ったハイデッガーの後を追ってやってきたユダヤ系のカール・レーヴィット、ユダヤ系でシオニストであったレオ・シュトラウス、ハンナ・アーレント、ハンス・ヨナスがいた。ガダマーはハイデッガーの個性は「彼が完全に自分の仕事に没頭して、それが滲み出ていたことからきていた」、それは研究と業績の出版に集中するような教授の「授業」ではもはやなかったとし、精神的知的指導者のような人気があった。1923年から1924年にかけて冬学期にマールブルク大学で「現象学的研究への入門」講義。1924年春には日本の研究所に招聘されたが、実現しなかった。1924年5月2日、父フリードリヒ・ハイデッガー死去。1924年夏学期、「アリストテレス哲学の基礎概念」講義。1924年にハンナ・アーレントがマールブルク大学に入学し、その時から既婚者であったハイデッガーと指導下の学生であった彼女と愛人関係が始まる。またハイデッガーは教育学者でヘルマン・ノールの弟子であったエリザベート・ブロッホマン(Elisabeth Blochmann)とも愛人関係にあった。1924年から1925年にかけて冬学期に「プラトン:ソフィスト」講義。ハイデッガーはマールブルクを「霧のかかった巣窟」といい、「俗物的雰囲気」を嫌ったが、ブルトマンとの対話においてフリードリヒ・ゴーガルテンやカール・バルト、スコラ哲学、ルターなど神学の議論を交わした。1925年4月16日〜21日、カッセルのクールヘッセン文芸協会で「ヴィルヘルム・ディルタイの研究活動と歴史学的世界観をもとめる現代の争い」を講演する(カッセル講演)。このなかでディルタイとフッサールを批判しながら、パウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯のいう「歴史的省察」を讃えた。1925年夏学期の講義 『時間概念の歴史への序説』 ではフッサールの現象学をギリシア語の意味から「それ自身においてあらわなるものをそれ自身から見させること」と定義し、現象学的探求からは存在の問いが生じるはずであり、フッサールの純粋意識に意識の存在への問いが立てられていないと批判した。1925年から1926年にかけて冬学期に「論理学:真性への問い」講義。この講義ではカントは存在と時間の関連について予感したが、問題の根本的理解にはいたらなかったと解釈した。1926年夏学期の講義 「古代哲学の根本諸概念」。1926年から1927年にかけて冬学期に「トマス・アクィナスからカントまでの哲学の歴史」講義。1927年2月、フッサール編集の「現象学年報」8号に「存在と時間」前半部を掲載し世界的な名声を手に入れ、マールブルク大学正教授となった。しかし、ヤスパースとの議論のあと、印刷が開始されていた「存在と時間」の第3編「時間と存在」の出版は中止され、原稿は発表されず、焼き捨てられた。1927年3月9日、チュービンゲンで「現象学と神学」講演。1927年5月3日、母ヨハンナが逝去。1927年夏学期、マールブルク大学で「現象学の根本諸問題」講義。1927年から1928年にかけて冬学期講義「カント純粋理性批判の現象学的解釈」。1928年2月14日、「現象学と神学」講演。1928年夏学期、マールブルク/ラーン大学で「論理学の形而上学的な始元諸根拠 ライプニッツから出発して」を講義。1928年2月25日、ハイデッガーはフッサールの後任としてフライブルク大学の教授に招聘され、就任した。マールブルク大学はハイデッガーの退職は大学にとっての損失であり、招聘を断るよう文部省などへ働きかけたが、ハイデッガーはフライブルクからの招聘を受けた。ハイデッガーがかつて寄宿生活を送ったコンスタンツのコンラディハウス院長マテウス・ラングからの祝辞への返信で「私は、うれしく、かつまた感謝の念をこめて、コンラディハウスにおいてはじまった私の勉学の日々を思いおこしては、すべての私の試みがいかに強く故郷の土に根づいているかを、いよいよまざまざと実感しております」「哲学するとは、畢竟、初心者のほかの何者でもないことの謂いなのです。しかし、私たちが小人たるにもかかわらず、おのれみずからに内なる忠実を保ちつづけ、そこから精進しようと努めるならば、そのわずかな行為も、良きものとなるにちがいありません」と書いた。1928年から1929年にかけての冬学期にフライブルク大学で「哲学入門」を講義。1929年4月、スイスのダボスで新カント派のエルンスト・カッシーラーとのダヴォス討論を行い、「神に存在論はない」「存在論を必要とするのは有限者だけである」と語った。この討論にはルドルフ・カルナップも参加しており、ハイデッガーに全てを物理学的用語で表現する可能性について話すとハイデッガーは賛同したという。1929年夏学期、「ドイツ観念論と現代の哲学的問題状況」を講義、フィヒテの知識学を読解。1929年、「カントと形而上学の問題」を刊行。同年、「根拠の本質について」をフッサール生誕70周年記念論文集に寄稿、同時に出版された。1929年7月24日、フライブルク大学講堂で「形而上学とは何か」公開就任講演。同年、単行本としてボンのフリートリヒ・コーヘン社、のちヴィットリオ・黒スターマン社から刊行。第5版以降、ハンス・カロッサに献呈されている。1929年9月にハイデッガーはボイロン修道院へ連れ立った愛人エリーザベト・ブロッホマンへ手紙でこのように書いている(文中の「ボイロン」とはボイロン修道院を指し、現存在の真理を表すメタファーとされている)。1929年から1930年にかけての冬学期にフライブルク大学で「形而上学の根本諸概念:世界-有限性-孤独」を講義した。この講義ではオスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』を踏まえて、現在の貧困、政治的混乱、学問の無力、危険のないところでの全般的な満腹した安楽がいたるところにあるなか、人間の理想や偶像にしがみつくことでなく、「人間の内なる現存在を自由に解放すること」によって「自己封鎖解除」と「決断」が呼び求められると語った。1929年の世界金融恐慌によって失業率が急増し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が伸張して1930年9月の選挙では107議席を獲得、第二政党となった。ハイデッガーとナチスの関わりは政権獲得以前にさかのぼる。妻エルフリーデは早くからヒトラー支持者であった。哲学者エルンスト・カッシーラー夫人トーニの証言では、1929年にはハイデッガーの反ユダヤ主義的傾向はよく知られていた。1930年ごろからは、初期ナチズムに影響を与えたといわれるエルンスト・ユンガーの『労働者・支配と形態』の要約「総動員」を助手ヴェルナー・ブロックと研究した。1930年ブレーメンでの「真理の本質について」講演後の討論で「ひとは他者の身になってみることができるか」という問いについて荘子秋水篇第17の「魚の喜び」説話を読んで聞かせ、「自己移入」から出発しては「共存在Mitsein」は理解できないということを示そうとした。1930年夏学期、「人間的自由の本質について」を講義、カントの自由論を扱う。1930年、ベルリン大学に招聘される。この招聘は「大学の哲学者に授与される最大の名誉」(ヤスパース)であったが、ハイデッガーは断った。1930年7月11日から3日間開催された「バーデン郷土の日」の祭典では、のちのベルリン大学総長で優生学者のオイゲン・フィッシャー、エルンスト・クリーク、作家レオポルド・ツィーグラーといったナチの同調者や党員とともに「学術芸術経済分野のバーデン賢人会議」で「真理の本質について」講演を行った。カールスルーエ新聞はハイデッガーが「抽象の領域から具体的な状況のただ中へ、真理性の根底としての土着性へ向かっていった飛躍は決定的なものであった」と報告した。この講演「真理の本質について」は同年、ブレーメン、マールブルク、フライブルク、1932年にはドレスデンでも同タイトルで講演され、1943年に出版された。同題講義ではプラトンの洞窟の比喩について、真理はギリシア語でアレーテイアというが、これはア・レーテイア、非隠蔽性、隠されていないことを意味するとし、真理とは「人間を越えて立つところのものである」「本来的に自由であることは、暗さからの解放者であることである」「自由であること、解放者であることは、存在にふさわしく、われわれにぞくする者たちの歴史において共に行動することである」「根源的な闘争(論争などというわけではない)が意味しているのは、自分に最初に敵と反対者さえも作り出し、そしてこれをおのれの最も鋭い反対者にする闘争である」とし、歴史における真理実現のための行動として根源的な闘争が呼び求められるし、ニーチェはヒューマニズム、キリスト教、啓蒙主義に反対したと述べた。1930年10月26日にボイロン修道院で「時間についての聖アウグスティヌスの見解 『告白』第11巻」を講演した。1930年から1931年にかけての冬学期に「ヘーゲル『精神現象学』」講義。この頃、ベルリン大学教授にハイデッガー、ニコライ・ハルトマン、エルンスト・カッシーラーが候補となり選考がなされた。ハインリッヒ・フォン・フィッカーら選考会ではカッシーラーが候補とされたが、文部大臣アードルフ・グリメはフッサールの弟子でもありハイデッガーを強く推薦した。しかしハイデッガーは1930年5月にグリメにドイツの精神活動を規定する重要な地位であるベルリン大学教授に就くには自分はふさわしい形で責務を果たせないとして断り、1931年1月、ハルトマンが招聘された。1931年夏学期、「アリストテレス『形而上学9巻1-3』力の本質と現実性について」講義。1931年ごろにはトートナウベルクの山荘に住むハイデッガー家の全員がナチズムに「改宗」していたというヘルマン・メルヘンの証言もある。1931年10月にはボイロン修道院に滞在し、エリーザベト・ブロッホマンへ手紙でこのように書いている。1931年から1932年にかけての冬学期に「真理の本質について:プラトンの洞窟の比喩とテアイテトス」講義1932年夏学期、「西欧哲学の原初 アナクシマンドロスとパルメニデス」講義1933年1月、ヒンデンブルク大統領の任命でヒトラーは帝国宰相となり、ナチス党がドイツの政権を掌握していった。この頃、フライブルク大学では次期学長選を控えており、社会民主党党員の解剖学者ヴィルヘルム・フォン・メレンドルフが学長内定者であったが、古典文献学者ヴォルフガング・シャーデヴァルトらナチ党員らによってハイデッガーが候補にあがるようになった。4月上旬には内務省ナチ大学担当オイゲン・フェーアレがフライブルク大学視察に訪れ、ハイデッガーは学長選挙にあたってフライブルク大学最古参のナチ党員であるヴォルフガング・アリーらの支援をうけていた。1933年4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出された。5月1日のメーデーを改称した「国民的労働の日」をもって、エーリヒ・ロートハッカー、哲学者アルノルト・ゲーレン、アルフレート・ボイムラー、哲学者ハインツ・ハイムゼート、テオドール・リットら22名の同僚教授とともにナチス党に入党した。党員番号は3125894(バーデン地区)であった。ハイデッガーの党員証はベルリンドキュメントセンター(Bundesarchiv)に保管されている。若いハイデッガーに深い影響を与えたコンラート・グレーバーフライブルク大司教もボルシェヴィズムへの不安のため、それまで対立していたナチスと和解し、ファシズムは「現代において最も力強い精神運動」とし、「新しい国家(ナチスドイツ)を拒否してはならない、これを肯定し、迷うことなく、尊厳と真摯をもってともに働くべきである」と中央党の新聞で述べるなどナチスを公然と支持した最初のドイツ人司教となったが、1937年には除名された。5月26日にはハイデッガーはアルバート・レーオ・シュラゲーター顕彰演説を行った。シュラゲーターはフライブルク大学を中隊し、第一次世界大戦に志願兵として従軍した後、義勇軍となり、鉄道爆破によって逮捕され銃殺刑となり、ナチスから英雄とされていた。ハイデッガーはシュラゲーターを「もっとも困難なことを引き受け」、「自らの栄誉と偉大さのために、心の中で民族の来るべき出発を思い浮かべて、その光景を自らの魂に刻みつけ、これを信じて行かねばならなかった」とし、この「もっとも偉大なるものともっとも遠くにあるものを自らの魂に刻みつける心情の明晰さ」は、英雄の故郷であるシュヴァルツヴァルトから来るのであり、「これが昔から意志の堅固さを作り上げる」のであり、「彼はアレマンの国土を眺めながら、ドイツ民族とその帝国のために死んでいった」とし、フライブルク学生に「意志の堅固さと心情の明晰さ」をしっかりと保持することを訴えた。5月27日の就任式典ではハイデッガーは就任演説「ドイツ大学の自己主張」を行い、ナチス革命をカイロス(歴史的好機)であり、「はるかなる任務」に委ねることを聴衆に求め、「われわれが自らを再びわれわれの精神的歴史的現存在の開始という力のもとに置く」ことが真の学問の条件であるとし、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた。式典ではナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、ナチス式敬礼を非党員にも強要して物議をかもし、またハイデッガー学長は大学の講義の開始と終了にハイル・ヒトラーの敬礼を義務づけた。聴講していたカール・レーヴィットはソクラテス以前の哲学を勉強したらいいのか、突撃隊と行進したらいいのかわからなくなったと述べている。ヤスパースはハイデッガーから「ドイツ大学の自己主張」演説を送られてからの1933年8月23日の返信で「学長就任演説を送っていただいてありがとうございます。初期ギリシア精神をきっかけにした偉大な筆致には、新しい真理のように、同時に自明の真理のように、またまた感動したものです」と書き、この演説は「信頼するに値する実質を持つ」と賞賛した。突撃隊隊員で歴史家のリヒアルト・ハルダーは「大学を真剣に考え、学問に真っ向から対決したもの、真の簡潔さ固い意志と大胆な不敵さをもってなされた真に政治的な宣言」と賞賛した。ハインリッヒ・ボルンカムも賞賛し、ラインヴェストファーレン新聞は「個人の立場から大学を全体国家の中に組み込もうとする初めての試み」とし、ベルリン株式新聞は「魅惑的であるとともに義務感を呼び覚ます」と評価した。ハイデッガーの学長就任演説についてマルクーゼは1934年に「全体主義的国家観における自由主義との戦い」で批判した。ハイデッガーの講義を受けたこともあった日本の哲学者田辺元もハイデッガーのナチス入党と「ドイツ大学の自己主張」について1934年「危機の哲学か 哲学の危機か」で批判した。田辺元は「単に存在の不可測性、それに対する知識の無力の自覚、という如き原理だけで、積極的に民族国家の形而上学的基礎を確立し、学問も国家奉仕の所謂知識勤務を以て本質とすべき所以を明にし得るか、という如き疑問は必然に起こり来らざるをえない」とし、ハイデッガーの師であるプラトンはその師ソクラテスが死刑になったことを源泉とした「危機の哲学」であるが、理性を参与させることなく単に運命的なる存在に従属しようとするハイデッガーは「哲学の危機」であると批判した。ムッソリーニを一時支持したあと転向して批判したベネデット・クローチェはハイデッガーの演説を「愚かであると同時に卑屈」といい、ハイデッガーがもてはやされるのは「無内容と一般論はいつももてはやされる」からだと1933年9月9日のカール・フォスラー宛書簡で書いた。1933年6月30日「新しい帝国の大学」をハイデルベルグ大学で講演した。11月30日にチュービンゲンナチ党地区本部とドイツ文化のための闘争同盟とチュービンゲン大学学生組織から招聘され、ハイデッガーは「国民社会主義国家の大学」をチュービンゲン大学で講演した。この講演でハイデッガーは「ナチ革命」とは「ドイツの現存在全体の完全な変革」「人間の、学生の、次代の若い大学教師たちの完全な再教育」を意味するとし、「ドイツ人は歴史的民族になる」「次代の学生は、迷うことなく、一心不乱に、民族の知的要求を国家の中で貫徹する戦いを試みねばならない。この戦いにおいて若者たちは、彼らの確固たる意志を導いてくれる指導者に臣従する」と述べた。ドイツ文化のための闘争同盟(Kampfbund für deutsche Kultur)はアルフレート・ローゼンベルクが1929年に創立した組織である。1933年夏学期の「哲学の根本問題」講義(ヘレーネ・ヴァイス遺品の聴講生ノートに基づくもので、ハイデッガー自筆原稿ではない)でハイデッガーは「この数週間」は歴史的瞬間であり「ドイツ民族が自己自身に立ち還り、自らの偉大な指導者を見つけ出しているのである。この指導者のもとで、自己自身に至りついた民族は、自らの国家を作り出し、国家の中へ組み込まれた民族は、やがて国民国家に成長していき、この国民国家は、民族の運命を引き受ける。こうした民族は諸民族の真只中に立って精神的な負託を自らに課し、自らの歴史を作り上げて行く」「民族は、こうした問い(我々が何者なのか)を発することによって、その歴史的現存在を耐え、危機と脅威の中でそれを堅持し、その偉大なる使命の中にまでそれを持ち込むことができるのであって、民族がこうした問いを発することこそが、民族が哲学的に考えるということであり、それが民族の哲学なのである。」、「哲学の根本問題とは何であり、またその独自の本質は何かについての決定はいつどこで下されたのであろうか。それはギリシア民族−その血統と言語は我々ドイツ人と同一の起源をもつ−の偉大な詩人たちや思索家たちが、人間的=歴史的現存在の比類なき新しい様式を作り出したあの時である」「西欧の人間の精神的=歴史的現存在のこの始まりは、今なおそのままに、西欧の運命である我々の運命に大きく関わるはるか遠くからの指令として、ドイツの運命と繋がっているはるか遠くからの指令として存続している」と述べた。またハイデルベルグ大学での「新しい帝国の大学」講演では「ヒューマニズムやキリスト教の考えによって窒息させられることのないナチズムの精神を体し、こうしたことに抗して仮借なき戦いがなされねばならない」「戦いは、民族の宰相ヒトラーが実現する新しい帝国の諸勢力を結集して行われる。」「この戦いは大学の教師と指導者を作り出すための戦いである」と述べた。1933年9月にはフライブルク大学の同僚で世界的な化学者であったヘルマン・シュタウディンガーを「政治的に信用できない」とバーデン州大学担当官フェールレに伝えた。フェールレは早速シュタウディンガーの告訴手続きを行い、ゲシュタポも罷免相当であるという報告書を作成、ハイデッガーも罷免相当であるという回答を行った。結局シュタウディンガーの免職は政府の許可が下りなかったために実行されなかった。10月1日にはフライブルク大学の「指導者」に任命され、大学の「強制的同一化」を推進した。また国際連盟脱退やヒトラーの国家元首就任を支持する演説も行うなど、学外でもアクティブな活動を行った。1933年7月20日にドイツとバチカンとの間で結ばれたライヒスコンコルダート(ライヒ政教条約)にハイデッガーは批判的であった。1933年9月、再びベルリン大学正教授に招聘された。ハイデッガーは9月4日のアインハウザー宛書簡で「個人的な事情は一切抑えて」「任務を果たすことこそ、アードルフ・ヒトラーの仕事に役立つ最善のこと」としていまだ決めかねると答え、結局は招聘を断った。同時期にミュンヘン大学への招聘もあり、ハイデッガーも検討していたがフライブルク大学の後任人事問題のため1934年1月に断った。同時期にミュンヘン大学へも招聘され、ミュンヘン大学への招聘に際してエルンスト・クリークの親友でマールブルク大学のエーリヒ・イェンシェンは文相シェムへの文書でハイデッガーは「危険な分裂症患者」でハイデッガーの著作は「精神病理学の素材以外の何ものでもない」「タルムード的=三百代的思考」であるゆえユダヤ人にとっても大きな魅力となっていると告発し、他方招聘をハイデッガーも検討していたがフライブルク大学の後任人事問題のため1934年1月に断った。1933年11月10日のフライブルク新聞は、フライブルク市長ケルバー博士、ツーア・ミューレン学生団体指導者、フライブルク大学総長ハイデッガーの署名で「われらが民族を苦難、分裂、破滅から救出し、統一、決断、栄誉へともたらしたまえる、諸民族の自己責任に基づく共同体の新たな精神の師父にして先駆ける戦士に対して、ドイツ西南の辺境なる大学都市の市民、学生ならびに教授団は、無条件の臣従を約束したてまつる」という総統宛電文を掲載した。1933年11月、ザクセンのナチ教員同盟(Nationalsozialistischer Lehrerbund、NSLB)大管区長アルトゥール・ゲプファルト、ベルリン大学総長オイゲン・フィッシャー(Eugen Fischer)、ライプツィヒ大学総長アルトゥール・ゴルフ、ゲッティンゲン大学総長フリードリヒ・ノイマン、ハンブルク大学総長エーバーハルト・シュミットと並んでフライブルク大学総長ハイデッガーは「ドイツの学者の政治集会」に参加し、「ドイツ民族は、総統から賛成投票を呼びかけられている。しかし総統は民族に懇願しているのではない。総統はむしろ民族にこの上なく自由な決断のもっとも直接的な可能性を与えてくれている。民族の全体が自らの現存在を望んでいるのか、それともこれを望んいないのかの決断をである。この民族は、明日、自らの未来そのもの、それ以外の何ものでもないものを選ぶのである」、「究極の決断は、我々の民族の現存在の極限を突き詰める」、極限とは「あらゆる現存在の根源的要求、自己の本質を保持し救い出すというその根源的要求である」と述べた。1933年11月のフライブ

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。