連合赤軍(れんごうせきぐん)は、1971年から1972年にかけて活動した日本のテロ組織、新左翼組織の1つ。共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が合流して結成された。山岳ベース事件、あさま山荘事件などを起こした。1971年、日本の学生運動が下火になっていた当時、赤軍派と革命左派は大菩薩峠事件やよど号ハイジャック事件などで最高幹部クラスが逮捕、国外逃亡、死亡したりして弱体化していた。赤軍派はM作戦(金融機関強盗)によって資金力はあったが、武器がないのが弱点であった。一方の革命左派は真岡銃砲店襲撃事件などで猟銃を手に入れていたため武器はあったが、資金力がなかった。互いの活動を評価していた両組織は以前から接近していたが、それぞれの利害が一致したことから、赤軍派の軍事組織である中央軍と革命左派の軍事組織である人民革命軍が統合し、統一された「赤軍」(統一赤軍)として7月15日付で生まれた。赤軍派幹部の一人である森恒夫は当初から党の統一を志向していたが、獄中の革命左派議長である川島豪らの強い反対で連合赤軍に改称された。1971年12月上旬、両派は南アルプスで初の合同軍事訓練を行う。しかし、その場で両派の間に対立が生じる。背後には両派の間での主導権争いがあったとされる。結局両派はお互いの批判を受け入れ、この合同軍事訓練は表面上は友好ムードの中で終わった。その後、両派の非合法部は1971年12月20日ごろに榛名山の革命左派山岳ベースで指導部会議を開催するが、それとほぼ同じ頃に非合法部と合法部の対立が発生した。山岳ベースの非合法部指導部は赤軍派・革命左派両派による「新党」の結成を確認するとともに、合法部を分派と決め付け、「銃を向ける」ことも含めた暴力的党派闘争が検討された。更に合法部寄りと見做したメンバーに対し、初めて暴力による「総括」(後述)が行われた。「新党」では、翌1972年1月3日、独自の中央委員会(CCと略される)が結成される。中央委員会は委員長が森恒夫、副委員長が永田洋子、書記長が坂口弘、その他中央委員は序列順に寺岡恒一、坂東國男、山田孝、吉野雅邦の4人であり、中央委員会のメンバーは計7人であった。しかし、組織の実態は森が独裁的権限を持ち、永田と坂東がそれを強く支える体制であった。連合赤軍は、思想的には毛沢東主義を掲げていた。なお、連合赤軍の母体となった党派のうち毛沢東主義派は革命左派であり、赤軍派はトロツキストと認識されていたが、革命左派が理論面で貧弱だったこともあり、赤軍派が革命左派に毛沢東思想を薦める場面もあった。連合赤軍における毛沢東思想はかなり原理主義的なもので、その批判は時として当の毛沢東体制下の中国にも及んだ。森恒夫は中国人民解放軍の設立日についても独自の毛沢東思想理解に基づいて異議を唱えたが、当時根っからの親中派であった坂口弘はこのような森の主張を心中で不快に思ったという。一方で、連合赤軍の行動原理には毛沢東思想と相容れないものもあった。毛沢東思想は基本的にスターリン擁護の立場であるが、連合赤軍ではスターリンは何の説明もなく絶対悪とされ、スターリン的傾向があるとされたメンバーは「死刑」として殺害された。元革命左派のメンバーにはスターリンを悪とする森恒夫の理論に違和感を覚える者もいたが、「死刑」にされたメンバーも含め誰も異議を唱えなかった。1971年12月31日以降、連合赤軍は、山岳ベース事件とあさま山荘事件の二つの重大事件を起こす。これらは連合赤軍事件と呼ばれる。山岳ベース事件は、あさま山荘事件などで逮捕された者らの自供により明らかになった大量殺人事件である。これは、警察の捜査網から逃れるため山中に山岳ベースと呼ばれる山小屋を建設して潜伏中に、「総括」(詳細は後述)と称して連合赤軍内部で粛清が行われたもので、集団リンチを加えて12名を殺害した。また、革命左派は、連合赤軍結成以前に組織を脱走した20歳男性と21歳女性の2名を殺害している(印旛沼事件)。あさま山荘事件は、山岳ベースから逃亡した連合赤軍メンバーが、某企業の保有する宿泊施設を占拠して起こした人質篭城事件で、銃器で武装した若者らは9日間にわたり警察とにらみ合った。この模様はテレビで中継され、社会に強い衝撃を与えた。連合赤軍メンバーは、クアラルンプール事件の際に超法規的措置で釈放・国外逃亡し、現在も国際指名手配されている坂東國男と、東京拘置所で自殺した最高指導者の森恒夫を除き、15人のメンバーに判決が確定した。連合赤軍は、しばしば総括(そうかつ)と称して各人に政治的な反省を迫ることがあった。これはやがて、本人の自覚を助けるとして、周囲の者が総括をされる対象者に対し、意見や批判を行うものに発展した。山岳ベースでの連合赤軍においてはこれが破綻し、リーダーの森恒夫らは総括に暴力を用いるようになった。一人の人間に対し、仲間全員が暴力を用いて厳しい反省を強要するようになり、実質的なリンチと粛清が展開されるようになった。被害者も政治的指向から激しい暴力を伴うこの行為にほとんど抵抗しなかった。被害者はある者はこれらの暴力による内臓破裂で死亡し、ある者は食事もほとんど与えられずに極寒の屋外に縛り付けられ放置されて死に至った。彼らは暴力を、総括を助ける行為として「総括援助」と名付け、正当化した。またこの総括援助による死は「総括できないことに絶望してショック死した」として「敗北死」という名が付けられた。また、総括が期待できないと判断されたメンバー二人(一人は幹部)には「死刑」が宣告され、アイスピックで何度も刺された上に絞殺された。伏字は字句が不明な部分。(中略)(註:武器等を指す隠語と思われる)(中略)
出典:wikipedia
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