ボブ・マーリー(Bob Marley、1945年2月6日 - 1981年5月11日、出生名ロバート・ネスタ・マーリー Robert Nesta Marley)は、ジャマイカのレゲエミュージシャン。その音楽はラスタファリ運動の思想を背景としており、彼の音楽と思想は数多くの人々に多大な影響を与えた。1945年2月6日にジャマイカ・セント・アン教区のナイン・マイルズで、のイギリス海軍大尉であり、ジャマイカ最大の建設会社「マーリー・アンド・カンパニー」を経営していた白人の と、ジャマイカ人の との間に生まれる。当時、父親は61歳、母親は18歳だった。両親はボブの誕生後すぐに別れた。父親は首都キングストンで、ボブは母親とその家族と共にナイン・マイルズで幼少期を過ごした。ボブはナイン・マイルズ近郊のステプニーでステプニー・オール・エイジ・スクールに通い、そこで後に共にウェイラーズを結成することとなるネヴィル・リヴィングストンと出会っている。ボブが10歳のときに父が死に、それまで受け取っていた経済的な援助がなくなった。母は息子を連れ職を求めてキングストン郊外のスラム(トレンチタウン)に移り住んだ。ここでバニー・ウェイラーと共に音楽活動を開始し、1959年に14歳のときには音楽に専念するため学校を中退した。21歳の時に19歳のリタ・アンダーソンと結婚した。ジョー・ヒッグスに音楽的薫陶とラスタファリ思想の教えを受ける。1962年、レスリー・コンのビバリーズ・レーベルから「One Cup of Coffee」、「Judge Not」を発表しプロとしてデビューする。なお、上記2楽曲のシングルにはボビー・マーテル(Bobby Martell)と表記されていた。1963年 ピーター・トッシュらとティーネイジャーズ(後にウェイラーズへと改名)を結成しデビュー。当初は6人組だった。1970年、キングストン市ホープロード56番地に自身のスタジオ、レーベルであるタフ・ゴングを設立。1972年、アイランド・レコードと契約し、翌年メジャーデビューアルバム『キャッチ・ア・ファイア』をリリース。マーリーの楽曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米ビルボードチャート1位を獲得する(この曲はエリッククラプトンをはじめ数多くの音楽家がカヴァーした。)。同年、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュがウェイラーズから脱退したため、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして新たに活動を開始して、10月にアルバム『ナッティ・ドレッド』を発表。1976年、プロデューサーのクランシー・エクルズらと共に人民国家党 (PNP) の政治キャンペーンに参加したことからマイケル・マンリー率いるPNPと、エドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党 (JLP) の二大政党の対立抗争に巻き込まれ、12月3日に狙撃され負傷。亡命を余儀なくされる。1977年、モデルで1976年度ミス・ワールドのシンディ・ブレイクスピアと交際を開始。1978年 ジャマイカに舞い戻り、4月22日にキングストンで「ワンラブ・ピース・コンサート」に出演する。このとき、コンサートを見に来ていたマイケル・マンリーとエドワード・シアガの2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。7月21日、シンディがダミアン・マーリーを出産する。1979年には、4月から日本、オーストラリア、ニュージーランドで公演を行った。さらにかねてからの念願であったラスタファリズムの聖地、エチオピアをはじめとするアフリカの国々を訪問。このときの体験をもとにアルバム『サヴァイヴァル』を発表している。1980年 アルバム『アップライジング』発売。西アフリカ、カンボジアの大統領の誕生日パーティーで演奏。悪性のメラノーマを発症し医師からは親指を切断することを勧められたが、マーリーは宗教的な理由でこれを拒否し、部分切除を行った。やがて腫瘍は全身に転移し、手を付けられない状態まで悪化した。1981年5月11日、療養先のドイツからジャマイカに向けて帰国の途のつく途中で容態が悪化、アメリカ・フロリダ州の病院で妻と母に見届けられ、死去。最終的な死因は脳腫瘍と癌の肺への転移によるものとされている。。同月21日、キングストンにて国葬された。愛用のギターはボディとネックに1ピースマホガニー、指板はローズウッドを使用し、ピックアップにP-90を2基搭載したギブソンのLes Paul Specialであるが、1979年の来日公演時にヤマハ・SG-1000を贈られ、日本、オーストラリア、ニュージーランドでの公演時にはこれを使用した。
出典:wikipedia
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