スーパーマリン スピットファイア (Supermarine Spitfire) は、イギリスのスーパーマリン社で開発された単発レシプロ単座戦闘機である。第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用された。1940年のイギリス防衛戦(バトル・オブ・ブリテン)の際に活躍、イギリスをドイツ空軍の手から救った救国戦闘機として有名である。楕円形の特徴的な主翼を持ち、翼断面は高速を発揮するために薄かった。主任設計技師であるR.J.ミッチェル(1937年死去)とジョセフ・スミスを始めとする彼の後継者たちによって設計されたスピットファイアは、パイロットたちからの支持は厚く、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上(しかも排気量はグリフォン・エンジンまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。 スーパーマリン社の主任設計技師であったR.J.ミッチェルは、空気抵抗を減らすために非常に流麗な流線形の機体をもった水上機を製作し、ネイピア ライオンやロールス・ロイス社製の強力なエンジンを搭載して、「シュナイダー・トロフィー・レース」で3度の優勝を成し遂げている。こうした先進的な設計は、戦闘機にも応用できる部分が大きかった。1931年、ミッチェルはイギリス空軍の仕様F7/30に合致する404 km/h以上の速力を持つ戦闘機の開発を始めた。1934年2月に初飛行した最初の試作機は、風防がなく、空気抵抗の大きい固定脚をもつガルウイングの単葉機で、エンジンにはロールス・ロイス ゴスホークを搭載していた。このタイプ 224は、他社が設計したものと同じく、空軍の期待に添うものではなかった。ミッチェルは、レース機の経験を生かした設計に取り組み、より洗練された機体の設計を進めた。新しく設計されたタイプ 300には、主翼の小型化、主脚引き込み機構を搭載し、1934年7月にイギリス航空省へ提出されたが、採用には至らなかった。このタイプ 300に改良を進め、風防、酸素マスク、そしてより強力なロールス・ロイス社製のマーリンエンジンが搭載された。1934年11月には、スーパーマリンの親会社であるヴィッカース・アームストロングの支援を受け、タイプ 300の細かな設計が進められた。1935年1月3日に航空省は正式に契約し、必要な装備の要求を掲載した仕様F10/35を発行した。武装は、ヴィッカース7.7 mm機関銃4丁であったが、1935年4月に航空省のラルフ・ソアビーによる推薦で、ブローニング7.7 mm機関銃8丁へ改められた。1936年3月5日に試作機(K5054)がイーストリー・エアロドローム(現サウサンプトン空港)において、初飛行を行った。その後、ジェフリー・クイールとジョージ・ピカリングらによる試験飛行で528 km/hを記録し、より鋭利なプロペラでは、557 km/hに達した。1936年6月3日には、航空省から310機のスピットファイアが発注された。楕円翼の採用は生産性の悪化を招いたものの、捻り下げや戦闘機としては極めて低い翼厚比と併せて、大迎え角での誘導抵抗の減少、翼端失速の防止、翼内武装の充実、高速といった長所をスピットファイアに与えた。のちのスピットファイアの翼は、これよりももっと薄く、まったく異なった構造になっている。ミッチェルの狙いは、比較的容易な操縦性を保ちつつ、マーリンエンジンの力を生かして高性能な爆撃機を要撃できるバランスのとれた戦闘機であった。当時、戦闘機は自軍や母国の防空に専念すると考えられ、イギリス上空に進出してくることを想定していなかったことから、要撃には爆撃機を待ち受けるために素早く上昇することが必要だった。上昇力だけでは戦闘機と渡り合うことはできないという問題を解消するため、1934年に設計陣は楕円翼形を採用した。抗力を生むことを避けるため、主翼の厚みは薄くする必要があったが、巧妙な設計によって薄い翼でも機関銃とその弾薬、そして、格納式の引き込み脚の搭載を可能とした。この楕円翼形の採用について、ミッチェルは1932年に初飛行したハインケル He 70の翼形をコピーしたと非難されることがあった。設計陣の航空力学担当であったシェンストーンは、戦後、これを否定した。翼付け根で13%、翼端で6%の翼厚・翼弦比率の実現に向いていたため、翼型は、NACA 2200シリーズを使用した。横方向の安定性に対応するため、上反角は6度とされた。翼端のパーツのみを交換することで、飛行特性の変更が可能。主に高々度用に延長翼、低高度用に切断翼が使用されたが、型式のHF、LF等とは直接関係がない(これらの型式は搭載されたエンジン(スーパーチャージャーの設定高度)による。主翼の特徴は、革新的な翼桁を延ばした設計であった。5本の角管が翼幅に従って細くなり、翼端に近づくにつれ角管を減らした。そのうちの2本は結合され、軽量でありながら強固な主桁となった。引き込み脚構造は、主桁の内部に軸を設け、真横ではなく、やや後ろ方向へ車輪を収容した。これが着陸時に主桁にかかる曲げ荷重を軽減することから、車輪間の幅の狭さは、許容範囲だと考えられた。1934年に.303ブリティッシュ弾を使用する標準口径ライフル機関銃に選定されたブローニング機関銃だが、供給量が不足していたため、初期のスピットファイアには4丁のみ搭載された。この機関銃は地上や低高度での動作に問題が見られない一方で、高高度で凍結する傾向があり、特に翼端に近い機関銃ほど、その傾向が強かった。原因は、弾薬に使用されるコルダイトの過熱を防ぐため、機銃の構造をイギリス向けにオープンボルトへ変更したことであった。根本的な解決策が見出されたのは1938年10月で、翼にラジエーターを据えてダクトを通じて機関銃に暖気を送った。しかし、8丁のブローニングを搭載していても大型機を撃墜するには威力不足であった。事実、戦闘報告において、1機を撃墜するのに平均で4,500発を撃っていたことが示された。1938年11月の装甲標的と非装甲標的に対する射撃試験により、本機には口径20 mmの火器が必要であると結論付けられた。1940年に開発されたスピットファイア Mk. Vは、武装によって主翼が異なった。A ウイングは最初期の翼と同等で、ブローニング機関銃を左右にそれぞれ4挺(弾数各300発)ずつ搭載可能であった。B ウイングは左右にそれぞれイスパノ 20 mm 機関砲を1門(弾数各60発)ずつ、ブローニング機関銃を2挺(弾数各300発)ずつ搭載していた。Aウイングとの外見上の違いは20 mm 機関砲を搭載するためのバルジと翼から前方につきだした銃身保護用フェアリングである。E ウイングは両翼それぞれにイスパノ 20 mm 機関砲を1門(弾数各120発)ずつ、ブローニング M2 12.7 mm (.50) 機関銃を1挺(弾数各250発)ずつ搭載していた。B、C ウイングとの外見上の違いは20 mm 機関砲のフェアリングが外側にあること(外側が20 mm 機関砲の銃口、内側が12.7 mm 機関銃の銃口)である。C ウイングはユニバーサル・ウイングともいい、次の3タイプの武装が可能であった。a タイプでは、両翼それぞれにブローニング機関銃を4挺(弾数各300発)ずつ搭載した。b タイプでは、両翼それぞれにイスパノ20 mm 機関砲を1門(弾数各120発)ずつ、ブローニング機関銃を2挺(弾数各300発)ずつ搭載した。20 mm 砲弾数は、B ウイングのドラム式からベルト給弾に改められたため倍に増えている。Bウイングとの外見上の違いは、20 mm 機関砲用フェアリングの横に小さなフェアリングが付いている点である。c タイプでは、両翼それぞれにイスパノ 20 mm 機関砲を2門(弾数各120発)ずつ搭載した。照準器に当初、GM-2が使用されていたが、後にジャイロ・ガンサイトのMk. IIが搭載された。対地攻撃には、Mk. III 爆弾架を使用することで250ポンド爆弾を翼下に、500ポンド爆弾を胴体下に搭載可能であった。ロケット弾は、翼下に3.5インチHEロケット弾を搭載可能。スピットファイアの短所のひとつである短い航続距離を延長するために、内装タンクの増加に加えて様々なタイプの外装式タンクが採用された。内装タンクは、胴体後部へのタンク追加、前部タンクの増量、翼前縁へのタンク追加がなされた。コンフォーマルタンクを先取りしたとも言える、スリッパー式ドロップ・タンクは30英ガロン、45英ガロンの容量のものが作られた。さらにフェリー用の90英ガロンの容量を持つタンク、170英ガロンの大型スリッパー・タンクまで作られた。スリッパー型ドロップ・タンクの他、一般的な魚雷型ドロップ・タンクも使用された。標準では、100オクタン燃料(緑色)を使用していたが、一部高速が要求される機種では、バスタとして150オクタン燃料が使用された。ロールス・ロイス グリフォンを搭載したスピットファイア Mk. XIIは1942年の夏までに配備された。このMk. XIIはわずか8分で高度1万メートルに達することができ、水平飛行で約640km/hの速度に達した。このタイプはマーリンエンジン搭載機に比べれば、速度と武装は向上したが、燃料消費が多く航続距離と搭載量に深刻な欠点をかかえていた。そのため、限定的な航続距離しか必要とされない本土防空戦闘機の役割が与えられ、もう一方のマーリンエンジン搭載機はヤーボとして運用された。総じてグリフォン搭載型は、エンジン出力の向上に機体強度が追いつかず、また、マーリン・エンジンとはプロペラ回転トルクが反対方向になるため、当て舵が逆になることから、「高性能だが操縦が難しい」とされ、これらを失敗作と評価する向きも見られる。グリフォンエンジンのクランク回転方向はマーリンのそれとは異なり、減速後の軸の回転は左回り(パイロットから見て反時計回り)となるため、プロペラのピッチ(ひねり)もマーリンエンジン機とは逆である。また、シリンダーヘッドの張り出しが大きく、排気管上のフェアリングに大きな膨らみがある。これらの相違は搭載エンジンの外観上の識別点となる。MK. 21以降は、正式にはスーパー・スピットファイアの名称が与えられているが、この名称は一般には浸透せず、単にスピットファイアと呼ばれることが多い。第二次大戦勃発時にまともな艦上戦闘機を持たなかったFAA(Fleet Air Arms)は、艦上戦闘機としてハリケーンとスピットファイアのどちらが相応しいか調査を開始した。1941年、FAAは空軍のスピットファイアMk.Vを100機を借用した。54機を慣熟訓練用として、残りには応急的にカタパルト用フックとアレスティング・フックを取り付けて離着艦テスト用として(この機体をHooked Spitfireと呼んだ)、空母イラストリアスを用いて試験が行われた。この試験の結果を受けて、最初から陸上型のスピットファイアに空母で運用するために着艦フックや折りたたみ式の主翼などの艦上機用装置が装備すると共に機体構造を強化されたものが生産され、実戦部隊に配備された。スピットファイアは主脚の間隔が狭かったために安定した着艦が難しく、着艦時の事故が頻繁に発生したが、主脚の構造を艦上機として再設計している余裕がなかったため、設計の変更はなされていない。しかし、イギリス海軍にとって新型艦上戦闘機の導入は急務であったため、生産と配備は継続された。真っ先に投入されたのはソビエト連邦に向かう輸送船団で、北極海の戦いでアヴェンジャーなどの護衛空母に搭載された。イギリス海軍向けのスピットファイアはシーファイア () と呼称され、これは「海軍向けスピットファイア」を意味する「シースピットファイア (Sea Spitfire)」 を省略したものであるが、Seafireとは日本でいうところの「不知火」を指す言葉でもある。スーパー・スピットファイアの艦上機型(MK. 45~47)を「スーパー・シーファイア」と呼ぶ事もあるが、公式な名称ではない。スピットファイアは、バトル・オブ・ブリテンにおける勝利の立役者とされ、その設計者のミッチェルとともに、「The First Of The Few(邦題「スピットファイア」)」という映画にもなって、称賛されている。ドイツのエースパイロットであるアドルフ・ガーランドがヘルマン・ゲーリングに対し、皮肉を込めて「自分の部隊を全てスピットファイアにしていただきたい」と述べるなど、敵方のドイツ空軍パイロットからの評価も高い機体であった。ハリケーンはスピットファイアに対して翼の構造上、重武装を搭載するにあたり幾分か有利であった。それらは爆撃機や対地攻撃に効果を発揮し得たが、そういった火器を増強すると機動性と加速力、上昇力に影響を及ぼした。重くなったハリケーンはドイツの戦闘機との空戦には向かなかった。一方、スピットファイアはBf 109と肩を並べられる存在であった。ドッグファイト(空中戦)では、その機動性とコックピットの良好な視界という要因によって、ドイツ戦闘機に対してスピットファイアがかなり多く勝利をおさめている。燃料噴射装置を搭載するBf 109は、スピットファイアに追撃されるとマイナスGをかけながら降下して離脱した。在来のキャブレター式で燃料供給されるスピットファイアがマイナスGでエンジンが停止することを知っていたためである。設計陣とパイロットたちを悩ませたこの弱点は、王立航空機関 (RAE) の女性研究者ベアトリス・ティリィ・シリング ( ) の考案になる、小さな孔をあけたダイヤフラムを追加してバルブをバイパスする、すこぶる簡潔だが巧みな仕掛け(通称「ミス・シリングのオリフィス」)で打開された。バトル・オブ・ブリテンでは、スピットファイアが護衛戦闘機のBf 109やBf 110を攻撃し、その間にハリケーンが爆撃機を攻撃するといった戦法も用いられた。バトル・オブ・ブリテン全体で見れば、ドイツ軍が撃墜した10機のうち7機はハリケーンであった。しかしながらスピットファイアは、ライバルBf 109と全く同じ、主脚の引き込み方式に由来する地上での安定性の不足、そして航続距離の短さという欠陥を抱えていた。防空戦闘機として活躍する際には航続距離は問題とならなかったものの、ドイツ本土に侵攻する爆撃機隊の護衛戦闘機としては致命的であった。ドイツ・フランス上空が主戦場となった戦争の後半において、制空任務を務めたのは米国製のP-51 マスタングであり、イギリス空軍も本国の防空よりも敵地での地上攻撃が主となっていったことなどから、スピットファイアは戦闘爆撃機型と武装偵察機型の活躍が主となる。戦闘爆撃機型のスピットファイアは、米国の戦闘機や、ホーカー タイフーン、ホーカー テンペスト等と比べれば、搭載量も航続距離も低かったが、これらの戦闘機よりも軽量で、滑走路も短くて済むため、地上部隊の直協任務に適していた。防塵用フィルターのボークス (Vokes) を機首下に装備したスピットファイア Mk. Vが北アフリカ、地中海、中東へ派遣された。最初に派遣されたのは補給が困難となったマルタ島で、1942年に空母イーグルから発艦して直接マルタ島の飛行場に降り立った。この進発を皮切りにスピットファイアが主に空母で送られたが、一時的にイギリス海軍がドイツ空軍の空襲により制海権を失いかけるとジブラルタルからマルタ島まで直接無補給でスピットファイアを送る試みがなされた。この試みで、大型増槽の装備と武装の削減を施されたMk. Vが巡航で1,770 kmを無補給で飛び、17機のうち1機を除いてマルタ島にたどり着いた。その後もイギリス海軍の協力を得て、スピットファイアだけで270機以上がマルタ島に送られ、ドイツ空軍やイタリア空軍との戦闘を繰り広げた。北アフリカでは、ボークス装備にともなう空気抵抗によって速度の低下及び機動性の劣化が避けられなかったため、小型のアブキール・フィルターが現地部隊によって開発された。これによって、速度の低下、機動性の劣化は多少改善された。また、より高性能なMk. VIIIが送られるとシシリー島やイタリア戦線でアメリカ空軍と連携して戦線を支えた。しかし、イタリア戦線でも制空任務への役割が低下すると、地上攻撃に従事した。東部戦線では、ソ連に提供されたスピットファイアがドイツ軍と戦った。最初のスピットファイアはイラン経由でソ連に送られたMk.Vで、その後Mk. IXなどが追加された。1942年(昭和17年)2月にオーストラリア首相ジョン・カーティンからチャーチルに宛ててスピットファイアの派遣が要請された。イギリス空軍(RAF)の戦闘機軍団に所属する第54飛行隊、第452飛行隊、第457飛行隊がリヴァプールを発ち、オーストラリアのメルボルンに着いたのは同年6月であった。第54飛行隊を除き、パイロットはオーストラリア人で構成されており、48機のMk. Vを装備していた。10月になって定数機が全て揃い、翌月にクライヴ・コールドウェル少佐を指揮官に据えてオーストラリア空軍(RAAF)第1戦闘航空団が編成された。年が明けて1943年の1月から各部隊はオーストラリア北部への配置が開始され、3月にクーマリー・クリーク基地へ襲来した日本海軍の第202海軍航空隊と第753海軍航空隊を迎撃したのが初の本格的な空戦であった。5月2日の戦闘では5機のスピットファイアを失ったが、6機から10機の日本海軍機を撃墜した。しかし、その他の5機が燃料不足やエンジン故障で不時着し、このうちの2機だけが戦線へ復帰した。1943年2月からポートダーウィン上空で来襲する日本海軍の零式艦上戦闘機と数次に渡って会戦した。状況は非常な長時間飛行で長駆飛来する零戦をレーダー管制にて待ち伏せ迎撃するという、スピットファイアにとっては極めて有利なものであったが、結果は零戦の5機喪失(未帰還3機)に対しスピットファイアは喪失42機(未帰還機26機)であった。このほか、両軍一次資料による実損害等と照らし合わせたものでは、全9回の日本海軍との空戦で零戦7機喪失に対しスピットファイア34ないし35機喪失となる。RAAFパイロットの多くは欧州戦線で高速のBf 109やFw 190へスピットファイアの旋回性能を生かした格闘戦で対抗してきた経験から、それまで零戦と対峙していたP-40戦闘機隊の「一撃離脱戦法に徹すべき」という忠告を聞かず、零戦が得意とする格闘戦に正面から挑んでいき多くが撃墜された。対戦した第202海軍航空隊、第753海軍航空隊が搭乗時間1000時間以上の熟練パイロットで構成されていたことも敗因とされる。この結果を受けてRAAFのコールドウェル中佐は、零戦の対策法として「零戦とドッグファイトに入るのは賢明ではない。高速を利用した急降下攻撃を何度も繰り返すべきである」とパイロットに訓示しているが戦況は好転しなかった。日本海軍による一連の空襲の後の1943年6月20日、日本陸軍の第7飛行師団も一式戦闘機「隼」以下戦爆連合をもってダーウィンを攻撃した。本戦にて日本陸軍は爆撃を成功させ、また一式戦「隼」も爆撃機を護りつつ倍の数のスピットファイアとの空戦に勝利している。参加部隊と機体は飛行第59戦隊の一式戦「隼」22機、飛行第61戦隊の一〇〇式重爆撃機「吞龍」18機、飛行第75戦隊の九九式双軽爆撃機9機の3個飛行戦隊計49機(また、これとは別に敵情把握を受け持つ独立飛行第70中隊の一〇〇式司令部偵察機「新司偵」2機も出撃)、対するRAAFはレーダーからの報告を受け、指揮官コールドウェル中佐以下3個飛行隊計46機のスピットファイアが迎撃。戦闘の結果は一〇〇式重爆「吞龍」1機被撃墜に対し、スピットファイア2機被撃墜であった。なお、本戦でもまたしてもスピットファイアは格闘戦に終始しており、これには第59戦隊第1中隊長が訝しむほどであった。高温多湿の太平洋アジア戦線においてスピットファイアは、飛び立っても高空では急激に温度が低くなり、低温の影響で定速装置のオイルが凝固すると制御不能となってエンジンを停止しなければならないという問題があり、被弾しなかったにもかかわらず機体故障のために未帰還となる機体が続出した。さらに、赤道に近い地域では地上での高温多湿が機体を痛め、徹底的なメンテナンスを必要とさせたが、イギリス本土から遥か遠くという地理条件がある上に、インド洋の制海、制空権を長く日本が支配していたために予備部品の不足が発生、その上、予備のエンジンを用意していないという重大なミスも犯していた。さらに、太平洋戦線に当初配備されたスピットファイアは当時の欧州戦線作戦機と比較すると旧式のMk.Vで、さらに防塵用フィルターが装備されていたため速度が30km/hほど低下していた(RAAFはMk. VIIIに機種交換するまで悩まされた)。極東のRAF・RAAFにおいてMk.VIIIの配備、充足は1944年となる。オーストラリア防空戦の後の1943年後半、極東太平洋戦域におけるイギリス空軍の主戦場であり、同盟軍アメリカ陸軍航空軍と共に日本陸軍航空部隊と対峙するビルマ戦線(「ビルマ航空戦」)にハリケーンの後続としてスピットファイアは投入された。同方面でのスピットファイアの初交戦は1943年11月22日である。当時、日本陸軍飛行第50戦隊・飛行第33戦隊の一式戦「隼」22機がイギリス空軍の基地であるチッタゴン飛行場に侵攻、現地のRAFはレーダーで来襲を探知しスピットファイア10機・ハリケーン57機を迎撃に揚げた。しかし、スピットファイアMk.V 1機(第615飛行隊レオナード少尉機)・ハリケーン1機(第146飛行隊グリフィス軍曹機、水田に不時着)が一式戦「隼」に一方的に落とされ、一式戦「隼」を撃墜することは出来ず日本陸軍戦闘隊は喪失なく全機が無事に帰還した。RAF側はレーダーで来襲を探知し約3倍と圧倒的な数の戦闘機で邀撃出来たにかかわらず、ビルマ航空戦で初陣を飾ったスピットファイアはまたしても登場早々一式戦に一方的に撃墜された。同年12月5日、日本軍は戦爆連合をもってインドのカルカッタを爆撃する龍一号作戦を実施(本作戦はビルマでの航空作戦を担当する日本陸軍航空部隊のみならず、少数ながら日本海軍航空部隊も参加し零戦および一式陸上攻撃機が投入されている)。侵攻に先立ち各地に飛んでいた一〇〇式司偵がチャフを散布し、日本軍のマグエ飛行場群からは飛行第64戦隊・第33戦隊・飛行第204戦隊の一式戦74機と飛行第98戦隊の九七式重爆撃機17機、続いて第三三一海軍航空隊の零戦27機、第七〇五海軍航空隊の一式陸攻9機が出撃しカルカッタを目指した。侵攻途中で第258飛行隊のハリケーンの奇襲を受け九七重爆1機を喪失するも一式戦「隼」はこれを撃墜、また爆撃自体も成功し任務は成功を収めた。この迎撃戦でイギリス空軍はスピットファイア1機・ハリケーン10機を喪失、一式戦「隼」はこのうちスピットファイア1機・ハリケーン7機を撃墜、零戦はハリケーン3機のみを撃墜、日本軍戦闘隊に喪失は無く一方的な戦闘であった。1944年1月20日、飛行第204戦隊の一式戦「隼」はスピットファイアMk.V 2機を撃墜(第607飛行隊ソール准尉機・ケネディ軍曹機)し3機を撃破、日本陸軍の損害は1機不時着のみ。また2月5日、第64戦隊の一式戦「隼」は損害無くスピットファイア1機(第136飛行隊カーロン曹長機)・ハリケーン2機(第11飛行隊ブライト中尉機・コーベット軍曹機)を撃墜。3月17日午後に第204戦隊はモーニン飛行場を攻撃し第81飛行隊と交戦、1機を喪失するもエースかつ指揮官機たるスピットファイア1機を撃墜(第81飛行隊長ホワイタモア少佐機)、離陸態勢の1機を撃滅(クールーター大尉機、炎上)、さらに2機を地上破壊している。大戦後期の1943年7月2日から1944年7月30日の期間、ビルマ戦線における空戦で日本陸軍の一式戦「隼」は連合軍機135機を確実撃墜し、対する空戦損害は83機喪失のみ。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機70機・爆撃機等32機・輸送機等33機に上り、戦闘機の詳細はハリケーン24機・スピットファイア18機・P-51 15機・P-38 8機・P-40 4機・P-47 1機。逆に一式戦「隼」を撃墜した連合軍戦闘機の詳細はハリケーン3機・スピットファイア16機・P-51 12機・P-38 13機・P-40 14機・スピットファイアまたはハリケーン3機等となる。日本軍劣勢の大戦後期においても、ビルマで日本陸軍航空部隊は強力な連合軍空軍と互角の勝負を、時には勝利を収めており、一式戦「隼」とスピットファイアもまた撃墜・被撃墜機数ではほぼ同等であるなど名実ともに互角の関係であった。12月11日、第273飛行隊のスピットファイアMk.VIII 12機はモンドウ地上攻撃から帰還中である第64戦隊の一式戦28機と交戦。一式戦「隼」を撃墜することは出来ず1機が撃墜された(第273飛行隊バリオン准尉機)。一方で1945年1月9日、アキャブ沖の連合軍艦船攻撃に来襲した第64戦隊の一式戦と第50戦隊の四式戦闘機「疾風」をスピットファイアが襲撃、第64戦隊長江藤豊喜少佐機やエース山本隆三軍曹機を含む計4機の一式戦「隼」を一方的に撃墜する戦果を残している。大戦末期となる1944年8月18日から日本の敗戦間際の1945年8月13日にかけて、ビルマを初めとする東南アジア方面(ビルマ・フランス領インドシナ・マレー・インドネシア・タイ等)を担当する日本陸軍第3航空軍戦域において、一式戦「隼」は連合軍機63機を撃墜(このほか一式戦が撃墜した可能性がある未帰還9機が存在し、それを含めた場合は連合軍機72機を撃墜)、対する空戦損害は61機喪失を記録。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機14機(18機ないし19機)・爆撃機等32機(36機ないし37機)・輸送機等17機に上り、戦闘機の詳細はP-47 4機・スピットファイア3機・P-38 2機・F4U 2機・P-51D 1機・F6F 1機・ハリケーン1機(先述の一式戦が撃墜した可能性がある連合軍未帰還機の内訳は戦闘機等がハリケーン3機・F4U 1機、爆撃機等がB-29 2機・PB4Y-1 1機・B-24 1機・ファイアフライまたはTBF1機)。逆に一式戦「隼」を撃墜した連合軍戦闘機の詳細はスピットファイア7機・F6FまたはF4U 17機・P-38 11機・P-51 6機・P-47 6機であった。第二次世界大戦後の1960年代になっても、イギリスの元植民地や影響圏であるエジプト、アイルランド、イスラエル、シリア、トルコ、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、インド、ビルマ、タイなど、世界各国で使用されていた。同じくイギリスの元植民地である国が参戦した中東戦争では、敵味方にわかれてスピットファイア同士が戦う場面も見られた。かつてのライバルBf 109の戦後型であるアヴィア S-199との戦闘も発生している。スピットファイアの優秀さと、その優美な機体や先が細い楕円翼は、無数の愛好家を集め、敵側にも惚れ込んだ者がいた。ゲーリングがアドルフ・ガーランドに(英空軍に勝つために)何が必要かと聞くと、ガーランドは「英国のスピットファイアを」と答えた。これは当時ゲーリングが爆撃機を援護する戦闘機隊に対し、先回りして敵迎撃機を掃討する制空戦を止め、爆撃隊に寄り添って護衛する直奄方式に専念するよう命令したことへの反論でもある。速度を生かした一撃離脱を得意とする重戦Bf109を速度の遅い爆撃機に張り付かせるということは、必然的に軽戦であるハリケーンやスピットファイアと格闘戦を行う事を意味していた。格闘性能に優れる英軍機と格闘戦をせよと言うのなら、我が軍にも格闘戦向けの軽戦を装備させろという意味を含んだガーランドなりの皮肉であった。"出典":"The Great Book of Fighters" and "Jane’s Fighting Aircraft of World War II"
出典:wikipedia
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