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ルイ・アルチュセール

ルイ・アルチュセールとして知られる、ルイ・ピエール・アルチュセール(Louis Pierre Althusser、1918年10月16日 - 1990年10月22日)は、フランスの哲学者。フランス共産党を内部から批判すべく、『マルクスのために』、『資本論を読む』を著し、マルクス研究に科学認識論的な視点(認識論的切断や徴候的読解)を導入した。また、論文「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」において、呼びかけ=審問()による主体形成の理論を提案した。高等師範学校()の教員として、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、バリバール 、ランシエール、アラン・バディウ、ミシェル・セール、ベルナール=アンリ・レヴィら、20世紀中葉以降に活躍する多くの哲学者を育てた。またアルチュセールの影響は、経済学におけるレギュラシオン理論を筆頭に、ニコス・プーランツァス(政治学)やモーリス・ゴドリエ(人類学)、ピエール・ブルデュー(社会学)など社会科学における広範な領域に及んだ。一方、アルチュセール自身の思想的な経歴は、マルクス主義と構造主義だけで説明しうるものではない。1939年に高等師範学校に合格するも、第二次世界大戦の勃発により兵役召集される。1940年に戦争捕虜となり、シュレスヴィヒの収容所で捕虜生活を体験、戦争終結後に復学する。戦前の耽美的なノン・コンフォーミスト()に近い立場から、捕虜生活、そして妻エレーヌ・ルゴティアン(対独レジスタンスにおけるフランス共産党の闘士)との出会いを経て、アルチュセールは労働司祭であったモンチュクラール師(;雑誌『教会の青年』の創設者)などに代表されるカトリック左派的な立場に近づき、最終的にはマルクス主義に転じた。高等師範学校への復学後、アルチュセールはガストン・バシュラールの指導のもとヘーゲルを研究。バシュラールのもとでの研究が後の認識論的切断を生み出した。アルチュセールは、エピクロス、スピノザやマキャヴェッリ、パスカルの読解にも新風を吹き込んだ。1980年、妻のエレーヌを絞殺。精神病のために責任能力なしとされた。アルジェリアに移住したアルザス出身、カトリックを信仰する家庭に生まれる(ピエ・ノワールの家系)。父は銀行員。父の仕事の都合もあり、アルジェからマルセイユ、そしてリヨンのパルク高校()で勉学を積む。パルク高校の受験準備学級()では、ジャン・ラクロワ()やジャン・ギトン()から哲学の授業を、またジョゼフ・ウルス()から歴史の授業を受けた。高校在学中の1937年に、キリスト教学生青年会(JEC; )に入会する。1948年にフランス共産党に入党した後も、このカトリシスムへの関心やカトリック関連組織への参加は続けられていく。しかし、高校生当時抱いていた王政派的な政治上の傾向は、戦後になると鳴りをひそめる。1939年に、高等師範学校に合格。しかし、学期が始まる前に、第二次世界大戦の勃発により、軍隊に動員される。所属していた砲兵部隊は間もなく ヴァンヌで降伏、戦争の残りの期間を捕虜収容所で過ごす。この間、アルチュセールは手帳に自伝的な文章を書き連ねており、この草稿は死後、Journal de captivité, Stalag XA 1940-1945 として公刊された。(ウィキペディア・フランス語版より抄訳)アルチュセールは、1985年3月14日付の『ル・モンド』紙のある記事を目に留める。それは、パリ人肉事件の佐川一政が書いた本の成功を取り上げた、クロード・サロートの記事だった。彼は精神病院に一時拘留されたが、予審免訴の恩恵を受け、すぐに本国に返されている。サロートはこう書いている。「我々報道者というものは、アルチュセールという権威的名前と、予審免訴というおいしい話とを一緒くたにして、すぐにことを大げさに考える。犠牲者? そんなことには、三行すら書く必要もなかろう。主役は犯人である。」アルチュセールの友人は、反論を勧めた。しかし、彼も予審免訴に与っているのだから、その記事はたしかに当を得ている。こうして、アルチュセールは自伝をものして、自分のしたことを説明しようとしたのだ。(『未来は長く続く』の「編者による紹介」を参照〔邦訳には載っていない〕。)アルチュセールの思想は、『マルクスのために』『資本論を読む』を頂点とする前期と、自己批判を経て新たな興味深いテーゼを立てる後期に分けることができる(ここでは80年代の思想も後期に含める)。ただし、ここでは、あくまで思想的な推移を描き出すために、単純な時系列的区分による説明はしない。また、「国家のイデオロギー装置」の学説をはじめとした社会学的議論は、彼の哲学‐思想的な前‐後期の区分とは別に取り上げる。さらに、基調の異なる諸論考については、「その他」とする。当時各国の共産主義を取り巻いていたヒューマニズムの風潮に、アルチュセールは警鐘を鳴らした。彼の目するところ、それは凄惨な粛清を生んだスターリン主義と地続きのものであった。加えて マルクス主義ヒューマニズムには、若きマルクスの疎外された主体性の奪還というテーマですべてを語ろうとするきらいがあった。そうではない。マルクスのもっと重大な発見は、別なところにある。若きマルクスはその時代の学問的風潮に未だ捉われていたのであり、『ドイツ・イデオロギー』を境目として、真に彼独自の思想が展開されるのだ。アルチュセールはそう考えた。これが、「認識論的切断」のテーゼである。アルチュセールの説くところ、マルクス独自の思想は、ヘーゲル的なプロブレマティック(問題系、問題設定)を脱するところに開花する。ヘーゲルにおける「現象」と「本質」の関係、単一の内的原理から社会を説明する方法を、マルクスはひっくり返す。それも、ただひっくり返すのではなく、「現象‐本質」という前提(プロブレマティック)そのものを問い直し、「(経済的)土台による規定と上部構造による反作用」という別な問題を提示する。こうして、「重層的決定」の概念が登場する。ここにおいて、社会の一元的な規定原理というものは想定しえないのである。このような理論的前提のもと、アルチュセールは、マルクスの知的態度を「"無"歴史主義」と称し、さらにその発見を「歴史の科学」と規定した(cf.『資本論を読む』中、筑摩書房版)。彼によれば、いわゆる史的唯物論とは、ある社会を、その歴史的変容に即して分析する、ひとつの科学に他ならない。このような「歴史の科学」を生み出したマルクスの方法とは、いかなるものか。アルチュセールはこれを、「書かれざる」「実践状態で機能する」弁証法であると言い、それこそがマルクスの哲学であるとした。いわゆる理論もまた、概念を生産するための、一種の実践である。ゆえに彼は、広義の理論活動を「理論的実践」と定義する。そして、諸々の理論が「理論的実践」ならば、そうした実践そのものの一般理論、理論的実践の過程の理論(大文字の≪理論≫)もまた存在する。このような発想から、『経済学批判要綱』の「序説」を引用しつつ、「科学は、具体的な物ではなく、一般性に働きかけ、新たな概念を生み出す」という一般理論を、アルチュセールは見出すのである。彼によれば、いわゆる唯物弁証法とはこの一般理論に基づくものである(cf.「唯物弁証法について」『マルクスのために』)。では、このような一般理論、このような弁証法をもとにマルクスが作り上げた理論や概念は、いかなる意味において重要なのか。それを理解するには、単に『資本論』のあれこれの節を暗記していればそれでいい、ということにはならない。ここで、「兆候的読解」に対する理解が必要となる。ある問題においては、問いの不在(見えているがゆえに不可視となっているもの)があり、それを適切に見出す読みが、兆候的な読み方である。マルクスは、当時の古典経済学に対して、その読み方を実践したのだ。だから、それを理解しない限り、マルクスの発見の意義を測ることはできないのである。1970年前後から、アルチュセールは、自身の理論主義的偏向を自己批判するようになる。しかしながら、自己批判後の彼の思想は決して、己が過ちを改めたる、といったものではない。むしろ彼が選んだのは、己の学説の半端さ加減を自ら正す、という方向であった。その中で登場する新たなテーゼの一つが「理論における階級闘争としての哲学」である。68年の「レーニンと哲学」を機に、哲学とは(理論的)実践の理論ではなく、実践そのものであると主張されるようになる(実践の哲学ではなく、哲学の実践)。哲学は、科学の信憑性を保証する「科学の科学」ではない。哲学とは別なやり方で継続される政治である(cf.「レーニンと哲学」)。哲学は、はるか昔から続く、観念と観念との戦いである(cf.「グラナダ講演」)。かつてアルチュセールは、マルクスを大きくヘーゲルから引き離してみたものの、依然『資本論』に至るまでヘーゲルからの影響が或る形で残り続けていたことをもまた、認めていた。このことについては、自己批判の諸テキストの中で、認識論的切断の学説に「継続する切断」という説明を加えていることからも分かる。後のアルチュセールは、ついに、ヘーゲルのマルクスへの最大の負債を認めることになる。それは、「過程」という概念である。但し、ヘーゲル弁証法特有の、目的論的過程ではない。それは、「主体も目的もない過程」、不均等な起源を持つ様々な要素が織りなす複合的な過程なのだ。そう彼は述べるのである(cf.「ジョン・ルイスへの回答」)。この着想は、その色調をいくばくか変えながら、歴史的過程の作動因を「偶然の出会い」と呼ぶ、晩年の思想につながっていく。エピクロス的な原子の雨。そして、その斜行が生む、偶然による原子の衝突。こうしたイメージが、諸要素が偶然に凝固して(出会って)、一定の持続力をもった一つの歴史的形態がなされるという、独特の唯物論につながっていくのである。偶然の唯物論者の一例としては、マキャヴェッリが挙げられるだろう。アルチュセールによれば、彼は、封建領主制という古い伝統と、やがてブルジョワジーの台頭のお膳立てをすることになる絶対君主制との、まさに狭間に立った。機が熟すための諸要素の「偶然の出会い」の前の空白に、彼は場所を占めていたというのである。彼の『君主論』は、彼の時代ではなく後の時代に向けて、いずれイタリアに芽を出す国民国家の時代に向けて書かれたものだと言える(cf.「マキャヴェリの孤独」)。アルチュセールの思想の大部分は、マルクスの読み直し、哲学の地位等の、純粋に理論的な問題にかかわっている。しかしながらその一方で、なまの題材を扱った考察もまた、少ないながらも存在する。つまり、社会(マルクス主義的には社会構成体)と、その再生産についての考察である(cf.『再生産について』)。当たり前の話だが、ある社会(社会構成体)は、その人々が死なずに食べていくための生産の様式が、変わらず維持されることで、存続するだろう。ゆえにマルクス主義は、その生産様式によって、諸々の社会形態を区別している。しかし、その生産様式が維持されるのは、実はまったく当たり前のことではない。それは何の働きかけもなしに、勝手に保たれているものではない。各人の各生産現場への配置、つまり生産関係を、必然的なものとして認めさせる必要があるのだ(生産関係の再生産)。そのような再生産の過程は、社会が(つまり生産関係が)広範囲になればなるほど、きちんとしたシステムとして確立される必要が出てくる。そして、実際にそのようなシステムとして機能しているのは、国家に他ならない。なぜなら、暴力(軍事力、警察力)による脅し(国家の抑圧装置)のみならず、人がシステムの規定に従って、自発的に生産関係の一部に加わるための制度や実践(学校、情報メディア、福祉的制度、文化的慣行の制度、法的に定められた家族、等々)さえもが、国家の名のもとにあるからだ。そのようなシステム・制度が、他ならぬ国家のイデオロギー装置である。とりわけ前期の思想では、イデオロギーとは、科学的方法から厳密に排除されるべきバグに他ならなかった。しかし、アルチュセールがその思想を練り直し幾つもの軌道修正を加えるにつれ、イデオロギーの積極的効果に焦点が移る。曰くイデオロギーとは、人間が主体として既存の社会関係に与するための保証を与えているものである。それはただの観念ではなく、人間による諸々の実践と切り離せないものである。街角での警察官からの「おい、そこのお前」という呼びかけすら、イデオロギー的に定められた儀式であり、それに応じて振り返ることですら、そのイデオロギーに参加することに他ならない。ゆえに、イデオロギーの内容は種々多様であっても、イデオロギーそれ自体は不可避である。70年代後半は、マルクス主義の危機というテーマが、アルチュセールにとり憑いていた。ところで、再生産論において、己が共産党の「国家のイデオロギー装置」としての性格について、彼はすでに考察している。「大衆の前衛」のはずの政党が、支配構造を維持するためのイデオロギー装置となっているということが、いよいよリアリティをもってきたことについて、えもいわれぬ焦燥感を掻き立てていたのかもしれない。フランス共産党が「プロレタリア独裁」テーゼを放棄したことについて、彼は激しく批判した(cf.『共産党の中でこれ以上続いてはならないこと』)。この時期の彼は、このプロレタリア独裁を巡って、再び国家を主題に取り上げている(cf.『哲学・政治著作集』1)。国家の分離と循環についての興味深い考察がそこで見られるが、その着想はさらに実を結びはしなかったようである。青年期のアルチュセールはヘーゲルに傾倒し、彼についての学位論文を提出するのだが、その直後に共産党へ入党、そして手のひらを返すようにヘーゲル批判を始めている。体系的ではないものの、後の思想の通奏低音となっている着想のいくつかは、このころに出始めているようだ(cf.『哲学・政治著作集』1)。現実の素材を扱った著作群の、もう一方。哲学とは根本的な意味で隠喩であるという、アルチュセールの信条が裏付けられている(cf.『哲学・政治著作集』2)。

出典:wikipedia

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