大本(おおもと)は、1892年(明治25年)、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団である。俗に「大本教」と呼称されることもあるが、正確には“教”を付けない。1980年からの内部分裂により、2グループが分かれ、それぞれ宗教法人・愛善苑、大本信徒連合会として各々のスタンスで正統性を主張している。愛善苑は出口王仁三郎のみを教主としている。1892年(明治25年)、霊能者出口なおに、「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑る。(数年を経て出口王仁三郎の審神者により、この神が国祖国常立尊であると告げられる)。1898年(明治31年)出口なおと出口王仁三郎が出会い、教団組織を作ることになる。王仁三郎は、出口なおの娘婿として養子となった。やがて戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した。大天主太神(おおもとすめおおみかみ)を祀り、これを「まことの神」とし、大本だけではなく宇宙の源であるとともに、一切を統一し納めている大神であるとする。この神は、古事記では天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と称し、他宗教では阿弥陀如来、ゴッド、アラーなどと呼ばれているものの、すべて同じ神であるとする。出口なおには、厳霊・国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)による直接内流によって伝えられた。出口王仁三郎には、主に豊雲野尊、小松林命などの瑞霊系の神懸りによって、神示が直接内流として伝えられていたが、出口なおの昇天後には厳霊の神懸りも加わると共に、主神の神霊も本格的に神懸るようになり、『霊界物語』の口述が開始されることになった。戦前、日本政府から二度の弾圧を受け、組織と施設に潰滅的な被害を受けた。戦後は、芸術、平和活動路線へ傾斜した。一方、大本内では内部対立が高まっており、1980年、三代教主直日の後継者をめぐって、本格的な内紛が起こる。王仁三郎の孫・出口和明が王仁三郎の功績を絶対的なものと位置付ける改革派グループを形成、教団批判を行った。さらに、当初、三代目教主・直日の後継者とされていた長女・直美の夫である出口榮二が教団追放されたのを機に、教団全体を巻き込んだ抗争となり、裁判沙汰となった。最終的に大本は、三女・聖子が継ぐこととなった。これにより当初の後継者・直美を四代教主と仰ぐ一派は「大本信徒連合会」を結成、和明は、王仁三郎のみを教主とする宗教法人「愛善苑」を設立した。これを第三次大本事件と呼ぶこともある。2015年(平成27年)現在での信者数は168297人。その他に、東京には東光苑【東京宣教センター】がある。開教当時は新たに宗教法人を発足させるのが困難な国家体制であったため、教団の名前として、金明霊学会→大日本修斎会→大本瑞祥会という名称を使っていた。また、旧憲法下では行政当局の規制により新興の宗教団体の登記はハードルが高く、既成の大きな宗教の傘下であるという形式を取る必要があり、大本は上部団体を稲荷神→御嶽教→出雲大社と変えていった。現在の大本は教派神道である旨を公称しており、文化庁による『宗教年鑑』においても教派神道系の宗教に分類されているが、戦前においては神道の教派として公認されることはなかった。戦後1956年(昭和31年)の教派神道連合会加盟をもって教派神道となったものである。主要な教義は、「大本神諭」「霊界物語」によるものである。多用されているおもな理論は、次の通り。教義の中に為政者の“われよし” “つよいものがち”をきびしく批判する要素を含み、特に立て替え・立て直しは革命思想と誤解されたことから、政府から弾圧を受けた(第一次・第二次大本事件)。日本海海戦後の秋山真之が宗教研究に没頭した際、浅野和三郎の紹介で入信し教義を研究したことで知られる。植芝盛平(合気道開祖)と、その甥の井上鑑昭(親英体道道主)らも信者である。大本の精神性を彼らの武道の根幹として取り入れた。現在存在している新教団の一部は、かつて大本の信者だった人物によって設立されている。(例)初期の段階から、機関紙・誌などのマスメディアを利用した布教を行った。。特筆すべきは、一般紙を買収して経営を行ったことである。1920年(大正9年)には「大正日日新聞」を買収した。出口王仁三郎は、反差別思想や平和主義を掲げる国際共通語エスペラントに共鳴すると、1923年(大正12年)にエスペラントを採用した。現在でも教団の主要活動と位置づけられており、「エスペラント普及会(EPA=Esperanto-Populariga Asocio)」を設置しての普及活動などをおこなっている。教団ウェブサイトにはエスペラント版があるほか、人材養成機関「梅松塾」には「エスペラント科」が設置されている。1949年(昭和24年)より、世界連邦運動を推進しており、1950年10月14日に大本発祥の地である綾部市は世界連邦都市宣言第1号となり、後に各自治体の議会でも決議され、「世界連邦自治体全国協議会」が結成される。戦前は、王仁三郎らが中国・蒙古・朝鮮・台湾などに足を運び、現地の宗教団体と提携した。このうち、蒙古の紅卍教との交流は、1925年頃に満州里特務機関で勤務していた橋本欣五郎が斡旋している。これの便宜によって王仁三郎の蒙古入りが行われた。こののちに起こった十月事件では、クーデターに合わせて大本が全国の信者を動員するように話がついている。1927年には天津租界に住んでいた愛新覚羅溥儀に「帝が大本教に帰依される場合には教主として推戴したい」と使者を派遣して伝えている。外郭団体として「人類愛善会」を組織。“人群万類愛善”、“万教同根”を主張し、人種・宗教・国籍の違いを超え、世界平和実現に向かっての活動を展開している。また、核兵器・原発廃絶運動や死生命倫理運動、死刑廃止運動など、社会問題に取り組んでいる。大本には、国家による2回の宗教弾圧に見舞われ、その度に組織が存亡の危機にさらされた。先に述べた型の大本理論により、これら重大事件は大本の問題というよりも、その後世界に起こる大問題の前触れであるとされる。1980年に起きた教団の内紛を、第三次大本事件と呼ぶこともある。1921年(大正10年)に起きた事件である。王仁三郎が逮捕・拘束されたほか、既成マスコミ(新聞)からの総攻撃を受けることとなった。容疑は不敬罪と新聞紙法違反。1927年(昭和2年)に恩赦(大正天皇大葬による)が行われ、裁判自体が消滅、判決確定を待たずして事件は終結した。この間、一部の信徒たちが教団を離脱、その多くは後に大本を非難する側に回った。(注)友清歓真(神道天行居を立教)の離脱は1919年(大正8年)、岡田茂吉(世界救世教を立教)の離脱は1934年(昭和9年)であり、この二人の大本離脱に関しては、第一次大本事件との直接の関係はない。1935年(昭和10年)に起きた事件である。これは治安維持法が新宗教(政府は「類似宗教」と呼称した)に適用範囲を広げる契機となった。がほぼ同時に行われた。教団の解体を意図したものであり、事実上、消滅した。。松山巖は自著で、20名の信者が獄死、あるいは発狂したと伝えられると述べている。戦中に祭主を務めていた梨本宮守正王は、戦後になり戦犯容疑者として指名された。1945年12月2日に守正王はこの指名をいぶかり、取材に来たAP通信の記者に「神宮のことは米国にはわかっておらぬだろう。大本教や天理教のようなものとは違う」と答えている。当時、大本や天理教が一般的にどのようなイメージを持たれていたかをうかがうことができる。清沢洌も1943年10月4日の日記で「大本教が、現在の大勢を予言したとかで、また信者が増えてきたというものあり。根底のない信仰だから、そんなこともあるかも知れず」と述べている。知識人からはこのように見られていたのである。なおこの部分は、岩波文庫版には収録されていない。理由は不明である。王仁三郎が1942年(昭和17年)に保釈されるも、全活動を封じられたままで、結局、1945年(昭和20年)に日本が敗戦。弾圧が解消され、自由が回復するのを待たなければならなかった。日本共産党弾圧と並ぶものである。高橋和巳がフィクション小説『邪宗門』の題材として取り上げている。また、松本清張も『粗い網版』で、警察側からの視点で第二次事件を取り上げている。清張は『昭和史発掘』の中で、1つは戦前の宗教弾圧を取り上げる予定でいた。大本教は既に他の作家が書いているということもあり、天理研究会(のちのほんみち)が、戦中に非転向を貫いたのは何故か、という疑問点への着眼によって選ばれた。また、秦郁彦は、「あえて推測すれば」皇道派系の軍人と関係の深かった大本を打倒することで、統制派との連携を狙った内務省特高警察の策謀ではなかったか、と指摘している。いわゆる教祖を教主と呼ぶ。大本の特色として、開祖の「筆先」の神示にもとづき、教主はすべて開祖の血統を継ぐ女性である。次代の教主は当代の教主が定める。ラジオ番組「宗教の時間」では、大本の三代教主補・出口日出麿の著書“生きがいシリーズ”(『生きがいの探求』『生きがいの創造』「生きがいの確信』)の朗読を放送。幸せに生きるヒントや悩みを解決する方法などを、わかりやすい言葉で伝えている。
出典:wikipedia
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