LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

藤堂平助

藤堂 平助(とうどう へいすけ)は、日本の幕末の武士、剣客、砲術家で、新選組八番隊組長、のち御陵衛士(高台寺党)。平助は通称で、諱は宜虎(よしとら、のぶとら)。正式な姓名は藤堂平助藤原宜虎となる。1844年(天保15年、弘化元年)、武蔵国にて誕生した後、江戸で育ったとみられる。永倉新八の『同志連名記』や京都在留当時の風聞書によれば、伊勢津藩主藤堂高猷の落胤とも、伊勢久居藩家老藤堂八座の子との説もある。通称の「平助」は藤堂家功臣の名乗りを嗣いだものとも伝えられ、平助の佩刀「上総介兼重」が藤堂家お抱え刀工の作であったためである。上総介兼重は新選組内でも一、二を争うほどの非常に高価な名刀であり一介の素浪人が持てるような刀ではなく、さらに隊が最も困窮をきわめていた時期にも関わらずこのような高級な刀剣を所持していたことなどを考えると、落胤であった可能性は十分に考えられる。北辰一刀流開祖・千葉周作の道場玄武館(神田於玉ヶ池)の門弟となり、北辰一刀流目録(中目録免許とみられる)を十代半ばで取得した。その後、深川佐賀町にあった北辰一刀流・伊東大蔵(伊東甲子太郎)の伊東道場にも出入りし、後に天然理心流・近藤勇の道場試衛館に入門し、ほどなくして代稽古などを任されるようになった。『新撰組顛末記』によると、平助は新選組結成以前からの生え抜きの同志であり、斎藤一とともに最年少幹部の一人である。在隊中は、年少者ながら「副長助勤」「八番隊組長」等の重要な役職を歴任した。文久3年4月16日(1863年6月2日)、会津藩邸にて京都守護職松平容保御前試合が行われ、壬生浪士組全員で武術を披露した。この上覧試合の剣術の部において平助は土方歳三と第一試合で剣を交えた。第二試合は永倉と斎藤、第三試合は平山五郎と佐伯又三郎、最終の第四試合は山南敬助と沖田総司という組み合わせの対戦が行われた。なお、各試合の勝敗は記されていない。元治元年6月5日(1864年7月8日)の池田屋事件では、最初に斬り込んだ4名のうちの一人で、一階の庭を持ち場とし、逃亡しようと降りて来る浪士達相手に奮戦した結果、佩刀の上総介兼重はぼろぼろになり、鍔元には修復不可能な程のひび割れを負った。また、戦闘中に室内があまりに暑かったため、汗を拭おうと鉢金を取ろうとしたところを潜んでいた浪士に斬りつけられ、額(眉間から顔側面とも)を割られ昏倒。一時は生死をさまよう危篤状態に陥った。事件後、近藤、土方に次ぐ額の計二十両(金十両および新刀購入料として別段金十両)もの褒賞金を江戸幕府から下賜されている。元治元年11月(1864年12月)、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行ったが、平助はこれに先立って志願者を募るため江戸に下っている。慶応3年3月(1867年4月)、伊東一派と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱。これより当初の上洛の動機であった尊王攘夷の志士への道をようやく歩み出すことになる。御陵衛士時代の主だった平助の活動としては、等が挙げられる。なお、御陵衛士側に間者として潜入していた斎藤からこれらの報告を受けた近藤は激怒し、御陵衛士の殲滅を決意したという。また、衛士たちは英語の習得やロケット製造方法のような火薬研究などの研鑽に努めていた。篠原泰之進(秦林親)の覚書には、"『ぐうとないと「こんばんハ』『ぎふみい「私に被下(くだされ)』『せんきゅう「難有(ありがとう)』『あいらぶきゆう「私あなたをすきです』"といった内容があり、平助も同様に勉学に励んでいたものとみられる。慶応3年8月23日(1867年9月20日)、江川塾・韮山塾(江川家の砲術指南の私塾)にて砲術の免許を取得した。韮山の江川文庫にある『江川家砲術指南の記録 御塾簿について』(かつての門人名簿『御塾簿』を編集したもの)にとの記載がみられる。慶応3年11月15日(1867年12月10日)、伊東は平助を伴い、当時坂本龍馬が身を寄せていた近江屋を訪問し、時勢について議論した。さらに見廻組等が坂本の暗殺を企てているので速やかに土佐藩邸に移るように忠告したが、坂本はただ忠告を謝すばかりで全く相手にはしなかったという。伊東は「"自分が新選組に身を置いていたから信用してもらえず遺憾な次第"」と嘆いたという。伊東らの忠告もむなしく、程なくして坂本は中岡慎太郎と共に暗殺されてしまう(近江屋事件)。慶応3年11月18日(1867年12月13日)夜、新選組による伊東殺害および御陵衛士殲滅を目的とした大規模な粛清が断行される(油小路事件)。油小路で新選組に暗殺された伊東の遺体を奪還するため、罠であると知りつつも平助は同志7名と共に現場へ向かう。待ち伏せていた40名以上の新選組隊士らと死闘の末、翌11月19日(12月14日)未明に戦死した。'‘'ただし、生きていた可能性もある。検死結果によると、額から鼻にかけての傷は長さ約21cm、深さ6cmに達しておりほぼ即死であったとされる。永倉によると、近藤から「"(藤堂は)まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい"」との指示があり、平助が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士三浦常三郎に斬られたとされている。また、平助は永倉の深意はくみ取ったものの、魁(さきがけ)先生と呼ばれたプライドと同志を見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦に斬られたともいわれている。他に、永倉の深意を汲み取り退こうとしたところを三浦に後ろから斬りつけられたため、平助は背後から斬られるのは武士の恥として応戦し、数々の傷を負い戦死したとする説もある。墓所は泉涌寺の塔頭戒光寺にあり、共に討死した同志の伊東、毛内有之助、服部武雄ら共に、同寺院内の後月輪東山陵に眠る孝明天皇の御霊を守護し続けている。多摩・日野の郷土史家谷春雄の発表した平助の生存説は上記のような内容である。しかしながら、この説は殺害後の状況からして相当無理があり、自称子孫の談話のみで他史料による傍証もなく、執筆者の谷自身でさえも懐疑的だったという点から信憑性に欠けるものだと判断せざるを得ない。藤堂平助が幕末史上に登場した期間は5年程とごくわずかである。にも関わらず、新選組隊士として即座に名前が挙がるほどに知られた存在だが、やはりその生涯があまりに短すぎたためか平助には謎が多く、人物や挙動に関する史料や口碑はごくわずかしか残されていない。その数少ない史料や証言を引用しながら、平助の人物像を以下に要約する。『京師騒動見聞雑記録』は西国を代表する雄藩・薩摩の島津家の家士が当時の京の情勢を藩に伝えるために記録した報告書である。その中に奇しくも平助に関する記述が残されている。言うまでもないが、幕末の動乱期において本国への公的な通信で一介の浪士にすぎない平助の出自や容貌・性格等をわざわざ報告しているのはきわめて異例といえる。京でよほど評判になっていたのか、この薩摩藩士某が個人的に思うところがあったのか経緯は不明だが、とにかく写真はおろか肖像画も残っておらず、係累や子孫さえも判然としない平助の姿形を今日に伝える非常に貴重な史料であることは確かである。また、実際の平助の年齢は数え年で21歳であったが「17歳」と記述されている。実年齢よりひどく若くみえる幼い顔立ちの美男であったようである。江戸幕末期の成人男性の平均身長は155~157cmほどといわれているので、「小兵」と評された平助の身長はおよそ153cm前後であったと推測される。愛刀の上総介兼重は二尺四寸五分(およそ73cm)もある長寸の打刀で、本来であれば身長180cm前後の男性に最適な長さの刀である。驚くべきことに平助は自分の身長の半分ほどもある長さの刀を手足のように自在に振るい、死線をくぐり抜けていたことになる。自称新選組隊士・結城無二三の子である結城禮一郎の著作『旧幕新撰組の結城無二三』が出典だが、本書は事実誤認や史実と異なる情報がしばしば指摘されており、結城の先入観あるいは想像である可能性も否定できない。また、子母澤寛著の『新選組始末記』にも「"江戸っ子で品行は不良だったが人物がしっかりしていた"」との記載があるが、証言者や出典元は不明である。石坂周造は、浪士隊上洛の際の組頭を務めた主要幹部である。300名を超える浪士隊の中であえて土方と平助を名指しするからには、よほど彼らが反抗的で目立っていたということなのか、いずれにせよ石坂は二人を「一筋縄ではいかない浪士」であったと述懐している。平助は市中巡察の際に隊の先頭に立つ当番(後の「死番」制度)を自ら進んで引き受け、また戦闘の際には常に先陣を切ったことから、魁先生という異名をとった。新選組隊士とりわけ幹部メンバーには、多かれ少なかれ必ず女性のエピソードが伝えられているが、美男として知られていたにも関わらず平助にはそれが全くといっていいほどに残されていない。あえて挙げるとするならば、祇園一の美貌を誇った勤皇芸者・中西君尾の以下の証言だろう。君尾は自身の著書『勤皇芸者』で、このように語っているが、元治元年8月(1864年9月)頃から翌年5月(1865年6月)頃?まで平助は隊士募集のため江戸に東下しているため、本来であれば京都にはいないはずである。しかしながら、平助がその間ずっと江戸に滞在していたという記録も無いため、この逸話を君尾の創作や記憶違いだと断定するのはやや早計である。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。