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ゆうばり国際ファンタスティック映画祭

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭(ゆうばりこくさいファンタスティックえいがさい)は、日本の北海道夕張市で開かれている映画祭である。主な上映作品はスタート当初は、SF映画、ファンタジー映画、ホラー映画、アドベンチャー映画などとなっており、フランスの『アボリアッツ・ファンタスティック映画祭』をモデルとした。当時は、ビデオ化すらされない国外の作品が多く、映画祭が宣伝の場になっていたが、ビデオレンタルの急成長から、近年は、4-5月にかけて公開される話題作の発表の場と、インディーズや自主製作映画のコンペティション部門、若手作家の発表の場となっている。石狩炭田が続々と閉山し、夕張市が主要産業を石炭事業から観光事業へ転換を図る中での唯一、文化事業で成功した事例をもつ中心的な役割なども担っていた。2006年に運営費を出していた夕張市が財政再建団体入りを表明したことに伴い、同年7月に開催補助金支出打ち切りを決定し、市運営による開催中止を発表した。その後、映画ファンなどの有志で2007年2月23日、新たに「ゆうばり応援映画祭」を開催した。映画ファンの有志と映画祭の元スタッフによる「ゆうばりファンタ」が中心となり、2008年3月19日から5日間で再スタートを切った。2008年のオープニング作品となった『僕の彼女はサイボーグ』は2003年の映画祭をきっかけとして制作された作品である。映画祭のキャラクターは、漫画家の石ノ森章太郎によるデザインによるもので、シネマとタイガーを合わせたシネガーと呼称している。1979年、「炭鉱から観光へ」をスローガンに」夕張市長に中田鉄治が当選。テーマパーク石炭の歴史村の建設が本格化。教育委員会社会教育課長時代から積極的に映画を上映してきた経緯から、1988年に、1年間に及ぶ活動を通じて東京国際映画祭の当時のゼネラルプロデューサーである石田達郎と中田市長との間で映画祭の設立が承認される。同年10月、東京国際ファンタスティック映画祭を視察、当時の映画祭の顧問であったリオネル・シュシャンのアドバイスで映画祭開催の記者会見を札幌で開催発表。1989年1月、フランスのアボリアッツ・ファンタスティック映画祭に11人の使節団を送り映画祭の骨子が決定する。3月に開催の記者会見を東京で開催。10月、東京国際ファンタスティック映画祭の閉会式にて、中田市長が「映画のある街・夕張」を映画ファンにPRした。以後、東京国際ファンタスティック映画祭のクロージングにて毎年、市長の演説が話題を呼んだ。1990年2月、第1回映画祭が「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭」として夕張市民会館をメイン会場として開催。スキー場に映画『エリック・ザ・バイキング』のバイキング船を設置したり、宿泊施設の不足を北海道旅客鉄道(JR北海道)の支援により寝台列車の北斗星を導入するなど、その話題は、世界に向けて発信された。1991年2月、第2回映画祭が開催。日本で行われたイベントの中で、日経イベントから第4位のイベントとして高く評価される。同年9月に北海道旅客鉄道(JR北海道)の支援により夕張駅が完成し、映画祭の玄関となる。1992年2月、第3回映画祭が開催。4月、フジサンケイグループ広告大賞イベント賞を受賞。夏には第1回の審査員を務めた韓国のイ・チャンホ監督が、『ミョンジャ・明子・ソーニャ』を夕張で撮影。翌年の映画祭で上映を行い話題に。1994年2月、第5回映画祭が開催。3月、日本ファッション協会生活文化賞を受賞。1997年2月、第8回映画祭が開催。韓国・富川市から45名の視察団が来日、8月に第1回韓国・富川国際ファンタスティック映画祭開催を発表、8月に開催される。これ以後が韓国の映画祭の幕開けと言われている。1998年2月、第9回映画祭が開催。同年4月に、パリで行われた「国際都市活性化技術会議 (FITAC)」で映画祭が特別功労賞を受賞。1999年2月、第10回映画祭が開催。総合体育館を改修した「ゆうばり文化スポーツセンター」がオープン、あたらなメイン会場となった。10周年を記念し、この年のメインビジュアルは、映画祭の準備段階から参画している漫画家の永井豪によるものになった。同年、10周年を機に“冒険”を取ることを決定、翌年から現在の「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」となる。2003年2月、第14回映画祭が開催。同月、2002年度「日本映画批評家大賞」で特別賞を受賞。4月、映画祭の生みの親であり実行委員長をつとめてきた中田鉄治が市長を退任。同月、夕張市長選挙において後藤健二が当選、以降は2006年まで後藤が実行委員長を務める。10月、中田鉄治死去。2006年2月、第17回映画祭が開催。6月、夕張市の定例議会において、後藤市長が事実上市の財政が破たんしていることを明らかにし、財政再建団体入りすることを表明した。7月、映画祭実行委員会で正式に夕張市が主体となる映画祭の休止が決定。その直後より休止を惜しむ映画人、映画ファン、市民の声が高まり、9月、それらを受けて澤田直矢ら夕張市民有志が映画祭の復活を目指す団体「ゆうばり映画祭を考える会」を立ち上げた。11月、「考える会」は市に代わる映画祭主催団体を目指し「ゆうばりファンタ」として特定非営利活動法人(NPO)の認証を申請(2007年2月22日認証)。2007年、この年映画祭は休止したが、2月、映画ファンらの有志主催による「ゆうばり応援映画祭」を「ゆうばり文化スポーツセンター」において開催。実行委員長は北海道出身の映画評論家品田雄吉だった。7月、NPO法人となった「ゆうばりファンタ」が翌年の開催を発表。2008年3月、第18回目として映画祭がゆうばり市民会館をメイン会場として復活開催。市民主導による夕張市再生の象徴として話題となる。この年から特別協賛でスカパーJSAT(株)がサポート。2011年都職員として夕張派遣していた鈴木直道が市長選挙への出馬を表明し、市長に就任し、名誉大会長として就任。2012年、京楽ピクチャーズ.(株)がインターナショナル・ショートフィルム部門のサポートを開始、協賛。2014年、ニューウェーブアワードを新設。主要会場は夕張市内6ヶ所である。ほか、開催年により特設会場でイベント上映がある。名称の由来は、映画祭事務局のあった建物の前にある青年婦人会館を利用して、映画祭期間中は名称を「みんなの家」(現在は、閉鎖中)と称して様々なトークイベントや音楽イベント、上映などを開催していたが、イベントが比較的に深夜に及ぶことも多く、いつしかミッドナイトで行うイベントが“ディープコアナイト”と呼ばれるようになる。2001年にみんなの家で行われたトークイベントでは、そこで何が行われたのが参加者だけの秘密になり、かなり深い内容が語られていることで話題になった。現在ではイベントそのものが正式にそう呼称されるようになった。2001年のトークイベントの参加者は、監督の中田圭、及川中と俳優の加藤雅也。あまりにもマニアックすぎるゆえに、参加者がついていけないこともしばし。近年では、様々なゲストを招いて、濃すぎるトークを繰り広げていることで、常連も増え、深夜の2時、3時からトーク参戦する俳優や監督も多い。2010年以降は、公式には開催されなかった。

出典:wikipedia

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