LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

新東宝

新東宝株式会社(しんとうほう)は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。1947年(昭和22年)3月に株式会社新東宝映画製作所(-しんとうほうえいがせいさくしょ)として創業、1948年(昭和23年)4月に株式会社新東宝として設立され、1958年(昭和33年)2月に同商号に変更している。1961年(昭和36年)に倒産し、1964年(昭和39年)に国際放映株式会社に商号変更した。同社が存続した1947年 - 1961年の14年間に800本以上の映画を製作。初期は文芸色が強く、ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した『西鶴一代女』のように高く評価される作品もあった。後期は作品カラーを大きく変え、「エログロ」に代表される徹底した娯楽、大衆路線となる。同社の倒産以降に「新東宝」を名乗る「新東宝興行株式会社」、「新東宝映画株式会社」とは別会社である。⇒ #倒産後、新東宝映画第二次世界大戦終結から1年が経過した1946年(昭和21年)11月、第二次東宝争議の最中、東宝の経営者側にも、政治的な労働組合側にもつかないと立ち上がった俳優・大河内傳次郎に賛同した、長谷川一夫、黒川弥太郎、入江たか子、藤田進、花井蘭子、山田五十鈴、原節子、山根寿子、高峰秀子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を脱退した。同時に組合を脱退した百数十名の有志とともに、東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)敷地外に戦前に増設した「東宝第二撮影所」(のちの国際放映撮影所、現在の東京メディアシティ)を母体にして、4か月後の1947年(昭和22年)3月25日に新東宝映画製作所を創業した。渡辺邦男や斎藤寅次郎らの監督も新東宝に移籍した。新東宝映画製作所の創業年のラインナップは、下記の通り。第1作の『東宝千一夜』は、東宝作品のアーカイヴ・フッテージを「十人の旗の会」メンバーを中心に、市川崑が「中村福」の偽名で再編集したものであった。本格的な製作は、渡辺邦男監督、長谷川一夫主演の『さくら音頭 今日は踊って』からである。いずれも、東宝が配給し、争議による製作不能に陥った東宝のプログラムを埋めていった。1948年(昭和23年)4月25日に株式会社新東宝として正式に設立、社長には、元東宝営業部長で「配給の神様」こと佐生正三郎が就任した。この新会社は、「新東宝による製作、東宝による配給」という形で、東宝争議の最中および直後の東宝を支えるかに見えたが、間もなく東宝は争議沈静後に自主製作を開始した。ハシゴを外された形の新東宝の佐生社長は、自主配給の開始を宣言して東宝と袂を分かった。それと同時に、後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)の関連会社として、東宝が出資を引き上げたわけではないが、東宝からは独立した映画製作・配給会社となる。しかし、自社配給作品の第一弾として中川信夫監督『私刑』を1948年に公開すべく新東宝配給株式会社の設立準備をすすめていたが、東宝が裁判所に新東宝配給株式会社の設立を止める仮処分を申請、受理されたために、自主配給の開始は翌1949年に延期された。以降、文芸作品や都会的センスの作品を多く発表するものの、不採算が続く。1955年(昭和30年)、元活動弁士で、歌手・近江俊郎の実兄として知られる東京の大手映画興行主・大蔵貢が、新東宝の定期株主総会に株主として出席し経営に関する意見を発した。これに新東宝の主要株主で後楽園スタヂアム社長で、東宝社長の小林一三の異母弟で「関東興行界のドン」と目された田邊宗英が同調した。大蔵は社長に迎えられ、事実上新東宝を買収する。この点で東宝の影響力が少なからずあったと見る向きもある。すでに当時東映に移籍していた早撮りの巨匠・渡辺邦男を呼び戻し、取締役にしている。ここで大蔵の採った施策は「安く、早く、面白く」で、大蔵は経営のワンマン体制も確立した。「テスト1回、ハイ本番」のスローガンのポスターが撮影所に貼られた。1957年(昭和32年)の渡辺邦男監督、嵐寛寿郎主演による『明治天皇と日露大戦争』は史上空前のヒットとなったが、配給網が弱いため、他社の劇場に利益を持っていかれた。これ以前から東宝との再統合を含め、何度か他社との合併・統合話が持ち上がったが、そのたびごとに、株主の反対や合併後の主導権争い等により不調に終わった。そんな中、宇津井健、天知茂、吉田輝雄、菅原文太、三原葉子ら若手スターが健闘した。新東宝の「エログロ」路線とは、前田通子、三原葉子、万里昌代ら肉感的グラマー女優の作品群を指す。音楽に「宙明サウンド」の愛称で多くの支持者を集める渡辺宙明、撮影に巨匠胡金銓(キン・フー)やブルース・リーを支えた西本正、卓越した技術を持つ美術陣など優秀なスタッフを擁していたが、映画史的に公正な評価は下されていない。監督は、戦前派でひとり居残った巨匠中川信夫は別格としても、土居通芳、赤坂長義、渡辺祐介らセンスの高い若手が並び、後年東映にエログロの金字塔を築き上げる石井輝男もこの時期はモダニズム派であった。女優は川本三郎の著書『君美わしく』に詳しい。1958年(昭和33年)2月には新東宝株式会社に商号変更した。同年、渡辺監督は再度退社している。大蔵の独善的なワンマン体質によりヒットメーカー・志村敏夫監督とスター・前田通子にも去られ、業績は以後急激に悪化。1959年(昭和34年)には、久保菜穂子、若山富三郎が東映に移籍した。映画を作りさえすれば客が入ったといわれた日本映画黄金期の1950年代後半でも、新東宝の映画館だけは閑古鳥が鳴いていた。1960年(昭和35年)12月1日、大蔵は辞任に追い込まれた。テレビ時代の到来に伴い、その後の再建策も空しく1961年(昭和36年)8月末日、新東宝株式会社は倒産した。倒産直前に大量の作品の放映権がテレビ局に売却され、日中の時間帯に放映された。倒産後、新東宝株式会社は清算会社となり、同社の配給部門を切り離し、同年9月1日に配給会社の大宝株式会社を設立した。同年11月15日には、製作部門を切り離し、ニッポン・アートフィルム・カンパニー(NAC)を設立、新東宝株式会社は、3分割された。配給会社大宝は、5本を配給したところで、翌1962年(昭和37年)1月10日に業務停止になった。製作会社NACは、TBS、フジテレビの資本参加を得て、テレビ映画製作に乗り出し、1964年(昭和39年)には、国際放映株式会社と商号を変更した。国際放映は、旧「新東宝撮影所」の一部と、新東宝の作品の全権利を継承する後身会社である。かつて同社は、阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の一社で、ジャスダック上場企業であったが、東宝のTOBで完全子会社化され、2011年2月14日に上場廃止となった。東京都世田谷区砧にあった「新東宝撮影所」は、その大部分が日本大学に売却されて同商学部のキャンパスとなり、残部は国際放映に引き継がれ、同社のテレビ映画製作の拠点となった。1990年代以降はテレビ映画よりも情報番組のビデオ撮影が主流になったため、改築し、東京メディアシティと改称した。新東宝を追われた大蔵は、社長在任中に世田谷区桜にあった「新東宝第二撮影所」(前身は戦前の東京発声映画製作所)を自己全額出資の「富士映画」に譲渡させていた。富士映画はそのまま大蔵の手中に収まり、同社を母体に、これらとは別に、従来自ら経営していた興行会社と配給会社を合併させて出来たのが現在の大蔵映画である。大蔵映画撮影所は1974年(昭和49年)に閉鎖され、跡地は総合娯楽施設のオークラランドとなっている。新東宝興行の関西ブランチが、新東宝が確立していた興行網を利用し、お色気系の洋画を配給し始め、配給機能のみで製作をもたないので、外部作品を配給し始める。これが、現存するピンク映画の配給会社「新東宝映画」の源流である。同社は、大蔵映画とも新東宝とも資本的に関係がない。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。