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白糠線

白糠線(しらぬかせん)は、1964年(昭和39年)から1983年(昭和58年)まで日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道白糠郡白糠町に所在する根室本線白糠駅から分岐し、同町二股地区の北進駅までを結んでいたが、1980年(昭和55年)の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行を受け、特定地方交通線廃止の第1号として、1983年(昭和58年)に廃止された。白糠町の北端にある二股への鉄道を敷設する構想は第二次世界大戦前からあり、釧網本線の弟子屈駅(現在の摩周駅)から二股を経由して池北線(第三セクターの北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線を経て、2006年(平成18年)に廃止)の足寄駅までを結ぶ「釧勝線」が提案されていた。大戦後は白糠から二股を経由して足寄へ結ぶ白糠線構想が持ち上がり、1951年(昭和26年)に白糠町が中心となって運動を開始し、足寄村・西足寄町と連携して期成会を結成し、中央省庁への働きかけを行うようになった。1952年(昭和27年)には現地での測量が行われ、1953年(昭和28年)8月1日に改正鉄道敷設法が改正されたことにより、第1条別表第147号の2に掲げる予定線として「釧路国白糠ヨリ十勝国足寄ニ至ル鉄道」と規定されて、白糠駅から池北線の足寄駅までが予定線となった。さらに足寄駅から新得駅までの北十勝線(未成線)とあわせて根室本線のバイパスを形成する予定であった。この他に、当路線の螺湾から分岐して、上足寄を経由し相生線の北見相生駅へ至る「阿寒線」という構想も存在した。予定される路線の沿線には、公有・民有合わせて64,000ヘクタールに及ぶ森林資源と、約3億2000万トンに及ぶ高品質の石炭があり、一時は石炭年産50万トンを目標として5か所で採炭が行われ、人口も23,000人に達していた時代があった。石炭産業は第二次世界大戦後から相次いで現地に入り、縫別の三菱鉱業、上茶路・右股の雄別炭礦、二股の明治鉱業、茶路の共同石炭などの鉱業権が設定され、一部は実際に生産を開始していた。さらに足寄奥地にある日本特殊鉱業阿寒鉱業所では年間2万トンの硫黄の生産を行っていた。しかしこれらの資源はトラックでの搬出を強いられていたため輸送費がかさみ、増産が困難という問題を抱えていた。森林資源については、足寄から螺湾・上足寄を経由して鳥取までを結ぶ森林鉄道が開通し、馬車や河川流送などでも運ばれていたが、輸送力が不足している状況であった。こうした森林・石炭資源の開発が白糠線の大きな目的であった。また北見・北十勝地方で生産される農産物を釧路港へ輸送する経路を短絡することや、足寄から螺湾にかけて計画されていた開拓地の輸送を担うことも期待されていた。用地の買収にあたっては、札幌鉄道工事局や白糠町当局と地元の農民団体の間で血みどろともされる争いがあり、町議会においても対立で紛糾するといった事態となったが、1958年(昭和33年)に白糠から足寄までの76キロメートルが建設線に認可され、6月に着工された。この時期に建設が開始されたのは、釧路炭田における失業対策が考慮されたという。1964年(昭和39年)10月7日に白糠から上茶路駅までが開業した。折りしも、雄別炭鉱の上茶路炭鉱が本格操業に入る時期であったため、同炭鉱からの石炭輸送には白糠線が利用された。出炭量年間10数万トンのほとんどが白糠線による輸送であった。この頃、白糠線には石炭車を長く連ねた石炭輸送列車が走り、上茶路地区はわずか9戸の農家のみであったのが、一挙に250戸600人が住み商店・学校・郵便局・駅・役場支所などが立ち並ぶ街へと成長した。しかしながら、当初予定されていた木材の河川流送方式から鉄道輸送への転換は実現することなく、自動車による運送に転換していった。一方、1968年(昭和43年)には上茶路駅以北釧路二股駅までの区間で路盤工事に着手、翌1969年(昭和44年)には軌道敷設工事が開始されていた。この工事は日本鉄道建設公団の手により1970年(昭和45年)には完成していたものの、折り悪く上茶路炭鉱は1970年2月に閉山となり、石炭輸送が皆無となっていた。また、当時は「赤字83線」のローカル線廃止取組みの最中であり、開業すれば赤字必至のローカル線の引き受けを国鉄が拒否したため、完成した線路が2年間に渡って放置されていた。赤字83線の取組みが頓挫した1972年(昭和47年)に、田中角栄内閣が成立して北海道出身の佐々木秀世が運輸大臣に就任した。直後の7月12日に白糠町長の千葉清が運輸省を訪問して佐々木大臣に釧路二股駅までの開業の要請をしたところ、話が急速に進んで7月14日には開業認可が下りることになった。開業に際して、延長区間に2駅設置された奥茶路駅と終点である釧路二股駅に関してはさらなる延長への期待を込めて延伸開業時にそれぞれ「下北進」および「北進」と変更され、1972年9月8日に北進駅までが開業した。しかし、同年6月に北海道内で札沼線の一部が廃止になっていたことから、この延伸開業に疑問を呈する向きもあった。この延伸開業区間は当初から旅客輸送のみであった。残された釧路二股(北進) - 足寄間についても、現地調査と地図上での比較検討が行われ、1965年(昭和40年)1月から線路選定が行われていた。路線は、二股から左股・稲牛・中足寄を通って足寄へ至るルウクシュチャロ川・稲牛川沿いの経路と、右股・螺湾・中足寄を通って足寄へ至るコイカタホロカチョロ川・螺湾川沿いの経路の2案が比較検討され、1966年(昭和41年)1月に後者の経路に決定された。これは螺湾と北見相生を結ぶ「阿寒線」構想との接続を考慮してのことだと推定されている。足寄での取り付けは、北見と釧路を結ぶ役割を考慮して南側からとされた。1967年(昭和42年)8月に工事実施計画が承認され、白糠町と足寄町の境界には延長5,200メートルの釧勝トンネルが計画されていた。1969年(昭和44年)7月からは路盤工事も開始されていた。しかし、沿線の炭鉱閉山に伴い人口が激減していた。手を組むはずであった北十勝線も頓挫し、白糠線は新線延長はおろか既開業線の存続すら危うい状況に陥った。結局、北進延長を果たした1972年に、以北への延長工事の中止が決定した。過疎化に加えて自家用車の普及もあり、白糠線利用客数は1969年(昭和44年)度の年間15万2000人を最高に年々低下の一途をたどるようになった。1978年(昭和53年)には白糠 - 上茶路間の貨物輸送も廃止され、常に廃止対象路線にリストアップされていた。それでも当時の白糠町長の千葉清をはじめ沿線は、廃止に反対した上、本来の目的である足寄までの全線開通を願い、また上茶路坑跡地の炭鉱住宅を生かした「青少年旅行村」施策により夏場は賑わい臨時列車を出したほどであった。1980年(昭和55年)に国鉄再建法が成立すると、特定地方交通線の選定基準であった1977年(昭和52年)度から1979年(昭和54年)度までの輸送密度が123人/日しかなかった白糠線は、1981年(昭和56年)に第1次特定地方交通線に指定された。この時点での白糠線は、営業係数2,872(100円稼ぐのに2,872円かかる)という大赤字路線で、白糠町も特定地方交通線の廃止基準が決まった時点で「もう助からないと腹に決めた」と思ったという。当初は白糠町も廃止反対の立場であったが、その理由は「未成線である」という1点のみであった。また、同様に廃止問題を抱えていた自治体で構成されていた「北海道特定地方交通線関係市町村協議会」は、それまでは廃止反対という統一行動をとっていたが、1982年3月に「各線区ごとに地元の事情を勘案して検討」という方向性に切り替えた。白糠線は全線が白糠町内であり、複数の自治体を走る他線に比べ地元自治体からの了承取り付けは容易であったこと、ほぼ並行して国道392号が通っており、しかも集落は線路沿いよりも国道沿いにあったことなどの条件もあり、同年8月31日には白糠町議会でバス転換の方針を固め、7ヶ月の間に5回の協議を経た1983年3月には全会一致でバス転換に関する合意が成立した。なお、白糠線の建設当時に農地を提供した住民からは「たった10年余りで廃止になること」への不信感は強かったが、毎年赤字ワースト上位で新聞に載る路線だけに「鉄道とはこんなものだ」という諦めの気持ちも強かったために(同じ北海道の美幸線の様な)強硬な反対運動はなかったとみられている。どの報道メディアでも「廃止になっては死活問題」という地元住民の声は全くなく、それどころか「廃止になるので一度乗っておこう」という沿線住民が多かった。こうして、白糠線は1983年(昭和58年)10月22日限りで、特定地方交通線の先陣を切って廃止された。最終日は定期列車に増結が行われたほか、臨時列車も2往復運行され、そのうち1往復は10両編成という長大編成であった。開業から19年、上茶路 - 北進間が延伸開業してわずか11年後であった。また、1972年の延伸区間は「バス転換された特定地方交通線」としては最後の開業となった大隅線の延伸区間の1日前の開業であった。ほぼ平坦な地帯を屈曲しながら茶路川に沿って北上する路線で、茶路川を白糠 - 上茶路間では10回、上茶路 - 北進間では13回横断していた。支流まで合わせると、橋梁の数は白糠 - 上茶路間で41か所1,678メートル、上茶路 - 北進間は15か所1,568メートルとなっていた。またトンネルが鍜高トンネル(145メートル)と縫別トンネル(510メートル)の2か所あった。レールは30キログラムレールを使用し、最急勾配は16パーミル、最小曲線半径は300メートルであった。比較的建設年が新しいため、コンクリートで作られた橋梁が多かったのが特徴で、廃止から18年が経過した2001年時点でも多くの橋梁が残存していた。開業時は白糠 - 上茶路間に全線通しの列車が1日4往復運行されていたが、1972年の北進延長時に1往復減便され、それ以来全線通しの列車が1日3往復運行される体制が最終日まで続いた。車両の送り込みを兼ねた根室本線釧路駅方面からの乗り入れもあり、朝の運行に関しては釧路駅 - 根室駅間を走行していた急行「ノサップ」号に使用される急行型車両を間合い運用していた。白糠線の代替バスは、当時の道路運送法101条による特認を受けて、自家用バスによる有償乗合輸送で行われることになった。民間バス事業者ではなく町営バスとなった理由は、民間バス事業者では運賃や便数について住民の了承が得られる保証がない上、「いずれバスも廃止になる」という住民の不安を払拭するためと説明されている。しかしこれにより、国鉄再建法24条に基づくバス運営費補助が受けられないということになった。白糠町営バスは、白糠駅前に設置された町営バスターミナルと二股を国道392号経由で結び、途中停留所は28箇所が設定された。定員72名の大型ワンマンカー2両が導入され、町営バスターミナルやバスの車庫、バス発着道路、自転車置き場、運転士住宅などが整備された。初年度の町営バス欠損金の見込みは3200万円であったのに対して、1982年(昭和57年)度の白糠線の欠損額は2億3200万円であった。転換事業に要した総額は運営基金を含めて10億1300万6000円で、廃止路線1キロメートルあたり3000万円の転換交付金9億9300万円(33.1キロメートル×3000万円)が充てられて残りの2000万6000円が町費負担となった。運行開始当初は1日4往復であった。バスは、車内にトイレがなく鉄道より所要時間が長いという欠点はあるものの、バス停の数が多く集落の近くにバスが止まること、便数を増やしたことなどで、それなりに好評を得て、運行開始当初は国鉄時代に比べて運賃収入が20パーセントほど増加したとされる。2011年(平成23年)4月1日現在、平日3往復、土曜1往復、日曜運休である。全駅北海道白糠郡白糠町に所在。※仮乗降場には営業キロが設定されていなかった。括弧内に実キロを記す。

出典:wikipedia

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