纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯に広がる、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地と推定される。邪馬台国の中心地に比定する意見もあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km²になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km²(300万m²)に達する。地勢は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが巻向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。遺跡内出土遺物で最も古いものは、縄文時代後・晩期のものである。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片、あるいは土偶や深鉢などが遺跡内より出土しており、この地に縄文時代の集落が営まれていたと考えられている。遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみである。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出されている。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある。ただし年代推定には技術的に誤差が大きく、また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと古墳時代のものが見つかることが多いので、纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できないことに注意する必要がある。。自体が農業用の大型水路や無数の土坑の中には、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。奈良時代から平安時代にかけては、井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨書された土器も検出されている。遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定された。纒向遺跡は1937年(昭和12年)に土井実によって「太田遺跡」として『大和志』に紹介されたのが最初である。現在の名称で呼ばれるまでは「太田遺跡」・「勝山遺跡」として学界に知られており、小規模な遺跡群の1つとして研究者には認識され、特に注目を集めていなかった。しかし、炭鉱離職者の雇用促進のための県営住宅建設および小学校建設計画が持ち上がり、それを契機に1971年(昭和46年)より橿原考古学研究所によって事前調査が行われることとなった。その結果、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が検出され、地元の万葉研究者である吉岡義信らが『万葉集』に登場する「巻向川」の跡ではないかと述べたことから、注目を集めることとなった。川跡からは、吉備の楯築遺跡や都月坂遺跡で出土している特殊器台が出土した。その後も、橿原考古学研究所の石野博信と関川尚功を中心に発掘調査がなされ、様々な遺構や出土品が広範囲にわたり確認された。1977年(昭和52年)の第15次調査以降は、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り、現在も調査を継続しており、調査回数は100次を超えている。2008年(平成20年)12月段階でも、遺跡は全体の5%が発掘調査されたにすぎない。2009年(平成21年)にはいくつかの建物を検出し、纒向遺跡は柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになってきた。纒向遺跡発掘に携わった奈良県桜井市教育委員会は、遺跡の3世紀に掘られた穴「土坑」から桃のタネ約2,000個が見つかったと2010年(平成22年)に発表した。桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。また2011年(平成23年)には、この遺跡からマダイ、アジ、サバ、コイなど6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。動物もイノシシやシカ、カモの骨など千数百点が見つかったと発表した。これらは食料ではなく、供物であったと考えられている。唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、後世の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であり、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模である。また、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。また、地上では確認できない埋没古墳が地中に多数埋蔵されている可能性がある。日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている。木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには築造されていたことが判明している。以上の点から邪馬台国畿内説の有力候補地と見なされている。2013年になって、邪馬台国の時期の3世紀前半に建造されたと考えられる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられ、卑弥呼が年数会の祭祀に用いた建物の可能性が出ている。寺沢薫は、「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」の中で、纒向遺跡の特徴と特異性を6点挙げている。また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られており、さらに『記紀』では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したとの伝承が記載されている。寺沢はこのように述べた後、「このような考古学的・文献学的特徴をトータルに備えた巨大な集落は、3世紀の日本列島には他に存在しない」として、纒向遺跡こそ日本列島最初の王権「ヤマト王権」の都宮が置かれた都市(ヤマト王権の王都)であった可能性がきわめて高いと結論付けている。石野博信もまた、大和川につながる護岸工事の施された大溝や祭祀場が検出されたこと、また、近畿以外の諸地域からもたらされた土器が異常に多いこと、そして、これらの土器の構成から纒向には少なく見積もっても5人に1人はヤマト以外のクニグニからやってきた人々であろうと推定されることを論拠として、決して自然発生的なムラではなく、人工的に造られた政治都市であるとしている。また、次のような指摘も、纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都であるとの見解を補強している。遺跡内に所在する箸墓古墳は、一般的に、定型化した前方後円墳の始まりとして理解されている。一方で寺沢薫は、纒向石塚古墳など箸墓古墳に先立つ纒向古墳群に属する墳丘墓を「纒向型前方後円墳」の概念を用いて捉え、これらを出現期古墳に位置づけている。いずれにせよ、近年においては纒向遺跡一帯は前方後円墳発祥の地としてみなされることが多い。
出典:wikipedia
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