ニューヨーク・ヤンキース(、略称:"NYY")は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はニューヨーク州ニューヨーク・ブロンクスにあるヤンキー・スタジアム。ワールドシリーズ史上最多27回の制覇、出場40回を数えるMLB屈指の強豪球団である。優勝回数は2位のセントルイス・カージナルスが11回、更に出場回数もサンフランシスコ・ジャイアンツの20回と比べ、大きく引き離している。2014年に世界有数の経済誌『フォーブス』が公表したスポーツチームの資産価値では、ヤンキースはMLB首位の25億ドルと算出されており、世界のスポーツチームと比較してもレアル・マドリード、FCバルセロナ、ダラス・カウボーイズ、マンチェスター・ユナイテッドFC、ニューイングランド・ペイトリオッツに次ぐ6位である。規律が厳しい事でも知られており、長髪、無精ひげは厳禁である(整えられた口ひげは認められている。例:ランディ・ジョンソン、デビッド・ウェルズなど)。そのため、マニー・ラミレス(ロサンゼルス・ドジャース)がシーズン中にトレードを志願した際にもヤンキースは獲得に動かなかった。ジェイソン・ジアンビ、ジョニー・デイモン、ブライアン・マッキャンらも、ヤンキース入りに際してトレードマークだった長髪もしくは髭を剃った。ベーブ・ルースから始まり、最近ではロジャー・クレメンスやジョニー・デイモンに至るまでボストン・レッドソックスとは選手を絡んだ因縁も深くライバル関係にあり、特に両チームのファン同士は犬猿の仲で知られる。日本においては、まず伊良部秀輝が加入したことで話題になった。その後、に読売ジャイアンツから松井秀喜が移籍して再び話題になった。この年に読売ジャイアンツとの業務提携を結んでいる。読売ジャイアンツの前には日本ハムファイターズと業務提携をしていた。には井川慶がポスティングシステム(入札制度)により5年契約を結んだが、不振により入団2年目の途中にメジャー契約を解除された。ヤンキー・スタジアムでの試合終了後はフランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」のレコードが放送されるのが恒例である。球団歌は "Here Come the Yankees" (1967年)、作曲はボブ・バンディン及びルー・ストールマン。ただし球場で一番良くかかっている曲は前述の「ニューヨーク・ニューヨーク」である。球団創設以来、一貫してホーム・ビジター両方のユニフォームで、背番号の上に選手名を付けたことがない(現在はボストン・レッドソックス等の一部の球団では、ホーム用のユニフォームでは背番号の上に選手名を付けないチームがあるが、ビジター用のユニフォームでは選手名を背番号の上に付けているチームが殆どである。ただし、ヤンキースでもファン向けのオフィシャルグッズとして発売しているレプリカのユニフォームやTシャツ等には背番号の上に選手名が記載されている物が発売されている)。また、ユニフォームの正面の番号(いわゆる『胸番号』と呼ばれるもの)も、球団創設以来ユニフォームに付けたことはない。のシーズン終了後、アメリカンリーグが再び組織され、会長のバン・ジョンソンを中心として同リーグを新たなメジャーリーグとする旨の宣言がなされた。従来はマイナーリーグであった(まではウエスタンリーグと呼ばれていた)ア・リーグは、既存の5チームに加えて、東海岸に3チームを加えた。この3チームのうちの一つをジョンソン会長及びア・リーグはニューヨークに置く事を意図していたが、ナショナルリーグのニューヨーク・ジャイアンツのオーナーがタマニー・ホール(注:民主党の派閥組織)とのコネを持っていたことから、政治的妨害の憂き目にあった。よって、代替案として新加入地区の一つは前年にナ・リーグのチームを失っていたメリーランド州ボルチモアに決定される。この時に創設されたボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズとは無関係)がヤンキースの起源である。ヤンキースがにオリオールズとして活動を始めた当初の監督はジョン・マグローであった。リーグ会長のバン・ジョンソンはフィールド上のラフプレーに対して厳格なルールを押し付けたが、これに反抗したマグローはのシーズン半ばにリーグを鞍替えし、ジャイアンツの監督となった。その一週間後に、ジャイアンツのオーナーはオリオールズの支配権を取得し、オリオールズ選手の大量引抜を敢行。この強引な行動に対しア・リーグ機構側は即座にオリオールズの支配権を取り戻し、更にニューヨークへのチーム移転の意欲を未だに失っていない事を表明した。ア・リーグとナ・リーグ間の闘争に巻き込まれた形となったオリオールズ(ヤンキース)だが、に両者は「平和会議」を開催。選手との契約を巡る紛争を調停し、将来の協調を約した。また、ナ・リーグは、リーグの中心的な球団にならないとの条件付きで、ニューヨークにフランチャイズを置くことにも同意した。これにより、オリオールズは念願のニューヨーク移転を果たす。新オーナーのフランク・ファレルとウイリアム・デヴァリの最初の仕事は、ジャイアンツの妨害のない地域に球場設置場所を置く事であった。この両者は市政やギャンブル業界に強いコネを持っており、ファレルはカジノや複数の賭博場を有している一方、デヴァリはニューヨーク市警の警察署長であったが、1902年初頭に汚職が発覚して追放されたばかりであった。ニューヨークにおける最初の本拠地は、マンハッタン島の最高地点に程近い165番通りと ブロードウェイの角に置かれた。これにちなんで、チームはニューヨーク・ハイランダーズに改称し、球場名もヒルトップ・パークと呼称された。なお、現在この球場の跡地にはコロンビア・プレスビタリアン病院が建っており、ヤンキースの選手が怪我をした際に訪れるケースが多い(に松井秀喜選手がヤンキー・スタジアムでの試合中に左手首を骨折した際もこの病院に運ばれた)。ハイランダーズはリーグ2位にとの2回なったものの、最初の15年間のほとんどは最下位が定位置であった。球団運営上の問題点や、ハル・チェース一塁手らによる八百長の噂などがチーム状態を悪くしていった。ハイランダーズにとっての最大のチャンスは1904年シーズンに訪れた。全体的に好調な一年を送っていたが、ジャイアンツのオーナーは、もしハイランダーズみたいな “マイナー級” のチームがワールドシリーズに進出してきたら、試合を拒否する、と明言。結局優勝は最終戦に持ち込まれ、対戦相手はボストン・アメリカンズ(1908年にレッドソックスと改名)であったが、ハイランダーズの投手ジャック・チェスブロのサヨナラ暴投によりアメリカンズが優勝。しかし、それでもジャイアンツは試合を拒否し、その年のワールドシリーズ開催は中止された。ワールドシリーズが行われなかったのはこの年とストライキによる影響の1994年の2回のみである。しかし、この時のメディアによる辛辣な批判を浴びたジャイアンツのオーナーはワールドシリーズ制度の枠組み作りに精力的に動く事になる。なお、この試合以後100年間に及びレッドソックスがリーグ優勝を決める試合でヤンキースに勝つ事はなかった。にジャイアンツのホーム球場ポロ・グラウンズが火事で再建している際、ハイランダーズがヒルトップ・パークを貸し出した事により両者の間で和解ムードが生まれ始める。また、ハイランダーズはその縁もありホーム球場をに同じポロ・グラウンズに移転した。1900年代初頭から次第にボストンの “アメリカンズ” に対して “ヤンキース” という愛称が広まりつつあった。新聞王ハーストのニューヨーク・イブニング・ジャーナルでも4月14日の見出しに “ヤンキースがボストンを破る” とするなど、使用頻度も高まっており次第に定着していった。結局1913年にチームがホーム球場をポロ・グラウンズに移転し、“ハイランダーズ (Highlanders)” としての正当性がなくなった事から、“ニューヨーク・ヤンキース”と正式に名称変更を行った。1910年代半ばに、オーナーであるファーレルとデヴァリは、不仲となっており、加えて両者とも資金不足に陥っていた。よって、初頭に、球団はジェイコブ・ルパート大佐とティリンゴースト・ヒューストン司令官に売却された。ルパートはルパート醸造所の財産の相続人で、タマリーホールともかねてから関係があり、8年間連邦議員を務めていたルパートは後に「45万ドルで、際立った才能を持つ選手も無く、さして評価もされていない、おまけに自前の球場すらない孤児の球団を買ったよ」と述懐している。しかし、カネと意欲を持つオーナーと巡り合った事で、ヤンキースはルパートが予想だにしていなかった快進撃を始める事になる。買収後の数年間に渡って、新オーナーは選手の報酬総額を高くしていった。そして皮肉な事に、後にチームの成功に貢献することとなる新規獲得選手はボストン・レッドソックス出身であった。当時レッドソックスのオーナーは劇場興行主のハリー・フレイジーであったが、彼はチームをローンで購入したため支払いに窮しており、更にはブロードウェイのショーの制作まで行っていたため手っ取り早い収入を得る事が重要だった。からまで、ヤンキースはレッドソックスから、投手ではウェイト・ホイト、カール・メイズ、ハーブ・ペノック、捕手のウォリー・シャン、遊撃手のエヴァレット・スコット、三塁手のジョー・ドュガンを獲得した。しかしながら、最大の獲得選手は1月に入団し、投手から野手に転じたベーブ・ルースである。野球界で最高額の年俸を貰っていたのにも関わらず更なる増額を要求していた彼に払えるだけのお金をレッドソックス側は用意しておらず、ルースが前年に当時の年間最多本塁打記録(29本)を更新していたのにもかかわらずヤンキースへと放出した。彼の獲得費用は、12万5千ドルの金銭とレッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークが抵当に付された借金の30万ドルであった。この時レッドソックス側はヤンキースに有名選手を放出する事により、良きライバルとして互いの興行収入を上げようとの狙いもあった。しかし、ルースを放出して以後84年間に及びレッドソックスがワールドシリーズで勝つ事は無かった(バンビーノの呪い参照)。この時期におけるその他の重要な新加入者は、ミラー・ハギンス監督と、GMのエド・バローである。ハギンス監督は、に、ヒューストンがヨーロッパに出征中にルパートによって雇われた(これをきっかけに、両オーナーの間の溝が深まり、結局にルパートはヒューストンの持分を買い取り、オーナー職から追い出す事となる)。バローは、のシーズン終了後GMに就任した。彼は1918年からレッドソックスの監督をしていた人物である。バローは、GM兼球団代表をその後25年間務め、その期間のチームの成功に貢献した。とりわけ特筆されるのは、ジョージ・ワイスとともにヤンキースのファーム制度の整備に大きく寄与したことである。ルースによって放たれたホームランにより野球人気が大衆の間にも浸透し、おまけにヤンキースは地主のジャイアンツのファンをも引き付け始めた。に、ヤンキースはのシーズン終了後までには当時間借りしていたポロ・グラウンズからの移転を半ば強制的に勧められた。ジャイアンツのマグロー監督は「彼らはどっか遠い所に行ってしまった方がいい、クイーンズ区とか」と述べたが、皮肉にもヤンキースの新球場はポロ・グラウンズからハーレム川を挟んで反対側の土地に建設された。に、ブロンクス161番とリバー通りの角にヤンキー・スタジアムが完成。地下鉄の駅がライト後方にあったのが直接の決め手だったと言われている。当時としては最先端のセメント工法で建てられた史上初の3階建て球場で、収容人員は驚異の5万8千人であった。まさに、「ルースが建てた家」と呼ばれるのにふさわしい威容である。スタジアムでのこけら落としとなる第1戦でルースは見事に本塁打を打ち、貫禄を見せ付けた。なお、このシーズンにルースが記録した打率.393は今でもヤンキースのチーム記録である。同じニューヨークの球団ということで、ジャイアンツとヤンキースのライバル関係は熾烈だった。興味深いことのひとつが対照的なプレースタイルである。当時のジャイアンツの監督は「リトルナポレオン」の綽名を持ったジョン・マグローであり、ヒットエンドラン、盗塁を多用し、走塁の徹底、守備位置の精微な研究といった、緻密な作戦や足を重視したいわゆるスモールボールがジャイアンツの特徴だった。対してヤンキースは、ベーブ・ルースが質量ともに誰にも真似できないホームランを連発し、ビッグボールが一つのセールスポイントとなった。1920年のポロ・グラウンドの年間観客動員を見ると、ジャイアンツは約95万人、ヤンキースは約135万人と当時のファンはビッグボールに興味を示し始めたともいえる。からまで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズでは3回優勝した。1921年からを通じて、ワールドシリーズでジャイアンツと相まみえ、1度目、2度目は敗れたが、1923年には雪辱を果たした。この時に相手側にいたケーシー・ステンゲル監督は後にヤンキース監督に就任し、数々の優勝をもたらす事になる。のチームは、余りにも豪華メンバーで、「殺人打線」("Murderer's Row")として知られ、しばしば野球史上最強のチームに挙げられる(もっとも、やのメンバーについても強力なため、同様に史上最強と呼ばれることもある)。当時のア・リーグ記録である110勝44敗という好成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでも4連勝で危なげなく優勝。1927年のルースのシーズン本塁打60本は、アメリカンリーグの他の全球団の合計本数を上回り、その後34年間に渡って最高記録であった。また、ルー・ゲーリッグ一塁手も大ブレークを遂げ、打率.373に47本塁打を打った。主にルースが3番、ゲーリッグが4番を打っていたが、その後に控える打者も中々の強打者であった。ボブ・ミューゼル外野手は打率.337に103打点、トニー・ラゼリも打率.309、18本塁打(リーグ3位)102打点を記録。この打線の特徴は単なる重量打線だっただけでなく、スピードも大きな武器で、ミューゼルは24盗塁、ラゼリも22盗塁を挙げる。一番打者のアール・コームスは打率.356を記録し、231安打はにドン・マッティングリーが破るまでチーム記録であった。のヤンキースチーム打率は.307だった。には再びア・リーグ優勝チームとして返り咲き、セントルイス・カージナルス相手のワールドシリーズで4連勝し、制覇。ルースの16打席10安打の打率.625はワールドシリーズ記録であり、そのうちの3本は本塁打であった。ゲーリッグも負けじと11打数6安打に4本塁打を記録。その後もフィラデルフィア・アスレチックスと優勝争いを繰り広げ、にワールドシリーズに出場。この時の相手のシカゴ・カブスも4連勝で退け、ワールドシリーズでの連勝記録を12に伸ばした。これはワールドシリーズでヤンキースが再び記録更新するまでのMLB記録であった。この1932年のワールドシリーズで、ルースがリグレー・フィールドで有名な予告ホームランを打っている。ハギンス監督が急死した後に就任したジョー・マッカーシー監督の下、ヤンキースは新たに進化を遂げた。サンフランシスコ・ベイエリア出身の若い中堅手ジョー・ディマジオの登場はチームにとってのポスト・ルースとも言える存在であった。ディマジオはルーキー年のに打率.323、29本塁打125打点を記録し、強烈なインパクトを残した形でのデビューだった。ディマジオの他にもゲーリッグ、レッド・ロルフらに代表されるような強打者と並びにレッド・ラフィングやレフティ・ゴメスといった強力な投手陣とそれを支える女房役ビル・ディッキーらの活躍でヤンキースはからにかけてワールドシリーズ4連覇を達成。の優勝は筋萎縮性側索硬化症と診断されたゲーリッグをほぼ欠いた状態で得たものだった。この時のヤンキースの最大のライバルはデトロイト・タイガースであった。タイガースはヤンキースの4連覇前の2年間優勝してヤンキースのワールドシリーズ出場を阻止しており、また、5連覇を阻んだのも彼らであった。しかし、ヤンキースはワールドシリーズに出てさえしまえば強かった。のワールドシリーズでのジャイアンツとの試合では18-4で下し、同一チームによる最多得点記録(2005年まで)を成し遂げた。そのシリーズでは4勝2敗で勝ち取り、翌年も4勝1敗。さらに、のシカゴ・カブス、のシンシナティ・レッズとの対戦ではいずれも4連勝でワールドシリーズを勝ち抜けた。1950年代、ケーシー・ステンゲル監督の下では、マッカーシー時代のチームを凌駕する成績を収めた。ステンゲル監督は、就任後5年間の1949年から1953年にかけて強力打線でワールドシリーズ5連覇を達成した。同監督は、通算12年間でリーグ優勝10回、ワールドシリーズ優勝7回の成績であった。主力選手は、捕手のヨギ・ベラ、外野手のミッキー・マントル、投手のホワイティ・フォードであったが、マッカーシー時代の有名選手を取り揃えたチームとは異なって、1950年代のヤンキースの成功はステンゲル監督の十人並みの選手の能力を最大限に引き出す巧みな選手起用法に負うところが大きかった。 そのステンゲル監督も、のパイレーツとのワールドシリーズで最終戦の最終回にビル・マゼロスキーに本塁打を打たれてサヨナラ負けを喫すると、この場面でフォードを起用しなかったことに批判が集中し、その責任を取り辞任した。シーズン終了後、CBSが、ダン・トッピングとデル・ウェッブから1120万ドルでヤンキースを買収した。トッピングとウェッブは20年間に渡り球団のオーナーを務めたが、ワールドシリーズ出場を逸したのはたった5度であり、同シリーズでは10勝5敗の成績を残している。しかし、CBSがオーナーとなった以降、ヤンキースは冬の時代を迎えた。ジャッキー・ロビンソン以降各球団が黒人に門戸を開き始めるもヤンキースは黒人登録をためらっていた。それが災いしたのかにはリーグ最下位にまで転落するなどヤンキースは大きく弱体化し、下位に甘んじることになってしまった。1970年代には、ビリー・マーチン監督の時に、ジョージ・スタインブレナーらが1月3日にCBSから1000万ドルで球団を買収。老朽化したヤンキー・スタジアムを改装し、マーチン監督の解雇と雇用を何度も繰り返した。スタインブレナーとマーチンの関係は愛憎入り混じって複雑なものがあり、複数回の解任→就任も、チーム成績の浮沈に関わらないところが大きい。オークランド・アスレチックスからスター選手のレジー・ジャクソンを獲得したが、これもまたマーチンとジャクソンが反目しあい、喧嘩も日常茶飯事という状況。地元マスコミはこれを「ブロンクス・ズー(まるでベンチは動物園のようだ)」と、報じている。マーチンとスタインブレナーの確執と同じに、当時のチーム状況を特徴付けるものであった。1970年代後半のヤンキースの成績は、まさに一進一退という感じで、この時期のハイライトは、レジー・ジャクソンの放った1977年のワールドシリーズでの3打席連続本塁打(全て初球)であろう。1970年代後半には黄金時代の再来を予感させたが、1980年代に入ると長い低迷期を迎えてしまい、最下位争いをするチームに成り下がる。デーブ・ウィンフィールドなどフリーエージェント権を行使した大物選手に大金を投じるものの、結果は芳しくなく、を最後にワールドシリーズ出場からも遠ざかった。には、ヤンキースの投手アンディ・ホーキンスが、ホワイトソックス戦で被安打ゼロで敗戦投手となる珍事も起きた。ホーキンスはこの試合をずっと無安打で投げてきたが、8回に3人を歩かせた後、次打者のセンターへの当たりを中堅手がエラー。塁上の3人と打者走者が生還し0-4で敗戦するという内容であった。、オーナーのスタインブレナーがリーグより、オーナー停職の処分を受けたことから改善の兆しが現れ始めた。上層部からの妨害なしに首尾一貫した監督采配ができるようになるというのも一因であったが、この頃に就任したGMのジーン・マイケル(後にボブ・ワトソン)とバック・ショーウォルター監督の下、ヤンキースのチーム編成方針を、才能を買うことから、ファームで才能ある若手を育てるように変更した。にはその効果が現れ、選手のストライキで期間短縮されたシーズンではあったが、ヤンキースはアメリカンリーグ最高の成績を収めた。翌には、ワイルドカードにより以来となるプレーオフを勝ち上がった。シアトル・マリナーズとの記憶に残る対戦に敗れたが、選手達に自信をつけさせた。ショーウォルター監督はのシーズン後、オーナーやコーチ陣との確執から退団し、ジョー・トーリ監督に交代した。トーリはそれまでニューヨーク・メッツ、アトランタ・ブレーブスなど3つの球団で計15年間監督を務めながら、一度もプレーオフにすら出場したことがないということもあり、当初は時代遅れの人選であるとの嘲笑を受けた(あるタブロイド紙には「無知なジョー」との見出しが踊ったこともある)。しかし、トーリ監督の落ち着き払った手腕によりについにワールドシリーズに進出し、アトランタ・ブレーブスを第6戦で下して18年ぶりにヤンキースはワールドチャンピオンに返り咲いた。ボブ・ワトソンGMは、にワールドシリーズの連続出場を逃すと退任し、ブライアン・キャッシュマンがGMに就任した。しかしながら、トーリ監督とキャッシュマンGM体制は、基本的には、前任者のマイケル、ワトソン及びショウォルターらの築いてきた基礎によって勝利を獲得したものであり、中でも、デレク・ジーター、アンディ・ペティット、ホルヘ・ポサダ、マリアーノ・リベラやバーニー・ウイリアムスら、ヤンキース傘下のファームで育った生え抜き選手の成長に負うところが大きかった。また、加えてヤンキースは財政面での有利さを生かして、1990年代にも何度も大規模な選手補強を敢行した。ただ、大物選手もいることはいるが、身の丈に合った選手の獲得が主なもので、ポール・オニール、デビッド・コーン、ティノ・マルティネス、デビッド・ウェルズ、大物選手ではウェイド・ボッグスやロジャー・クレメンスらを獲得している。からの間、1970年代初頭のオークランド・アスレチックス以来のワールドシリーズ3連覇を達成した。1998年とにはそれぞれサンディエゴ・パドレスとブレーブスを下し、2000年には同じ市にあるニューヨーク・メッツと以来となる「サブウェイ・シリーズ」で対戦し、4勝1敗でこれを下した。9月11日の世界貿易センタービルのテロ事件の傷跡癒えない2001年10月、東地区でヤンキースはアスレチックスを3勝2敗で下し、リーグ優勝決定戦ではマリナーズを4勝1敗で破ったが、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのワールドシリーズでは第7戦でサヨナラ負けを喫し、ワールドチャンピオン4連覇を逃した。のワールドシリーズ敗退により、1990年代ヤンキースの栄華は終わり、主軸選手の引退やトレードが相次いだ。のプレーオフにはアナハイム・エンゼルスとの対戦でヤンキースは早々に敗退したことで、球団の運営方針は急速に変わり、フリーエージェントや大型トレードが行われ始める。は、松井秀喜がアジア人野手としては球団初のメジャー契約を交わし入団。ヤンキースは宿敵ボストン・レッドソックスをリーグ優勝決定戦の第7戦で辛うじて下した。乱闘スレスレの第3戦、そして退場劇が注目を集め、第7戦の11回裏にアーロン・ブーンのサヨナラ本塁打により幕を閉じた。しかし、ワールドシリーズではフロリダ・マーリンズに2勝4敗で敗れたためか大型補強の傾向は続き、ゲイリー・シェフィールド、ケニー・ロフトン外野手、ケビン・ブラウン、ハビアー・バスケス両投手らを獲得、2月にはアルフォンソ・ソリアーノらとのトレードでアレックス・ロドリゲスを獲得したが、レギュラーシーズンでは地区優勝するもリーグ優勝決定戦 (ALCS) で宿敵レッドソックスに3勝0敗からまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場はならなかった。も地区シリーズでロサンゼルス・エンゼルス、にはデトロイト・タイガースに敗れてしまった。他のどのチームよりもはるかに年俸が高く、そのパワーをもってヤンキースは13年連続でポストシーズン進出を果たしたものの、2001年から8年連続で世界一から遠ざかっていた。このため、90年代に成功した一因である、ファームでの若手育成も必要だという意見も出ている。そしても、5月29日時点でのレッドソックスとの最大14.5ゲーム差から6月の9連勝などもあって猛追、最終的には連続地区優勝は9年で止まり、ワイルドカードでのプレーオフ出場となったが、クリーブランド・インディアンスに敗れてしまい、3年連続の地区シリーズ敗退となった。シーズンからは、2007年シーズン限りで退団したジョー・トーリに代わり、ジョー・ジラルディが新監督に就任し、チームの指揮を執ることになった。4年連続プレーオフ敗退を受けて、オフにツインズのヨハン・サンタナ投手をトレードで獲得する可能性があったが、若手の放出を避けフロントはこれを見送るなどこれまでの補強路線を改め、選手の育成に力を入れた。しかし王建民やホルヘ・ポサダら主力選手の長期離脱やジャバ・チェンバレン、フィル・ヒューズ、イアン・ケネディら若手投手の不調・故障などもありチームは低迷、1995年以来続いていたポストシーズン進出がアトランタ・ブレーブスの14年連続に次ぐ史上2位の13年連続でストップした。迎えた2009年、2代目となる新ヤンキー・スタジアムが開場。前年にプレーオフ進出を逃した反省から、CC・サバシア、A.J.バーネット、マーク・テシェイラら各球団の一線級の選手を獲得するなど、総額4億ドル以上もの大補強を行った。また、世界のスポーツチームの平均年俸ランキングにおいて1位(約7.1億円)となった。シーズン序盤こそ勝率5割前後と苦戦が続いていたものの、5月に入る頃には低迷していた各選手の調子が上がり、一気に勝ち星を重ねた。特に新球場が打者有利ということもあり、打撃陣が好調で、20本塁打以上が7人、チームOPSは.839に及んだ。また投手陣も強力な打線の援護を受け、サバシアをはじめとする先発陣が一年を通してローテーションを守った。一塁守備ではMLB屈指のテシェイラの加入、守備範囲の向上したジーターの活躍により守備の安定感が増したのも大きかった。5月以降は91勝49敗という圧倒的な強さをみせ、最終的に103勝59敗と2位のレッドソックスに8ゲーム差をつける大差で地区優勝を果たした。ディビジョンシリーズではミネソタ・ツインズを3連勝で下すと勢いに乗り、リーグチャンピオンシップシリーズでは苦手のエンゼルスも4勝2敗で下した。ワールドシリーズでは前年チャンピオンのフィラデルフィア・フィリーズと対戦。1試合6打点のMLBタイ記録を含むシリーズ3本塁打・8打点を記録した松井秀喜の活躍もあり、4勝2敗でフィリーズを下し、9年ぶり27度目となるワールドチャンピオンに輝いた。2011年8月25日、アスレチックス戦でMLB史上初の1球団による1試合3満塁本塁打を記録。両チーム合わせて3満塁本塁打は1986年・1987年に1度ずつ記録している。内訳は、5回裏にロビンソン・カノ、6回裏にラッセル・マーティン、8回裏にカーティス・グランダーソン。試合は22-9でヤンキースが勝利した。地区優勝を果たし、ディビジョンシリーズに出場するも、中地区のデトロイト・タイガースに対し2勝3敗でリーグチャンピオンシップシリーズ出場を逃した。オフの、2012年1月13日、FAの黒田博樹を1年契約で獲得。同日、シアトル・マリナーズとのトレードで、ヘスス・モンテロとヘクター・ノエシを放出し、2011年の新人王候補にもなった、マイケル・ピネダを獲得した。7月23日、D・J・ミッチェル投手とダニー・ファーカー投手と移籍金のトレードで、イチローを獲得した。シーズンでは2009年のチーム記録を更新する245本塁打を放つなどし、概ね首位を維持していたが終盤に失速し、最終的に10月3日のシーズン最終戦のレッドソックス戦で地区優勝を果たした。ディビジョンシリーズではワイルドカードのボルチモア・オリオールズと対戦。3勝2敗でリーグチャンピオンシップシリーズ出場を果たしたが、デトロイト・タイガースに0勝4敗と全敗しワールドシリーズ出場を逃した。シーズンオフの12月14日にシカゴ・ホワイトソックスのケビン・ユーキリス、1月31日にクリーブランド・インディアンスのトラビス・ハフナーを獲得した。3月26日、エクシカルド・ケヨンズ、クレイマー・スニードとのトレードでバーノン・ウェルズを獲得。5月21日に、ヤンキースがサッカーのプレミアリーグのマンチェスター・シティーと共同出資して新チームを発足させ、からMLSに参入する事が発表された。チーム名はニューヨークシティFCで、ニューヨークに本拠地を置く予定である。シーズンではデレク・ジーターのほか、アレックス・ロドリゲス、マーク・テシェイラ、カーティス・グランダーソン、新戦力のケビン・ユーキリスら主力野手が怪我で離脱。チームは序盤好調だったが、5月下旬に首位を明け渡すと、夏以降低迷した。最後までワイルドカード進出を争ったが叶わず、2008年以来5年ぶりにプレーオフ進出を逃し、地区3位タイ(ボルチモア・オリオールズと同率)でシーズンを終えた。打者の離脱が響き、チームOPSはリーグ13位(.683)、本塁打は14位(144本)と打線が近年稀に見る低調だった。この年限りでマリアノ・リベラとアンディ・ペティットが引退。リベラの背番号「42」は永久欠番となった。1月22日、田中将大と7年総額1億5500万ドルの契約で合意した。5月8日、ジョー・トーリの背番号「6」を永久欠番に指定することを発表した。7月24日、ア・リーグ史上初となる通算10000勝を達成した。しかしチームは低迷、1993年以来21年ぶりに2年連続でプレーオフ進出を逃した。そして、この年限りでデレク・ジーターが引退した。2月16日、アンディ・ペティットの背番号「46」、ホルヘ・ポサダの背番号「20」、バーニー・ウィリアムスの背番号「51」を永久欠番に指定することを発表した。シーズンオフの12月17日にスターリン・カストロを7年ぶりにポストシーズンに進出し、リーグ優勝決定シリーズまで勝ち進んだシカゴ・カブスとのトレードで、12月28日にシンシナティ・レッズとのトレードで、アロルディス・チャップマンを獲得したしたものの、FAでの獲得ではない為2015年冬の移籍市場でメジャー30球団では唯一そして球団史上初めてFA選手を誰一人獲得しなかった。そしてシーズンが始まるとトレード期限となる8月1日時点ではまだ首位と6.5ゲームと少なくともワイルドカード争いに入った頃に、4選手を一気に放出する事になった。まず7月25日にレッズからトレードした筈のチャップマンがわずか7ヶ月でナショナルリーグ中部地区首位を走るカブスに放出したのに続き、7月31日に去年は36セーブと抑えを務め、チャップマンの前に当たるセットアップマンを務めたアンドリュー・ミラーがアメリカンリーグ中部地区首位を走るクリーブランド・インディアンズに移籍と勝利の方程式を担うベタンセスからバトンを引き継ぐはずの後ろ2人を失う。そして8月12日に現役通算696ホームランを記録したアレックス・ロドリゲスがシーズン途中で突然の引退。同月1日には先発ピッチャーで当時チーム2位タイの7勝を挙げていたイバン・ノバがピッツバーグ・パイレーツに、そして田中と同じタイミングで入団しここまで打撃陣を引っ張っていたカルロス・ベルトランがアメリカンリーグ西部地区首位を走るテキサス・レンジャーズに移籍と、1週間で4人の主力を他地区の上位チームに一気に奪われてしまったのが致命傷となり、優勝争いから脱落。ゲーリー・サンチェス、アーロン・ジャッジ、タイラー・オースティンのルーキートリオからなるベイビーボンバーズの台頭、開幕当初は右ひじの不安がありながらもチーム最長の199回と3分の2を投げた田中の頑張りも空しく僅かながらに残ったワイルドカード争いも過去2シーズンの東部地区優勝チーム(一昨年のオリオールズ、昨年のブルージェイズ)の後塵を拝する形で脱落していった。またノバ以外に移籍した選手がそれぞれ地区優勝を果たすという皮肉まで生じた。番号、選手、ポジション、欠番となった年2015年現在で22人(8番と42番は永久欠番選手が2人いるので合計で20の番号。ただし、ジャッキー・ロビンソン(42番)はヤンキースでの在籍経験はない)の背番号が永久欠番となっており、これはMLBで最多である。また、デレク・ジーターの着けていた「2」も永久欠番になることがほぼ確定的なので、一桁の背番号が全て永久欠番に事実上なっており、ヤンキースに在籍している選手・監督・コーチは現在一桁の背番号をヤンキースで着けることはできない。400試合以上、もしくはポストシーズン進出1度以上の監督のみ記載。PSはポストシーズン進出、WSはワールドシリーズ制覇。同一年で複数の監督が指揮を執った場合は全て記載。(数字は2015年シーズン終了現在)ヤンキースにおけるチームキャプテンは名誉職である。Yankeeとは米国人の俗称で、特にニューイングランド周辺の米国人が好んで使う。そして Yankeesは、オランダ語で「あいつら」を意味するJan Keesが語源だといわれている。この言葉はニューヨークを開拓したオランダ人が英国人に対して指していた一種の蔑称であったが、今日に至ってはそのニュアンスはない。ロゴはニューヨーク市警の名誉勲章が元となっている。これをデザインしたのは、アクセサリー等で有名なティファニーである。
出典:wikipedia
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