ヤマハ株式会社()は、楽器・半導体・音響機器(オーディオ&ビジュアル)・スポーツ用品・自動車部品製造発売を手がける日本のメーカーであり、日経平均株価の構成銘柄の一つ。1969年にはピアノ生産台数で世界一となり、販売額ベースでは世界シェア1位の32%を占めるほか、ハーモニカやリコーダー、ピアニカといった学校教材用楽器からエレクトリックギターやドラム、ヴァイオリン、チェロ、トランペット、サクソフォーンなど100種類以上もの多岐に渡る楽器を生産するなど、世界最大の総合楽器メーカーであり業界の盟主でもある。大手二輪メーカーであるヤマハ発動機は二輪製造部門が独立して設立されたものである。明治時代の創業以来の事業であるピアノ製造をはじめとする伝統的な楽器事業は国内トップブランドでピアノ生産量では世界シェア1位。楽器は機械的な面での質の良さから、海外においても非常に知名度のあるブランドとなっている。1897年(明治30年)に日本楽器製造株式会社(ニチガク)として発足し、ヤマハ・YAMAHAのブランド名で展開し、創業90周年に当たる1987年(昭和62年)に社名をヤマハに改称した。1960年代からエレクトーン、電子ピアノ等の電子楽器の開発製造をおこなっており、電子的な音源の開発ではMIDI規格等において規格制定企業となるなど高い技術力を持つ。これらの電子機器の開発から得られた技術力を活かし、半導体等の電子部品、ルーター等のネットワーク機器、オーディオ機器等の製造を行うAV・IT事業でも知られる。これらの楽器製造から派生した事業として、ピアノの木工加工、塗装等のノウハウを活かし、高級車用の木工パネル製造等の自動車部品事業、楽器の普及のための事業から発展した音楽教室や楽譜・楽曲データ類の出版・ダウンロード販売・アーティストの発掘やそれに付随する音楽出版等の音楽関連事業、音楽をはじめとして生活に彩りを与えるものとして手がけられたリゾート施設等のレクリエーション事業、ゴルフクラブを製造するゴルフ・スポーツ用品事業などを本社及び関連会社で行っている。二輪車製造大手のヤマハ発動機は1955年(昭和30年)に日本楽器の二輪製造部門が独立して設立されたものである。2006年(平成18年)時点においてはブランド名を共通とする関連会社である。ヤマハの前身である日本楽器製造株式会社が設立した翌年の1898年(明治31年)、社章として「3本の音叉を交叉させたマーク」(音叉マーク)が定められた。
この3本の音叉には、次のような意味が込められている。社章の制定と同時に、商標として「音叉をくわえた鳳凰」が定められた。以後、企業の成長とともにこの音叉マークも様々な形を経て、1967年(昭和42年)に統一された。この音叉マークの統一にあわせ、音叉マークとヤマハロゴを組み合わせた「ヤマハロゴマーク」が制定された(ロゴタイプは大文字英字でYAMAHA)。
なお、現在使われているロゴマークは1998年(平成10年)11月にマイナーチェンジされたものである。これには、外円と音叉が黒地に白抜きで表現される「標準形」と、外円と音叉が白地に黒で表現される「特殊形」の2種類がある。
また、日本楽器製造時代には、ヤマハ発動機と共通のカタカナ表記の「ヤマハ」ロゴも使われたが、日本企業各社でCIが盛んであった1987年(昭和62年)の社名改称時にカタカナロゴは廃止された。1955年(昭和30年)、日本楽器製造から二輪製造部門が独立・分離する形でヤマハ発動機株式会社が設立された。それ以降、現在においてもヤマハとヤマハ発動機は関連会社とはいえ完全に別会社であるが、音叉マークやロゴマークはヤマハ発動機設立当時に日本楽器製造から引き継がれ、現在も使用している。
ただし、見た目はほぼ同じ図案であるが、両者には細部に下記のような違いがある。ヤマハの源流は1887年(明治20年)、山葉寅楠が浜松尋常小学校(現:元城小学校)でオルガンを修理したことがきっかけで、1888年(明治21年)に浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功したことに始まる。寅楠は1889年(明治22年)に合資会社山葉風琴製造所を設立(「風琴」ふうきん、というのはオルガンのこと)。1891年(明治24年)には出資引き揚げにより一旦は会社を解散するが、河合喜三郎と共同で山葉楽器製造所を設立した。1897年(明治30年)10月に日本楽器製造株式会社に改組した。当時の資本金は10万円であった。1916年(大正5年)の寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸が就任し、ピアノ製造は一族の山葉直吉らがあたった。1921年(大正10年)には陸軍の要請により、軍用航空機用の木製プロペラの製造を、1931年には金属製プロペラの製造を開始し、プロペラの実験用からエンジンも製作した。これは後のヤマハ発動機に至る事業となる。同年8月には西川楽器(西川オルガン)を合併。西川オルガンは1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会でもヤマハに次ぐ2等賞を得るなど評価が高く、合併後も「Nishikawa」のブランドで製造が続けられていた。この1921年(大正10年)には家具の製作が開始されている。1926年4月には大規模な労働争議が発生。社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動にまで至ってしまう。このことが原因となり翌1927年(昭和2年)には天野が辞任。後任に住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。1930年(昭和5年)に釧路工場を大日本人造肥料へ売却し負債を整理し、嘉市は住友財閥の支援も受け、経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、その後に続く「非オーナーでありながら経営者の世襲」という問題を生じた川上親子3代の経営の始まりでもあった。経営の好転後、1935年(昭和10年)にはヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作、1937年(昭和12年)に管楽器製造をしていた日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化、総合楽器製造企業へ成長しつつあった。しかし時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、1938年(昭和13年)には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産を行い大工場になる。1944年(昭和19年)11月には楽器類の生産は完全休止、1945年7月にはイギリスの戦艦キング・ジョージ5世の艦砲射撃で浜松の工場が全壊するなどの被害を受け終戦を迎えた。終戦後わずか2か月後の1945年(昭和20年)10月にはハーモニカ、シロフォンの製造を再開、1947年(昭和22年)4月にはピアノ製造の再開を果たした。1949年(昭和24年)5月に東京証券取引所第1部に上場。1950年(昭和25年)に嘉市の息子である川上源一が38歳で第4代社長に就任。源一は伝統の楽器事業を充実させるとともに、技術の応用による多角化、また戦後の経済復興とともに音楽をはじめとする生活に彩りを加えるという分野での事業の多角化を図った。源一のかけ声は「日本にエピキュロスを」であったという。日本の狭い住宅環境でも鍵盤楽器に親しめるようにとの考えから1959年(昭和34年)12月にエレクトーンD-1を開発、同時にヤマハオルガン教室(現在のヤマハ音楽教室)を開設。またピアノ、エレクトーンの販売のために割賦会社・ヤマハクレジットを設立。1965年(昭和40年)に管楽器、打楽器の製造を開始。1966年(昭和41年)に財団法人ヤマハ音楽振興会を発足し、1967年(昭和42年)には第1回全日本LMC(ライトミュージックコンテスト)、1969年(昭和44年)11月には第1回作曲コンクール(後のポプコン/POPCON)を開催するなど、手軽に購入できる楽器と音楽教室、コンクール開催で『趣味としての音楽演奏』の普及を図った。1970年(昭和45年)には日本管楽器を吸収合併するなど、1960年代には、グランドピアノから管楽器、打楽器、弦楽器まで幅広く製造する総合楽器メーカーとしての基礎を固めた。一方、楽器以外の分野では、1954年(昭和29年)にヤマハ・YA-1(愛称は赤トンボ)の製造を開始、1955年(昭和30年)7月には二輪車部門を独立しヤマハ発動機株式会社とした。初のスポーツ用品となるアーチェリーは1959年(昭和34年)に開発している。このアーチェリーの素材であるFRP(繊維強化プラスチック)の開発は、1961年(昭和36年)のスキー板、住宅用浴槽の発売へとつながった。1975年(昭和50年)には高級家具の製造を開始している。1964年(昭和39年)に鳥羽国際ホテルをオープンしレクリエーション(リゾート)事業に参入。以降1967年(昭和42年)に三重県志摩市に合歓の郷、1974年(昭和49年)に静岡県掛川市につま恋、1978年(昭和53年)に袋井市に大正モダン風の葛城北の丸、1979年(昭和54年)に沖縄県竹富町小浜島にはいむるぶしをオープンした。源一の余暇産業への多角化を図るという経営方針は1960年代から1970年代の20年間の日本の余暇産業の成長と合致し、ヤマハの経営は右肩上がりの成長を続けていた。地元浜松でのヤマハの評判は大きなものであり、同じく地元企業であるスズキの鈴木修(後のスズキ社長)が昭和30年代の新入社員のころ、飲み屋で「つけといてくれ。スズキの社員だ」と言うと「日本楽器(製造)さんならいいけど」と断られたという。源一はこの成功により「ヤマハ中興の祖」と言われたが、同時にその強い性格とともにワンマン経営の傾向も指摘されるようになっていった。1977年(昭和52年)1月には『足元の明るいうちにグッドバイ』の名台詞を残し第5代社長を河島博に譲るが、意見の対立から僅か3年後の1980年(昭和55年)6月には第6代社長に復帰している。エレクトーンの核となるトランジスタ(当初は日本電気(現:ルネサスエレクトロニクス)との共同開発)で得たノウハウから電子技術が発展し、1971年(昭和46年)に初のIC生産を開始、1970年代から1980年代前半にかけて、音楽ミキサーやエレクトーン、電子ピアノ等の電子楽器の開発を進めた。1981年(昭和56年)にローランドなどの他5社と共同でMIDI規格をまとめる。この規格を取り入れた1983年(昭和58年)5月に発売されたデジタルシンセサイザーDX7はアイドル自身が演奏する「バンドブーム」と重なりヒット商品となった。1983年(昭和58年)10月にはMSX規格のパソコンを発売。1985年(昭和60年)のMSX2規格、1988年(昭和63年)のMSX2+規格、1990年(平成2年)のMSXturboR規格ではヤマハの開発したVDPやFM音源が採用されるなど、パーソナルコンピュータの分野で「音源チップのヤマハ」という地位を獲得した。電子部品の分野においても1984年(昭和59年)にはハードディスクに用いる薄膜磁気ヘッドの開発を開始。ハードディスクの普及にともない急成長していった。強い権力を誇った源一は1983年(昭和58年)に長男の川上浩を第7代社長に指名し自らは会長となったが、取締役会の招集権限は会長にあるなど院政の傾向があったと言われる。源一は、後に社長となる上島清介を社長としようとしたが上島は固辞。源一は「浩が武田勝頼になりはしないか。身内として非常に心配だ」と浩の社長就任の際に語ったという。浩は社長就任後に組織を21の事業部制に変更。創業90周年を迎えた1987年(昭和62年)には社名を日本楽器製造株式会社(ニチガク)から、山葉寅楠のオルガン修理から100周年を記念し、商標で知名度のあったヤマハ株式会社へ変更した。しかし、伝統的な楽器事業においてはピアノは1980年(昭和55年)、エレクトーンは1981年(昭和56年)に出荷台数がピークを迎えて以降、減少傾向が続いていた。新たな事業の柱を育てようとAV機器事業で従来の高級機から普及機への進出を図るなどしたが結果は残せなかった。半導体・電子部品事業も競争は激しく、楽器事業の余剰人員を吸収することはできなかった。時代としては1980年代後半のバブル期であり収益機会は多分にあるにもかかわらず社内的要因によって経営が立ち後れているという認識が社内に蔓延する一方で、キロロリゾートの開発に着手した。1991年(平成3年)に実施された希望退職制度『転進ライフプラン援助制度』には従業員の6%にあたる724名が応募し、会社側が予想する以上の人材流出を招いた。しかし、これに対し、浩は『停滞感のある職場から、どこか活気ある職場に移りたいという従業員にはそういう機会を与えた』とコメントし、1991年(平成3年)10月には中堅社員の96%が経営に危機感をもち、半数がモラル低下を感じるようになっていたという。ついに1992年(平成4年)2月には労働組合が浩に対し「出処進退申入書」を提出する事態となり、浩は社長退任を表明。上島清介が第8代社長となった。この川上家の経営からの退場劇は、ヤマハ音楽振興会などを巻き込み1年後まで混乱が続くこととなる。上島は社内組織を再構築するとともに、半導体・電子部品事業によって経営を立て直しを図るが、バブル崩壊による景気の後退からリゾート事業の不振、また音源チップが主力であった半導体も需要が急変するなど難しい舵取りとなった。半導体はその後ゲーム機や通信カラオケ機器に搭載されるなどし、電子部品は1995年(平成7年)にはハードディスク用薄膜ヘッドの世界シェアは25%となるなど成果を得ていたが、不安定な需要変動から安定した利益を得ることは難しかった。1997年(平成9年)6月には第9代社長に半導体・電子部品事業出身の石村和清が就任。長野オリンピック開催間際にスキー板・用品およびテニスラケットの製造とスキー実業団「ヤマハスキーチーム」を担っていたスポーツ事業部を廃止し、電子部品分野の事業強化を図ったが、1998年(平成10年)に増設した半導体工場をわずか1年後の1999年(平成11年)にはロームに売却。同年3月期は上場以来初の営業赤字に転落した。この不振からの脱出のため、2000年(平成12年)には稼ぎ頭だった磁気ヘッド製造事業も売却することとなった。レクリエーション事業は1993年(平成5年)に全面開業したキロロリゾートの会員制ゴルフ場・会員制リゾートホテルの会員権販売が不振に陥り、1995年(平成7年)にヤマハ北海道リゾート開発を解散し149億円の負債を整理するとともに支援を継続。2002年(平成14年)3月31日にはレクリエーション施設を管掌していたヤマハリゾート(旧社)を吸収合併し、不動産評価損で生じた129億円の債務超過をヤマハ本体が処理した。資本関係では2000年(平成12年)3月にヤマハ発動機の株式5%をトヨタ自動車に売却、さらにヤマハ発動機の間接的買収防衛策として、2007年5月にヤマハ発動機株式の7.8%を三井物産などに売却するとともに、ヤマハ発動機も2008年(平成20年)3月下旬までに市場を通じてヤマハ株式5%を取得し、両者で持ち合い関係を確立させることになっている。これらの事業の再構築が功を奏し、2002年(平成14年)以降は業績が回復。特に2004年(平成16年)以降では携帯電話の着メロ用の半導体の需要が堅調である。日本国内では着うたにシフトしつつあるが、中国等の成長市場においてはヤマハ製の音源チップ内蔵の携帯電話の需要が見込まれている。2000年(平成12年)4月に就任した第10代社長の伊藤修二は、今後の経営方針のキーワードを『音楽のヤマハ』・『大人市場』・『中国』としている。楽器レンタル、楽譜のオンライン販売、大人向け音楽教室の展開などにより大人の音楽市場をさらに開拓するとしている。また中国をはじめとするアジアの成長市場においてもピアノ市場は年間販売台数が15万台から20万台と見込まれており、2004年(平成16年)10月から杭州での現地生産を開始している。2005年(平成17年)10月には上海で音楽教室を開始している。2005年(平成17年)にはドイツの音楽ソフトウェア会社であるスタインバーグを買収、2008年(平成20年)にはオーストリアの老舗ピアノメーカー、ベーゼンドルファーを傘下に収めている。2009年(平成21年)3月期決算においては、世界金融危機を起因とした消費萎縮により大幅減益となり、連結での最終損失が206億円に膨らみ上がった。このため、国内の楽器製造工場を集約化(日本管楽器の流れをくむ埼玉工場を閉鎖し、豊岡工場へ移転させる等)させ、マグネシウム部品事業と住宅設備部門を売却により事業撤退するリストラを決定。住宅設備部門子会社のヤマハリビングテックは2010年(平成22年)3月中に株式持分85.1%が日本産業パートナーズと外資系投資ファンド3社に譲渡し、2013年(平成23年)10月1日にはMBOによりヤマハグループから離脱し、トクラスに変更した。2014年(平成26年)4月1日、会社分割により国内における楽器・音響機器の生産事業を子会社3社に承継した。1960年代以前は国内での同社製のピアノの認知度・シェアはトップであったが、海外では全く認知されていなかった。それは戦前のベヒシュタインから技術導入したピアノ製造方法を踏襲し、海外で主流となったスタインウェイとは音質や音量が異なっていたことによる。1960年代中期より、グランドピアノの研究対象をベヒシュタインからスタインウェイ・アンド・サンズに変更し、大ホールでの使用に適する豊かな音量と煌びやかな高音を持つことを目的としたフルコンサートピアノFCシリーズを開発したが、それでも十分な評価を得ることができなかった。このため、スタインウェイピアノをさらに徹底的に研究すると共に、イタリアより技術者タローネを招聘し、材質・加工製造方法・精度・強度・剛性等を改良し、フルコンサートピアノCFシリーズを開発した。また普及型グランドピアノにおいても、放射状支柱、及びコレクターを後框及び金属フレームに結合させ、アリコートを取り入れ、アクションをエルツ式としたCシリーズを投入した。さらに、ピアノの調律・整調・整音技術の研修のために村上輝久、松山乾次らをアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリやスヴャトスラフ・リヒテルのピアノ調律師として派遣し、コンサート前調律のノウハウや演奏家の要求を学び、コンサートチューナーとして信頼を得ると共に、その技術を国内にもフィードバックした。数年後、多くの一流のピアニストにCFシリーズを紹介する機会が訪れ、その後欧米においてもCFシリーズが次第に使われるようになった。晩年のグレン・グールドがCFシリーズを愛用するなど、その優秀性が認知され、現在では国際的なピアノコンクールにおいても、ヤマハはスタインウェイに次いで多く使用されるピアノとなっている。2010年には、新型フルコンサートピアノCFXを使用したユリアンナ・アヴデーエワが、第16回ショパン国際コンクールで優勝した。アップライトピアノについても、1970年代から研究対象をベヒシュタインからスタインウェイ、及びスタインウェイと同じ起源をもつドイツのグロトリアンとし、UXシリーズなどの高品質なピアノを生産した。しかし、国内のピアノ需要は少子化、生活スタイルの変化、住宅問題や騒音問題などにより1980年代初頭の年産20万台をピークに減少を続け、現在では輸出が有力となっている。海外では、精度や耐久性が優れたヤマハピアノの評価は高く、国内よりも高価格で流通している。また、国内で1970年代から1980年代に生産された多くの中古ヤマハピアノが輸出されている。技術面では、アコースティックに電子技術を結合し、高度な自動演奏や通信を持つディスクラビアシリーズやDGPシリーズを出荷している。また消音可能なサイレント仕様を多くのモデルに用意している。電子ピアノの分野でも、アコースティックピアノのアクションを電子ピアノに搭載したアバングランドシリーズやDGPシリーズを出荷している。そのデザイン力も高く評価されており、P-140シリーズは2005年のグッドデザイン賞を受賞している。バイオリン・ギター・ベースなど(サイレント楽器を含む)。エレクトリックギター及びエレクトリックベースはモデルライフが短い物が多く、定番となっているモデル以外は生産終了となるものが多い。近年は発売されている種類が大幅に整理されている。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は伝統的なウィーン式の管楽器を使用し、それが同楽団の音の特徴の一つにもなっているが、1970年代になると欧州では市場の限られたウィーン式の管楽器を製作する業者は深刻な後継者難に陥っていた。そこで、第一トランペット奏者のヴァルター・ジンガーが1973年のウィーン・フィル来日公演時にヤマハ銀座店を訪れてトランペットの製作を依頼したことをきっかけに、同楽団の奏者たちと伝統的なウィーン式の管楽器を共同開発するようになった。以降、ウィーン・フィルのオーボエ、ホルン、フルートなどはヤマハが制作している。特にミキシングコンソール、パワーアンプが知られている。また、デジタルエフェクトプロセッサーSPXシリーズ、モニタースピーカーNS-10Mシリーズは、業界標準となるまでになった。かつて、TDKからOEM供給でコンパクトカセット(カセットテープ)を発売していた。かつてはMSXやCD-RWドライブといったパソコン及び関連製品を製造していたが、現在は撤退している。1995年(平成7年)には世界シェアの25%を誇ったハードディスクの磁気ヘッドも2000年(平成12年)に撤退している。携帯電話用のSMAFフォーマット対応サウンド制御用LSI(ヤマハMAシリーズ。主に一部のau(KDDI/沖縄セルラー電話)およびSoftBank向け端末。ドコモ向け端末はNEC製の一部機種に限られる)AudioEngineシリーズを開発している。かつてはFM音源を実用化し、数多くのパソコン、アーケードゲームやメガドライブなどのゲーム機に搭載されたことで知られている。また1998年(平成10年)にパソコンのPCIバス用PCM音源チップ、YMF724を開発・発売し、これには半ハードウェアXG対応MIDI音源が搭載されていた上に安価であったため、自作パソコンマニアを中心に爆発的に普及した。現在は撤退している。 AudioEngineシリーズは、専用のデジタルアンプとバスレフ方式のスピーカーとセットになって、“YAMAHA サウンドシステム”の名称を付けられ、NEC製の一部ノートPCに搭載されている。ピアノ製造の木材加工のノウハウから高級家具を製造したことからはじまり、1991年(平成3年)にヤマハリビングテック(YLT)を設立し分社化。システムバス、システムキッチン等の製品を製造販売していた。家具については1992年(平成4年)にシステム家具の販売取り止めを決定、品目の絞り込みを行った末2005年3月には受注・生産を終了した。2010年(平成22年)にリストラの一環でヤマハはYLT持株85.1%を日本産業パートナーズと外資系投資ファンド3社へ売却。この時点ではYAMAHAブランドおよび社名は継続されたが、実質的に経営から撤退。その後、YLTによるヤマハ及び投資ファンドの出資分についてのMBO実施、2013年10月1日付の社名変更により、名実ともに住宅機器事業から撤退した。アーチェリー用具の開発から始まり、FRP成形技術を活かしてスキー板、テニスラケットを製造していた。1997年(平成9年)にスポーツ事業部を廃止し、スキー板・スキー用品・テニスラケットから撤退。2002年(平成14年)にはアーチェリー用具からも撤退。現在はゴルフHS事業部によるゴルフクラブのみとなっている。なお、マリンスポーツは系列外のヤマハ発動機が管掌している。
出典:wikipedia
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