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桶狭間

桶狭間(おけはざま)は、愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域の汎称地名・歴史的地名である。本来的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し、後述するように室町時代初期にその発祥をみて以来現在に至るまで、尾張国知多郡桶廻間村とその村域を明治時代以降にほぼ踏襲した行政区域を指す地名でもある。行政区域としては2013年(平成25年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち9つに桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北2丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北3丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」)。他方、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に知多郡北部から愛知郡南部にかけて展開された桶狭間の戦いの故地の名としてもよく知られている。名古屋市の桶狭間古戦場調査委員会が1966年(昭和41年)にまとめた『桶狭間古戦場調査報告』で桶狭間を「漠とした広がりを持った地名語」と表現しているように、その戦跡は桶廻間村の村域を大きく越えて広く残され、桶狭間の名を冠した地名・史跡・神社・公共施設・店舗・イベント、また桶狭間の戦いに由来するという同種のものが名古屋市と豊明市の両方に散見される。「桶狭間」の名称は、桶廻間村・大字桶狭間という村名・字名として知られるとともに、「桶狭間の戦い」の故地の地名としても知られる。桶廻間村・大字桶狭間の地名の由来にかかわる伝承は、『有松町史』や名古屋市立有松小学校の教材『有松』、名古屋市立桶狭間小学校の教材『桶狭間』などで詳しく紹介されている。それらによると、地名の由来については諸説あって定かでないが、一説には、古く洞と呼ばれた場所に由来するという。伝承では、南北朝時代(室町時代初期)にあたる1340年代頃、皇室の分裂に伴う政争において南朝に与し落武者となった少数の武者集団の入郷があり、北朝の落武者狩りから逃れるために林の奥深くの「洞」(窪地)に家屋を建てて隠れ住んだといわれ、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字セト山付近(現名古屋市緑区桶狭間)がその地であるという。「洞」の字は、当時「クキ」と読まれていたとされる。やがて「クケ」に訛り、さらに「ホケ」に転じたという。ここに谷間の地形を指す「ハサマ」と結合し「クケハサマ」・「ホケハサマ」と連称されるようになり、戦国時代の頃までには「洞迫間」・「公卿迫間」・「法華迫間」といった漢字が当てられている。小起伏の多い桶廻間村・大字桶狭間にあって「ハサマ」と目される地形は数多く、嵐廻間(あらしばさま)、六ヶ廻間(ろくがばさま)、神明廻間(しんめいはさま)、牛毛廻間(うしけばさま)、梨木廻間(なしのきばさま)、井龍廻間(ゐりうばさま)といった古くからの地名が各所に残されている。桶狭間の発祥地と考えられる字セト山は、村の中心地であった森前から見て裏手、すなわち背戸(せと)にあたることからその名が付いたとされ、隠れ場所の比喩とも捉えられるような、標高40メートル台の丘陵地である。この山の中腹に密かに居を構えていたとみられる落人たちの視線を想定すれば、西方にはすぐ眼下に鞍流瀬川が南進する沖積平野が南北に細長く広がり、その先に森前・神明の丘陵地がそびえることから、この沖積平野付近の落ちくぼんだ様子は「ハサマ」と捉えうるものである。また、桶狭間東部にあたる東ノ池を中心に丸く平坦に広がった一帯を「桶」と見なす捉えかたもある。しかし『有松町史』は「ハサマ」の具体的な所在地については明確にしておらず、丘陵と丘陵の間に広がる洞のような、桶のような谷底平野がその名にふさわしいと記すのみである。すなわち、丘陵と谷底平野が複雑に交錯する広範囲の景観をもって「ハサマ」と名付いたと考えることが妥当のようである。安土桃山時代の成立といわれる軍記物『足利季世記』には尾州「ヲケハサマ」とあり、桶廻間村・大字桶狭間に残る江戸時代最初期(1608年(慶長13年))の検地帳控が『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』とあるのは、すなわち16世紀後半頃にはすでに「ホケ」・「クケ」がさらに「オケ」に転じていたことを示すものである。漢字表記では、江戸時代になると「桶廻間」・「桶迫間」・「桶峡」といった表記が主となるが、桶廻間村・大字桶狭間に残る古文書では「桶廻間」が最も多く、数点「桶迫間」がみられ、尾張藩家老であった山澄英龍(やまずみひでたつ)の著書に『桶峡合戦記』があり、寛政年間(1789年 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1801年)に成立した『寛政重修諸家譜』には「洞廻間」と記されたりしている。これら様々に表記されてきた漢字が「桶狭間」に統一されたのは、郡区町村編制法の制定に伴う1878年(明治11年)のことである。上記に示した「洞」の由来とまったく異なり、「桶がくるくる廻る間(ま、ひととき)」から桶廻間と呼ばれるようになったとする説もある。郷土史家の梶野孫作によれば、その昔、南朝の落人による村の開墾が次第に軌道に乗った頃、大池北部の小さな土地に御鍬社(おくわしゃ)を祀って毎年の農閑期に田楽を奉納するようになり、すなわちここにまず「田楽坪」の名が生まれたとする。それが後年いつのまにか桶狭間とされたのは、名古屋と刈谷を結ぶ三河街道(長坂道)に沿っていたこの地がちょうど道中の中間地点でもあり、一息付けるような木陰の脇には泉がこんこんと沸いていて、水汲み用の桶が水の勢いでくるくる廻る様子をおもしろく眺めながら一服するひとときを過ごす旅人によって、そう呼ばれるようになったからだという。名古屋市緑区桶狭間北3丁目(旧有松町大字桶狭間字ヒロツボ)にある「桶狭間古戦場公園」は、かつて神廟が祀られ田楽が奉納された小さな土地の跡地であるとされ、「義元公首洗いの泉」と呼ばれる小川なども整備されているが、1986年(昭和61年)の区画整理前には「泉ボチ」と呼ばれて清水が豊富にわき出る場所であったといわれる。また、大池の東に位置する和光山長福寺の境内にある「弁天池」と呼ばれる放生池も、桶がくるくる廻る桶廻間伝承を持つ泉のひとつである。現在、「桶狭間」の一般的な読みは「おけはざま」であるが、地元では「おけばさま」と連濁および清濁交代を起こして読まれることがあり、さらに「おけば」と略することも一般的である。これは大字桶狭間で自称されるのみならず、近隣の大字有松や豊明市栄町からも同様に呼ばれている。1889年(明治22年)4月1日の市制・町村制施行時に発足した知多郡桶狭間村、ついで1892年(明治25年)9月13日に南隣の知多郡共和村と合併しその一部となった知多郡共和村大字桶狭間は、共和村内で旧追分新田村(おいわけしんでんむら、現大府市)、旧伊右衛門新田村(いえもんしんでんむら、同)と接し、村外では知多郡横根村(よこねむら、現大府市)、同北崎村(きたざきむら、同)、同有松町(ありまつちょう、現名古屋市緑区)、同大高村(おおだかむら、同)、および愛知郡鳴海町(なるみちょう、同)、同豊明村(現豊明市)とそれぞれ境を接する2.4平方キロメートルの面積を有し、これは1893年(明治26年)11月に有松町と合併して知多郡有松町大字桶狭間となり、1964年(昭和39年)12月1日に有松町が大高町と共に名古屋市緑区に編入されたことで名古屋市緑区有松町大字桶狭間となってからも、おおむね変わっていない。ただし、1988年(昭和63年)9月25日に字武路、字ヒロツボ、字喜三田一帯で町名町界整理が行われて名古屋市緑区「桶狭間北2丁目」および「桶狭間北3丁目」が誕生したのを皮切りに、平成時代に入ってからは数度の町名・町界の変更が行われている。そして2009年(平成21年)と2010年(平成22年)には行政区画の大幅な整理が行われ、大字桶狭間の大部分と多くの小字が消滅すると共に旧有松町大字有松域や旧大高町域をまたぐ形で新町名や新町域が設定されたりしている。これにより、2013年(平成25年)現在刊行されている地図などで「桶狭間」の正確な範囲を特定することが困難になっている。もとより町界・字界の軽微な変更は旧来から頻繁に実施されたと考えられるが、本稿では特記を除き1983年(昭和58年)当時の大字界の範囲内において桶狭間村・大字桶狭間の記述を行うものとし、その呼称を「大字桶狭間」とする。また有松地域にも同様の範囲の定義を適用してその呼称を「大字有松」とし、大字桶狭間と大字有松町を併せた呼称を「有松町」とする。大字桶狭間が位置するのは知多半島の付け根付近にあたり、「猿投-知多上昇帯」と呼ばれる緩やかな丘陵地帯にある。「猿投-知多上昇帯」は豊田市の猿投山付近から知多半島にかけて、第四紀(258万8,000年前から現在)以降に断層地塊運動によって隆起したといわれる比較的新しい地形である。この連続した丘陵地は天白川水系の大高川、および境川水系の石ヶ瀬川が流れる谷間を境に北を「尾張丘陵(「名古屋東部丘陵」)、南を「知多丘陵」と呼び、北部の「尾張丘陵」は河川によってさらにいくつかのブロックに分けられ、扇川以南にある尾張丘陵最南部のブロックを「有松丘陵」という。名古屋市緑区南部、豊明市北西部、大府市横根町付近の丘陵がこれに属し、大字桶狭間が位置するのは「有松丘陵」が大高川・石ヶ瀬川の谷間に向かって南西へ緩やかに落ち込む付近に広がる一帯である。「有松丘陵」を含めたこれらの丘陵では一般に開析が進んでおり、起伏に富んだ地形になっている。大字桶狭間では北西部にある高根山(たかねやま)、同じく北東部にある生山(はえやま)が孤立丘としてその形状をある程度保ってきたほか、このふたつの山からそれぞれ南西方向に向かって、西は愛宕山・幕山・清水山・又八山・切戸山、東は武路山・セト山・阿刀山などの小丘陵が断続的に連なっており、この東西の丘陵に挟まれるように中央部では南に向かって広い谷底平野が形成されている。なお、有松丘陵や扇川を挟んだ北側の鳴子丘陵を総称して鳴海丘陵といい、『張州府志』(1752年(宝暦2年))は、かつて名古屋市緑区一帯に「鳴海山」と総称される28峰の連なりがあったことを示している。この鳴海丘陵一帯には50メートルから80メートルほどの頂部が点在するが、頂上の高さはかなり揃っており(定高性)、開析を受ける前の背面(各丘陵の頂部を連ねた面)はなだらかな面であったことを示している。地質学的には、新第三紀鮮新統の温暖な時期(500万〜300万年前)に東海湖に堆積した東海層群と呼ばれる柔らかな湖成層(「矢田川累層」)を土台としている。矢田川累層は下層から「水野部層」・「高針(たかばり)部層」・「猪高(いたか)部層」に分けられ、大字桶狭間で見られるのはこのうち「猪高部層」で、砂・礫・粘土の不規則な互層であり、最南部を除いた外縁部分にて主にこの地層が見られる。またこのうち神明廻間や森前付近の段丘には「猪高部層」の上に八事層よりも新しい堆積の褐色礫・シルト層が見られる。これらの地層では土壌化が進んでおり、浸食もあまり見られなかったことから、古くより畑や果樹園として利用されてきた歴史を持つ。ただし近年では大規模な宅地開発が行われており、畑の面積は大幅に減少している。高根山の頂上部、字幕山・字愛宕西・字牛毛廻間の一部では、標高40メートル付近に不整合面があり、それより上層は「八事層」と呼ばれる砂やシルトを挟んだ礫層となっている。これは矢田川累層が東海湖の後退によって地表に露出した後に、再び湖底や川底となり堆積した層であり、その時期は第四紀前期から中期頃と考えられるが、はっきりした年代は分かっていない。大字桶狭間において、これらの丘陵は農地への転用が困難な、もろく崩れやすいバッドランドとして理解されており、長らく針葉樹林などに覆われていたが、後年になって畑の開拓が進められたり、住宅地になったりしている。なお、尾張丘陵全般に見られる頂部の定高性はこの八事層に基づくものであり、八事面と呼ばれている。大字桶狭間と大字有松の境界線より有松側には、わずかながら洪積台地が見られる。旧東海道沿いに広がった有松市街地の大部分を占める低位段丘がそれであり、名古屋市内の台地(熱田台地)をなす「熱田層」に比定されるもので、その形成はリス-ヴュルム間氷期(13万-7万年前)後半と目される。湿地のような場所に砂などの細粒物が貯まって作られたとされる引き締まった地層で、地盤も良好であり、大字有松では古くから住宅地として利用されている。南部から中央にかけて細長く食い込んだように広がるのは沖積平野である。鞍流瀬川とその支流である中溝川(なかみぞがわ)が丘陵部を切りながら南進し、それぞれの両岸に広く沖積層を構成している。水田として開発・利用されてきた部分が多く、桶狭間神明の東部、南陵、野末町付近がこれらに該当し、かつては大池から彼方にある共和駅の駅舎を望めたといわれるほど広々とした田園地帯であったという。しかし1972年(昭和47年)に名古屋市営桶狭間荘(現在の桶狭間住宅)が建設されたのを皮切りに、南陵ではほとんど桶狭間住宅の敷地および大型ショッピングモール「有松ジャンボリー」の敷地に転用され、野末町も戸建住宅地として整備されており、田は桶狭間神明の一部に残るのみとなっている。大字桶狭間は開析の進行した丘陵地であるため集水面積が狭く、灌漑用水を得るためにため池を多く築造してきた歴史を持つ。1961年(昭和36年)に愛知用水が完成し、農業用としての役割を終えたため池は、防火用水の水源として利用されたり、水辺公園として整備される一方で、埋め立てられて住宅地などに転用された池も少なくない。大字桶狭間を通る鉄道路線は、最南部の野末町を東海道新幹線がかすめるほかは無く、鉄道駅も存在しない。ただし大字有松を併せた有松町としては、名古屋市との緊密な関係もあって大正時代より一貫して名古屋鉄道名古屋本線有松駅(当初は愛知電気鉄道有松裏駅)が町の玄関口となっている。そのほか、南ではJR東海道本線のうち南大高駅が最寄りではあるが、かつて有松尋常高等小学校からの修学旅行は伊勢参りで、大高駅まで徒歩で向かったという。近世から明治時代に至るまでに桶廻間村・大字桶狭間に存在した街道には、「長坂道(ながさかみち)」、「分レ道(わかれみち)」、「近崎道」、「大高道(おおだかみち)」、「大脇道(おおわきみち)」、「追分道(おいわけみち)」、「追分新田道(おいわけしんでんみち)」、「横根道(よこねみち)」などが知られている。近世の街道は、目的地の名を街道名に冠することが一般的であり、同じ道筋でも村や集落ごとにその名が異なっている場合が多い。たとえば「長坂道」は別名「鳴海道(なるみみち)」・「有松道(ありまつみち)」とも呼ばれ、桶廻間村から見て北の有松村・鳴海村方面に向かう街道であるが、有松村から見れば南の桶廻間村に通じる道であるので、同じ道を「桶廻間村道」と呼んでいる。同じように「大脇道」は東の知多郡大脇村(おおわきむら、現豊明市栄町)に向かう街道であるが、大脇村の視点からすればこれを「おけば道」と捉えるのである。実質上、長坂道と追分道と横根道、そして大高道と大脇道は同一の交通路である。このうち前者の「長坂道」は、北は相原郷付近の鎌倉街道から分岐したとみられており、鳴海村・有松村・桶廻間村・伊右衛門新田・横根村を経たところで境川・逢妻川を越えて三河国へと至るという道筋をたどっている。すなわち三河国刈谷に至る近道として「三州道」・「刈谷街道」・「刈谷街道」と呼ばれたこともあり、江戸時代以前より存在していたと考えられる古い街道である。他方、飯沼如儂の手になる『尾陽寛文記』という書物には、有松村に始まり大符村(おおぶむら、現大府市)・緒川村(おがわむら、現知多郡東浦町)・半田村(はんだむら、現半田市)など知多半島東部の海岸沿いを南下して師崎村(もろざきむら、現知多郡南知多町)に至る街道を「東浦街道」と呼ぶとあり、『尾張国知多郡誌』(1893年(明治26年))では、有松村にて第一号国道より分岐して師崎村へと至る県道を師崎街道、俗称を東浦街道としている。また後者の「大高道・大脇道」は、東は東阿野村(ひがしあのむら、現豊明市)付近に端を発し大脇村・桶廻間村を経て西大高村(にしおおだかむら)へと至る道筋である。これも鎌倉街道と同様に江戸時代以前から存在していた官道で、東海道の開通に伴い1601年(慶長6年)に官道を解かれている。一方で桶廻間村中心の視点からすれば、かつての村の中心は「郷前」と呼ばれる集落にあり(後年の有松町大字桶狭間字郷前、現在の郷前交差点付近)、おのおのの街道はここから放射線状に延びていたと捉えることもできる。なお、同村内の同じ道筋でも時代によって名称の変転などもあり、呼び名が一定していない場合も多いが、本稿では最も一般的と思われる名称を代表的に用いて論じ、必要に応じて別称とその由来を記述している。長坂道(ながさかみち)は、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの名称で、丘陵上の桶廻間村から谷底の有松村に至るまで長い坂が延々と続いていたことから名付いたと考えられる。「三河街道」あるいは「師崎街道」の一部をなす。2013年(平成25年)現在は消滅している有松町大字有松字長坂北、一部が残る同字長坂南などの字名、国道1号の長坂南交差点の名は、この里道に由来している。他に、『寛文村々覚書』に示すところの「有松道池」から推定しうる「有松道(ありまつみち)」、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に記載のある「鳴海道池」から推定しうる「鳴海道(なるみみち)」、『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』に示すところの「桶廻間村道(おけばさまむらみち)」などの名が知られている。現在の郷前交差点から北に延びる市道(名古屋市道有松橋東南第2号線)が、往時の長坂道のルートをほぼ踏襲している。セト山交差点、大池南岸のクランク、幕山交差点、地蔵池西岸などを経て、ファミリーマート武路町店付近で分レ道との分岐に至る。現在では分レ道側が名古屋市道有松橋東南第2号線のまま幹線道として整備され、国道1号に向かって降りていくが、長坂道はここで左に折れて名古屋市道長坂線となり、高根山の南側山麓を走る細い路地となる。名古屋市道有松第157号線と交わる付近では大字桶狭間と大字有松の境界線が走り、また区画整理が進んで往時の道筋がわかりにくくなっているほかは、往時の街道と現在の市道のルートはほぼ同一である。大字有松に至ってからは三丁山の丘陵を越え、有松市街地へとほぼまっすぐ下る坂が延々と続く。なお下り坂の途中付近では、愛知県道243号東海緑線の建造の際に国道1号の南側の丘陵に切通しが設けられたことで道が一時分断されていたが、有松橋が架けられて再びつながっている。そのすぐ先では国道1号との有松町交差点があり、かつては信号機が敷設されていたが、2013年(平成25年)現在では撤去されている。そして国道1号以北では有松市街地となり、江戸時代から明治時代にかけては東海道筋と同様に絞商工業者が軒を並べた界隈であり、現在でも沿道に有松しぼり久田本店があるほか、町屋の長坂弘法堂などが残る。なお大正年間の地形図には、長坂道は1間(約1.8メートル)から1間半(約2.7メートル)の道幅を持つ里道として記載されているが、2013年(平成25年)現在でもとりわけ大字有松地内における市道の道幅は2.7メートル以内の狭隘な箇所が多く、舗装がなされている以外はその様相に昔からほとんど変化が無いことが見て取れる。また有松しぼり久田本店付近の長坂道からは東へさらに細い市道(名古屋市道有松第15号線)が分岐しており、かつて絞商屋同士が商品の貸し借りのために客に分からないよう行き来したことから「絞り小径(しぼりこみち)」と呼ばれる幅員1メートルほどの裏道である。有松市街地の西端近く、大雄山祇園寺の山門から東海道を挟んだ向かいに、南東方向へ分岐する小さな小道がある。これが長坂道であり、大字桶狭間から見ればこの東海道との合流点が長坂道の終点となる。追分道(おいわけみち)は「三河街道」あるいは「師崎街道」の一部をなし、本項では郷前交差点より南方面へ向かう道筋について記述するものである。長坂道と同じく、現在の名古屋市道有松橋東南第2号線が往事のルートをほぼ踏襲しており、大字桶狭間南方の字井龍へと至る。国道23号のゲート下をくぐった付近で、そのまま南へ向かう道と南西へ向かう脇道とが分岐するが、南西方面の脇道が追分道であり、『知多郡村邑全図』が示すところの「大符道」でもある。分岐せずにそのまま進む道は『知多郡村邑全図』が示すところの「横根道」で、現在では分岐以降において名古屋市道桶狭間線に切り替わり、70メートルほどでまもなく大府市に至る。なお、大府市内の追分道ないし大符道は、原(現大府市東新町5丁目付近)・追分(現大府市追分町)の集落を経て大浜街道(現愛知県道50号名古屋碧南線)に接続する。同じく大府市内の横根道はそのまま現在の国道366号に近いルートで南下し、横根村の中心地(現大府市横根町字中村・字前田)へと続く。知多郡誌は緒川村以北の師崎街道を俗に大浜街道というとあり、他方で「三河街道」は横根村を経て三河国へ至っていたものと考えられている。すなわち相原郷あるいは有松村に端を発する「三河街道」は字井龍の分岐以南においては横根道のことを指し、同様に有松村に端を発する「師崎街道」は字井龍の分岐以南においては追分道・大符道のことを指すと考えることが可能である。分レ道(わかれみち)は、『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』に示すところの名称で、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』には道名が特に記載されていない。先述の「長坂道」の項で触れたように、市道(名古屋市道有松橋東南第2号線)をファミリーマート武路町店付近で左の脇道に折れずにそのまままっすぐ北に下っていく道筋が、旧分レ道にほぼ相当する。桶狭間交差点で国道1号と交差、そのまま有松市街地に至り、名古屋有松郵便局付近で旧東海道と合流する。全線を通じて現在ではほぼ直線になっているが、湾曲したかつての旧道の名残が場所によってわずかに残されている。名古屋有松郵便局の南東にある延命地蔵堂は、かつて桶狭間交差点付近の沿道にあったのが現在地に移転されたものである。また東海道との辻には「←◎→ 東海道 ☞大府行縣道」と記された道標があり、現在は有松山車会館前に移築されている。追分新田道(おいわけしんでんみち)は、大池の南岸付近で「三河街道」あるいは「師崎街道」から分岐し、追分新田へと至る道である。追分新田は知多郡追分村の支郷として開発された村で、三ツ屋と呼ばれる集落を形成している(現大府市共栄町付近)。大字桶狭間では中溝川に沿って南進する名古屋市道森下線におおむね比定されるが、国道23号と交差する付近から野末町にかけては旧来の道筋をたどることがやや困難となっている。野末町から大府市域に入ると北西に向かって緩やかなカーブとなるが、共和町6丁目と7丁目の境をなす大府市道、共和町4丁目地内を北上する愛知県道244号泉田共和線に、旧街道の道筋をたどることができる。そして伊勢湾岸自動車道の名古屋南インターチェンジが愛知県道50号名古屋碧南線に接続する付近で、かつての追分新田道も大浜街道に接続している。大高道(おおだかみち)および大脇道(おおわきみち)は、『知多郡村邑全図』によるところの呼び名で、前者は郷前から西に向かい大高に至る道筋、後者は郷前から東へ向かい大脇村に至る道筋である。大脇村では「大高道」もしくは「おけば道」という。江戸時代以前には官道として機能していた古い街道である。また近世には、真言宗豊山派白泉山妙楽寺の第13代住職であった亮山によって開かれた知多四国八十八ヶ所霊場を巡る「遍路道(へんろみち)」としての役割を持つにも至り、かつては1番札所である清涼山曹源寺(豊明市栄町)と88番札所である瑞木山円通寺(大府市共和町)を往来する巡礼者の姿も多く見られたという。名古屋市道有松橋東南第2号線上の郷前交差点から約80メートル北に、東西に分岐する市道との辻があり、ここを長坂道と大高道および大脇道との交点と捉えることができる。大高道は、西に分岐する名古屋至道有松第65号線を西進し、桶狭間神明社境内の南側を越えたところにある市池の手前を右に折れ(ここから名古屋市道大高線になる)、そのまま北西に向かって桶狭間神明の住宅地を抜け、愛知県道243号東海緑線との交差点である権平谷交差点を経て旧大高町内の文久山へと至るルートにほぼ比定される。文久山に至ったのち、大高道の名残とされる道は名古屋市道大高線から名古屋市道桶狭間線に切り替わる。市道桶狭間線は区画整理された名古屋市緑区大根山1丁目地内、および名古屋第二環状自動車道・国道302号によっていったん寸断されるが、その以西では緑ヶ丘自動車学校敷地の北側を廻り、蝮池を左に見ながら大高緑地敷地の南側を西進し、砦前交差点から70メートルほど南で大浜街道に接続している。大脇道は、名古屋市道有松橋東南第2号線上の交差点から東に分岐する名古屋市道桶狭間中部第20号線、同桶狭間中部第14号線、同桶狭間中部第4号線、同有松第116号線、同大脇線がこれに相当する。これらは路線名のみが断続的なもので、実際には一続きの道路であり、しかも総延長は450メートル程度である。郷前交差点から東へ延びる名古屋市道桶狭間勅使線のほぼ100メートル北を併走しており、東ノ池の北岸を回り込んだところで豊明市との市境界を越え、大脇へと至る。なお、この先の大脇道は、栄町大根交差点にて豊明市道大根若王子線(名古屋市道桶狭間勅使線の東側延長上にある)と交差した後、大原池北岸、豊明市立栄中学校敷地の南側を東進する。JAあいち尾東豊明栄支店付近で清涼山曹源寺に向かう道が右に分岐するが、大高道はそのまま栄町字姥子・南姥子・下原の住宅地の狭間を縫うようにさらに東進し、境川水系皆瀬川にかかる大師橋を越え、旧愛知県道瀬戸・大府停車場線との交差点を経て南東へと進み、やがて左折、名鉄名古屋本線のガード下をくぐり、国道1号に接続する。古戦場道は『豊明市史』による呼び名で、大字桶狭間においては『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に記載されている「これより落合村」への道がこれに該当し、「落合道」などと呼ばれた可能性はある。地蔵池の北岸で有松道から東に分岐し、桶狭間北2丁目の住宅地を通って豊明市域に入り、豊明市内では栄町字西山・字南舘の住宅密集地の狭間を縫うようにしてくぐり抜け、やがて香華山高徳院・史跡桶狭間古戦場伝説地の脇を通って国道1号(東海道)に至る。近崎道(ちがさきみち)は、有松村から桶廻間村・北尾村(きたおむら)を経て近崎村(ちがさきむら)までを結んだ里道である。江戸時代以前より存在していたと考えられ、桶狭間の戦いの折りには今川方・織田方が共に軍を進めた道筋としても知られている。ただし、往時の里道が近代以降の幹線道のベースとなっているパターンと異なり、大字桶狭間のとりわけ東ノ池以北における近崎道は近世以降あまり重要視されなかった可能性がある。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』にも『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』にも道筋は見えず、明治時代や大正時代の地形図にも里道としての記載が無い。2013年(平成25年)現在にあっても住宅地に続く生活道路以上の役割を果たしているとは言い難いものがある。旧東海道が整備される以前には三河街道より分岐していたと考えられているが、現在では大字有松での旧東海道からその道筋をたどることができる。『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』に示されるところの筋違橋(現在の松野根(まつのね)橋)は藍染川(あいぞめがわ)にかかる東海道の橋で、有松村の東端にあって鳴海村との境界にもなっているが、橋の手前で南に分岐する小道があり(名古屋市道生山線)、ここが近崎道の分岐点となっている。市道生山線は国道1号と交わった付近で名古屋市道桶狭間北部第二第34号線に切り替わるが、道はそのまま生山東麓を回り込む形で大きくカーブし、豊明市との境界線に沿いながら次第に南進、大字桶狭間東部の住宅地の中へと続いていく。名古屋短期大学敷地南側付近に隣接するあたりは「釜ヶ谷」と呼ばれ、桶狭間の戦いの折りには織田方が驟雨の中で突撃の機をうかがうために身を潜めていた場所だといわれている。釜ヶ谷を過ぎ、愛知用水を下にくぐってさらに南進した付近で、かつての近崎道の名残は後年の宅地造成のために途切れてしまう。和光山長福寺にある桶狭間霊園の東の小道()は一部が近崎道の名残とみられるが、それも再びセト山・樹木の住宅地の中で途切れてしまう。しかしさらに南方の東ノ池の西岸を南に走る名古屋市道桶狭間中部第5号線は近崎道の名残とみられ、東ノ池の北端で後述する大高道と交差している。なお近崎道はさらに南下、大字桶狭間の東西の幹線道のひとつである名古屋市道桶狭間勅使線を横切り()、名四国道北崎インターチェンジと交差する大府市道へと抜けてゆくのである。なお、近崎の読みは「ちかさき」でも「ちかざき」でもなく、「ちがさき」が正式である。かつての衣が浦は近崎村の付近まで奥まっており、この付近が茅(ちが)の繁茂する岬であったことが、地名の由来であるという。「近」の字は近世以降の当字と考えられ、『尾張国地名考』(1836年(天保7年))でも正式名は「茅之崎(ちがさき)」であるといい、「が」が濁音であり「さ」が清音であると念を押している。大字桶狭間に旧東海道(現愛知県道222号緑瑞穂線)は通っていない。ただし、大字桶狭間を南北に貫く街道、すなわち「長坂道」、「分レ道」、「近崎道」の北端は、すべてが国道1号の北に併走する旧東海道にある。「長坂道」は大字有松の西端にほど近い地点に、「分レ道」は大字有松の中ほどの地点、「近崎道」は大字有松の東端にほど近い地点に、それぞれたどり着く。名古屋鉄道名古屋本線有松駅改札口を出て正面側の出入口を降りると、踏切と愛知県道237号新田名古屋線が交差する南西側に至る。ここは大字有松であり、名古屋市による「有松土地区画整理事業」(1990年(平成2年)-2014年(平成26年))によって景観の変化が著しい一帯である。県道新田名古屋線は緩やかな坂を上ってそのまま国道1号に長坂南交差点でつながるが、名鉄名古屋本線をまたぐ幅員20メートルの主要な幹線として交通量も多い現在の様相とは異なり、かつては天王坂と呼ばれた田面道(たもどう、ともどう、農道の意)がこの付近を南進して大字桶狭間方面へ向かっている。一方、踏切から南西へ80メートルほど進むと左右に分岐する細い道があるが、これが往時は「往還」と尊称された旧東海道である。踏切を南に越えた県道新田名古屋線も実際にはこの辻が終点であり、以降長坂南交差点までは有松線第1号と呼ばれる名古屋市道であって、2003年(平成15年)10月に車道部の共用が開始されるまでは存在しなかった道である。2013年(平成25年)現在、大字桶狭間の範囲には、以下の17の町丁と8つの字が含まれている。先述のように、大字桶狭間では町名・町界の変更が頻繁に行われ、大字有松・旧大高町とまたがった新町名・新町界なども設定されてきたことから、「大字桶狭間」の範囲を特定することは困難になっている。大字桶狭間の地域を記述するにあたり、ここでは1988年(昭和63年)9月25日に町名町界整理が行われる直前まで構成されていた32の字を区分の目安としている。名古屋市緑区において、旧鳴海町や旧大高町では旧石器時代から平安時代にかけての遺跡が数多く知られているのに対して、大字桶狭間や大字有松ではまったくといってよいほどそれらの痕跡が見あたらない。わずかに、未確認ながら石鏃が発見されたという森前遺跡、石刃・石鏃が出土した又八山遺跡、石鏃が出土した権平谷遺跡などが知られるのみである。それ以降の、古代から中世初頭までの大字桶狭間の様子を示すような史料や考古学的遺物は皆無であるとされる。一方、大字桶狭間や大字有松でも多く知られているのは、猿投山西南麓古窯址群(猿投窯、5世紀-13世紀)の一端をなす古窯跡である。1955年(昭和30年)に初めて具体的な踏査が行われ、1957年(昭和32年)に旧有松町内の11地点13基の古窯跡(桶狭間10地点12基、有松1地点1基)が報告されている。日本陶磁史において、窯を使用した高火度焼成のやきものの生産は5世紀頃、朝鮮半島の技術を導入して作られた須恵器に始まる。名古屋市域では、窯を構築するための斜面が存在し、材料となる粘土・燃焼のための豊富な木材が豊富に手に入る地域、すなわち名古屋東部丘陵地帯においてその発展をみることになる。名古屋市緑区内に分布する古窯跡は旧鳴海町域の北部に広がるグループと旧有松町域から旧大高町域、豊明市域に広がるグループに大別され、前者を「猿投窯鳴海地区鳴海支群」、後者を「猿投窯鳴海地区有松支群」といい、鳴海支群では奈良時代の須恵器第2型式と呼ばれる窯が主体であるのに対し、有松支群における型式のほとんどは行基焼第2型式窯と呼ばれ、土地の斜面をトンネル状に掘り抜いて燃焼室・燃成室・煙道を構築する登り窯の方式を用いており、周辺から山茶碗や山皿の残片が多数出土している。行基焼窯は、その製品の型式によって第1型式、第1-第2過渡期型式、第2型式、第3型式に分けられ、製作年代は第1型式が12世紀半ば、第2型式は13世紀半ば、第3型式は13世紀終わり頃から14世紀前半頃という推測がなされている、大字桶狭間にある古窯群は有松支群に属するとみられ、北部や南部の丘陵地の山裾に広く分布しており、その詳細は以下のとおりである。このほか、1980年(昭和55年)には、名古屋市立桶狭間小学校分校用地として造成工事が行われた字森前から字六ケ廻間にまたがる付近(現名古屋市立南陵小学校敷地)で、2,000点にも及ぶ山皿・山茶碗が出土している。平安時代中期の百科事典『和名類聚抄』(承平年間(931年 - 933年))は、尾張国8郡のひとつである愛智郡の中に「成海(なるみ)郷」の所在を示している。その領域を正確に確定することは困難であるが、成海の表記が後年「鳴海」に変化し、江戸時代にはその遺称を受け継ぐ大村鳴海村が成立、明治時代以降の行政町である鳴海町を経て現在では名古屋市緑区の大部分(主に名古屋鉄道名古屋本線から以東の地域)で行政区画としての鳴海町が存続しており、この鳴海村・鳴海町の範囲が少なくとも成海郷の一部に含まれていたことはほぼ明らかであるとされている。ところで、『延喜式神名帳』(925年(延長5年))に記載された尾張国愛知郡17座のうち、現在でも古名をとどめる成海神社と共に「火上姉子神社」も成海郷内に鎮座していたとする。鎌倉時代中期に成立したという『熱田太神宮縁起』に「奈留美者、是宮酢媛所居之郷名、今云成海」という記述があり、宮酢媛(みやずひめ)の居所である氷上邑(ひかみむら)すなわち後年の知多郡大高村一帯もまた、愛智郡成海郷に含まれていたことを示唆するものである。12世紀頃に丹羽郡郡司良峰氏によって開発されたとされる「成海庄」、1357年(延文2年、正平12年)に後光厳天皇の綸旨を受けて醍醐寺三宝院が「御祈料所」として知行することになった「鳴海庄」が、郷名を継承した以外に往年の「成海郷」とどのような関連があるかは不明であり、「成海庄」と「鳴海庄」の関連性もはっきりしていないものの、これら3者の領域は少なくとも後年の鳴海村を越え、とりわけ「鳴海庄」に至っては、西は「成海郷」と同様に大高を包括したほか、さらにその先の名和(なわ、現東海市名和町付近)にも領域を広げていたとみられ、東は傍示本(ほうじもと、現愛知郡東郷町大字春木付近)、高大根(たかおおね、現豊明市沓掛町上高根・下高根付近)、沓懸(くつかけ、現豊明市沓掛町本郷・宿付近)、大脇(現豊明市栄町付近)に至る、おおむね天白川以東に広がる広範囲をいったものと推測されている。東に大脇・沓掛、西に大高、北に鳴海という愛智郡の領域に取り囲まれた洞迫間あるいは有松の地が、近隣同様に愛智郡成海郷あるいは鳴海庄に属していたかどうかははっきりと分かっていないが、南の現大府市域に属する多くの村々と同様、むしろ知多郡の「英比(あくひ)庄」・「英比郷」と何らかの関わりを持つ地であったともいわれる。「英比郷」は建武年間(1334年 - 1336年)に足利尊氏が「不断大般若経䉼所」として熱田社に寄進したとする土地で、初め南部にあった熱田社領が徐々に国衙領を浸食しながら北部に広がったとみられることから、英比郷中心地(現知多郡阿久比町付近)に比べて開発が遅れていた最北部の洞迫間が15世紀以降に熱田社領に含まれたとする想定も、まったく不可能ではないかもしれない。また、『寛文村々覚書』(寛文年間(1661年 - 1673年))には各村の概説の始めに所属の庄名が記されているが、これによれば桶廻間村は近崎村・有松村などと共に知多郡「花房庄」に属していたことが示されている。『寛文村々覚書』は知多半島の中央部から付け根にかけての村々に「英比庄」・「花房庄」・「大高庄」・「荒尾庄」などを冠しているが(いずれも知多郡)、そもそもが歴史的な名残をとどめたと考えられる表記でもあり、これらの庄園の範囲や実情はほとんど知られていない。近隣もしくは当地も含めて「成海庄」が存在していた1340年代、すなわち室町時代初期に洞廻間の地にやってきた南朝の落人とされる武装集団は20人あまりで、構成は中山氏、梶野氏、青山氏の諸氏であったという。このうち中山氏は平安時代中期の東三条摂政藤原兼家の系譜にある中山五郎左衛門の系統と考えられ、その出自は法華経寺の門前町である下総中山の地にあり、家紋は三階松、兼家から数えて16代目の子孫が太平記が記すところの中山光能で、光能の5代目子孫にあたるのが戦国時代の武将中山勝時となる。後醍醐天皇の綸旨を受けて梶野氏らを引き連れ上京するも敗走を重ね、最後は熱田大神社宮司であった藤原氏に従い美濃尾張で北朝方に相対するも敗戦、ついに洞迫間の地に落ち延びてしまう。光能と勝時の間の4代は不詳とされているが、まさにこれらの代の過ごした時期が梶野氏や青山氏と共にした洞廻間での隠遁時代に相当すると考えられる。中山氏は長く落人の身の上であることを潔しとせず、緒川城城主である水野氏と気脈を通じ続け、永正年間(1504年 - 1520年)には中山氏10人ほどが岩滑(柳辺(やなべ)、現半田市)に移住し、中山勝時は岩滑城主として水野信元の配下に組み込まれることになる。一説には、1554年(天文23年)12月に重原城が今川方に攻撃された際、洞迫間の中山重時は織田方の部将として参戦するも討死、その功によって嫡子の中山勝時が岩滑城主に取り立てられたともいう。一方、梶野氏や青山氏は士分を捨てて土着する道を選び、土地を開墾し村作りを始める。和光山長福寺の境内に南接するあたりに居を構えたといわれ、1965年(昭和40年)に区画整理が行われるまではうっそうとした林が広がり、3件の屋敷跡とふたつの井戸と推定される遺構もみられたという。人々は田畑を開くにあたって山頂に山の神を祀り、そこから石を投げて落ちた山背戸に石神社(しゃぐじ(社宮司)しゃ)を祀り、さらにそこに鍬を立てて御鍬社を祀ったといい、やがて田を耕す者が田楽を奉納し始め、また天照大神を祭神とする桶狭間神明社が立てられ氏神とされるようになる。なお梶野渡によれば、村人たちは落武者という出自のコンプレックスを相当長い間持ち続け、他村との交流をほとんどなさずに山奥で閉鎖的・退嬰的な生活を続けてきたといわれ、長年人口移動が少なく、同族意識がきわめて強い人々であったとされる。よそ者の侵入には特に神経をとがらせ、スパイと思わしき山伏を密かに殺害したなどの伝承も残っている。1875年(明治8年)の調査における桶廻間村の戸数は81戸であったが、そのうち梶野姓が56戸、青山姓が9戸あり、この2姓が80パーセントを占めている。2013年(平成25年)現在でも、セト山を中心とした大字桶狭間・大字有松全域および豊明市栄町にかけて、梶野姓や青山姓が多くみられる。いずれにしても、落人たちは出自や身分が明らかになるような証拠をことごとく隠滅したといい、江戸時代に至って尾張藩の支配下に入るまで村の実情を知りうる一次史料は皆無だとされる。しかし、室町時代末期である桶狭間の戦いの頃には戸数20から25、人口は100人から150人を数えたといい、村としての形が次第に整えられていった様子がうかがえる。またこの頃、洞迫間を領していたのは岩滑に移り住んだ中山氏であったともいわれる。大字桶狭間には古い時代に、下総国の日蓮宗大本山法華経寺の出自とされる日観という僧侶が現れて法華寺(ほけでら)を開創したとする伝承がある。日観は不受不施義を説くために知多方面を広く廻ったというが、その時期は落人らが隠遁生活を始めた前後だといわれ、草庵も落人らの隠れ家がある森の目と鼻の先、現在の和光山長福寺付近であったという。長福寺境内にある弁天池は、かつて日観の草庵と落人たちの住まいの中間にあり、双方が日常的にこの水を使っていたともいわれる。16世紀始めには法華寺も無住となり、以降長らく荒廃したままとなっていたが、1538年(天文7年)もしくは1569年(永禄12年)、その跡地に美濃国山県郡溝口村にある慈恩寺の末寺として善空南立(ぜんくうなんりゅう)開山による和光山長福寺が創建されることになる。『知多郡史』では、この日観が下総国から中山氏や梶野氏を引き連れてきたとしている。また梶野渡は、落人集団の一人であった中山氏が変装した姿が日観ではなかったかという説をとっている。後に岩滑城主となる中山氏はおそらくは集団の首領として他を統率する立場にあり、北朝による執拗な落人狩りのターゲットとしては重要な位置を占めていたとも推定されることから、僧侶の身なりをして目くらませをしたというわけである。日観が知多半島を遊説していたという伝承は、中山氏が水野氏と渡りを付けるための情報収集や布石作りが目的であったとも受け取れる。また中山氏は代々熱心な法華経信徒といわれ、武士の身であっても法華経僧侶に変装することに違和感や抵抗感を持つことはさのみ無かったとも想像される。そして日観があるとき忽然と姿を消し、法華寺が廃寺となった時期は、中山氏が水野氏の配下に組み込まれ岩滑に移住した時期とも重なるのである。愛智郡鳴海庄は、15世紀後半以降になると醍醐寺三宝院の支配が及ばなくなったようである。このことに大きな影響を与えたとみられるのが応仁の乱(1467年(応仁元年)-1477年(文明9年)である。室町時代の尾張国守護は斯波氏であったが、戦後処理を始めた将軍足利義政が乱を通じて最大の政敵となっていた斯波義廉への懲罰的討伐をもくろみ守護代織田氏を巻き込んで大攻勢をしかけたことを機に、徐々に没落をみるようになる。なお、尾張国のうち知多郡と海東郡は1391年(明徳2年・元中8年)の時点で三河国守護であった一色詮範の支配下に置かれていたことが確認されているが、1440年(永享12年)に一色氏から守護職を引き継いだ細川氏は支配を十分に確立できずにやがて応仁の乱を迎え、やはり勢力の縮小をみることになる。守護の力がそがれたことで、国境に近い辺境地域ではとりわけ支配の空白にさらされるようになり、境川流域にあった愛知郡・知多郡・碧海郡・加茂郡もまた両国で勢力を伸ばし始めた土豪の手が次第に伸びるようになってくる。鳴海庄における醍醐寺三宝院の支配衰退も、応仁の乱と前後して知多郡北部・愛知郡南部に浸透を始めたとみられる緒川の水野氏、そして水野氏の配下にあったという中山氏の動きとまったく無関係ともいえないであろう。三河からは、水野氏の動きに呼応するように1535年(天文4年)、その同盟関係にあった松平氏惣領松平清康が尾張への侵攻をはかっている。尾張国守護斯波氏の没落は守護代であった織田氏の台頭を許すことになるのだが、その織田氏も清洲城(織田大和守家)と岩倉城(織田伊勢守家)に分かれて尾張国を分割支配するようになって以降徐々に力を失い、清洲三奉行の一家で分家筋であった織田弾正忠家がやがて浮上してくる。勝幡城城主であった織田信秀と松平清康・今川義元が明確に対峙した天文年間(1532年 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1555年)になると、境川流域の国境付近に点在していた中小の土豪は織田氏か松平氏・今川氏のどちらかへ帰属することを余儀なくされることになる。織田信秀は織田弾正忠家当主であると共に、その傑出した「器用」によって尾張国内の諸勢力(諸家中)をあまねく掌握するまでになる。水野・松平氏の勢力に浸食されつつあった尾張国東部(愛知郡・春日井郡)も、松平清康の変死により三河からの圧力が急速に弱まったことがまず幸いして那古野城の攻略に着手、今川那古野氏の旧領を奪い取る形でその支配下に置くことに成功している。一方、松平清康の遺児松平広忠を清康の後継者として擁立、その後ろ盾となることで三河国への浸透をはかり始めた今川義元は、安城合戦(1540年(天文9年))で居城安祥城を織田信秀に奪われた松平広忠に加勢、また1549年(天文18年)には織田氏に奪われた広忠の嫡子竹千代を取り戻して自らの元に人質として置くなどし(『三河物語』(1626年(寛永3年)))、松平氏の従属化を進めるかたわら、三河国額田郡で勃発した小豆坂の戦い(1542年(天文11年)、1548年(天文17年))などにおいて直接織田方と交戦、織田信秀による三河国への勢力拡大を阻止すべく動いている。その織田信秀が領内での内紛、美濃国の斎藤氏との対立などの問題を抱えながら次第にその力を衰えさせ、1551年(天文20年)に病没した頃には、今川義元はすでに境川を越えた尾張国内まで支配領域を拡大し、天白川越えもうかがおうとしている。織田弾正忠家の家督を継いだばかりの織田信長にとっては、清洲城にあった守護斯波義統・守護代織田信友(織田大和守家)との対立、家中では同母弟織田信行との対立などが当初からあり、父の死去によってその支配下にあった土豪も次々と織田弾正忠家から乖離する動きを見せ始め、今川義元の圧迫に間近にさらされていた尾張国東部では、中村城の山口教継、鳴海城の山口教吉、笠寺城の戸部政直(新左衛門)、沓掛城の近藤景春などが今川方の傘下に下って反旗を翻すなど、まさに火だるま状態であったといえる。織田弾正忠家と守護・守護代との抗争は1552年(天文21年)頃から始まったが、翌1553年8月20日(天文22年7月12日)、守護と信長との内通を疑った織田信友らが斯波義統を殺害するという事件が起こり、その子斯波義銀が信長の元に遁走するに及んで旧主の復仇という大義名分を得た信長は勢いをも得、安食の戦い(1554年8月10日(天文23年7月12日))などを経て守護代織田大和守家を滅亡させた上、清洲城入城を果たしている。尾張国東部では、山口教継が尾張国の奥深くに位置する笠寺の地にまで今川方を迎え入れたことで、今川義元による浸食がいよいよ深刻なものとなっていたが、他方で、義元によってほぼ平定された三河国の中で唯一織田弾正忠家と通じていた勢力が刈谷城の水野信元で、斎藤道三の協力も仰いだ信長はこの水野信元と連携して緒川城の近くに築かれた今川方の村木砦を猛攻の上陥落させたほか(『信長公記』(1610年(慶長15年)頃))、1555年(天文24年、弘治元年)から1556年(弘治2年)にかけて頻発した三河国内の反今川蜂起への工作にもいそしんでいたものとみられる。1556年5月28日(弘治2年4月20日)、信長の強力な後援者であった斎藤道三が嫡子斎藤義龍に攻められた末に敗死(長良川の戦い)、この義龍の支援を受けた織田信行と稲生の戦い(1556年9月27日(弘治2年8月24日))で、岩倉城の織田伊勢守家当主織田信賢とは浮野の戦い(1558年(永禄元年))で争うなどし、共にこれらを破った信長は、尾張国内において自身に対抗しうるだけの敵性勢力をある程度掃討することに成功したといえる。1554年(天文23年)7月、武田信玄の仲介により今川義元の嫡子今川氏真と北条氏康の娘早川殿が結婚(『勝山記』)、長らく続いた今川氏と後北条氏との敵対関係がここに融解する。程なく、武田氏・後北条氏・今川氏の相互不可侵を確約した甲相駿三国同盟が締結され、これによって東もしくは北からの脅威が除かれた今川義元は親征を画策することとなる。1557年(弘治3年)に家督を氏真に譲った義元は三河国の平定および経営に本格的に乗り出したほか、1558年(永禄元年)頃、かつて織田信秀を見限り、近隣の沓掛城や大高城を調略して尾張国東部を明け渡した中村城主山口教継・鳴海城主山口教吉親子を駿府に誘い出して誅殺する(『信長公記』)という暴挙に及ぶが、これは信長が策略として流した不穏の噂を義元が真に受けたともいわれる一方、義元が旧織田方の勢力を意図的に排除したものとも考えられ、空席となった鳴海城の主として家臣の岡部元信を当て実際に直接支配下に置いたことで、尾張国侵攻へのひとつの布石とも捉えられるのである。そして翌1559年(永禄2年)になると、駿河国・遠江国・三河国の宿駅に物資輸送のための伝馬供出の命、七ケ条の軍法などを発布、朝比奈輝勝を城代として大高城に置き、奥平定勝や菅沼久助に大高城への兵糧入れを命じるなどして、遠征のための周到な準備を着々と進めている。かたや信長も、鳴海城の周辺に善照寺砦、丹下砦、中島砦、大高城東辺に丸根砦・鷲津砦を築くなどして義元の動きに対応している。そして翌1560年6月1日(永禄3年5月8日)に三河守に補任された義元は、それからまもなくの6月5日(旧暦5月12日)、1万あまり(『足利季世記』)とも4万5,000(『信長公記』)とも伝えられる大軍を率いて駿府城を発つことになる。1560年6月12日(永禄3年5月19日)に勃発した桶狭間の戦いは、伝承に従えば洞迫間村の開墾から200年ほど時を経た時の出来事と見なされる。駿府を発った今川義元の本隊は、藤枝・懸河(掛川)・引間(ひくま、浜松)・吉田(豊橋)・岡崎・地鯉鮒(ちりふ、知立)を経て(『三河物語』)、合戦の2日前にあたる6月10日(旧暦5月17日)に近藤景春の居城であった沓掛城に入城する。なお、この同じ日に今川方の先手侍大将であった瀬名氏俊の一隊が村に陣取り、後日到着する義元のための本陣造営に村人をかり出している。義元が構想していた作戦は、織田信長が築いた善照寺・丹下・中島・丸根・鷲津の各砦を攻撃し、それらの砦に圧迫されていた鳴海・大高の2城を救援(後詰)し解放したのち、熱田へ進軍、その先の清洲城を落城させるという主旨であったものと考えられる。このとき、鳴海城には岡部元信が、大高城には鵜殿長照が、それぞれ織田方に備えて布陣を敷いている。一方の信長は、この2城を略取し今川の勢力を尾張から一掃することに主眼があったとみられる。沓掛城に到着し、城中備蓄の兵糧の欠乏を訴える鵜殿長照からの知らせを受け取った義元は、評定において松平元康(後の徳川家康)に大高城への兵糧入れを命じている。大高城へ兵糧入れを行うには丸根砦・鷲津砦が立地する「棒山」の山間を通過する必要があることから挟撃される可能性も大きく、斥候を放ってその様子を偵察させたところ、敵の間近にあって押し通すことは困難であるという報告のほかに、敵は我々の軍旗を見ても山から下りてこないどころか山頂に向かって退く始末なので通過は容易であるという報告を受けた元康は、速やかに行動すべきことを判断、翌6月11日(旧暦5月18日)の夜までにそれを成功させている(『三河物語』)。他方、丸根砦の佐久間盛重、鷲津砦の織田秀敏は清洲城にあった織田信長に宛てて、翌12日(旧暦19日)の早朝は満潮の見込みのために清洲からの救援が間に合わず、大高城から両砦に対して攻撃が始まる見込みだとする急報を走らせている。信長はその報告を表にはいっさい出さず、晩の評定では登城した部将らの前での雑談に興じるのみであったという(『信長公記』)。翌6月12日(旧暦5月19日)の夜明けになり、丸根・鷲津の両砦がいよいよ取り囲まれているとの急報を手にした信長は、幸若舞の敦盛の一節を詠じながら舞い、従者5騎のみを連れて清洲城を出立する。辰の刻(午前7時〜8時頃)に熱田の源太夫殿宮(現上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)、熱田神宮摂社)の付近までたどり着いた時に、はるかに二筋の煙が立ち上っているのが見え、信長は丸根・鷲津の両砦が陥落した様子であることを知る。このまま海岸に出て進めば近くはあったが満潮にかかっていたこともあり断念、「かみ道」を駆って丹下砦、ついで佐久間信盛の居陣である善照寺砦まで進み、ここで兵を参集してそれを巡閲している(『信長公記』)。沓掛城を出立した義元の軍勢は、午の刻(正午頃)、「おけはざま山」に着陣して休息を得ている。ここで丸根・鷲津両砦の陥落の報告を受けた義元は謡に興じるなどし、前日来より兵糧入れや砦攻略に手を砕いた松平元康は鵜殿長照に代わって大高城に入り、休息を兼ねながら守備に入っている。信長が善照寺砦に入ったことを受けた佐々政次・千秋季忠の2部将は、高根山に布陣していたとされる今川方の松井宗信を300人ほどで急襲するものの、2将を含む50騎ほどが討死する。この様子を目にした今川義元は、自らの向かう先には天魔鬼神も近づけまいと心地よくなり、悠々と謡を続けている(『信長公記』)

出典:wikipedia

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