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メッサーシュミット Me262

メッサーシュミット Me262 (Messerschmitt Me 262)は、第二次世界大戦末期にドイツ空軍が使用したジェット戦闘機、爆撃機である。愛称は「シュヴァルベ(Schwalbe、ドイツ語でツバメの意 )」。世界初の実戦配備および実戦を行ったジェット機である。ジェット戦闘機の開発は開戦前の1938年から始まっていたが、実用化されたのは終戦直前の時期となった。1939年にはハインケル社がジェット機の初飛行に成功し、本機に先んじてターボジェットエンジンの製作がBMW社及びユンカース社で始まっていた。1939年6月7日、メッサーシュミット社からP1065計画が立案されたが、以下のような様々な設計変更を余儀なくされ、後に実用化された機体とは外見が大きく異なっていた。実用化された機体は戦後ソ連やアメリカに戦利品として設計した技術者ごと持ち去られ、両国で後退翼に関する知識やジェットエンジン搭載戦闘機(F-86及びSu-9)の礎となった。ドイツ本国では「Me262」から約30年後に至り、西ドイツ時代にトーネードなどが英仏などとの国際共同開発で開発された。搭載を予定していたBMW003ジェットエンジンが大型化し、当初の設計通りには配置できなくなった。その解決策としてエンジン外側の主翼を後方に18.5度曲げて後退角を付け、エンジン設置位置も翼桁の間から主翼下に変更された。本機は最初から後退翼機の実現を目的として設計された訳ではなく、度重なる設計変更の結果として後退翼に帰結した機体である。浅い後退角は後述の重心位置改善のために採用されたもので、後退翼としての効果は不十分である。正面から見た形状は、楕円形から鉛直上向きの三角形に変更された。20mm砲3門から30mm砲4門へ変更された。機体は1941年の初めには完成していたが、BMW 003が未完成だったため、ユンカース社製Jumo 210Gレシプロエンジンおよびプロペラが機首に装備され、4月18日に試験飛行が実施された。機体の操縦性は極めて良好であった。後にBMW 003が設置された後も、信頼性の高いJumo 210Gは機首に残された。1942年3月25日、BMW 003を用いての初飛行中、エンジンが2つとも停止し、機首のJumo 210Gの出力のみで緊急着陸した。信頼性の極めて低いBMW 003が撤去され、ユンカース社のJumo 004Aジェットエンジンに換装された。機首のJumo 210Gも撤去され、MG 151/20機関砲3門が搭載された。本機は1944年6月7日の試験飛行で損傷して飛行不能となった。当初からJumo 004 Aが設置され、1942年10月1日に初飛行に成功した。翌年4月18日に事故で失われた。1942年7月18日、ドイツ南部のギュンツブルク地区・ライプハイム空軍基地においてフリッツ・ヴェンデルの操縦により初飛行に成功した。後述のアドルフ・ガーランドによる評価が存在する。着陸装置を尾輪式から固定式の前輪式(三車輪式)に変更した機体再設計された機体、着陸装置を油圧引込式の前輪式に変更、エンジン内側の主翼の後退角が増して、主翼の前縁には全幅に前縁スラットが追加された。1943年11月に完成して、同月26日には、ヒトラーの前でデモンストレーション飛行を行った。当初は尾輪式だった降着装置は試作5号機Me 262 V5からP.1065案同様の前輪式に変更された。尾輪式への固執は三車輪式が「アングロアメリカの発明品であるから」というナチ的イデオロギーに由来していた。このため、ジェットエンジンからのジェット排気が滑走路をなめてしまうほか、離陸時に昇降舵が効かない問題点があった。また、離陸速度に達しても迎角が大きく離陸できず、ブレーキを軽く踏み込み機体を水平にする必要性が生じた。機体の調整は1942年中に完了していたがJumo 004エンジンの信頼性は向上せず、量産後においても本機の欠点となった(後述)1943年に試作4号機が空軍首脳部に披露され、同年5月22日にアドルフ・ガーランド少将(当時)がMe 262 V4に試乗。これを「天使が後押ししているようだ」と絶賛し、レシプロ機からの転換を言明した。さらにJumo 004B-0を搭載し前輪式降着装置を油圧引込式に改良した試作6号機Me 262 V6が、7月25日に航空相ヘルマン・ゲーリング元帥とエアハルト・ミルヒの前でデモンストレーション飛行を行った。1943年11月26日、インスターブルク航空センターで地上展示されたMe 262 V6を見たアドルフ・ヒトラーは、ゲーリングに対しこれは爆弾の搭載が可能であるかと質問した。ゲーリングは理論的に可能であると解答した(回答は事前にメッサーシュミット博士に打診して用意された)。ヒトラーは「電撃爆撃機が誕生した!」と宣言し、Me 262を高速爆撃機として生産するよう命じた。これはMe262の高高度での優位性を無視した指令であった。連合国軍の大規模爆撃がドイツ各地に被害を与え、ヒトラーはそれらへの報復と、ヨーロッパ大陸への侵攻に備え集結していた連合軍への攻撃を考えていた。当時、世界の戦闘機の主任務用途は空対空戦闘から地滑り的に戦術支援への転移を生じており、ヒトラーはこの動向を認識していたという考察も存在する。ゲーリングの回答は機種全体の開発計画推進を目的としたものだったが、戦闘機としての実戦投入を遅滞させる結果となった。本機は、機首下面に1tまでの兵装を外部に搭載可能であったが、これにより、機体の重心位置が移動する問題があった。そのため、爆撃任務はきわめて危険な任務となり、実戦では、その防止のため、250kg爆弾を2発しか搭載することができず、爆撃照準器も装備していないため、爆撃機としては不満足なものであった。Me262の戦闘爆撃機型であるA-2a型は1944年8月末に北フランスにおいて作戦を開始して、その後のアルデンヌ攻勢にも参戦したが、満足な戦果を上げていない、だが、戦闘爆撃機型は戦闘爆撃機部隊により敗戦まで細々と続けられている。ガーランドはジェット機開発計画の初期段階である1942年春の会議ではMe 262を戦闘機とするか爆撃機とするか、一面的に開発を進めるべきではないと発言し、メッサーシュミット博士も同意見であったという。彼はMe 262を本土防空用戦闘機と位置づけて編成を進めていた。1943年12月には、ガーランドの主導により、ジェット戦闘機の戦術を開発する目的の実験部隊が編成され、1944年7月26日には、英空軍のモスキートを撃墜して、ジェット戦闘機の初の戦果を記録している。その後、ヒトラーは戦闘機型のみ生産されていることをミルヒの報告から知って激怒し、1944年5月23日の会議で、Me262を戦闘機と呼ぶ事を禁じ、爆撃型のみ生産させた(ただし1944年6月の会議の記録では、それはジェット爆撃機であるAr 234の生産が軌道に乗るまでの暫定的なものとされている)。しかし、米英空軍のドイツ本土爆撃がさらに激しくなると、ヒトラーも戦闘機型の必要性を認めて、戦闘機型であるA-1a型の量産を開始した。戦闘機型のA-1a型は、1944年8月から空軍に引渡しが開始され、同年9月には、ヴァルター・ノヴォトニー少佐を隊長とした、Me262の実戦部隊である「コマンド・ノヴォトニー」が編成された。同部隊は同年10月から作戦を開始して、米英空軍の爆撃機を迎撃して戦果を上げたが、同年11月18日には、隊長であるノヴォトニー少佐が、同部隊を視察に訪れたガーランドの眼前で撃墜されて戦死してしまう。ノヴォトニー少佐の戦死後、同部隊は再編されて第7戦闘航空団(JG7)となり、同年11月からは、夜間レーダーのFuG218ネプトゥーンレーダーを装備した複座夜間戦闘機型のB-1a/U1を装備した部隊「コマンド・シュタンプ」が作戦を開始している。空軍上層部との対立が激しくなったガーランドは後に戦闘機隊総監の地位を解任されたが、大戦末期の1945年1月にはMe262が優先的に配備された第44戦闘団(JV44)を編成してその司令官となり、メッサーシュミット社の故郷であるバヴァリア地方を中心に作戦を開始している。MK 108 30mm機関砲を4門装備していた。強力であり、連合軍側爆撃機を容易に撃墜することができた。しかし、弾丸が重いため発射初速が遅く弾道直進性は低かったため、命中させるには目標にかなり接近する必要があった。戦争末期にはR4M ロケット弾を搭載した機種が配備された。このR4Mはヒトラーの「空での戦い自体は第一次大戦の時代と同様、機銃で互いに撃ち合う方法からまったく進歩がない」なる主張に基づき開発された。R4Mは12発ずつ木製ラックに収められ、両方の主翼下に1ラックずつ、一機あたり計24発が飛行性能を阻害しないように取り付けられた。R4Mの直進性は低く運用上のリスクが生じた。高い命中率を得るためには編隊飛行中の4発重爆撃機に800メートルの距離まで接近する必要があった。命中から爆発までにタイムラグを設け、敵機内部で爆発する仕様で破壊効果を高めた。1、2発が命中すれば爆撃機を撃墜することができたとされる。R4Mを搭載したMe262の活躍により、終戦直前の約1か月間に500機もの連合国軍機を稼動不能に追い込むことができたとされる。当時最高の速度が出せたMe262の存在と、短時間で一度に発射できる装置の発明により、末期におけるドイツ側の数少ない効果的な攻撃方法となった。想定上の戦域では性能を十分に発揮することができた。高度6,000mにおける水平飛行で870km/h、緩降下においては900km/h以上の飛行速度は同時代の航空機より150km/h以上も速かった。これは、当時アメリカやイギリスで登場した同じ第1世代ジェット戦闘機であるP-59やグロスター ミーティアに比べて勝り、戦後世代であるアメリカのP-80に匹敵するものであった。また、当時の空戦では速度が敵機より30km/h速いだけで一方的に優位を維持できたため、まさにけたはずれの性能だった。フランス空軍のエース・パイロットとして知られるピエール・クロステルマンは、片方のエンジンが停止した状態のMe262をテンペストで追跡したが、まったく追いつけなかったと語っている。熟練したパイロットが操縦した場合、敵の護衛戦闘機を回避し爆撃機を集中的に攻撃することが可能となった。当時のアメリカ陸軍航空隊最新鋭戦闘機であったP-51よりもはるかに速く、従来の連合国側レシプロ戦闘機ではMe262の攻撃から爆撃機を十分に護衛できなかった。イギリス空軍の高速爆撃機/偵察機デ・ハビランド モスキートに対しても優位に立つことができた。ジェットエンジン黎明期であり、特に過酷な運用が求められる戦闘機向けの導入は時期尚早だった。性能および信頼性の両面に多数の技術的課題が未解決のまま残されており、それはそのままMe262の欠陥となった。そのため、エンジンの故障率が高く、エンジンのスロットルに対する応答性が悪いため、操縦席のスロットル・レバーによる急激なスロットル操作でエンジン内の燃焼室でフレームアウト(燃焼停止)が発生してエンジンが停止することがあり、事故で失われる機体が1/3を占めていた。エンジン寿命は最大でも70時間、実際の運用においては平均で25~30時間で、戦闘中の片方または両方のエンジン故障が頻発した。戦闘で破壊されるより耐用時間を超えて稼動不能となる機体が遥かに多かった。離陸時に大きな推力を得るためにスロットルを開き、燃料を過大に燃焼させても機体を劇的に加速させる事はできなかった。また、その状態ではエンジン内の燃焼室が熱で溶融し、エンジンの大きな損傷を招いた。離陸後も上昇性能に乏しく、高度を獲得するために時間を必要とした。当時のプロペラ機と比較して燃費が劣悪だった。Me262は機体内前部と後部に主燃料タンク及び補助燃料タンクを持ち燃料搭載容量は合計2,570リットルと比較的多く、さらに機体外前部のラックに300リットル増槽を2個搭載できたが、それでも不足した。航続距離は高度6,000m~9,000mで飛行して約850km~1,050km程度であり、わずか30分程度の作戦でも機体のあらゆる燃料タンクを活用する必要に迫られた。この制約により、会敵した時点で既に充分な速度に達していると言う理想状態を作り出す為に運用上の制約が生じた。速度を得る為には戦場からなるべく遠い場所から出発しなければならないが航続可能距離が短い。また、補給を短時間で終わらせたいが着陸のリスクが過大に高まるなど、基本的な性能不足から幾つものトレードオフが生じた。貧弱な推力と機体構造は着陸のリスクを増大させた。三角形断面の機体形状が影響して操縦席から下方が見えにくく、エンジンの反応が鈍いため滑走路へのアプローチ中に何か問題が生じても臨機応変な対処ができなかった。連合軍パイロットはこの弱点を利用し、着陸時を攻撃するようになった。その為、ドイツ空軍はMe262の出撃・帰還時に滑走路周辺に護衛の戦力を展開させる必要に迫られた。運用上、コンクリート舗装の滑走路が必要だった。ジェットエンジンは異物が混入すると破損し、アスファルト舗装滑走路ではジェット噴流によって路面が傷つけられてしまう為であった。前輪式降着装置は強度不足のため折れ易く、不整地の野戦飛行場での運用は不可能だった。戦況が悪化した大戦末期ではコンクリート舗装の滑走路を持つドイツ本土の飛行場からしか出撃する事が出来ず、結果的にこの欠点はあまり問題にならなかった。当初、ドイツ空軍の精鋭パイロットが搭乗を許された。速度があるため、編隊飛行も距離をとっての編隊となる。操縦の前提として、ドッグファイト(格闘戦)は禁止された。細かい操舵をすると速度と高度を容易に失うためである。低速からの加速力が低いMe262においては戦闘中に最高速度まで戻すのは不可能だった。また、ジェット機といえどもやはり双発機であり、旋回性能そのものは単発のレシプロ戦闘機より劣っていた。速度の優位性を保つために熟練したパイロットはゆるやかに旋回し、爆撃機の編隊を一撃離脱戦法で攻撃した。R4Mが装備されてからは、まず爆撃機を護衛する戦闘機群を高速で振り切り、爆撃機の上方から緩降下して増速しつつ防御砲火をくぐり抜け、敵編隊に接近してロケットを発射し爆撃機に命中させて撃墜させる戦法となった。Me262の特性と存在意義を理解した熟練パイロットは、爆撃機を選択的に攻撃する事ができた。しかし戦争末期には未熟なパイロットも搭乗するようになった。彼らは連合国側のパイロットに本機の運用上の禁忌であるドッグファイトに誘引され、速度と高度の優位性をスポイルされ撃墜されていった。戦争末期になると稼動機体も燃料も枯渇し、極めて大きな数的優位を保つ連合軍の航空戦力を前にドイツ空軍自体が有名無実化していた。1945年3月18日、37機のMe262が1,221機の爆撃機とそれを護衛する632機の戦闘機からなる大編隊を迎撃した。その結果、12機の爆撃機と1機の戦闘機を撃墜したものの、自らも3機失った。この4対1という比率はドイツ空軍が想定した数字そのものだったが、敵側からすると全体の1%程度の損害でしかなかった(故障で失われた数の方が多かったという)。最終的に、Me262はその撃墜数が被撃墜数を上回った枢軸国側の数少ない戦闘機の1つとなった。性能面においては当時の最新鋭のレシプロ機を凌駕していたが、数多の欠点や運用上の重大なリスクを抱え、ドイツ軍の戦況に大きな影響を及ぼす事は無かった。第二次世界大戦後、ドイツの他の先進技術とともにMe262もソビエト連邦によって接収された。機体の研究から得られた知見はソ連におけるジェット戦闘機の初期開発に反映された。ガーランドもイギリス側に捕まり、5年ほど戦犯として収容された後、イギリス空軍の戦術教官として採用された。2003年より、アメリカ・テキサス州の Texas Airplane Factory が Me262のレプリカを作成中で、現時点で2機が完成、飛行可能の状態。発動機はゼネラル・エレクトリック社 J85 エンジンで、安全装置の追加、脚の強化などが行われている。名称はメッサーシュミット社(現 EADS)の承認を得て A-1c (単座型)と B-1c(複座型)が当てられている。Me262 の資料と図面が、Me163の資料と共に、日独間の連絡潜水艦便(遣独潜水艦作戦)で日本に送られ(実際には多くの資料が輸送中に失われてしまった。)、これを参考に中島飛行機が海軍向けに独自設計した特殊攻撃機「橘花」を製作、敗戦間近の1945年8月7日、初飛行に成功した。しかし2度目の飛行で離陸前にオーバーランして故障、修理中に敗戦となった。また陸軍向けの戦闘襲撃機である火龍も計画されていた。

出典:wikipedia

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