タフィ・ローズ(Tuffy Rhodes)こと、カール・デリック・ローズ(Karl Derrick Rhodes, 1968年8月21日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州出身のプロ野球選手(外野手)、プロ野球コーチ。ベースボール・チャレンジ・リーグの富山GRNサンダーバーズ所属。NPBでの通算本塁打数歴代13位であり、NPBで唯一の400本以上の本塁打を記録した外国人選手でもある。シーズン本塁打数歴代2位タイ記録を保持。母親がプレーしていたソフトボールに影響されて野球を始めたという。ケン・グリフィー・ジュニアとは幼馴染で、いつも一緒に野球をプレーし、家族ぐるみの付き合いでもあったという。のドラフト3巡目でヒューストン・アストロズに入団。俊足の中堅手として、1A時代のには年間65盗塁を記録している。にメジャーリーグ初昇格を果たす。途中にシカゴ・カブスへ移籍。の対ニューヨーク・メッツ戦で出場し、ドワイト・グッデンから第1打席より3打席連続本塁打を放ち、名が知れ渡る(開幕戦3本塁打は現在もメジャー記録)。しかし、メジャーに定着することはできなかった。途中にカブスからウェーバー公示され、ボストン・レッドソックスへ移籍。移籍後も成績を残せず、シーズン終了後にFAとなった。メジャー在籍時代、俊足の持ち主でもあるローズには先頭打者としての活躍が首脳陣から期待されていたが、ローズは長距離打者として出場したかったために首脳陣と折り合わず、その夢を実現するために日本に来ることを決意した。、近鉄バファローズが獲得を発表。1996年はシーズン3本のサヨナラ本塁打を放つなど、日本野球に適応し、全試合出場を果たした。この年はチーム三冠王となる活躍を見せた。8月にパシフィック・リーグ新記録(当時)となる4試合連続猛打賞を記録するなど活躍し、来日初の3割を記録し、初のベストナインを獲得。この年も全試合に出場したは前年より調子を落とし、前年と同じ22本塁打を打ったものの打率.257だった。、シーズン途中からチームが最下位に低迷する中で成績を伸ばし、40本塁打・101打点を記録して、初の本塁打王・打点王のタイトルを獲得。もチームは2年連続で最下位となり、自身も前年を下回る成績だったが3年ぶりに全試合に出場した。は本塁打を量産し、9月5日の西武戦(西武ドーム)でパ・リーグの外国人で史上初となる50号を放ち(パ・リーグで50本塁打は1986年の落合博満以来15年ぶり、プロ野球の外国人では1985年のランディー・バース以来16年ぶりの快挙となった)、9月8日のダイエー戦(大阪ドーム)で51号と52号の2本塁打を放ち1963年の野村克也、1985年の落合博満の記録に並び、9月9日のダイエー戦(大阪ドーム)でパ・リーグの選手としては史上最多本塁打となる53号を放った。9月12日のロッテ戦(大阪ドーム)でランディー・バースに並ぶ54号を放ってから6試合は本塁打は出なかったが、9月24日の対西武戦(大阪ドーム)で松坂大輔から本塁打を放ち、王貞治以来の当時の日本タイ記録となるシーズン55本塁打を達成してパ・リーグ優勝に貢献、初のMVPにも選出された。日本シリーズでも第2戦で決勝3ラン本塁打を放つなど活躍。には打点王を獲得。は51本塁打を放ち、3度目の本塁打王獲得(当時、外国人選手の受賞回数最多タイ)。また、3年連続ベストナインにも選出された。2001年から2003年にかけて、西武のアレックス・カブレラと3年続けて本塁打王争いを繰り広げた。このうち2001年・2003年と2度に渡ってカブレラの本塁打数を上回り、本塁打王を獲得した。終盤には対西武戦で、近鉄のバッテリーが55号本塁打まで後1本と迫っていたカブレラに対し勝負をしなかった。観客席からブーイングが起き、ローズは外野で頭にグラブを乗せて下を向いていた。ベンチに帰ってからバッテリーに対して「俺に気を使っているなら敬遠を止めてくれ、汚いやり方をしてまで本塁打王を獲りたくない」と話した。その結果、直後の打席は真っ向勝負し、結果カブレラは本塁打を放ち見事55本塁打を達成した。ローズはカブレラと仲が良く、試合後に食事に行っても「今回(2002年)はカブレラが本塁打王。俺は来年頑張れば良い。フェアに勝負していきたい」と語った。ローズ本人は46本塁打だったが、主軸としてチームの勝利に貢献した。2003年もカブレラと本塁打王争いを繰り広げ、この年は51本塁打を放ち、カブレラと1本差で本塁打王のタイトルを獲得した。シーズン終了後、中村の5年契約を引き合いに出して、2年・3年の複数年契約を望んでいたが、近鉄フロントは「複数年契約を認めない」と主張した。ローズは当時「外国人差別的なフロントの言い分に失望した」「どんなに活躍しても『ガイジン』としてしか扱ってくれない」と発言し、近鉄フロント・日本プロ野球界を非難した。この交渉決裂により、読売ジャイアンツへ移籍した。背番号は20。は落合博満に次ぐ史上2人目で、外国人では史上初の両リーグでの本塁打王獲得(リーグを跨いでの2年連続本塁打王も史上初)。なお打点は99で100を超えなかった。この年の巨人はシーズン259本塁打の日本記録を打ち立てたが100打点を超えた選手は一人もいなかった。ローズの99がチーム内最多の打点だった。同年途中にFA権利を取得し、翌年から日本人扱い(郭泰源に続き2人目、野手では初)となる。近鉄時代の左翼手・右翼手とは異なり、中堅手としての守備起用が主となる。2005年正月の報知新聞インタビュー上では「登録を狼主(ろうず)にしたい」「引退後は和室を作り、バットを飾りたい」と答えており、野球人生を巨人で終える考えを持っていた。4月26日のヤクルト戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)で、9回表にアレックス・ラミレスが放った左中間への打球を追わなかったことを弘田澄男コーチに「緩慢プレー」と指摘されると、激高して弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。試合も敗れて5連敗を喫し、試合後も怒りが収まらず、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると、必死に宥める通訳を制して「どんどん(記事に)書いて」と前置きした上で「負けたのは俺のせいだと弘田(澄男)さんが言った。日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい? ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた。この言動は物議を醸し、罰金を徴収された。8月9日には右肩の故障として降格。帰国して手術を行ったため、シーズン中の復帰は絶望となった。結局この年は101試合の出場で27本塁打、70打点、打率.240と前年より成績を落としてしまい規定打席にも7打席足りなかった。不本意な成績で終わったことから11月7日に戦力外通告を受け、この年限りで巨人を退団した。は帰国してシンシナティ・レッズとマイナー契約を結ぶ。しかし、招待選手としてオープン戦では12試合で27打数6安打と奮わず、レッズから降格を通達された。3月21日に一時は現役引退を表明して、公式戦は1年間プレーしなかった。同年オフにオリックス・バファローズの球団関係者に電話で「日本で野球をやりたい。手術した右肩の状態も大丈夫だ」と日本球界への復帰を伝え、古巣合併先であるオリックスの入団テストを受けることが決まった。の春季キャンプで入団テストを実施することが決定し、受験の為来日。当初は、体型が以前の87kgから100kgにまで増量していて明らかに身体が丸まっており関係者一同不安にさせたが、本人は「少し時間をくれ」と発言。テスト期間中に見事絞り上げ2月26日に合格。3月1日に入団が決定し、背番号は8に決まった。入団決定時の記者会見の第一声は、日本語での「タダイマ」だった。オリックスでのローズの応援歌は、曲自体は近鉄時代と同じだったものの、歌詞は「再出発」という意味で変更された。4月4日のロッテ戦で、小野晋吾から4号本塁打を放って日本球界では歴代28人目、外国人選手では初となる通算1000打点の記録を達成。5月10日の対ロッテ戦で1354試合目の出場となり、ロベルト・バルボンが持っていた外国人選手の最多出場記録を更新した。5月27日の巨人戦で上原浩治から決勝本塁打を放ち「全球団から本塁打」を達成。6月30日の対日本ハム戦では通算1500本安打を達成。9月2日の対ロッテ戦では通算400本塁打を達成。9月18日の対西武戦では42号本塁打を放ち、山崎武司に1本差を付けたものの左股関節を悪化させ、2004年以来の本塁打王獲得間近だった終盤で無念の帰国となった(本塁打王は43本塁打の山崎が獲得)。長打率.603は両リーグ通じてトップ、出塁率.403、四球数88個、三振数147個はパ・リーグ1位であるなど、記録ずくめのシーズンだった。4月12日の楽天戦で、レロン・リー(通算1579本安打)が持つ外国人選手通算最多安打を抜き、通算安打数が1582本になり、外国人通算安打の新記録を達成。5月26日の対横浜戦では通算1500試合出場記録、10月1日のソフトバンク戦では杉内俊哉から40代での40号本塁打を達成し、自身3度目の打点王を獲得。4月26日の日本ハム戦で、榊原諒から史上12人目となる通算450本塁打を達成。しかし、5月13日の対西武戦で星野智樹から死球を受け、右手第五中手骨折と診断されて離脱した。8月4日の対楽天戦で復帰し、岩隈久志から先制適時打を含む3安打猛打賞を記録。8月7日の対ロッテ戦で通算300二塁打を達成。しかし、前述の骨折による離脱の影響もあり、日本でプレーした年で最低の成績(84試合出場、91安打・22本塁打、最少となる62打点)で、規定打席数に到達しなかったのも2005年以来、2度目だった(ただし、打率自体は.308と2001年の.327に次ぐ成績)。シーズン終了後の契約交渉が難航したため、12月2日に球団から発表された次年度契約保留選手名簿から名前が外され、自由契約選手として公示された。しかし、球団側は貴重な戦力として評価しており、今後も残留へ向けて交渉を続けるとしていたがローズ側から連絡が一切なかったため、2010年1月23日に交渉を打ち切り、そのまま退団した。契約交渉が難航した理由として、結果を残しても41歳と高齢で、3億5000万(推定)の高年俸がネックとなり、再契約のために球団が2億5000万を提示したことで、公傷(5月13日に星野智樹から受けた死球)を認めてほしいというローズとの折り合いが付かなかったためである。その後、どこの球団に所属することはなくこの年限りで2度目の現役引退。引退後はアメリカに帰国し、テキサス州ヒューストン郊外で父親と二人で暮らしながら、息子のバスケットボールチームのコーチをしていた。5月25日に、近鉄時代のチームメイトでもある吉岡雄二が監督を務める日本の独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグの富山GRNサンダーバーズからのオファーを機に現役復帰を決意し、野手コーチ兼任で入団。変化球への対応に秀でる。内角高めがウイークポイント。2001年9月24日に松坂大輔からシーズン55本目の本塁打を放ったが、同月29日のロッテ戦、30日のダイエー戦では勝負を避けられた。その後のオリックス戦2試合でも本塁打は出ず、新記録はならなかった。後にローズは当時ダイエーの監督が王貞治だったことについて「王さんに悪い感情はない。日本の野球は捕手とバッテリーコーチが決めるから。実はあの日、55号を記念して王さんにサインボールを3個もらった。そのボールは今も大切に飾っている」と語っている。 2001年、少年サンデー超2001年11月号に「タフィ・ローズ物語」が掲載された。
出典:wikipedia
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