寺内 大吉(てらうち だいきち、1921年10月6日 - 2008年9月6日)は、作家、スポーツライター、浄土宗の僧侶。本名は成田 有恒(なりた ゆうこう)。東京府荏原郡世田谷村(現在の世田谷区)生まれ。生家は浄土宗の大吉寺である。東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)卒業後、1945年に大正大学宗教学部卒業。大学在学中から富沢有為男の下へ出入りして文学を学び始めると共に、生家である大吉寺の住職となる。1955年に「逢春門」でサンデー毎日大衆文芸賞、翌1956年には「黒い旅路」でオール讀物新人賞受賞。この頃に記者として取材に訪れた司馬遼太郎と知り合い、1957年には彼らと同人誌「近代説話」を創刊、1960年には同誌に掲載した「はぐれ念仏」で直木賞受賞。その後1983年には長編『念仏ひじり三国志』で毎日出版文化賞受賞。関西文芸界の世話役として知られるようになる。世間には『なまぐさ坊主作家』として知られるようになり、やがて小説を執筆する傍ら、スポーツ番組の解説者としてテレビに出演していたが、公の場に姿を現すときには必ずベレー帽をかぶっていたことから、いつしかベレー帽が寺内のトレードマークとなった。また浄土宗僧侶としても数々の役職をこなし、1991年から2001年までは浄土宗宗務総長を勤め、同時に学校法人浄土宗教育資団(現・学校法人佛教教育学園、佛教大学などを運営)の理事長も務める。宗務総長在任期は宗派内の知恩院派(京都)と増上寺派(関東)との融和につとめた。2001年からは増上寺第87代法主となる。2008年9月6日午後5時12分、心不全のため東京都文京区の病院にて遷化。。密葬は増上寺で執り行われた。法名は「天蓮社大僧正超誉上人英阿大吉有恒大和尚」。作家としてだけではなくスポーツ評論家としても活躍しており、TBSのキックボクシング中継(「YKKアワー キックボクシング中継」等)及び特別競輪決勝戦中継の解説者としてテレビに出演するなど、野球、ボクシング、競輪など多岐に亘る評論活動も行っていた経歴がある。1973年に放送された『ウルトラマンタロウ』(TBS系)の第2話「その時ウルトラの母は」・第3話「ウルトラの母はいつまでも」にボクシングジムの会長役として出演し、オープニングには、「特別出演」と記載されていた。競輪は師匠にあたる富沢有為男に教えられたもので、富沢が福島県在住であったため度々現地を訪れ近隣の競輪場に足を運んだことから、平と会津(共に当時)の競輪場に愛着を持つようになる。やがて論客および評論家として、競輪の作品やエッセイを執筆するだけでなく選手のニックネームの名づけ人としても有名になった。また長らく南関東自転車競技会に「世話人」として名を連ね、毎年抽選で選ばれたファンと共に、日本競輪学校への日帰り旅行に同行するなどして、一般のファンとの直接対話にも努めていた。往時を知るファンや選手からは「(競輪)和尚」と呼ばれている。競輪界では生前の功績を讃えるため、2008年より毎年12月に行われるKEIRINグランプリシリーズのS級戦を寺内大吉記念杯として開催している。これは過去に立川競輪場で開催されていた同じ直木賞作家の阿佐田哲也杯を受け継いだ「冠杯」である。初期はスポーツ小説やギャンブル小説など世俗的な作品を中心に執筆していたが、後年は仏教関係の入門書や小説が作品の中心となっていた。いくつかの作品が原作として映画化やドラマ化されており、そのうち『競輪上人随聞記』は1963年に『競輪上人行状記』として西村昭五郎監督で、短篇『すぷりんたあ』(スポーツ文学全集収録)は、1968年に『セックス・チェック 第二の性』として増村保造監督で、それぞれ映画化されている。しかし作家としての作品の多くは、僧侶としての知識を活かし、また独自の哲学や宗教観を強く反映したものが多い。その中でも『化城の昭和史』は、満州事変あるいは五・一五事件や二・二六事件から始まる昭和初期以降の軍部独裁やそれに関連した様々な事象に対して、石原莞爾や北一輝らの日蓮主義者がどのように関知したかを中心に、ゾルゲ事件で刑死することとなる尾崎秀実に扮した主人公の視点から描いた、宗教関連小説の代表作ともいえる。なおペンネームの由来は、「大吉寺内 成田有恒様」宛の郵便物を受け取った時、大吉と寺内を引っくり返すというアイデアから生まれたものである。
出典:wikipedia
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