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北条貞時

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。文永8年12月12日(1272年1月14日)、北条時宗の嫡男として鎌倉に生まれる。幼名は幸寿丸。建治3年(1277年)12月2日に元服して貞時と名乗った。この様子は『建治三年記』の同日条に得宗家嫡男の元服の貴重な記録として残されている。この時の烏帽子親は明確には示されていないが、「二棟の御所西の御格子に上らる。西の御侍」の記述から、元服が行われた場所が二棟御所の西侍であり、「越州刻限を申さる。その後出御か。次いで賢息(=貞時)御簾中に参らる。」という表現から当時の将軍・惟康親王が立ち会ったことが窺えるため、これまでの得宗家当主と同様に将軍(惟康親王)を烏帽子親として元服したものとみられている。元服に際しては烏帽子親の偏諱(実名の1字)を受けることが多いが、「貞時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(惟康親王の「惟」または「康」の1字)は受けなかったようである。同時代(の上の立場)の者で「貞」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされる平貞盛に肖ったものとする見解が示されている。元々は細川重男がこの説(加えて貞時の息子・高時の「高」が高望王に由来するとする説)を唱えたものの根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。これは、細川が著書で、父の時宗の代に、得宗家による政治支配体制を確立させるにあたりその正統性を主張するために、祖にあたる北条義時を武内宿禰になぞらえる伝説が生まれて流布していたことや、時宗とは不可分の関係にあった平頼綱(貞時の乳母の夫にあたる)が自らの家格を向上させるため、次男・助宗(資宗とも書く)の名字(名前の1字)を平資盛に求めた可能性があることを述べており、こうした考え方が可能ならば、同様に時宗が自分の嫡男の名字を平貞盛に求めたと考えることができるのではないかという理由によるものである。加えて角田は、貞時の代には将軍→御家人という偏諱の授与の図式は存在せず、得宗家当主である貞時の「貞」の字が他の御家人に与えられる図式がこの時代に成立していたことが御家人の名前から窺え、これは得宗権力が確立していたことの徴証の一つとして読み取れるとする見解を示している。弘安7年(1284年)4月、父・時宗が病死し13歳(満12歳)で執権に就任する。だが8月には北条時光(ときみつ、北条家佐介流)の陰謀事件が起こるなど、その初期治世は安定しなかった。これは貞時に兄弟がおらず、また叔父(父の実弟)であった北条宗政など有力親族が早世していたために幼い貞時を支えるべき藩屏が全く存在していなかったためとされる。このため幕政は貞時の外祖父(ただし血縁上は外伯父)である有力御家人で弘安徳政を推進していた安達泰盛が掌握するが、泰盛の施策は得宗家の勢力を削減して御家人らの既得権益も犯したために幕府内で孤立した。このため得宗家執事(内管領)で貞時の乳母の夫にあたる平頼綱ら反安達勢力との対立が激化する。弘安8年(1285年)11月17日、頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下す(霜月騒動)。これにより泰盛派は一掃され、頼綱が実権を掌握して権勢を振るった。正応2年(1289年)には将軍・惟康親王を退けて、久明親王を擁立している。頼綱は貞時を擁して御家人保護を全面に出す事で権力基盤としていたが、内管領とは得宗家の家政機関の首長として強大な権力を持つ一方で幕府の主要構成員である評定衆・引付衆ではない御内人であり、将軍家に仕える御家人と北条家に仕える内管領ではそもそも身分差が大きく幕政を主導する事自体に無理があった。このため泰盛派の生き残りである宇都宮景綱ら有力御家人らの反勢力による不満が高まり、頼綱は窮余の策として得宗被官に監察権を与えて強圧的な政権運営を行なうが、これにより成長した貞時からも見切りをつけられることになる。正応6年(1293年)4月22日、貞時は幕政を壟断していた頼綱とその一族を鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて誅殺した(平禅門の乱)。実権を取り戻した貞時は、一門の北条師時(従兄弟、宗政の子でのち第10代執権となる(後述参照))や宗方らを抜擢し、また霜月騒動で追放されていた金沢北条家の北条顕時らの復権も断行して父の時代へ回帰することを基本方針として得宗家主導の専制政治を強力に推し進めた。10月には引付衆を廃止して顕時・師時・宗宣(のち第11代執権(後述参照))・長井宗秀・宇都宮景綱・時村・公時ら7名を新設した執奏に任命するなど泰盛派の登用を後ろ盾として訴訟制度改革を行い、得宗家による専制政治の強化に努めた。また、元寇後にも薩摩沖に異国船が出現するなどの事件もあり、永仁4年(1296年)には鎮西探題を新たに設置するとともに、西国の守護を主に北条一族などで固めるなどして、西国支配と国防の強化を行なっている。そして、元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するために、永仁5年(1297年)に永仁の徳政令(関東御徳政)を発布するが、これは借金をしにくくなるという逆効果を招き、かえって御家人を苦しめた。正安3年(1301年)、鎌倉に彗星が飛来(現在のハレー彗星にあたる)、これを擾乱の凶兆と憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った。嘉元3年(1305年)4月22日、貞時は鎌倉の宿館が焼失したため師時の館に移ったが、その翌日に内管領の北条宗方によって貞時の命令として連署の北条時村が殺害される事件が起こった。貞時は5月2日、時村殺害は誤りとして五大院高頼らを誅殺し、5月4日には宗方の陰謀として宗方とその与党を誅殺した(嘉元の乱)。この事件に関しては執権の師時と宗方の対立、さらに得宗の貞時と歴代にわたって冷や飯を食わされていた北条宗宣の対立が背景にあったとされている。徳治3年(1308年)8月4日には将軍の久明親王を廃して子の守邦親王が擁立された。また幼い息子である北条高時の足場固めの布石として長崎円喜・安達時顕を登用し彼ら2人を高時を補佐する両翼として備えようとした。延慶2年(1309年)1月には高時の元服式を行なっている。だが幕府の内外に問題を抱え、家庭的にも息子2人に先立たれた貞時の政治は次第に精彩を欠いて情熱は失われた。貞時は次第に政務をおろそかにして酒宴に耽ることが多くなり、御内人の平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されている(『平政連諫草』)。応長元年(1311年)9月22日には高時が成長するまでの中継ぎであった執権の師時が死去し、嘉元の乱で貞時と対立した宗宣が執権に就任するなど、最晩年の貞時政権下では世代交代と得宗権力の弱体化が進行し、貞時が平頼綱を滅ぼして以降築いてきた得宗による専制的な体制は崩壊していった。一方、最高権力者であるはずの貞時が政務を放棄しても長崎氏らの御内人・外戚の安達氏、北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって幕府は機能しており、得宗も将軍同様装飾的な地位に祭り上げられる結果となった。貞時は師時の後を追うように1ヵ月後の10月26日(1311年12月6日)に死去。享年41(満39歳没)。死に臨んで、貞時は長崎円喜と安達時顕の二人を枕元に呼び寄せ、高時を補佐し幕府を盛り立ててゆくよう命じたという。廟所は鎌倉市山ノ内の瑞鹿山円覚寺の塔頭仏日庵。木像も納められている。高時は僅か9歳で得宗家の家督を継ぐが、既に貞時の晩年に得宗の地位は形骸化しており、政治的な主導権を発揮する機会もない形式的な存在のまま、元弘3年(1333年)の元弘の乱による鎌倉幕府の滅亡の時を迎えることになった。古典『太平記』では、貞時は祖父の5代執権北条時頼と同様の廻国伝説がある。貞時は得宗家による専制の強化を通じて幕府の権威回復に乗り出した。この改革を助けたのが、得宗の側近として活動してきた長崎円喜ら御内人であった。だが、得宗とその周辺への権力の集中は、やがて御内人をはじめとする幕府首脳部への権力の一極集中を促し、政治の腐敗などに繋がった。政治の紊乱は悪党の蠢動などの社会不安を惹起するなど、後の後醍醐天皇による討幕運動が始まる遠因を作り出した時代でもあった。晩年の貞時の行状は乱れて連日のように酒宴を開いたが、一門の北条貞顕すらもその乱行に嘆いて書状で「連日御酒、当時何事もさたありぬとも覚えず候、欺き入り候、欺き入り候」と評し、また貞顕は円喜に奏上を頼んだ用件が年を越えても未だに奏上されていない事にも慌てたという(延慶3年初頭における貞顕書状)。この貞時の乱行が次代の高時の乱行として引用される事もある。※ 日付=旧暦貞時の代には「貞」の字を一般の御家人に下賜する図式が成立していたことが論文によって指摘されており(前述参照)、これに該当する人物は以下の者とみられる。ほかほか

出典:wikipedia

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