北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権北条貞時の三男。嘉元元年12月2日(1304年1月9日)、北条貞時の三男として生まれる。延慶2年(1309年)に7歳で元服する。この詳しい様子を伝える史料は今のところ発見されていないが、それまでの得宗家当主 と同様に、幕府の御所において、将軍(当時は守邦親王)を烏帽子親として行われたものと考えられている。元服に際しては烏帽子親の偏諱(実名の1字)を受けることが多いが、「高時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(守邦親王の「守」または「邦」の1字)は受けなかったようである。同時代(の上の立場)の者で「高」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされる平高望(高望王)に肖ったものとする見解が示されている。元々は細川重男がこの説(加えて父・貞時の「貞」が平貞盛に由来するとする説)を唱えたものの根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。これは、細川が著書で、北条時宗(高時の祖父)の代に、得宗家による政治支配体制を確立させるにあたりその正統性を主張するために、祖にあたる北条義時を武内宿禰になぞらえる伝説が生まれて流布していたこと や、時宗とは不可分の関係にあった平頼綱(貞時の乳母の夫にあたる)が自らの家格を向上させるため、次男・助宗(資宗とも書く)の名字(名前の1字)を平資盛に求めた可能性があること を述べており、こうした考え方が可能ならば、同様に時宗が自分の嫡男の名字を平貞盛に、貞時も嫡男の名字を高望王に、それぞれ求めたと考えることができるのではないかという理由によるものである。加えて角田は、貞時・高時の代には将軍→御家人という偏諱の授与の図式は存在せず、得宗家当主である貞時の「貞」の字や高時の「高」の字が他の御家人に与えられる図式がこの時代に成立していたことが御家人の名前から窺え、これは得宗権力が確立していたことの徴証の一つとして読み取れるとする見解を示している。応長元年(1311年)、9歳の時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕と内管領・長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。その後高時まで三代の中継ぎ執権 を経て、正和5年(1316年)、父と同じ14歳で14代執権となる。その頃には円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強めていた。高時は既に亡き日蓮の弟子の日朗に殿中にて諸宗との問答対決の命を下し、日朗は高齢のため代わりに門下の日印(1264年 - 1328年)を討論に向かわせ、文保2年(1318年)12月30日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけて、いわゆる鎌倉殿中問答(弟子の日静が記録に残す)を行わせた。時の征夷大将軍は宮将軍の守邦親王である。結果、日印が諸宗をことごとく論破し、題目宗の布教を高時は許した。在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起き、正中元年(1324年)、京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された。正中3年(1326年)には、病のため24歳で執権職を辞して出家(法名・崇鑑)する。後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こる。3月には金沢貞顕が執権に就任するがすぐに辞任し、4月に赤橋守時が就任することで収拾する。この騒動の背景には太守高時の庶子である邦時を推す長崎氏に対し、邦時は側室の子であり、高時正室の実家である安達氏の方は正嫡子が生まれるまで親族で高時実弟の泰家を推す安達氏との確執があるとされる。元弘元年(1331年)には、高時が円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起こる。8月に後醍醐天皇が再び倒幕を企てて笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する元弘の乱が起こると、軍を派遣して鎮圧させ、翌1332年3月にはまた後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基らを処刑する。皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立てる。元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って六波羅探題を攻略。関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。新田軍が鎌倉へ侵攻すると、高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃、享年31。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、神として宝戒寺に祀られている。鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、高時の慰霊のために徳崇大権現会・大般若経転読会が行われる。境内の徳崇大権現堂に祀られている北条高時像が、輿に乗り本堂に迎えられ(「徳崇大権現会」)、「大般若経転読会」が行われる。大般若経の正式名称は大般若波羅蜜多経といい三蔵法師がインドから持ち帰った600巻に及ぶものである。転読が終わると、高時の御神像は権現堂に戻る。古典『太平記』や『増鏡』『保暦間記』『鎌倉九代記』など後世に成立した記録では、闘犬や田楽に興じた暴君または暗君として書かれる傾向にあり、江戸時代から明治にかけての史学でもその傾向があった。ただし高時の実像を伝える当時の史料は少なく、これらの文献に描出される高時像には、足利尊氏を正当化し美化するための誇張も含まれている。太平記には高時が妖霊星を見て喜び踊り、一方で藤原仲範が妖霊星は亡国の予兆であるため鎌倉幕府が滅亡することを予測したエピソードが挿入されている。更に、北条氏の礎石を築いた初代執権の北条時政が江島に参籠したところ、江島の弁財天が時政に対して時政から7代の間北条家が安泰である加護を施した話を記載し、得宗で7代目に当たる高時の父貞時の代にその加護が切れたと記載する。『太平記』は、高時は暗愚であった上、江島弁財天の加護まで切れてしまったのだから、鎌倉幕府の滅亡は至極当然のことであった、と断じている。こうした『太平記』における高時像は、討幕を果たした後醍醐天皇並びにその一派が、鎌倉幕府の失政を弾劾し、喧伝する中で作り上げたものという側面もある。大正時代の日本史の教科書は『太平記』の記述を参考としており、高時を闘犬、田楽に耽溺して政務を顧みない暗愚な当主として記載している。では実際の高時はどのような人物だったのかというと、『保暦間記』は高時の人物像について「頗る亡気の体にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」「正体無き」と記している。一族である金沢貞顕が残した『金沢文庫古文書』にも彼が病弱だったことが強調されており、彼の病状に一喜一憂する周囲の様子をうかがわせる。また貞顕の書状には「田楽の外、他事無く候」とも書かれており、田楽を愛好していたことは確かである。また、『二条河原の落書』には「犬・田楽ハ関東ノホロ(滅)フル物ト云ナカラ」と書かれており、鎌倉幕府滅亡から間もない時から高時が闘犬・田楽を愛好したことが幕府を滅ぼした要因の一つだとされてきたことが伺える。父の貞時の場合、その父である時宗が没した時には14歳であり、政務に勤しむ父親の姿を知っており、23歳の時に平禅門の乱で実権を掌握してからは政務に勤しんで得宗専制を確立したが、高時の場合は彼が3歳の時に起きた嘉元の乱以来貞時が政務に対する意欲を失って酒浸りの生活になっていたうえ、高時が9歳の時には父は世を去っていたため、高時は政務を行う父の姿を知らなかった。また、晩年の貞時が酒浸りになって政務を放棄したため、高時が家督を継いだ頃には幕府は長崎円喜らの御内人・外戚の安達時顕・北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、最高権力者であったはずの得宗も将軍同様装飾的な地位となっていたため、高時は主導的立場を取ることを求められていなかった。その一方で高時は夢窓疎石らの禅僧とも親交を持ち、仏画などにも親しんだことが知られている。また、『増鏡』も、高時が病弱であり、鎌倉の支配者として振る舞っていたものの、虚ろでいることが多かった、体調が優れている時は、田楽・闘犬に興じることもあったと記している。また、田楽・闘犬を愛好したのは執権を退いた1326年以降であったと記している。『太平記』の記述は、『増鏡』などと比べると、悪意のある誇張が目立つと指摘される。1884年(明治17年)11月東京猿若座で初演された黙阿弥作の活歴物の新歌舞伎『北条九代名家功』・通称『高時』で、九代目市川團十郎は高時の高慢かつ孤独で愚鈍な深層心理を内側から極めて写実的に表現して大当たりとなったが、これが今日ある高時の人物像を決定的なものにした。同作は今日でも上演されることが多い人気作となっている。また近年では、NHK大河ドラマ『太平記』(高時役は片岡鶴太郎)や湯口聖子作の漫画『風の墓標』(秋田書店)の影響からか、病弱、かつ虚無感を漂わせた人物像が定着するようになった。※ 日付=旧暦※参考資料:北条時政以来後見次第(東京大学史料編纂所所蔵)、鎌倉年代記(増補続史料大成)、関東開闢皇代并年代記事(東京大学所蔵)高時の代には「高」の字を一般の御家人に下賜する図式が成立していたことが論文によって指摘されており(前述参照)、これに該当する人物は以下の者とみられる。ほかほか
出典:wikipedia
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