人権屋(じんけんや)とは、社会運動・刑事裁判等において人権の擁護を主張している者に対して用いられる蔑称であり、そのうち「人権」の概念を自分に都合の良いように、あるいは自己の権益に繋げようという意図をもって曲解・濫用しているという消極的なニュアンスを多分に含む語である。このような蔑称が用いられる背景には、そもそも「人権」の概念に対する認識・解釈の差異が存在している。人権屋は、本来の意味での人権派とは異なるものであるとされ、具体的には、など、大抵は本来の人権の意味を履き違えていたり誇大的に主張したりする者を指すとされる。しかし、「自分が考える基準とは異なる人権概念を主張する者」を、非難する際の蔑称として「人権屋」を用いるだけであるとの指摘もあり、概念が定まっていない。最近では「人権屋」という言葉の横行による「人権派=人権屋」というイメージが付きまとうようになり、結果として人権概念に不信感を覚える者や、極端な場合、人権そのものを嫌い、または人権概念を否定、拒絶する者が出てきたことも否定できない。人権屋という言葉のほかに、「人権ゴロ」「人権業者」のほか、2ちゃんねるで生まれた暴走族の蔑称である「珍走団」から派生した「珍権派」という言葉もある。この他、呉智英が自著『危険な思想家』のなかで、「人権真理教」と差別的に揶揄している。さらに、「人権」という言葉そのものを錦の御旗に仕立て上げ、自らの主張と相容れない他者の主張や反論を、「人権侵害」のレッテル張りをして高圧的に押し込め、封殺しようとするなどの行為が行われる場合もある。これらは、個人の人権と最も相容れないはずのファシスト党やナチスが、民族・国家の存続を大義に掲げ少数派を弾圧したことになぞらえて、「人権ファシスト(ファシズム)」「人権ナチス(ナチ)」と揶揄されることがある。日本において、凶悪な犯罪の加害者の擁護者に対し、その主張が理不尽であるとする場合。例えば、刑事裁判において凶悪犯罪の疑いで起訴された被告人を担当する弁護士は、何らかの要素をもって減刑を試みることが多い。刑事裁判における弁護人はあくまで被告人の権利の保障をする者であり、被告人の人権(利益)を第一として行動するのが近代刑事司法システム上の責務であることから、これは業務上の当然の行為であるが(刑事訴訟法に基づき、必要的弁護事件では被告弁護人ポストが空席の場合刑事裁判は進行することが出来ない)、被害者側に感情移入する側からは「人権」を自らの都合のいいように曲解しているとして批判される場合がある。しかし、刑事裁判の目的は適正手続と適正科刑の両立であり、法システム自体が「被告人の人権」を守ることを前提としている。これは歴史的に見ても刑事裁判が権力者により悪用されてきたという背景があるためである。そのため、刑事訴訟の場において被告人の本来的な人権を様々なシステムを用いてでも守ることは当然であり、弁護士が被告人の本質的な人権を保護することもまた正当な業務である。犯罪被害者の立場に立った感情的批判による「人権屋」という概念は、往往にして、通常保護されるべき権利をも否定するものになりやすい。被告人が有する本来的な権利との区別を十分に検討することが重要である。また、悪意を持った弁護士の追及する「人権(利益)」と、本来的な弁護士が追求する「人権」という概念を冷静に区別することも重要である。「人権屋」と非難される場合、“過剰な加害者擁護は場合によっては事件の被害者(ひいては、被害者となりうる国民全体)の人権を侵害しかねないものであり、大局的なバランスを欠く”という意見と共に用いられる場合が多い。だが被告人の有する本来的な人権を過剰に擁護したとしても、それが直ちに事件の被害者の人権を侵害するということはできない。法理念上、被告人の利益と被害者の利益は別個のものであり、ともに保障されるべきものである。刑事訴訟法学の歴史的経緯において被告人の利益を守ることが重要課題とされてきたため、事件の被害者の人権を守る法整備が未発達であるという社会的背景がある。人権を擁護する弁護活動が“直接的に”被害者の人権を侵害するとすることはできず、注意を要する。慎重かつ冷静な判断が重要である。弁護士は日本弁護士連合会への加入が義務となるが、当の日弁連が死刑廃止のスタンスを主張しており(一応思想などの派閥は存在する)、犯罪加害者を弁護する者がすべて人権屋であると取られかねない状況になっているのも現状である。ただし当然の事であるが、弁護士にも個々で様々な思想・信条が存在する為、犯罪加害者を弁護する弁護士がすなわち人権屋ではない事に留意すべきである。凶悪犯罪を起こした被告人を「犯行時は心神喪失状態だった」といって精神鑑定を受けさせ、責任能力の有無を争点とすることで無罪判決を得ようという法廷戦略が行われるケースが多い(たとえ鑑定結果が正常だとされても裁判の大幅な引き延ばしに繋げる事ができる)。もっとも、被告人を精神障害者に仕立て上げることのほうが人権を侵害してるのではという意見もある。しかし精神鑑定の議論で重要なことは、“本当に被告人が心神喪失・心神耗弱であったのか”ということである。精神鑑定を受けさせること自体にはなんら問題はないことに注意を要する。そもそも、刑法の理念上、真に責任能力のない者に対して無罪判決を下すことは当然のことである。これは、犯罪の定義(構成要件該当性、違法性、責任)のうち、責任が真に欠ければ犯罪ではない(=犯罪不成立)、という“責任なければ刑罰なし”という刑法の原則からくるものである。したがって、精神鑑定の結果心神喪失・耗弱で無罪になったとしても、なんら問題はない。“人権屋”とすべきなのは、“本当は心神喪失・耗弱状態ではなかったのに悪意を持って精神鑑定を利用する”という行為者であることに留意すべきである。また、裁判の引き延ばしは被告人に対して利益につながらないとする意見もある。そもそも本来被告人には迅速な裁判を受ける権利が憲法上保障されている(憲法第37条第1項)からである。(具体的審理状況によっては利益になりうるが)引き延ばし行為は真っ向からこの利益に反する。また、被告人を精神障害者に仕立て上げることが人権侵害だというのは、本来は精神障害者でないものを仕立て上げる場合にのみ言えることである。そもそも、このような考え方が生まれてくる根底には、精神障害者に対する差別があるという意見もある。要は精神障害者とすることが人権侵害(=悪)であるとするのは、精神障害者を否定しているという考え方に基づくということである。本来は精神障害者にも責任能力を認めないことが(精神障害者に対する)人権侵害である、という考え方であったものが、“人権屋”論者によってバイアスがかけられたため、このような理論になったと推測される。
出典:wikipedia
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