江戸時代の日本は世界的に見ても園芸が非常に発達した地域であった。1681年(天和元年)には日本最古の園芸書「花壇綱目」(水野勝元著)が発行されているが、これは中国やイギリスに並び世界的に見ても早期のものである。西欧の園芸が造園術に含まれるものとして捉えられることが多いのと異なり、江戸時代の園芸は早くから農業や造園としてではなく、単独に芸道的存在として成立しており、精神修養、芸術、娯楽、投機など、様々な側面を見せている。また華道とも独立して存在していた。日本の園芸文化は本来中国のそれの影響を受けている。中国では唐代にボタンが盛んにもてはやされ、育種も進んだ。またウメやモモなども花を愛でることが行なわれた。宋代にはシャクヤクの育種が進み、また中国春蘭が文人思想と共に愛された。このほかキクやハス、フヨウなど、中国で観賞植物化したものは多い。これらはその都度日本にももたらされ、貴族や武士、僧侶などの趣味として定着していた。中国華北から華南にかけての植物は日本の気候にも適応しやすかったと思われる。一方で平安時代にはすでにサクラや秋草への愛好が見られ始め、日本独特の園芸文化が発展して行くことになる。鎌倉時代には盆養が普及し、室町時代には中国蘭が愛好されていたほか、すでにサクラやツツジ、ツバキに多数の品種が生まれつつあった。江戸時代はことのほか園芸が発達するが、その要因として、もともと江戸幕府の歴代将軍(特に初代から三代)が非常な花好きであり、その影響が大きいとされる。ただし前述のようにその素地ははるかに以前より存在していたと言える。将軍への献上等のために各藩は自慢の植物を「お留花」として門外不出とし、散逸を厳しく制限することもあった。しかし江戸時代全般を通じ参勤交代や交通、流通の発展により各地の植物が行き来して、三都をはじめ各都市に集積した。また大都市近郊には大規模な園芸商が興隆し、都市の園芸植物の需要に応えていた。江戸近郊の染井もそのような園芸商集積地の一つで、中でも伊藤家は代表的な園芸商のひとつであり、代々、広大な江戸城や大名屋敷、旗本屋敷に種苗を供給する役目を果たしたり、園芸書も多数刊行している。サクラのソメイヨシノも染井で生まれたという説が有力である。更には本草学の発展とも関連し、園芸は全国的な展開を見た。またごく初期には上方で発展が始まったことは他の文化と同様であるが、かなり早くから江戸でも発展が見られたことも特徴で、これは将軍とのつながりからも頷けることである。これら上方や江戸以外でも、熊本、伊勢、久留米、名古屋などで地域独特の園芸文化も花開いた。熊本の「肥後六花」(肥後椿、肥後山茶花、肥後菊、肥後芍薬、肥後朝顔、肥後花菖蒲)や伊勢の伊勢菊、伊勢撫子、伊勢花菖蒲、また久留米のクルメツツジなどは有名である。図譜類、園芸書の出版も相次ぎ、音楽作品にも「椿尽し」(松島検校作曲)や「桜尽し」、「つつじ」(佐山検校作曲)(共に地歌・箏曲)をはじめとして、園芸植物の品種を多数詠み込んだ楽曲がいくつも作られたりもした。例えば「椿尽し」にはツバキが22品種も詠み込まれている。これらを見ても当時、園芸がいかに文化として大きな地位を築き上げていたかが想像できる。江戸時代初期には、安土桃山時代から引き継ぐ形で、まずシャクヤク、キク、ボタン、ツバキ、ツツジなどが盛んになり、やがてカキツバタ、マツモトセンノウ、アサガオ、ナデシコ、サクラソウ等が加わった。更に江戸時代中期から幕末にかけカエデ、オモト、マンリョウ、マツバラン、セッコクのような葉の変異を追求する植物が非常に増えた。日本文化の中心は照葉樹林帯にあり、ここに産する植物に葉の美しいものが多かったためもあるであろう。江戸時代後半にはハナショウブや、気候の寒冷化も手伝ってかフクジュソウ、ミスミソウなど落葉広葉樹林帯植物も品種を増やした。マツモトセンノウは元禄、享保の頃には多数の品種があったが、その後化政に至るまでに散逸してしまったらしい。またカキツバタは江戸時代中期の段階ではハナショウブよりも品種が多かったが、その後あまり進展せず、幕末にはハナショウブが圧倒的な発展を示すようになる。このように江戸時代だけでも種々盛衰の波があった。江戸時代の園芸の特徴として、階級、性別を超えた愛好が挙げられる。これは当時日本を訪れた外国人によっても言及されている。園芸の推進役としては、部屋住みと呼ばれる家督を継げない旗本や御家人の非嫡男の存在が大きかったが、その他武士全般、武家の女性、僧侶や遊女、商人、農民等にも広く行なわれていた。下町に暮らす庶民も植物を何か栽培することが普通であった。また園芸の愛好家として集まる場合には士庶の区別もやわらぎ、身分差の緩衝の場としても機能した。ただしフウラン(富貴蘭)のように、始めの内は特定の階級(将軍、大名、旗本等)のみに愛好者が集中していた植物もある。ある御家人の母はサクラソウを愛し、重箱に寒天を流し固めて、そこに様々なサクラソウの品種の花を挿し並べて鑑賞することを考案して評判になったという。松平定信も園芸好きで知られ、自邸の庭園「浴恩園」にはサクラやハスなど多数の植物を収集し、それらの図譜も著わしている。イベントとして花を見ることも盛んに行なわれ、徳川吉宗は1720年、江戸市民の憩いのために飛鳥山に桜を植栽させたが、このような例は全国各地で見られた。また寺社の境内等ではキク、ボタン等の展示があり、堀切菖蒲園や小高園(初のハナショウブ園、1856年頃開園)のような、特定の植物を集め植栽して江戸市民の娯楽に供した観光施設も生まれた。向島百花園(1805年開園)や亀戸天神のフジ、浮間ヶ原のサクラソウなど都市内やその近郊には花の名所も多く存在して行楽の対象となり、四民が身近に花、植物に触れる場所となっていた。植物の流通、交流が多くなる中で、経済の発展と共に、新花、珍花が高価で取引され、江戸時代全般に亘り投機的側面も強く持つ植物が多かった。古くはキクに始まり、オモト、カラタチバナ、マツバラン、ナンテン、マンリョウ、フクジュソウ等でこのような傾向が非常に強く見られた。このような植物は金を生む樹として「金生樹」と呼ばれるほどであった。カラタチバナ(百両金)、マンリョウ(万両)などの名称にもその名残が残っている。そのため一攫千金を夢見て新花作出のための育種が盛んになり、また各地の山野に珍品が求められた。この点ばかりを江戸時代園芸の特徴として非常に強調する園芸史家もいるが、イギリスやオランダ(特にチューリップ・バブルが有名)、中国など園芸の発達した国では同様なことがよくあり、また美術品等でも投機的売買は特別なことではない。他方、藩によっては藩士の情操教育や精神修養のために園芸を奨励するところも少なくなく、趣味、癒し、芸術的精神の発露の手段として園芸、育種を行なう個人、結社も少なくなかった。ハナショウブの父とも讃えられる旗本、松平菖翁(松平左金吾)やサクラソウの「下谷連」などはその例である。このようにして投機とは無関係に育種された植物も少なくない。また栽培や繁殖の技術も追求され、冬期の保温の為に、今の温室やフレームに相当する暖室(おかむろ)や唐室(とうむろ)が考案されたり、多くの植物で様々な仕立て方や鑑賞方法が生まれた。栽培法を解説した書籍も多く著わされている。種間交雑の知識はなかったが、アサガオでは遺伝の法則性がメンデル以前に経験的に知られており、不稔性の品種の維持に活用されていた。江戸時代後期には、いくつかの植物、特にサクラソウなど非投機的な植物において「連」と呼ばれる愛好家の結社が誕生した。これらはたいてい閉鎖的組織で厳しい規則を持ち、家元制的な組織にまで発展するものも見られ、品種は門外不出で、入会には世話人を必要とし、最初は初歩用の普及品種を、そして習熟するに従い稀少品種を与えられ、退会もしくは死亡すればその品種はすべて没収、あるいは一子相伝などの決まりを持つものもあった。同じような例は熊本の肥後六花でも見られ、現在でも厳しい規則を保持している連がごく一部に存在する。一方でそういった組織に加わらず単独で栽培育種を楽しむ愛好家もいた。多数の品種を持つ植物では、新花の花合せ(花闘・品評会)が行なわれた。キクでは1713年頃からすでに京都で花合せが行なわれていた記録があり、その数年後には江戸でもキクの花合せが始まった。サクラソウでは1804年に江戸の「下谷連」が初めて新花の品評会を催した。ここでは会員の投票によって六段階に序列された。また江戸でのアサガオの花合わせに出品するために、速荷で鉢植えを運んだ大阪の商人もいたほど、花合わせは盛んに行なわれた。またしばしば品種のランク付けのために番付が発行された。オモトでは1799年、サクラソウでは1862年のものが現在最古のものとして確認されており、このほかほとんどの植物の番付が出版されている。これは品種総覧表、カタログの役目を持つと同時に、投機的な植物では換金価値の基準ともなった。現代でも「銘鑑」として番付が発行される植物も少なくない。明治維新前後から、花を見る植物を中心に西欧や中国へも輸出されるようになり、特にキクは原産地中国のキク事情を一変させ、更にはヨーロッパで非常な人気を博し、日本の美術工芸がヨーロッパのそれに多大な影響を与えたのと同じく、西欧における園芸植物に対する美意識にまで大きな影響を及ぼした。一方で江戸時代を通じ、しばしば海外から長崎等を経由して植物がもたらされており、西欧では野菜であったキャベツが渡来して観賞植物のハボタンになったのをはじめ、幕末にはサボテンやダリアなども愛好されていた。明治維新と共に廃れてしまった植物もあったが、多くは動乱を乗り越えて大正、昭和へと受け継がれ、江戸時代よりも発展したものも少なくない。キクやハナショウブのように、その後の発展により現代ではもはや普通の園芸植物としてとらえられているものもあり、これらはすでに世界的にも普及している。西欧で発達した「洋菊」も、江戸時代の日本のキクの血を濃く引いているのである。またオモトやサクラソウ、サイシンなどは近年海外で注目されつつある。一方で維新後は西欧から大量の園芸植物が流入し、その影響により花に対する美意識にも変化が見られた。「変化咲き」から「大輪咲き」へと大きく方向転換したアサガオも、美意識の変化が原因の一つと思われる。更に大正から戦後にも、錦葉ゼラニウムやクンシランのように、外来植物でも殊に葉の変化が伝統的な美的価値観に沿ったものが古典園芸植物に加わった。サボテンや多肉植物も、古典園芸植物には含まれないものの、同様な観点から早くから愛好されて現代に至っている。多くの古典園芸植物にはそれぞれ愛好団体が結成されている。特に花を観賞する種類、投機性と関係のない種類では活動もかなり盛んで、現代でも新しい品種が増えているものもあり、より美しい花を求めて交配、実生に努める育種家、愛好家も少なくない。サクラソウやハナショウブのように、新花の作出が続いている一方で江戸時代の品種がかなり多く残されているものもある。キクでは大菊等現在盛んな系統において、専門業者が中心になり育種が行なわれている。しかしスカシユリは古い品種が伝えられず、現在流通しているのはほとんどがここ数十年の間に生まれた品種のみであり、特別な仕立て方や鑑賞法も特に伝えられておらず、現代では古典園芸植物として捉えることはできない。トコナツなど太平洋戦争時に壊滅的被害を受けてその後立ち直ることができなかった植物もあり、またフクジュソウは比較的最近まで品種が残っていたが、保存者が少なくなりきわめて厳しい状況にある。このほか愛好家が減少して篤志家、寺院、神社、大学、国や地方の園芸施設等が稀少な古品種や特殊な系統を保存し伝えているものもあり、ほとんど篤志家の個人的な努力のみに支えられていて存亡の危機にあるものもある。もともと投機的性格を強く持つ種類では、戦後の一時期には稀少品種が非常な高価を呼び、そのために経済的トラブルを生んだり、また珍品を探すために自生地が荒らされ、自生が激減するという社会問題もしばしば発生した。またその中に、現在でもごく一部には新品種を自生からの採取に限り、人工交配による育種や、投機性の維持のためメリクロンによる増殖が否定される種類がある。そこでは従来の自生採取にこだわりを持つ愛好家も存在し、場合によってはそれを東洋思想で裏付けようとする試みさえ見られる。しかしこれらが結果として投機や自生採取とは全く関係のない植物をも巻き添えにして、古典園芸植物全体の風評を低下させている面もある。またそのために、投機性の高い種類と併せ古典園芸植物として一括りされることを嫌う、投機と関連のない種類の愛好家も多い。一方、戦後になると、特にマツバランなどの葉ものを特異な美意識の産物として特殊視する人が現れた。極端な場合にはそれらに美を認めようとせず、ただ単なる珍奇性のみが世上にもてはやされたというような記述がなされたり、またそれらの投機的側面ばかりが異様に強調されることすらある。これは園芸史の研究家が、思想、哲学や芸術の領域ではなく主に自然科学分野に偏っているという要因もあるかも知れない。いずれにしてもこのような一方的解釈は行き過ぎた偏見であり、古典園芸植物の美的な解釈については、客観的な、またもっと美学的、芸術的な面からの評価がなされるべきである。たとえば、古典園芸植物は江戸時代の音楽作品や絵画、工芸品にも共通する、当時の普遍な美意識によって取り上げられ発展したので、このような美を具えるに至ったと解するのがより自然であると言えよう。他方で、新しい分野の開拓もみられる。特に山野草ブームによる非園芸的な植物の見直しに端を発した流れの中から、変異の多いものから目立つものを品種に登録するという、古典園芸植物のかたちに倣った動きが行なわれたものがある。たとえば錦蘭(ミヤマウズラ)やエビネ類がそれであるが、ネジバナのように一旦はもりあがりながらも維持できなかったものもある。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。