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平野威馬雄

平野 威馬雄(ひらの いまお、1900年(明治33年)5月5日 - 1986年(昭和61年)11月11日)は、横浜市出身の詩人・フランス文学者。同人誌「青宋」主宰。日本詩人クラブ創設会員。大杉栄との交流の縁から、平野の父とも個人的に交友関係のあったジャン・アンリ・ファーブル関係の著作の翻訳をいくつか手がけたことでも知られている。松戸 淳(まつど じゅん)という変名で好色文学の翻訳も手がけた。2度の結婚で9人の子を持つ。東京市赤坂区青山北町(現在の東京都港区北青山)の柳原愛子邸に生まれ、横浜市西区老松町に育つ。父は弁護士事務所勤務から富豪の未亡人の3番目の夫となったことで財を成し、美術好きの日本通としてサンフランシスコ日米協会The Japan Society of San Francisco(The Japan Society of Northern Californiaの前身)の初代会長を務めたヘンリイ・パイク・ブイ(Henry Pike Bowie)で、その妻の死後1893年に来日し日米を行き来していた。威馬雄は「ブイはフランス系アメリカ人であったが、遡ればスコットランドの貴族の家系で、ナポレオンの最初の皇后ジョゼフィーヌの近い親族の子孫にも当たる」としているが、アメリカの資料では、18世紀にスコットランドからアメリカのメリーランドに移民したブイ一族の子孫である。母の平野駒は夫同様カトリックを信仰する日本人で琴の教授だったが、近所ではラシャメンという蔑称で呼ばれ、差別に苦しんでいた。威馬雄は父から『家なき子』の登場人物に因み、レミと呼ばれて育つ。父親は日米を行き来していたが、威馬雄が7歳のときに来日して2年間ともに暮らし、再びアメリカに帰国。その間に弟・武雄が生まれる。幼時より混血児として差別を受け、その憤りから日ノ出町通りの町道場「養義館」に通って柔道を習い、幼年組の一方の主将となる。横浜市立老松小学校に通学していたが、ハーフとして肩身の狭い思いをせぬようにとの両親の配慮により、同じハーフが多く通学していたカトリック系ミッションスクールの暁星小学校に3年生から編入学、寄宿生となる。ここでも学校のやり方に馴染めず、教師たちの陰険さや保護者の俗悪ぶりをのちに激しく批判している。同校から暁星中学校に進んだが、権威主義的な校風に反撥。同校では国語教師から文才を認められ、『平家物語』『源平盛衰記』など日本の古典からフランス語の原書までを読みこなす早熟ぶりを示したが、鼻が巨大だったためハーフでない生徒からシラノ・ド・ベルジュラックをもじってヒラノ・ド・ベルジュラックと呼ばれ、また大隈重信の国粋主義的演説がきっかけで非国民扱いされるなどの差別待遇を受ける(在米中の父がこのことを手紙で大隈に訴えたところ、威馬雄は早稲田の大隈邸に招かれ、大隈から直々に謝罪と励ましを受けた)。当時から無神論者でもあり、旧制暁星中学校5年の初夏にはミサの最中に手で卑猥なジェスチャー(いわゆる女握り)を示したことが理由で諭旨退学処分を受ける。葉山町の堀内海岸に一家の別荘があったことから逗子開成中学校の4年次に編入されたが、ここでもハーフとして差別を受け、相撲部員たちからリンチを受けそうになり、反撃で相撲部員の一人の片目を抉り出してしまう。同校在学中もフランス文学に傾倒し、加藤鐐造(のち衆議院議員)や清水長一(のち清水一郎の芸名で俳優となる)や近藤重輔(詩人近藤東の兄)と共に同人誌『エトワル』を創刊し、モーパッサンの短篇小説『野蛮な母』の翻訳を発表する。『文章倶楽部』『中央文学』などの投稿誌に詩や短文を発表して賞を受け、江見水蔭・武田鶯桃・高須林渓・佐藤浩堂から激励の葉書を貰う。傍ら詩作に熱中し、萩原朔太郎から詩作品を賞賛されたこともある。18歳のとき、父が9年ぶりにサンフランシスコから来日する。これに伴い、一家で東京府豊多摩郡渋谷町荒木山(現在の渋谷区円山町)に転居した。父の友人ヨネ・ノグチの紹介で詩人正富汪洋と知り合い、正富の紹介で詩誌『新進詩人』に参加すると共に、正富が国語教諭を務める私立名教中学校(現在の東海大学付属浦安高等学校)に逗子開成中学5年から編入、同校を卒業する。父親は2年間日本に滞在後、帰国してほどなくアメリカで死亡した。威馬雄が父親と会ったのは、これが二度目であり、最後となった。卒業後ただちに東京外国語学校(現在の東京外国語大学)フランス語科へ入学したが、ドイツ語専門の獨協中学校から入学した学生たちと同じ扱いを受け、「獨協出身者たちのフランス語の力がお前と同じ程度に進むまでお前は学校へ行かずに待っていろ」と命じられ、1年間を無駄にされたため中退した。当時、乳酸菌に関するメチニコフの論文を訳していたため、乳酸菌について学ぶため聴講生として京都帝国大学植物学科に入学したが、京都の橋下の淫売を買って重症の梅毒に感染し、入院を余儀なくされたために学業を廃して東京へ戻った。正富の紹介で知り合った福士幸次郎・佐藤惣之助・広津和郎・生田春月・増田篤夫たちの口添えにより、1920年、新潮社から『モーパッサン選集』を刊行する。金子光晴により「早熟の天才少年」と賞賛された。金子光晴やサトウハチローや林髞(木々高太郎)、吉田一穂たちと共に詩の同人誌『楽園』を発行する。また、福士幸次郎の下で自由詩運動を行う。続けて、北原白秋の主宰する『詩と音楽』『近代風景』に拠って大木篤夫(のちの大木惇夫)や大手拓次、藪田義雄たちと詩作に没頭する。1922年、上智大学1年生のとき、哲学者平沢哲雄の紹介で南方熊楠に会う。1928年、上智大学文学部ドイツ哲学科を卒業する。この間、大学在学中の1922年秋、風邪による鼻詰りの臨時治療薬として級友S(文芸評論家安成貞雄ならびに歌人安成二郎の弟)からコカインを教えられたことがきっかけで、重度のコカイン中毒となり、次いで抱水クロラールにも手を出し、15年間薬物漬けの日々を過ごす。1930年頃には、松沢病院の閉鎖病棟に自主入院、このとき入院患者の一人である「葦原天皇」こと葦原金次郎にも会っている。やがて病院の薬局から麻薬を盗んで脱走し、全国手配を受ける。逃走中は3人の若い女と同時併行で同棲し、ドラッグを常用し、万引と無銭飲食を繰り返す。女性の白い手に対する性的なフェティシズムから逗子駅の待合室で見知らぬ女性の手を握り、警察に逮捕されたこともある。当時は秘密出版のグループに加わり、閨房記事の翻訳で生計を立てていた。最初の妻と6人の子供を捨て、2度目の妻(平野レミたちの母)と所帯を持った後、義兄の経営する薬局から盗み出したコカインを大量に吸引して人事不省に陥る。この事件を契機として、薬物中毒の治療に成功する。文筆業を廃業し、土方や汲取屋を経験したこともあるが、1941年のルグロ著『ファブルの生涯』上下(主婦之友社)の成功によって文士に復帰する。同じ頃、東京三河島の自宅で詩人集団「青宋の会」を主宰し、詩誌『青宋』を発行する。青宋とは清掃のもじりで、三河島の近所に清掃会社があったことから命名した。反戦思想の持主であり日米混血であるため、第二次世界大戦中はスパイ扱いを受け、憲兵から取調べを受けたこともある。しかし敗戦後は一転して憲兵や特高関係者から食糧や家具の貢物を受け、「先生のお口ききで、米軍の手から、われわれを守っていただきたい」と懇願された。空襲で焼け出され、神父の厚意によって三河島のドン・ボスコ教会の2階に仮寓していたが、モーパッサンやアナトール・フランス、フローベール、ゾラといった反カトリック作家の作品を翻訳刊行していたことが判明したために同教会から追い立てを受け、1947年6月から千葉県松戸市上本郷に住む。松戸の自宅(青宋居)には自画イラストの石碑がある。1951年、ジョン・クリーランドの古典的好色小説『ファニー・ヒル』の翻訳を、松戸淳名義でむらさき書房から刊行する。この本は増刷を重ねたが、猥褻文書として取締りを受け、出版主と共に起訴されて10万円の罰金刑を受けた。戦後、占領時代に多数生まれた混血児が貧困と差別の中にあるのを見て、自身がハーフとして差別を受けた経験から、同じくハーフである佐藤美子・江川宇礼雄・藤原義江・渡辺暁雄と共に、1953年に混血児を救済支援する「一九五三年会」(通称五三会、レミの会)を組織する。計7人の父なき混血児を自らの子として認知し、また多数の混血児を自宅に引き取って面倒を見るなどの行動により、混血児救済運動に尽力した。1959年、自伝的作品『レミは生きている』で第6回サンケイ児童出版文化賞を受賞する。1964年には混血をテーマにした東宝映画『自動車泥棒』(和田嘉訓監督のデビュー作)で安岡力也やデビイ・シエス(真理アンヌ)たちと共演する。全国各地で講演会をするほか、マスメディアでも差別の実態や救済を訴え話題になったことから、中には、混血と詐称して悲劇の主人公としてワイドショーに登場する者まで現れる騒動も起こった。混血児救済活動の一方、超常現象にも関心を持ち「お化けを守る会」世話人頭を務めた。その他、競輪廃止運動や麻薬追放運動にも参加した。心筋梗塞のため、入院先の松戸市立病院で1986年11月11日に死去した。。遺骨は横浜市中区山手町の外国人墓地に葬られており、威馬雄の墓前では毎年11月11日(現在では5月5日)に墓前祭「青宋忌」がおこなわれている。弟は翻訳家の平野武雄。画家の平野琳人(よしと)は息子。料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミは長女。ロフトプラスワン席亭の平野悠は甥。孫にミュージシャンの和田唱(TRICERATOPS)やエッセイストの今村三菜がいる。

出典:wikipedia

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