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項伯

項 伯(こう はく、? - 紀元前192年)は、中国の戦国時代末期から前漢初期にかけての政治家、武将。項燕の子で、兄弟に項梁がいる。子は項睢(劉睢)。楚の名門・項家に生まれるも、紀元前223年に秦の始皇帝に派遣された将軍王翦によって楚が滅亡すると、国を追われ、各地を転々とした。その際、殺人を犯し、旧友の張良に匿われた。始皇帝の死後、兄弟の項梁が甥の項羽とともに会稽で挙兵するとこれに参加した。以降は左尹(官名)として、項羽の行軍に付き添い、その補佐をしていたようである。紀元前207年、劉邦が咸陽に入り、秦王子嬰を降伏させて間もなく、項羽が大軍を率いて咸陽に入ると両者の間に対立が生じた。項羽の腹心・范増は劉邦の殺害を項羽に進言し、項羽はそれを容れた。項伯は、劉邦の食客・参謀の張良の身を慮り、当時覇上に駐屯していた、劉邦の陣屋を訪れ、張良に逃亡を勧めるも、張良は劉邦を見捨てるわけにはいかないと、これを断り、却って項伯に劉邦と会うように強く勧める。止む無く劉邦と会見した項伯は、鴻門の項羽の陣屋に出頭して項羽に謝罪する事を勧め、劉邦はこれを了承し、項伯に対しその感謝の証として姻戚関係を結ぶことを誓約した。翌日、項伯の口利きで、両者の会見が行われ、劉邦が項羽に謝罪する事で和解が成立し、両者和解の記念の酒宴となるも、この機を逃すべきでないとする范増は項羽の従弟・項荘に余興の剣舞にこと寄せて劉邦を殺す事を指示、この計略を覚った張良は、項伯に劉邦を守るよう合図を送り、項伯は項荘の相手役を演じ、さらに劉邦配下の樊噲がその場に乱入して劉邦を守った(鴻門の会)。その後、甥の項羽の傍らで仕え、紀元前204年に離反した九江王黥布が劉邦のもとに逃れたときに九江に妻子を置いたままだったので、項羽の命で項伯の軍勢は九江を占領し、黥布の妻子を皆殺しにした。その後は、項羽の勢力が衰えると漢楚戦後(垓下の戦い?)に、項羽から離反して劉邦に帰順したようである。項伯は劉邦から、かつての『鴻門の会』での功績と劉邦との姻戚関係を結ぶ約束などにより、射陽侯に封じられ、「項姓では劉氏の世の中では暮らしにくかろうと」と、劉邦の計らいで劉氏を名乗ることを許され、「劉纏」と改姓した。紀元前192年に死去し、子の睢が跡を継いだが、紀元前186年(高后2年)に罪を犯したために国を除かれた。南北朝時代の宋の劉裕は漢の高祖劉邦の弟である楚の元王劉交の子孫を自称していたが、北朝人の魏収が編纂した『魏書』島夷劉裕伝では、項伯の子孫で劉裕の本の姓は項であり、後に劉に改めたとも述べている。

出典:wikipedia

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