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エドマンド・バーク

エドマンド・バーク(、1729年1月12日 - 1797年7月9日)は、アイルランド生まれのイギリスの政治思想家、哲学者、政治家。「保守主義の父」として知られる。ダブリンで富裕なアイルランド国教会信徒の家庭に生まれ、イギリス下院議員(1765年 - 1794年)を務めた。トーリー党(後の保守党)に対するホイッグ党(後の自由党)の幹部を務めたため、バークを保守主義者ではなく自由主義者に分類する説もある。アメリカ独立革命運動を支持した一方、その後のフランス革命には反対した。反フランス革命の立場をとったので、彼はホイッグ党の保守派派閥の中で率先者となった。彼はこれを「旧ホイッグ」と呼び、チャーリー・ジェームズ率いるフランス革命支持派の「新ホイッグ」に反対した。主著は1790年の『フランス革命の省察』(原題:"Reflections on the Revolution in France")であり、この本は保守主義のバイブルとされる。フランス革命を全否定して、ジャコバン派の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。また文壇に出るきっかけとなった論文の『崇高と美の観念の起源』は、英国で最初に美学を体系化したものとして有名である。ここでは「崇高美」というひとつの美意識が定義されている。政治家としては、絶対王政を批判し、議会政治を擁護した。議会における「国民代表」の理念を提唱したり、近代政治政党の定義づけをおこない、近代政治哲学を確立した。文章家・演説家でもあり、バークの著作は今日でも英文学に重要な位置を占めており、イギリスの国会議員にはバークで演説を訓練するものが多い。バーク保守主義はフランス革命により提示された〈社会契約〉ではなく、〈本源的契約〉を重視する。多年にわたり根本的に保持してきたものの中に〈本源的契約〉の存在を見、その表れである祖先から相続した古来からの制度を擁護し、それを子孫に相続していくとする政治哲学である。この故に、自然的に発展し成長してきた目に見えぬ“法(コモン・ロー)”や道徳、あるいは階級や国家はもちろんの事、可視的な君主制度や貴族制度あるいは教会制度においても、ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない“時効の憲法(prescriptive Constitution)”があると看做す。バークはフランス革命を激しく非難する一方で1688年の名誉革命を支持する。これは1688年の革命が人民主権説による立場からのものではなく、イギリス古来の憲政政策原理(旧ホイッグ主義)に沿ったものであり、民族固有の所産であり、必然性(necessity)から起こった革命であり、革命によりそれが保持されたためである。1688年革命は王国の古来の基本的国家組織〈本源的契約〉に、国王の側から侵害があったことが原因であり、それを回復し保持するためになされたとする。バークはまたフランス革命に影響されたホイッグの同僚たちが支持する〈不可譲の人民主権〉説を批判する。すなわち人民主権説によれば、人民は、違反行為のあるなしにかかわらず王を処置しうる。人民は、随意に、自らいかなる政体をも新たに設けうる。為政者は義務だけを負わされ何の権利ももたない。彼らの治政の存続期間は契約の固有の課題ではなく人民の意志次第である。また事実上〈社会契約〉がなされ、それが拘束するとしても、それは直接契約に関わった人々だけを拘束するのであって子孫には及び得ない。バークは〈社会契約〉のもつ契約性の欺瞞を糾弾し、〈本源的な契約〉とはそのようなものではないとする。イギリス国民の個々が享受し相続してきた「自由」「名誉」「財産」は、この“prescriptive Constitution”の擁護において、また、世代を超えて生命を得ている慣習・習俗や道徳の宿る“中間組織(intermediate social-group)”、例えば家族、ムラ、教会コミュニティ等の擁護によって、守られると考える。これは社会契約論が唱える仮想された自然権が必然として要求するような種類の権利ではなく、現実のイギリスの歴史が自然と形成してきた摂理である。しかし同時にヒューム倫理学の系譜にのっとり経験論の限界にも言及しており、歴史から道徳上の教訓を引き出すことの危険性について「歴史とは、注意を怠れば、我々の精神を蝕んだり幸福を破壊したりするのに使われかねない」とも述べている。このようなバーク哲学において、人間の知力などというものは、祖先の叡智が巨大な山のように堆積している古来からの“制度”には及ばない、矮小で欠陥だらけのものとの考えがある。それゆえ「理性主義」、すなわちデカルト的な人間の理性への過度な過信を根源的に危険視し、慎慮を提起する。言い換えれば、個々の人間を多くの間違いを冒す不完全な存在と看做す、謙抑な人間観に基づいている。文明社会が人間の知力で設計されたものでない以上、文明の政治経済社会に仮に、人間の知力や理性に基づく“設計”や“計画”が参入すれば、その破壊は不可避となり、個人の自由は圧搾され剥奪されるとする。実際に、このバーク哲学の思惟と予見どおりに、フランス革命は、人間の理性を絶対視し、既存の教会制度を否定し「理性の神」を崇拝した結果、フル稼働するギロチンに個人の生命を奪われ、革命権力の恣意に財産を奪われ、血塗られた無法地帯の阿鼻叫喚となった。同世代のスコットランド人アダム・スミスは、のちに彼の書籍『国富論』において“見えざる手”(an invisible hand)なる表現をもって著名となったが、無駄のない・合理的な摂理としてのsocial economy(社会のエコノミー)・the natural course of things(自然の成り行き)はバークにとっても重要な概念であった。バークは、人間の文明社会は、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”で形成されたものであっても、人間の知力で“設計”されたものではないと考え、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”と“神の摂理”との共同作業において開花し発展・成長した偉大なものが文明の社会だと把握する(『イギリス史略』)。自由は英国の長きにわたる歴史の中で醸成されたものであり、国王大権と議会特権とのあらゆる嵐と抗争に耐えて維持されてきたものである。自由は祖先から相続した財産であるがゆえに国家に対して不可侵権をもつのであり、けっして人権や自然権であるからではない。そして、自由を世襲の権利として正しく永続させ、聖なるものとして保持すべき筋道・方法として世襲王制以外はないと、経験が教えている。偏見は諸国民や諸時代の共同の銀行・資本であり、そこには潜在的な智恵が漲っている。したがって、その偏見がより永続したものであり、広く普及したものである程好ましいものである。各人が私的に蓄えた僅少な理性よりは、共通の偏見に従ったほうがよい。言い換えれば、偏見の衣を投げ捨てて裸の理性の他は何も残らなくするよりは、理性が折り込んである偏見を継続させる方が遥かに賢明である。偏見は火急に際しても即座に適用できる。予め精神を確固たる智恵と美徳の道筋に従わせ、決定の瞬間に人を懐疑や謎で不決断で躊躇させない。偏見とは人の美徳をしてその習慣たらしめるもの、脈絡のない行為の連続には終わらせないものである。このように、偏見は迷信とは異なり、智恵と美徳をもたらしセンセーショナリズムを防ぐものである。一方でバークのsocial economyは現代の我々にとって受け入れがたい当時の社会現実を許容することを求めている。それは奴隷的階層の問題であり、社会的に固定された階層が「それが有益である」との結果論をもって肯定されてしまうイギリス功利主義の着想の限界もまた抱えている点である。『省察』においては「social economy(自然の有機的統一)ゆえに、早朝から夕闇に至るまで奴隷的で屈辱的でうす汚くて非人間的で、しかも健康に極めて有害で病気になりそうな無数の仕事を、多くの気の毒な人々が不可避的に運命付けられているのと同じように(修道士は聖歌隊を歌わせる以外に使い道のない怠惰な者にみえても)有益に使われているのです」としている。1729年1月12日、アイルランド王国、ダブリンの法律家リチャード・バークの次男として生まれる。父は国教徒、母はカトリックであったが、彼は国教徒となる。1744年、15歳でダブリンのトリニティ・カレッジに入学する。1748年に文学士の学位を得るが大学に残り、美学の研究を続ける。1750年、父の希望に従い、ロンドンの法学院ミドル・テンプルに入学する。1756年に『自然社会の擁護』、1757年に『崇高と美の観念の起源』を匿名で発表する。特に後者がサミュエル・ジョンソンに「真に批評に値するもの」と評価され、文壇に出る。この年にジェーン・ニュージェントと結婚する。1758年にはロバート・ドズリーと年鑑『アニュアル・レジスター』を創刊し、長くこれに寄稿する。1759年、政治家の秘書となる。1761年から1764年まで、アイルランド総督の首席秘書となったハミルトンとともに主としてダブリンに滞在する。1764年にジョンソンを中心にして結成される「ザ・クラブ」(のちの文学クラブ)にジョシュア・レノルズ、オリヴァー・ゴールドスミスらとともに創設会員となる。1764年にハミルトンと決裂した後、1765年にホイッグ党の派閥の領袖ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースの秘書となり、バッキンガムシャーから選出されて英国下院議員となる。国王ジョージ3世と「王の友」と呼ばれたトーリー党員たちが名誉革命以降制限された諸権限を取り戻そうとする中、1770年に『現代の不満の原因についての考察』により政党政治の意義を説き、議会の王権からの独立、議会情報の公開を主張した。植民地政策をめぐっては、通商政策を重視し、「アメリカに対する課税」「和解の提案」を記し、アメリカ植民地住民との和解を主張した。また、アイルランドのカトリック教徒を弁護し、経済上・刑罰上の規制緩和を訴えた。さらに、東インド会社による腐敗したインド統治を是正するため、インド法案の起草者となる。初代インド総督であるウォーレン・ヘースティングズに対しては1773年に不信を表明し、後には弾劾運動を始め、1794年に自身が議員を引退するまで続けた。ブリストル選挙区から立候補した際には、近代デモクラシーの代表制における「国民代表」の観念で有名なブリストル演説をおこなっている。1784年にはグラスゴー大学の学長に任命されている。1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃がロンドンの新聞紙上に報じられた7月18日、バークは既に60歳の老齢であった。バークは当初からフランス革命に対し否定的であり、そのことは彼によるフランス革命への記録上最初の言及である1789年8月9日の手紙からわかる。その手紙にはこう書かれている。バークがフランス革命を断固として拒絶するようになったきっかけは、1789年10月5日から6日にかけて、ルイ16世をパリに引き戻すために、市民が暴徒化してヴェルサイユへ進撃した出来事(ヴェルサイユ行進)である。同月10日、バークは息子リチャード宛ての手紙の中でこう記した。またバークは、当時無名であったリチャード・プライスの名誉革命記念協会がフランス国民会議に賛辞を送ったことにより、あたかもイギリスの世論が同協会の意見と同一視されることに危惧を抱いていた。同年11月、バークは革命支持者であるフランス人青年シャルル=ジャン=フランソワ・デュポンから手紙を受け取る。バークは「私の言う危機的な言い回しは、すべて単なる疑問の表現として見なされるべきである。」と返答した。が、彼は付け足した。「貴方がたは君主を倒したかもしれない。でも自由は奪回できていない。」と。さらにその後、バークがしたためた長文の手紙と、1790年1月に第2の返信をしたためている時読んだ、ユニテリアン牧師リチャード・プライスの『祖国愛について』への反論が合わさり、同年11月の『フランス革命の省察』の出版に至る。『フランス革命の省察』の内容はフランス革命への批判、そして革命が以後どのような経過を辿るかの予見である。革命はバークの予測通り、ロベスピエールの恐怖政治とナポレオンの軍事独裁へと突き進んだ。また、革命熱は3世代にわたり冷却せず、サイクル的にフランスを襲うとのバークの予測もその通りで、フランス革命熱からフランス人が覚醒したのは第三共和国憲法(1875年)の制定前後からであった。バークがはじめて公的な革命非難を行ったのは、1790年2月9日、軍隊の予算見積もりに関する国会の議論においてである。首相の小ピットやチャールズ・ジェームズ・フォックスがフランス革命を賞賛したことによって引き起こされた。さらに1790年5月6日、英国下院でフランス革命の脅威を説いたので、この日を「政治的保守主義」ないし「近代保守主義」の生誕の記念日とする者も存在する。『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」を出し、バークはその中で「なるほど確かにフランス国民は主権者になったが、同時にいつ殺されるかわからない奴隷となった」として、フランスがアナーキーな状態になっていると批判した。同年9月には政府への建白書「フランス革命情勢」が出され、フランス国内に反革命勢力が存在しているうちに英国はフランスに宣戦布告すべきであると主張した。1792年12月には「現在の情勢」を記し、ピットがフランスの革命エネルギーによる領土的侵略を警戒したのに対し、バークは英国の法と自由の崩壊、ひいてはヨーロッパ文明の破壊というフランス革命によるイデオロギー的侵略・精神的侵略に重点を変更するよう警鐘を鳴らした。バークはピットが指導する対仏戦争に反革命の十字軍としての使命感を求め、1796年の「国王弑逆者との講和(に反対する)」では“同じ文化・同じ宗教・同じ法”を共有していない者との講和は不可能であるとして、国家利益の見地から英国が模索するフランス革命政府との妥協に反対した。。こうした姿勢は、この世を去るまで貫かれた。1794年に議会を退き、ビーコンズフィールドに引退した。同年8月、溺愛していた息子リチャードが死去する。1797年の初めからバースに転地療養するが、5月下旬にビーコンズフィールドに戻り、7月9日、私邸で病没した。腸結核とされる。68歳。墓はなく、教会の礼拝堂の床下深くに妻、息子とともに埋葬されている。経営史学者野中郁次郎によれば、ウィンストン・チャーチルはバークを政治家としての1つのプロトタイプとしていたとする。米国においては、コーク/ブラックストーンによる「法の支配」の法哲学が、アレクサンダー・ハミルトンらによって継承されていた。バーク哲学が本格的に流入したのは、1950年の朝鮮戦争の勃発に伴って、国を挙げて反共に思想武装するためであり、ラッセル・カークらに先導されて大ブームとなった。そして、1981年に大統領になったロナルド・レーガンは、反共反ソであっただけでなく、米国史上初めて“バーク保守主義”を信奉する大統領であった。フランスにおいては、初のバーク主義者はトクヴィルであり、その主著『アメリカのデモクラシー』(1835年 - 1840年)の主概念「多数者の専制」は、バークの概念を借用しているし、「平等」が国家社会をアナーキーに解体していき、反転して全体主義体制に至るとのトックヴィルのモチーフは『フランス革命の省察』そのものである。バーク哲学が事実上まったく導入運用されなかったのは、ドイツとロシアである。ドイツでは。なお、。が、結局のところドイツでは現代にいたるまで、あるいはバーク的といえる思想は現実社会で具現化しなかった。日本に初めてバークを紹介したのは金子堅太郎である。1881年、金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として元老院から刊行した。自由党のルソー主義への批判が目的であった。ルソーを信奉する植木枝盛は、これに対して1882年、論文「勃爾咢(ボルク)ヲ殺ス」により反論した。井上毅は、この金子のバーク抄訳を読んでバークに感動し、金子を伊藤博文の秘書官に任用して、明治憲法の起草に参画させた。こうして、バークは明治憲法に影響している。しかし、明治憲法の運用は、上からの近代化を強力に推し進めるため、ドイツ法を範にされることになった。その後、東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおき、イギリス憲法学を排除したことによって、コークやウィリアム・ブラックストンとともに、バークも東大のカリキュラムから排除された。その上、日本ではドイツ観念論やマルクス主義がもてはやされたことから、バークの存在は省みられなかった。バークに関する研究が始まるのは第二次世界大戦後のことで、まずは小松春雄による研究、これに岸本広司が続き、日本においてもある程度の研究基盤ができた。一方、フランス革命を熱烈に支持し、トマス・ペインの信奉者である坂本義和は、反バークの立場から、自分のバーク論をまとめている。なお、新渡戸稲造はその主著『武士道』の冒頭に、「ヨーロッパにおいてこれ(武士道―引用者)と姉妹たる騎士道が死して顧みられざりし時、ひとりバークはその棺の上にかの周知の感動すべき讃辞を発した。いま彼れバークの国語〔英語〕をもってこの問題についての考察を述べることは、私の愉快とするところである」と書き記している。

出典:wikipedia

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