カネミノブは、日本の競走馬、種牡馬。1978年の有馬記念などに優勝した。(年齢は当時に合わせ旧表記に統一する)1976年9月12日にデビューしたカネミノブは、緒戦こそ5着と1番人気を裏切るが、2戦目をレコードタイムで勝利、最後までカネミノブの主戦騎手だった加賀武見に「阿部厩舎の切り札」と言わしめる程の内容であった。ところが、その後は裂蹄に悩まされた為か、3歳時の成績は4戦2勝に終わっている。1977年、弥生賞からスタートしたクラシック戦線は、日本ダービーで3着に入る等の好走するものの大レースを勝つまでには至らず、4歳時には函館で挙げた1勝だけに終わった。だが、1978年になるとアルゼンチン共和国杯と日本経済賞を連勝し、2か月の休養後は毎日王冠・目黒記念で2着、天皇賞で5着と勝ちきれなかったが、年末の有馬記念は、同期の桜花賞馬のインターグロリア、この年のダービー馬のサクラショウリ、TTG世代のグリーングラス・ホクトボーイ・カシュウチカラらを下しレコードで制覇した。この勝利により、この年の優駿賞年度代表馬に選出された。1979年は期待されながらも6戦未勝利に終わり、連覇を狙った有馬記念もグリーングラス3着だった。特に有馬記念では直線メジロファントムの走行妨害を受けながら、騎乗者の加賀の激しい抗議も着順は覆ることはなかった。1980年は復調し、目黒記念(春)と毎日王冠を勝利。3度目の出走となった有馬記念は2番人気で、メジロファントム、カツラノハイセイコ、ホウヨウボーイらと争うが、ホウヨウボーイの3着に終わった。1981年は年明けアメリカジョッキークラブカップが引退レース。勝利すれば中央競馬歴代最高賞金王という記録が掛かっていたが、ホウヨウボーイの4着となり引退した。安定して力を発揮する馬で、着順掲示板(5着)に載らなかったのは全37戦中3戦のみであった。また、天皇賞・春は未出走で、天皇賞・秋と有馬記念は4歳時から3年連続して出走している。引退後は種牡馬としてシンジケートが組まれ、キーミノブ(ペガサスステークス・毎日杯)を初めとして3頭の重賞勝ち馬を送り出した。だが、同期のマルゼンスキーに比べ自身の戦績に匹敵する馬に恵まれなかったのが祟り、種付け件数は次第に少なくなり、1991年を最後に採算割れの為にシンジケート解散となった。シンジケート解散後も1993年まで北斗牧場で繋養されていたが、同牧場から離れる前に「功労馬が哀れな姿になるのは忍びないから、なんとかしてくれ」という手紙が届いていたこともあった。しかし北斗牧場を離れた後は行方不明となっている。「屠殺場に送られた」、「当て馬になっている」等の噂が流れていたが、その後の消息は未だに不明である。なお、母のカネヒムロが繁殖引退後にJRAの施設で余生を送っていた事もあり、「八大競走勝ち馬のこの馬が、なぜ牧場から出されて消息不明になったのか?」と、馬主や牧場のこの馬への扱いに疑問が持たれている。
出典:wikipedia
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