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進ぬ!電波少年

『進ぬ!電波少年』(すすぬ でんぱしょうねん)は、1998年1月11日から2002年9月29日まで日本テレビ系列局で放送された日本テレビ製作のバラエティ番組。製作局の日本テレビでは毎週日曜22時30分 - 22時56分 (JST) に放送された。番組タイトルの「ぬ」は、『進め!電波少年』の「め」の払いの部分をのばしたものであり、同番組がリニューアルしたものであることを示している。スタッフや企画方針などは基本的に従来どおりであるが、松村邦洋がレギュラーから外れ(こちらを参照)、また、アポなしロケが行なわれずに若手タレントの挑戦企画がほとんどを占めるようになった点において異なる。この番組の開始から3か月後の1998年4月5日には『雷波少年』という兄弟番組もスタートし、2002年3月31日まで放送された。開始当初の司会は松本明子単独。その後、1999年1月に松本が司会をチューヤンに託して一時降板。4月からは松本とチューヤンの2人で進行した。2000年には松本が産休に入るため、代役で『雷波少年』の企画に参加したこともある女優の室井滋が起用された。なお、室井初登場時、室井は電波少年お決まりの「アイマスク着用でワケもわからないまま」連れてこられた。番組放送中の2001年5月には、Tプロデューサーこと土屋敏男が日テレの編成部長に昇進。通常であれば降板となるが、土屋はその後もT部長として関わり続けた。ただし、スタッフロールでの表記はチーフプロデューサーではなく「企画」だった。ちなみにT部長として登場の際は、美人秘書ナンシーがついてまわった。前番組『進め!電波少年』のヒッチハイクを主とした後半の流れを受け継ぎ、この番組でもほぼ無名に近い若手タレントらを体当たりで合宿方式を用いた企画シリーズを展開した。特になすびの「電波少年的懸賞生活」、朋友の「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」、Rマニアの「電波少年的無人島脱出」および「電波少年的スワンの旅」などの企画は好評を博し、1998年8月16日、9月13日放送分では視聴率30.4%を獲得するなど、当時の日本テレビの看板番組の一つに数えられるほどの人気を獲得した。とはいえ、番組後半ではヒッチハイクも世界中行き尽くして行くところがなくなり、また、前述のような人気企画やなすびなどの人材も出なくなるなど、その人気にも次第に陰りが見え始めることとなる。長期に渡る看板企画が終了する一方で、新しい企画も多数作られるものの相次いで短期で終了という状況が続き、演出に対する視聴者からの風当たりも増し、それにつれて視聴率も徐々に低下していったことを受け、2002年9月29日に番組自体も終了。『電波少年』の流れは、土曜22時台で1時間枠でスタートした『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』へと引き継がれた。オープニングでは、最初に『進め!電波少年』のタイトルが従来どおりに表示されたあと、「め」の部分が「ぬ」に変わっていくアニメーションが使われた。そして司会の松本が登場し、「こんばんは〜! 『進ぬ!電波少年』で〜す!」とコールされた。なお、それ以外では告知など、番組中でも単に『電波少年』と呼称・表記されることがほとんどだった。『進ぬ!』としての第1弾の企画。都内のある部屋に若手芸人が集結。くじ引きで当たりをひいたなすびが挑戦。そのまま土屋に都内の某アパートへ連れて行かれ全裸になって「人は懸賞だけで生きていけるか?」という企画がスタート。ゴールは当選品の総額が100万円になった時で、開始から336日目(約11か月)で100万円達成。その後韓国にて「電波少年的懸賞生活 in KOREA」に挑戦する。猿岩石・ドロンズに続く、ヒッチハイク第3弾および完結編。懸賞生活と同時期にスタートした企画。俳優を目指していた伊藤高史がTプロデューサーに連れ出され、成田空港から南アフリカ・喜望峰まで移動。着いた先で当時香港でDJだったチューヤンこと謝昭仁(チェ・チューヤン)が合流、ヒッチハイクでアフリカ・ヨーロッパ大陸を縦断してスカンジナビア半島まで目指す企画だと明かされてスタート。スタジオゲストで横浜銀蠅の翔からの提案を受け、道中で2人のコンビ名が「朋友」(パンヤオ(pang4yau5)、中国語で「親友」の意味)と決まる。初めは互いの意思疎通もままならない2人だったが、伊藤はカタコトの英語でチューヤンとコミュニケーションを取れるようになり、また英語が堪能なチューヤンのおかげで旅は順調に進むかに見えた。しかし、アフリカ大陸内では戦争や治安上の理由によるルート変更を余儀なくされ、ついには危険地帯に阻まれ、ケニアから北へ進む道が完全に絶たれる。2人はギブアップさえ考えたが、視聴者にテレゴングでアンケートした結果、「飛行機を使ってでも旅を続けるべき」という答えが最も多かったため、2人で相談し、ケニア・ナイロビからスーダンの非・危険地帯南限の町カッサラまで飛行機で移動した。松本は久保田利伸が作った応援歌「AHHHHH!」を届けるべく、アメリカで受け取りスイス経由でタンザニアへ向かい2人を探しに行った。現地で野宿する際、野生の動物が近寄ってくるのを避けるため、Tプロデューサーを含めスタッフで交代で火の番をして大変だったと松本は回顧している。スーダンでは砂漠をラクダで移動する隊商に同行、彼らもラクダで移動していたが、炎天下で伊藤が脱水症状で倒れ意識を失う。すぐに息を吹き返し事なきを得たが、同行ディレクターも「カメラ回してていいんだろうか」と動揺するほどの衝撃映像だった。この件について土屋は、スタッフは伊藤とチューヤンを追いこもうとしてたわけではなく、性格の優しい伊藤が水を周囲に譲るなどの配慮を続けていたために起こった事故だったと語っている。ヨーロッパではチューヤンが持ち前の絵の才能を発揮して路上で水彩画を売ったりしていたが、旅終盤のフィンランドで旅始まって以来最長の5日間絶食、それまでチューヤンの絵も全く売れない事態になった。ここで伊藤は密かに練習していたストリートパフォーマンスに挑戦、集客に成功しわずかながらお金を得ることに成功し、ハンバーガーを食べる。このハンバーガーについて、チューヤンはのちに「あのハンバーガーが僕の人生で最もおいしい食べ物」と語っている。この出来事で2人の絆は強固なものとなり、ゴールへと向かっていった。ゴールとなったノルウェーのヨーロッパ大陸最北端・スレットネス灯台からは生中継が、猿岩石・ドロンズをスタジオゲストに迎えて行われたが、番組の終盤で2人を港に係留されたスワンボートに誘導するところで中継が打ち切られた。放送直後に「スワンボートで日本に帰らせるつもりか」と視聴者から抗議の電話が殺到したが、当時番組で進行中の別の企画である「電波少年的懸賞生活」(なすびの等身大パネルによる)および「電波少年的スワンの旅」を2人に説明するためのものだったことが翌週の放送で明かされた。なお、この企画も猿岩石・ドロンズと同様に『朋友日記』として書籍化された。上記に続く企画として、伊藤高史がハリウッド映画で台詞つきの役をもらうことを目標とするというものだった。しかし映画俳優組合に加入しなければならず、加入するにも厳しい条件があるなどあまりにもハードルが高かったため、数日で断念。スタジオとの電話中継で企画を降りることを告げ、Tプロデューサーも伊藤の功績を認め承諾。その後生放送で、伊藤が視聴者に向けて「この場でハリウッドを目指すのではなく、日本で芝居の勉強を続けたい」という心境を語った。しかし番組側としてはどうしてもあきらめられず、後日、日本へ帰国する飛行機の中や前述の生放送終了直後など、番組スタッフが「ハリウッドスターへの道、やりますか?やりませんか?」と、意思確認を幾度となく行ない、そのたびに伊藤が「やりません」と固辞する様子が放映された。最終的に伊藤が自宅で寝ているところを訪れ意思確認をするが、伊藤が呆れて苦笑いを浮かべながら断るというシーンで完結した。一方チューヤンは松本から司会を引き継ぎ、日本を学ぶために「雷波少年系ジャパンツアー」に参加した。都内某所を歩いていたRマニアがTプロデューサーに「メシでもどうだ?」と声をかけられ、そのまま連れ去られる。着いた場所は無人島(由利島)。ゴールの条件は、「自分達で筏を作って島を脱出し、自分たち以外の人間に会うこと」というルールだった。この企画は後述のスワンの旅へと繋がる。応援歌は内田有紀 supported by チューヤン「楽園」。来るべき「1999年7の月」のあと、21世紀にお笑いを残すという目的でポプラ並木がシェルターを地中に埋めるために穴を掘るという企画(その間の生活費等は自給自足)。しかし、そのハードさから途中で脱走、結局リタイアを申し出る。その後彼らは『雷波少年』の企画でもナンパ行為を起こしたため「雷波少年院」に監獄され、「ラストコント」という企画をやらされる羽目になる。三原麻衣子と原田慎治(クールズ)の2人による企画。原田は芸の道を極め、三原は内職で支え、クールズの単独ライブ資金100万円を目指す。テーマは「芸のためなら女房も泣かす」。何かあるごとにこの歌詞が入った「浪花恋しぐれ」を歌うことになっていた。またスタート時点での体重が110キログラムある三原のダイエットも並行して行われ、1キログラム減量するごとに1万円のボーナスが支給される。ただし、増加した場合は返金しなくてはならない。三原が急激なダイエットで体調不良になり、医者から「これ以上のダイエットは勧められない」と診断を受けたことや、オーストラリアにあるカジノホテルのオーナーが企画の噂を聞きつけ原田を招待したこともあり、原田はカジノに挑戦。後述の地球防衛軍のメンバーも応援に駆けつけ、ルーレットの勝負に勝利し100万円を獲得しゴール。単独ライブ終了後に原田はダイエットに見事に成功した三原と再会。最後に三原のお願いで2人でキスをして終了した。三原は企画終了後に『私はこうして松本明子一人分痩せた。』という本を出版している。「人は超能力だけで生きていけるか」をテーマに安田ユーシが挑戦。ゴールは「スプーンを曲げる」(部屋にはユリ・ゲラーの「スプーン曲がれ」と書いた毛筆書が飾ってあった)この企画で安田に「5つのカードの中から特定のカードを当てる」能力があることがわかる。食事は当たりのカードを引かないともらえないというルールだったが、安田の超能力が本当に開花し、ほとんどすべて当ててしまうようになったため「電波少年なのに太ってしまう」と悩んでいた。企画はユリ・ゲラーの助けを借りながらスプーンを曲げることに成功して終了。しかし、ユリ・ゲラーの毛筆書の下には「地球まもれ」が隠されており、後述の地球防衛軍へとつながる。「電波少年的超能力生活」から派生。真中瞳、チューヤンの2人による「世界名作文学シリーズ」第1弾。タイトルはジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』に由来する。サンフランシスコからスタートし、東回りで80日以内に東京に帰ることを目指す。衛星電話を利用したEメール受信専用端末で、世界のどこでもEメールを受信できるイリジウム・ページャーを使い、視聴者から提供される情報を頼りに旅をする。1999年大晦日の「いけ年こい年」放送時間内にゴールすることとなり、ゴール地点は視聴者の自宅ということでハガキを募集していたが、日枝久フジテレビ社長(当時)のハガキをひいた(という設定)ことから、ゴールはお台場フジテレビV4スタジオとなってしまった。この時V4スタジオでは長時間特別番組『ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること』が行われていた。当時は他局間での番組のコラボレーションもなく、フジテレビ側もそのことを把握していなかったようで問題になった。結局ゴールは『いけ年こい年』会場の汐留へと変更された。ちなみにゴールの際、ヒッチハイクの企画でチューヤンと行動をともにした伊藤高史が祝福に駆けつけた。なおこの企画が行なわれているあいだ、『雷波少年』ではロバのロシナンテがチューヤンの代理で司会を務めた(編集者による吹き出しつき)。川元文太(ダブルブッキング)による「世界名作文学シリーズ」第2弾。タイトルは安部公房の小説『箱男』に由来する。120cm×120cm×120cmの鉄製の箱に入り、鹿児島の佐多岬から東京までの約1500キロメートルを箱を押してもらうという、人の善意に頼った企画。その過程で出会った人々との交流を通して人の優しさに触れ、人を信じることが出来ないという川元に少しでも信じられるようにすることを狙った。ゴールまでふたは溶接され、箱から出ることはできない。また、外部とのコミュニケーションは箱にあるデジタル式のメッセージボードでしかできない。ただし簡易トイレつき。企画を開始して間もなく、狭い道路では自動車が箱を避けるために交通渋滞が起きるようになった。これに対して鹿児島県警察より道路交通法 第七十六条 第三項(何人も、交通の妨害となるような方法で 物件をみだりに道路に置いてはならない)に抵触すると番組スタッフが注意を受け、急遽Tプロデューサーが川元のもとへ様子を見に来たが、他人の善意を受けながら企画開始時と何も変わっていない川元を見て企画を続行。ルールを変更し、箱をトラックで移動した上で私有地に設置して、私有地内を1500キロメートル分移動すればゴールとなった。どんな援助を受けても礼を言わず、それどころか援助内容に対する不満や罵倒の言葉しか出ない川元に対する視聴者の評判は悪く、「ビタミン剤」と称して下剤を飲ませる女性や、人がいない山奥に箱を置き去りにする不良が現れるなど、心無い嫌がらせが続いた。さらにはガソリンスタンドで価格表示ボード代わりにされたこともあった。また、川元の「貢がせてやります」という発言にTプロデューサーが激怒した(同僚でCPの吉川圭三もこの失言に激怒したらしい)。一方で子供や比較的気が合う人物が相手の時には、相手を思いやる様子も時折見られた。川元の相方である黒田俊幸もTプロデューサーに拉致されてそのまま箱に入れられて、川元が入っている箱があるところまで連れていかれた。黒田は川元と箱同士ながらも久しぶりの再会をしたものの、メッセージボードを使った罵倒合戦だけに終わり、黒田は東京へと帰って行った。徐々に心を開き始めたころ、箱をたずねた女性が川元から買い物を頼まれ5000円を受け取るが、女性に横領され結局再び心を閉ざしてしまった。後日女性からスタッフへ郵送で返金、その後、スタッフは川元へ5000円を手紙とともに差し入れた(その際、川元は「返すくらいなら初めから盗るなよ!」と少し怒っていた)。回が進むにつれ、川元も衰弱しきっていた。しかし、TプロデューサーとCPの吉川はそれでも挑戦させた。これは、既述のような川元自身のゆがんだ心を叩き直すことや、川元に対して芸能界の厳しさ、さらには自然とのサバイバル精神を身につけさせるためでもあった。企画の進展がほとんどないまま数か月が経ったころ、川元と交際中の女性が現れ、陸上競技場のトラックで夜中から夜明けまで数時間に渡って箱を押し続けた。これに対して、企画が始まって以来初めて「ありがとう」の言葉が出た。本来の目標とはほど遠いが、企画そのものが視聴者から離れていることに加えて、企画に対する批判が強くなったこともあってかこの時点でゴールと見なし、それまで開くことのなかった箱が遠隔リモコン操作で開き、企画は終了した。企画の終了後、川元は鹿児島県で毛布を借りた老夫婦を訪ね、「この毛布だけは自分の手で返したい」と毛布の返却をした。老夫婦は箱から出ることができた川元に喜んでいた。山崎ハコと室井滋(室井箱)による企画で、「電波少年的箱男」の川元を応援するために山崎作詞・作曲による歌をつくり、室井が歌うことになっていたが、曲が完成する前に箱男が終了したため、企画を変更。引きこもりを応援するため全国各地へ旅をすることとなった。この企画に際し、室井は頭に箱を被っている。応援歌は「希望」のタイトルで2000年10月12日に東芝EMIより発売された。やらせ問題により打ち切られた『愛する二人別れる二人』(フジテレビ系)のパロディ企画。しかし内容は本編とは異なり、仲の悪くなったある夫婦と犬に扮したどーよが1か月間共同生活をし、離婚するのか否かを決定するというものだった。のちに「番組をパクっている」とフジテレビに抗議されるが、当のフジはその後『トロイの木馬』という電波少年にそっくりな番組を放送。これを受けて電波少年はナレーターの木村匡也に「次なる企画は『電波少年的トロイの木馬』!!…あれ〜?」と語らせ、フジテレビを皮肉った。小室哲哉との破局から復帰するも再休養に入りカナダから一時帰国中だった華原朋美が、自力だけで全米でCDデビューすることを目指し、ゼロからスタート。ちなみに、Tプロデューサーが来た時はゲストとしての出演依頼と半ば勘違いしていたらしい。現地では「日本の有名歌手である」ことも通用せず、開始当初は絶望的ともいえる企画ではあったが、洗車場でのアルバイト、ボイストレーニング、クラブでのステージ、オーディションなどを経験し、半年後「Never Say Never」でデビューを果たし帰国した。華原自身は、「この企画がなければそのまま芸能界から消えていた」という旨の発言をしている。「大学に行きたい!」と強い思いを抱く若手芸人が東京大学合格を目指して勉強に励む企画。当初はカズマキの小倉一真が選ばれていたが、二度の脱走の末リタイアしたため、『雷波少年』プロデュースのイベントに参加していたアルカリ三世(当時)の坂本ちゃんが新たな挑戦者になった。その後、家庭教師として東大出身のケイコ先生も加わり日夜勉強に励んだが、センター試験での成績が振るわず、東京大学2次試験出願を断念。下記の「どこでもいいから一直線」に移行した。企画中、相方の添野豪が太宰府天満宮へ自転車で合格祈願のお守りと絵馬を買いに行ったこともある。東京大学を断念したもののその成績の向上を無駄にすべきではないということで、坂本ちゃんがどこでもいいから大学に合格するという目標に切り替えて再スタート。15の大学を受験した結果、8大学に合格。その中から日本大学に入学することとなった。「アメリカのコメディーよりも日本のお笑いのほうが面白いのではないか?」という疑問から、アメリカに通用する日本のお笑いを作るため、ダウンタウンの松本人志(以下「松ちゃん」)が挑戦。ただし、これまでの企画とは異なり松ちゃんはスケジュールの都合などで拘束されることはなかった。企画はまず、アメリカでコメディアンとして活動する野沢直子に会いに行き現地のコメディーショーを視察、数か月後松ちゃんの過去のコント作品(字幕版)をアメリカ人に見せて反応を伺った。ほとんど満足のいく反応を得られず、改めてアメリカ人向けのコント作品「サスケ」を制作することが決定。その後納得の行く作品に仕上がるまで推敲を重ね、ニューヨークでの上映会へと向かった。上映会に集められた観客は200人で、人種・年齢・性別は当時のアメリカ国内の比率に合わせられている。結果アメリカ人からそこそこのウケを得た。企画は手探り状態で進められ、放送する内容が限られるためかなかなか企画が前進しなかった(松ちゃんにインタビューをしている際に土屋が音声スイッチを入れ忘れ、何を言ってたか想像する件で場を持たせたこともある)。「サスケ」の完成まで時間がかかり、半年以上放送されない時期もあった。また、松ちゃんのアメリカロケには土屋が直接同行した。矢部太郎が挑戦。様々な国の言葉を学習し、その国の人々を笑わせるという企画。応援歌はTM NETWORK「CASTLE IN THE CLOUDS (YABE VERSION)」。この企画では食事の前に会話テストが行われ、正解すると食事ゲットというのが基本的なルールとなっている。出題方式や食事の内容などは以下の通り異なる。最末期のコーナーで、タイトルは『15少年漂流記』のパロディ。「電波少年的おニャン子だったりモー娘だったり…」で集められた以下の15人が強制参加。2000年から2001年にかけての大晦日・年越し特番『いけ年こい年世紀越えスペシャル』で、久保田利伸が作詞作曲を手がけた『Vibe,Survive』の振り付けを間違えて踊ってしまったため、とある無人島に島流しされた。最初、土屋はチェキッ娘が卒業(解散)する際(1999年11月)に始める形で、同グループのメンバー全員を同様に無人島に連れていって『サバイバー』のようなことをやろうという企画で、当時フジテレビプロデューサーだった「チェキッ娘生みの親」こと水口昌彦に打診、水口もそれに協力し、当時のメンバーの所属事務所や家族らに話をつけるなどしたうえであと少しで企画が動き出せるというところで、メンバーの誰か(誰であったかは結局不明だった)がこれを聞きつけて他のメンバーに漏らしたために企画がばれ、土屋もこの企画をボツにして改めて立て直したのがこの企画だったという。なお、当初の企画対象だったチェキッ娘からは野崎恵のみが参加している。余談であるが、チェキッ娘の看板番組だった『DAIBAッテキ!!』および『DAIBAクシン!!GOLD』の司会を務めたのは、かつての電波少年の企画である「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」に参加したドロンズだった。この企画ではスタッフはおらず、参加者の15人が取材カメラなどを担当。いかだを作って無人島からの脱出を目指す。週に1度スタッフが島を訪れてリタイアの機会を与えたため、次々に脱落者を出し、最終的に島を脱出したのは8人であった(脱落した7人の内、1人は開始早々に火傷を負ってしまった為にドクターストップをかけられた。他の6人は企画内容や人間関係に嫌気がさしたことによるリタイヤ)。のちにその8人はグループ名を『8/15』(エイト・パー・フィフティーン)としてあらためて『Vibe,Survive』を披露、シングルをリリースした。「15少女漂流記」と同じ条件で、15カ国の少女たちが自力での無人島脱出を目指す。ただし「15少女」とは異なり、スタッフも島で一緒に生活する。日本人では「15少女」にも参加した野崎恵が再び選ばれた。無人島はカンボジア領の一無人島であることが後に判明した。ヨーロッパ出身の参加者の態度が問題視されていたが、後になって制作局が全く違う内容のテロップを流していたり、やらせを強要していた、またデング熱に罹患したという告発がなされ、番組ではこれを否定しフライデー騒動事件へと発展した。随時伝言ゲームが実施され、成功するとほしいものを獲得できる。お題は「鈴木宗男」、「仲良し」(このときメンバーの対立が相次いだ)、「人妻温泉」(ディレクターの好きな番組)、「もうちょっと頑張れ、TBSのサバイバー」など。この企画では野崎恵(日本)の他に、ペルー、カンボジア、ケニアの3カ国の代表が脱出を果たした。2001年8月の収録終了後、チューヤンがTプロデューサーに突然呼び出され、「8月26日の巨人VS中日戦にゲスト出演してくれ。でも、もし巨人が負けたら、電波少年クビ」と言われ、急遽成立した企画。実際に、チューヤンは松本と共に2001年8月26日の『劇空間プロ野球』にゲスト出演したが、この日は先発の入来祐作が初回に立浪和義、レオ・ゴメス、福留孝介に3本塁打を許し、5点を奪われるなど乱調で、後続のピッチャーも失点を重ね、打線も中日先発の野口茂樹から一時は1点差に詰め寄り4点を奪ったものの、反撃もそこまでで、野口に無四球完投勝利を許し、試合は9-4で中日が勝利した(なお、打撃戦で試合時間が長引いたため、中継は試合終了まで放送されなかった)。同日は日曜日だったため番組が放送されたが、収録は当然試合前に放送されたのでチューヤンも出演していたが、チューヤンの顔は隠され、「巨人負けたのでクビ」と表示された(但し、声だけはそのまま流された)。翌週の放送では、松本のみが出演。冒頭で、電波のみならず雷波少年もクビになったことが発表される。後日、チューヤンは再びTプロデューサーに呼び出され、後述の「電波少年的アンコールワットへの道の舗装」の企画への1か月の応援参加を条件に、復帰出来ることに。これは本人の希望で2ヶ月に延長された。2か月後の11月4日の番組途中から復帰した(同時期に雷波少年にも復帰している)。チューヤンは、翌2002年3月に放送された『勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー』にゲスト出演した際、「あの時はかなり辛かった。それまでは結構巨人好きだったんですけど、それから巨人大嫌いになった!!」の冗談交じりにコメントした。カンボジアのある地点からアンコール・ワットまでの道の89kmを舗装する企画。1km舗装するたびに日本円にして1万円分の生活費が支給される。元々「日本の新成人が熱い!」ということで新成人を対象に募集していた企画で、その条件の中に「突然いなくなっても大丈夫な人」とあった。そのほか「何かひとつのことをやり遂げたい人」としても募集していた。芸人、元ヤンキー、引きこもり、元プロボクサー(「しん君」こと大和心、当時はタレント活動を行っていたが番組内でその点に触れられることはなかった)、家族の応募(実際は家族が手を焼いていた為に「追放する」形)で参加させられた者など、様々な境遇の12人から始まり、目隠しでカンボジアへ到着。番組では、出演メンバーの棄権、脱走、司会者チューヤン罰ゲームで移送、リーダーの「コンさん」こと村松秀昭の赤痢などがあったが、「電波少年的 インターポール」(後述)のメンバー(髭男爵のピュアぞー(現:山田ルイ53世)・宴人(現:Wエンジン)の川合正悟(現:チャンカワイ)・アルカリ三世の添野豪なども投入。悶着や喧嘩など様々事件が起こったが、見事に舗装完了した。この企画からTプロデューサーが「T部長」となった。内容はTBSの『ガチンコ!』と争っていたが、視聴率はトップクラス。また、スタジオ収録時にゲストとして出演していた小池栄子が自身の発言をきっかけに、サンタの格好でメンバーに家族等が用意したプレゼントを持って応援へ向かう『小池栄子のアポなしサンタ in カンボジア』が行われた。メンバーは小池が自分たちが寝てる間に姿を見せたことに驚いたと同時に小池と話せなかったことを悔しがり、特に最年長メンバーであった「サンシさん」こと三枝雅芳は、スタッフに対しても「何で起こしてくれなかったんだ!」とかなり根に持っていた。この企画に参加していた初期メンバーの一人・「ハンサム」こと荒井伸元は番組終了後再度カンボジアに渡り、日本からの有志と共に現地に小学校を建設するのに尽力した。また初期メンバーの一人で当時、大学を休学中だった「石ゴン」こと石子貴久は、番組終了直後に1年7ヶ月に渡る世界一周の旅に出かけ、旅の経験を元に現在はカンボジアの小学校などを訪問するスタディーツアー事業を立ち上げ、主催として現在も活動中である。『雷波少年』の「雷波少年系熱狂的巨人ファン」や「雷波少年系熱狂的巨人ファンvs阪神ファン」「雷波少年系熱狂的巨人ファンvs中日ファン2000」からの派生企画で、セントラル・リーグの球団ファンの芸人6人が集結し、2002年のシーズンを通してファンのチームを応援する。参加者は以下の通り。後にT部長は「パ・リーグ版もやりたかった」と語っている。室井滋が部屋の中でシーエス日本で開設した放送局のテレビ番組を行う。部屋のドアは溶接されているため天井からのブランコを使わないと出られない。さらに室井が出られないときの代役として唐木恵子(現・春野恵子)、羽田実加が出演した。また矢部太郎がFOMAを使って面白いことをレポートしていた。ちなみに試験放送中は「たぶん世界で一番難しいクイズ番組」であった。出題から回答までの時間が72時間あり、その間、ずっと無言でスタジオにいなければならない。当然、食事は出ず、水が3時間ごとに支給される。インターポール荘に入った髭男爵のピュアぞー(現・山田ルイ53世)、宴人の川合正悟(現・Wエンジン・チャンカワイ)、アルカリ三世の添野豪、第3別館の村山匠の4人のうち1人が海外(イタリア・インド・ハワイ)へ派遣される。そして派遣された人がその場所で遭う犯罪を見て被害にあわないように勉強しようという企画である。4人には偽企画「電波少年的あぁ美しき人生」ということにしておき、世界の名作文学の読書感想文を書かせる。日本で待機中は食事が無条件で支給されるという、電波少年では極めて異例の企画だった。しかし、そのメニューは取調室で出されるものに由来してかカツ丼のみだったため、村山がそれに耐えられずリタイヤ。そのため、新たにカツライスがメニューに加わった。残りの3人はその後脱出をかけて「巨乳ジャンケン」(後述)をしたが、その後「そっくりさんジャンケン」も失敗に終わり、終には「アンコールワットへの道の舗装」に投入されることとなった。この企画終了後、帰りの車とは別に添野のみが別の車で拉致された。企画終了後、添野は帰国後に松屋のアルバイトに戻っていた(別の企画は辞退したものと思われる)。派遣された国では、インドに派遣された添野はパスポートが盗難に遭い帰国のための渡航書発行の為に現地の日本大使館へ駆け込む羽目になったり、ハワイへ派遣されたピュアぞーはマリファナの売人が寄ってきて買わされそうになるなど過酷さを極めた。そのため企画の中には、VTRを収めたテープが犯罪の証拠品として現地の警察に押収されてしまい、放送されなかったものがあり、特にピュアぞーが出演した回については警察から返還されたテープに収録されていた部分のみ、「巨乳ジャンケン」→「そっくりさんジャンケン」終了後に後日放送された。「電波少年的インターポール」終了後に行われた企画。ピュアぞー、川合、添野の3人が海外(行先はアメリカ・フランス・ペルー。これは、3人がそれぞれ巨乳美女が多そうな国を挙げて決定した)へ行き、巨乳美女を探し出して対決する。所持品として「私は巨乳を探しています」と現地の言語(英語・フランス語・スペイン語)で書かれたメッセージボードとビデオカメラを持ち、女性に直接交渉・実際に巨乳を見せてもらう(その際、トップの部分は星のテロップで隠される)。こういうロケのため女性を怒らせるなど苦労が絶えなかったが、3人は何とか見つけ出して女性を日本へ連れて行く。2002年元日に放送されたスペシャルで対決。優勝はアメリカであったが、後のレギュラー放送において胸にシリコンが入っていたという不正が発覚してノーカウントとなり、「そっくりさんジャンケン」で再対決することになった。占いは絶対に信じているという天城純子と本多彩子が、占いを信じて世界中を旅するという企画。100万円が旅費として渡され、これが200万円になったところで終了、のはずだったが、番組スタッフが事前に中国にあるゲリラ地帯に行かないように占い師に頼むという不正を働いたことから、さらに100万円が追加され、ゴールも400万円に増加した。天城はイスタンブールで好きな人が現れたため途中で辞退したものの、本人も日記に書いた通り「幸せになる」という目的は達成された。その後は本多単独での旅になり、占いによりカジノで所持金を増やそうとしたが失敗し、無一文になってしまった。そのためT部長がさらに100万円を支給し、ゴールも600万円に増加しようとしたが、本多はリタイヤしそのまま日本に帰国した。後に、本多が当時の所属事務所であるイトーカンパニーのファンクラブ会報で語ったところによると、拉致された当日は風邪を引いていたらしく、家のチャイムが鳴りスタッフの「じゃあ行こうか!」という一声からそのまま連れ出されてしまったという。ちなみに本多にとってこれが初めての海外だったという。上記の企画から派生した企画で、イスタンブールで恋愛をするために旅をする。天城は最終的にトルコの恋人と別れ日本に戻る決意をするが、この企画の趣旨は、トルコにはもっといい男がたくさんいるので、誰か他の女性がトルコ人と付き合いませんかというものだった。しかし日本から参加した女性は、多くのトルコ人と集団見合いをした結果、誰も選ばなかったため、トルコ国内で「日本のテレビ番組はトルコ人を馬鹿にするためにやってきたのか」という声が上がり、国際問題になりかけた。電波少年の名を騙り秋田県で無銭飲食をした男の行方を、捜査員である電波少年的地球防衛軍のブラックとブルーが追う企画。一度目の放送は通常の時間帯の放送ではなく、昼間の特別番組として放送された。当時公開中の映画『模倣犯』の宣伝も兼ねており、このときは中居正広や木村佳乃がゲスト出演した。その後通常放送内で続編が放送され事件の顛末が語られている。日本テレビでの放送時間は前述の通り日曜22時30分 - 22時56分だったが、一部の系列地方局は元々同時間帯に放送していたローカル番組または他系列局番組の遅れネットを優先させて、この番組を別の時間帯に遅れネットで放送していた。読売テレビは当初、この番組を日曜11時台後半に放送していたが、『スーパージョッキー』の終了後の1999年4月からは日曜13時05分へ移動させている。同時期に『雷波少年』も土曜深夜から日曜12時台後半へ移動させたので、同局では電波少年シリーズ2番組が連続で放送されることになった。また、中京テレビもこの2番組を土曜17時台にまとめて放送していた。また、福井放送は2002年頃、『雷波少年』と『電波少年』をセットで13時から放送していた。スペシャル版が近づくと、『雷波少年』と『電波少年』を特集として2回分をまとめて放送していたが、スペシャル前は未放送になることが多かった。特番を除いて最後まで同時ネットされなかったのは、『進め!電波少年』と同様。なお、2000年9月まではスカイパーフェクTV!のCS★日テレでも放送されていたため、先に挙げた遅れネット局の地域でもリアルタイムで見ることができた。

出典:wikipedia

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