LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

香取 (練習巡洋艦)

香取(かとり)は、大日本帝国海軍の練習巡洋艦。香取型練習巡洋艦の1番艦である。艦名は、千葉県の香取神宮に由来する。日本海軍の軍艦としては、香取型戦艦1番艦香取(イギリスヴィッカース社)に続いて2隻目。戦後の海上自衛隊の練習艦「かとり」(石川島播磨重工業)は3隻目となる。なお香取型練習巡洋艦4隻(香取、鹿島、香椎、橿原《建造中止》)の艦名は、何れも頭文字『K』の神社四社(香取神宮、鹿島神宮、香椎宮、橿原神宮)に由来する。帝国海軍は士官候補生の遠洋航海に旧式となった装甲巡洋艦磐手、出雲等を用いていたが、機関は石炭燃焼であり、さらに昭和に入り艦の老朽化が目立って来た。そこで1938年の昭和13年度計画で練習巡洋艦2隻(香取、鹿島)を建造することになった。建造費を節約するため、軍艦式と商船構造の中間式を採用している。有事の際には第六艦隊および潜水戦隊旗艦任務に転用することを想定していた。また本型4隻(香取、鹿島、香椎、橿原)の建造を担当する三菱重工業横浜製作所(横浜船渠)は、軍艦としては軽巡洋艦那珂・空母龍驤・吹雪型駆逐艦白雪、大型客船としては秩父丸・氷川丸・日枝丸等の建造実績を持つ。艦内装飾も考慮され、司令官公室には日本画大家山口蓬春の絵が飾られていた。香取は1938年(昭和13年)8月24日に三菱重工業横浜製作所(横浜船渠)で起工。1939年(昭和14年)3月31日、練習巡洋艦1番艦と2番艦にそれぞれ香取と鹿島、陽炎型駆逐艦5番艦に早潮、測天型敷設艇に巨済の艦名が与えられた。香取は同年6月17日、伏見宮博恭王・米内光政海軍大臣・長谷川清横須賀鎮守府長官列席のもと進水。7月1日、宮里修徳大佐は香取の艤装員長に任命される。同時期、香取艤装員事務所を設置。9月25日、宮里香取艤装員長は鹿島の艤装員長を兼務することになった。11月1日、宮里は特務艦(工作艦)明石艦長へ転任となる。長良型軽巡洋艦4番艦由良艦長の市岡寿大佐は、香取艤装員長・鹿島艤装員長の兼務を命じられた(後任の由良艦長は第8潜水隊司令魚住治策大佐)。1940年(昭和15年)3月10日、市岡大佐は香取艤装員長と鹿島艤装員長の兼務を解かれる(鹿島艤装員長として鍋島俊策大佐が着任)。「香取」は4月20日に竣工。同日附で香取艤装員事務所を撤去。市岡も香取初代艦長となった。竣工した香取は横須賀に移動して待機した。5月29日、香取は伊豆諸島への短期航海に出発。香取航海中の5月31日、三菱横浜船渠で姉妹艦鹿島が完成した。2隻は竣工直後練習艦隊に編入。6月1日、練習艦隊旗艦は「香取」に指定された。8月に昭和15年度の遠洋航海(司令官清水光美中将:兵学校68期生、期間学校49期生、主計学校29期生)に出発し、江田島~大湊~大連・旅順~上海を歴訪する。しかし風雲急を告げ、9月20日に前期航海のみで中止が決定、これが帝国海軍最後の遠洋航海となった。航海中、低気圧の中心を突破したが凌波性・耐波性・船体強度ともに全く問題なく、清水中将は香取型の優秀さに感謝したという。平賀譲造船中将も香取型について「よくまとまった艦だ」と評価している。1940年(昭和15年)10月15日、香取の艦長は三戸寿大佐に交代。11月15日に第一潜水戦隊旗艦となり、また第六艦隊の新編とともに司令長官平田昇中将の旗艦となる。1941年(昭和16年)1月6日、三戸は第六艦隊参謀長へ転任。香取の艦長は出雲型装甲巡洋艦2番艦「磐手」艦長大和田昇大佐に交替した。1月16日、潜水母艦大鯨と第六艦隊旗艦を臨時に変更。以後、香取は第六艦隊旗艦で在り続けた。7月21日、第六艦隊司令長官は清水光美中将(先の練習艦隊司令官)に交代。11月24日に日本を離れた香取はトラック経由で12月5日にクェゼリンに着き、そこで太平洋戦争開戦を迎えた。大戦中は主にトラック泊地にあって潜水艦作戦の支援に当たった。なお第六艦隊の貴重な潜水母艦大鯨は空母に改造されるため真珠湾攻撃直前に内地に回航され、第六艦隊から除かれた(昭和17年末、空母龍鳳への改造完了)。1942年(昭和17年)2月1日、ウィリアム・ハルゼー中将とフランク・J・フレッチャー少将率いる米空母2隻(エンタープライズ、ヨークタウン)はマーシャル諸島とギルバート諸島に空襲を敢行した。マーシャル諸島を攻撃したのはハルゼー提督の空母「エンタープライズ」で、SBDドーントレス急降下爆撃機37機とTBDデヴァステイター雷撃機9機が発進、クェゼリンにはデヴァステイター9機が向かった。さらに予備のTBD9機とSBD数機が加わった。香取に対する雷撃隊の魚雷攻撃はすべて外れたが、香取は至近弾数発と機銃掃射で死傷者を出し、清水中将も重傷を負った。第6根拠地隊司令官八代祐吉少将をふくむ約90名が戦死した。損傷した香取は2月9日にクェゼリンを出発、16日に横須賀へ戻って修理を受けた。約一ヶ月間、修理に従事する。3月16日、清水中将の後任として小松輝久中将が着任し、引続き香取を旗艦とした。本艦は呉に移動。教育訓練に従事したのち4月16日に再び日本を離れ、4月23日にトラックに到着。なお日本出発時は水上機母艦(甲標的母艦)千代田が香取に同航していたが、4月18日に米空母エンタープライズ、ホーネットによるドーリットル空襲が行われたことに鑑み、千代田は香取と別行動をとった。5月3日、香取はクェゼリンへ到着した。6月上旬のミッドウェー海戦では、指揮下の伊号第一六八潜水艦が空母ヨークタウンを撃沈している。7月1日、香取艦長は第十二潜水隊司令中岡信吾大佐に交代(大和田は9月1日より扶桑型戦艦2番艦山城艦長)。8月1日、香取は第9駆逐隊(朝雲、夏雲)に護衛されてクェゼリンを出港、8日横須賀着。第六艦隊は連合艦隊司令部とカ号作戦(ソロモン諸島要地奪回作戦)及び同作戦における潜水艦の投入について打ち合わせを行う。8月18日夕刻、香取、平安丸は駆逐艦2隻(朝潮、朧)に護衛されて横須賀を出発(駆逐艦護衛は19日まで)、24日にトラック泊地へ進出。以後、同地に停泊して潜水艦部隊の指揮をおこなった。11月28日、香取の艦長は宮崎武治大佐に交代する(中岡は12月1日より高雄型重巡洋艦2番艦愛宕艦長。翌年11月5日、ラバウル空襲時に戦死)。トラックには1943年(昭和18年)3月中旬まで留まった。1943年(昭和18年)3月27日、第24駆逐隊江風に護衛された香取、輸送船日枝丸、測量艦筑紫は横須賀に到着した。一度横須賀でドック入りした後、5月5日に出渠。その後、トラック泊地に戻った。当事は空襲の心配もなく、トラック泊地は平穏だったという。6月21日、小松中将は佐世保鎮守府司令長官へ転出し、第六艦隊司令長官は高木武雄中将に交代。高木長官は引き続き香取を旗艦とした。7月20日、香取艦長は第二潜水隊司令水口兵衛大佐に交代(宮崎は第二潜水隊司令へ転出)。10月15日、香取の艦長は小田為清大佐(9月17日まで潜水母艦長鯨艦長)に交代する。1944年(昭和19年)2月15日、香取は海上護衛総隊に編入され、第六艦隊旗艦は特設潜水母艦平安丸となる。2月17日、香取は第4215船団として特設巡洋艦赤城丸、第4駆逐隊(駆逐隊司令磯久研磨大佐)の駆逐艦2隻(舞風、野分)と共にトラック諸島から内地へ出発しようとしていた。本来同船団の出港は2月16日だったが、赤城丸の荷役がおくれたため1日延期されて17日となった。その17日、トラック泊地はアメリカ第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将ひきいる機動部隊(空母9隻、戦艦7隻、巡洋艦10隻、駆逐艦28隻)の空襲を受ける。アメリカ軍潜水艦を含めた一連の攻撃で、日本軍は基地航空隊300機以上、艦艇沈没(香取、阿賀野、那珂、舞風、太刀風、追風、文月)等、損傷艦多数、輸送船・油槽船合計30隻以上沈没という大損害を受けた。経過は以下のとおりだが、香取、舞風とも全滅状態のため、被害はアメリカ軍の主張による。空襲警報発令とともに、トラック泊地に停泊していた各艦・各隊は行動を開始した。第27駆逐隊(時雨、春雨)は空襲警報下令と共に泊地北水道を通過、空襲により時雨が損傷したものの脱出に成功した。だが同じく北水道を通過しようとした第4215船団は逃れられなかった。午前5時、空母イントレピッド("USS Intrepid, CV-11" )から発進した8機のF6Fヘルキャット戦闘機が香取を機銃掃射し、1機が撃墜された。6時、イントレピッドのTBF アベンジャー雷撃機(爆弾装備)数機が香取を爆撃したが、被害はなかった。6時45分から7時30分にかけて、空母バンカー・ヒル("USS Bunker Hill, CV-17" )のSBC ヘルダイバー急降下爆撃機16、TBF雷撃機9が香取と赤城丸を攻撃し、アメリカ軍は香取に大型爆弾5発命中、赤城丸に爆弾1発命中を主張。7時55分、空母ヨークタウン (CV-10)("USS Yorktown, CV-10" )の攻撃機が3隻(香取、野分、舞風)の対空砲火を突破して、香取の煙突に爆弾命中、舞風に直撃弾3発を与えたと主張。両艦に火柱と黒煙があがるをの確認した。さらに空母エンタープライズ("USS Enterprise, CV-6" )の攻撃隊は香取の後部煙突に450kg爆弾1発、艦首に125kg爆弾1発命中を記録。それでも香取は動いており、赤城丸と合同している。午前8時30分、ヨークタウン(CV-10)隊が攻撃を開始した。舞風は爆弾1発が命中して航行不能、香取に爆弾3発が命中して大爆発が起きた。続いてエセックス隊、空母キャボット("USS Cabot, CVL-28" )のTBF雷撃機2が、約10ノットで円運動を行っている香取と赤城丸を攻撃し、赤城丸に爆弾5発以上の命中弾を与えた。赤城丸は大火災を起こして午前10時42分に沈没した。香取は赤城丸の乗組員の救助をおこなう。11時20分、エンタープライズ、エセックス、イントレピッドの3空母の攻撃隊が香取と野分を攻撃し、香取に爆弾3発命中を主張。12時15分、TBF(魚雷装備)が香取左舷に魚雷命中2本、右舷艦首に命中1本を確認。香取は大火災を起こしていた。アメリカ軍第50任務部隊司令官のレイモンド・スプルーアンス大将は水上砲戦で第4215船団を撃滅すべく、機動部隊から最新鋭のアイオワ級戦艦2隻を分離すると、自ら乗艦して船団の追撃を開始した。スプルーアンス率いる戦力は、戦艦ニュージャージー(旗艦)、アイオワ、重巡洋艦ミネアポリス、ニューオーリンズ、第46駆逐隊(イザート、シャレット、バーンズ、ブラッドフォート)である。まず艦隊の針路上に出現した特設駆潜艇昭南丸(350トン)を「ニュージャージー」と駆逐艦が撃沈した12時16分、野分の乗組員は接近する米戦艦2隻を水平線上に発見した。12時23分、まず戦艦アイオワが発砲し、12時25分に香取に対して着弾した。スプルーアンスはまず戦艦2隻(ニュージャージー、アイオワ)と駆逐艦2隻で健在の野分を追い掛け、残る艦に香取を攻撃するよう下令。米重巡洋艦2隻と駆逐艦2隻は距離17-15kmで砲撃を開始した。米駆逐艦は香取に接近、魚雷6本を発射したが香取には命中しなかったという。米艦隊は艦首を水中に突っ込んだ香取から魚雷、14cm砲、高角砲による反撃があったと報告している。しかし満身創痍の香取になすすべはなく、13分間にわたって米艦隊の射撃を受けて12時37分に転覆し、トラック諸島の北西75kmの地点で沈没した。沈没する香取から3隻の救命艇が脱出したが、アメリカ軍機の銃撃で全没したとアメリカ軍は記録している。このため香取と同艦に救助された赤城丸の生存者は1人もいなかった。また舞風も米戦艦により撃沈され、この艦も全滅した(磯久駆逐隊司令も戦死)。第4215船団では野分だけが米戦艦ニュージャージー・アイオワの40.6cm砲による砲撃を回避して脱出に成功している。香取より第六艦隊旗艦を引き継いだばかりの平安丸も2月17日と18日の空襲により沈没した。1944年(昭和19年)3月31日、香取はトラック島空襲で沈没した阿賀野、那珂、舞風、文月等と共に、練習巡洋艦、軍艦籍から除籍された。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。