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金剛 (戦艦)

金剛(こんごう/こんかう)は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の1番艦。イギリスに発注された最後の主力艦である。2度の改装後は高速戦艦として、太平洋戦争でも活躍した。なお金剛は、日本海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製日本戦艦でもあった。金剛の艦名は奈良県と大阪府の境にある金剛山にちなんで命名された。計画時の名称では「伊号装甲巡洋艦」と呼ばれ装甲巡洋艦として計画されていたが、建造中に巡洋戦艦に艦種変更され金剛と命名された(日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照)。戦艦には旧国名が命名されることが多いが、金剛が戦艦に艦種変更されたのは第一次改装中の1931年(昭和6年)6月1日付であり、竣工当初は巡洋戦艦であったためである。艦名の由来にちなみ艦内神社は金剛山鎮守として崇敬された建水分神社の分霊が勧請されていた。また金剛は、日本の主力艦として初の超弩級艦であると同時に、改修に改修を重ねたのちは快速を誇る「高速戦艦」として、第二次世界大戦期には旧式化していながらも盛んな活躍を見せた金剛型戦艦のネームシップでもある。現代の海上自衛隊では、開発国アメリカ以外では世界初となるイージス艦のこんごう型護衛艦1番艦「こんごう」にその艦名が受け継がれている。日露戦争終結2年後の1907年(明治40年)に金剛の建造が決定された。最初は装甲巡洋艦として計画されたが、イギリスが1906年に画期的戦艦のドレッドノートを完成させて以来あまりに戦艦の進歩は飛躍的になり、設計はまとまらなかった。1908年には弩級巡洋戦艦インヴィンシブル級3隻が竣工、1909年には超弩級戦艦(ドレッドノートを超える戦艦という意味)オライオン級が起工されるとともに当時世界最大艦となる超弩級巡洋戦艦ライオン級が計画されるという事態に鑑み、1911年(明治44年)に「金剛」を超弩級巡洋戦艦として建造すべく計画を変更した。予算が通過したのは1910年(明治43年)である。この当時日本海軍は1907年(明治40年)計画の国産弩級戦艦河内型を建造中であったが、構想や技術的に欧米に劣る点も多く認められたため、金剛は技術導入を兼ねてイギリスに設計・建造を依頼した。建造にアームストロング・ホイットワースとヴィッカースが名乗りを上げたが、設計試案と技術力を検討しライオン級巡洋戦艦プリンセス・ロイヤルを建造した実績からヴィッカースに決定した。基本計画は近藤基樹による。計画にあたり日本海軍はイギリス海軍と違う戦略、伝統、その他の事情による意見を出し、ヴィッカースの技術者と詳細な意見交換を行なった。設計にはヴィッカースの主任設計師ジョージ・サーストン卿()が当たったが、フィリップ・ワッツの指導に負うところも多いという。サーストンはオスマン帝国海軍に輸出予定だった戦艦エリン (発注時はレシャド5世)を元に巡洋戦艦を設計する。この艦はイギリス海軍当局の課す設計上のさまざまな制限から自由に設計できたため、14in砲8門を搭載した、極めてバランスの取れた素晴らしい軍艦と認められた。その際立った特徴は、射界の狭い船体中央の砲塔を廃して、主砲塔を前後二基ずつ配置したことである。14in砲は当時イギリスが採用していた13.5inより少しでも威力のある砲を、と採用したものだが、これは日本海軍が世界最大の艦砲を持った最初の例となった。軍艦を建造する造船所はそれぞれ他社にはない独自の技術を持っており、一般に企業秘密として公開しない。しかし、ヴィッカースは戦艦三笠、香取を建造した実績があり、日露戦争での日本海海戦における三笠の活躍を誇りとしており、日本海軍と親密な関係が保たれていた。発注に際し日英両国の間で次の約束がされた。ヴィッカースは快く派遣要員を受け入れ、技術指導を実施した。日本より建造立ち会い監督官、船体、機関、武器各部門の技術士官、2番艦(比叡)を建造する横須賀工廠の工員が多数派遣され、また3番艦(榛名)や4番艦(霧島)を建造する神戸川崎造船所と三菱重工業長崎造船所から技術者や工員が建造技術取得と調査のために渡英した。金剛の設計図は契約に基づき日本に引き渡され、同型艦3隻は本艦の図面を元に国内で建造された。特に日本が立ち後れていた艦内電気艤装工事の技術は大きな収穫となり、日本の造船技術を一躍世界超一流に引き上げる結果となった。日本海軍ではこれを「技術輸入」と称していたという。後に戦艦大和の46cm主砲を製造した秦千代吉もこの時派遣された者の一人である。1912年(明治45年)5月18日に進水。同日附で「伊号装甲巡洋艦」は正式に金剛と命名された。外国では艦首に吊るしたシャンパンボトルを割るのが通例であったが、日本側の要望で日本式に鳩の入った薬玉を用いたところ、イギリス人が珍しがって喜んだという。1913年(大正2年)8月16日に竣工。同日附で、巡洋戦艦金剛として艦艇類別等級表に登録される。これは卯号装甲巡洋艦比叡の登録日(大正元年11月21日附)より遅く、書類上は巡洋戦艦伊吹-比叡-金剛という順番だった。回航は、日本海軍の乗員により行なわれ、大艦であったためスエズ運河を通れず喜望峰回りで11月5日横須賀に到着した。世界最大、世界最強の戦艦として完成以来金剛の名は世界に轟き、日本海軍の戦力は空前絶後の飛躍を遂げた。このデザインは大きな影響を及ぼし、イギリス海軍は金剛型の設計を採用するために本来ライオン級の4番艦となるはずだったタイガーの建造を1年半遅らせ、他の3艦とは全く外観の印象が違う艦になった。特に6in12門の副砲は明らかに金剛型に学んだものであり、防御力は金剛型より強化された。アームストロング・ホイットワースとヴィッカースは軍艦の建造受注を巡って競争していた。ヴィッカースの日本代理店三井物産には天下りした松尾鶴太郎(元予備海軍造船総監)がおり、松本和艦政本部長と交流があった。協議の結果、三井取締役岩原謙三はヴィッカースに対し金剛のコミッションを2.5%から5%に引き上げさせた。1910年(明治43年)3月、藤井光五郎海軍機関大佐は渡英してアームストロングとヴィッカースから提出された新型巡洋戦艦の調査を行い、8月にヴィッカース有利の報告を出した。11月17日、三井物産は230万7100ポンドで日本政府と金剛の建造契約を調印する(巡洋戦艦プリンセス・ロイヤルは209万2214ポンド)。藤井は交友のあったヴィッカースのバーロウ造船所長から20万円の謝礼を受け取った。松本は約40万円を受け取った。また姉妹艦比叡の蒸気タービン製造を三菱造船所が断ったため、ヴィッカースは1911年(明治44年)3月25日に13万2000ポンドで契約調印、藤井は1万円の謝礼を受け取った。1914年(大正3年)3月、ドイツの企業シーメンスを巡る裁判で収賄事件が発覚、松本らは軍法会議にかけられ処分された。山本権兵衛総理大臣率いる第1次山本内閣も内閣総辞職に追い込まれた。第一次改装までに小改装が繰り返された。年代別に記載する。1928年(昭和3年)10月より1931年(昭和6年)9月15日まで横須賀工廠で、主として水平・水中防御力の強化と重油への燃料移行が行なわれた。1931年(昭和6年)6月1日付けで戦艦に艦種変更された。その他艦内全般に渡り諸艤装の改正が施された。1935年(昭和10年)6月より1937年(昭和12年)1月まで横須賀工廠で、主として機械の換装による速力増加と兵装強化が行なわれた。機関出力は136,000馬力に上昇し、速力30.3kt。燃料搭載量は6,480t、18ktでの航続距離は9,800海里となり、近代的な高速戦艦となった。その他艦内諸艤装の改正を実施し、居住性が向上した。金剛の装甲鋼鈑には、ヴィッカースの特殊鋼板VC鋼板なる物が使用されており、後に日本で建造された同型3艦にもこの技術は導入され、国産化されたと伝えられている。なお後年の改装の際に「ドリルで装甲鈑に穴を開けようとすると、国産3艦はやすやすと通ったにもかかわらず、金剛だけはドリルが折れてしまうということがあった」という話が紹介されることがあり、「ヴィッカース社製の甲鈑が使用された金剛とは違い、冶金技術で劣る国産品を使用したため」と解説されることもある。ただし、実際には比叡も全てヴィッカーズから供給された資材を使用して建造されており、当該装甲の部位、厚み、材質などにはまったく言及されておらず、風説の域を出ない。ただし、改装内容そのものが比叡とその他の3隻で異なることなど考慮されてしかるべき面もある。比叡は第一次改装で練習戦艦とされたため、金剛のように増加装甲を取り付ける必要はなかった。当時、イギリスはドイツ帝国と交戦状態にあった。日本はイギリスと日英同盟を結んでいたことから欧州への陸軍派遣と金剛型戦艦の貸与の要請を受けたが、この日英同盟は日露戦争のため結ばれていた同盟であったため、日本は遠方であることを理由に挙げてその要請を断った。しかしドイツ軍が中国にある青島を租借地として東アジアに拠点を築いたためこれを攻略するため日英同盟に従い、日本はドイツに対して宣戦布告を行った(日独戦争)。これに伴い1914年8月18日、青島攻略に備えて金剛は同型艦の比叡とともに第一艦隊に編成さた。第一次世界大戦を終えて、1921年11月11日から1922年2月6日にワシントン会議が開催された。その内の軍事条約によって戦艦・航空母艦の所有数に制限が課せられた。日本海軍は八八艦隊計画に基づき金剛と同種の巡洋戦艦を新たに8隻建造予定であったが、ワシントン海軍軍縮条約の締結によってすべて計画変更(天城型巡洋戦艦の4隻)または計画中止(十三号型巡洋戦艦の4隻)となった。この条約を受けて金剛は1933年には艦齢が20年に達し代艦の建造が可能となることから、金剛代艦型戦艦の建造が計画された。これにあわせて藤本喜久雄造船少将と平賀譲造船中将がそれぞれ設計案を提出したが、1930年に開催されたロンドン海軍軍縮会議で戦艦建造中止措置の5年延長が決定したため、計画は中止された。またロンドン海軍軍縮会議での既存艦の削減を受けて、同型艦の比叡は一時的に練習戦艦となったが、日本とイタリアは第二次ロンドン海軍軍縮会議で脱退を表明。軍縮条約の期限切れを待って比叡は戦艦へと戻された。金剛型は当初巡洋戦艦として設計されたが、第一次改装で防御の強化が行われ、垂直・水平防御は著しく強化され、改装の結果14in砲への対応防御を備えた戦艦となった金剛型は、長門型に次ぐ有力な戦艦へと生まれ変わった。しかし、長門型以前の日本戦艦同様に全体防御方式を取る金剛型の場合は、舷側、甲板、バイタルパート部だけでなく、非バイタルパート部にまで及ぶ広範囲を防御したため、元々余裕のない装甲部分が全体的に薄くならざるを得ず、金剛型の防御は長門型と比べた場合見劣りするものであった。ところが、金剛型は水雷戦隊とともに前衛として夜戦への参加を可能とするために第二次改装時に機関の換装が行われた。これにより第二次世界大戦に参加した日本戦艦では唯一30ktを超える高速戦艦となった結果、金剛型に限っては主力艦として温存するのではなく、駆逐艦並みの扱いをするようにとの意見も出された。特に、当時の第三戦隊司令官小沢治三郎少将(昭和15年11月~昭和16年9月)は、きたるべき日米戦争は局地戦の連続になると想定。第三戦隊をあらゆる局面に積極的に投入するため『万事駆逐隊並に扱う位のつもりで鍛え上げておかねばならない』と訓戒した。各方面の意見を集約した結果、金剛型戦艦はその性能を生かし、水雷戦隊とともに警戒部隊として機動部隊に随伴することとなった。このため日本が保有する戦艦の中では、攻防速全ての点で問題があった老朽艦扶桑型や操縦性に難のある伊勢型とは異なり、第二次世界大戦に参戦した日本戦艦の中では最も活動する機会の多い艦となった。マレー沖海戦(1941年12月10日)金剛型戦艦4隻(金剛、比叡、榛名、霧島)は第三戦隊(司令官三川軍一中将)を編制し、さらに第三戦隊第2小隊(金剛、榛名)は太平洋戦争開戦時の南方作戦に参加し、南方攻略部隊の支援任務に就いた。シンガポールに進出していたイギリス海軍東洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウェールズ("HMS Prince of Wales")と対峙する事となったが、新鋭キング・ジョージ5世級戦艦(プリンス・オブ・ウェールズ)よりも全ての点で大幅に性能の劣る巡洋戦艦金剛型2隻による砲戦は企図されず、航空隊と水雷戦隊によってイギリス艦隊を迎え撃つことが計画された。作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められることはないと考え、1機の護衛戦闘機もつけず、日本側の航空機を過小評価(イタリア軍と同等以下)していたイギリス側は、この海戦の結果日本海軍航空隊によって戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス("HMS Repulse")を失った。しかし、金剛型による交戦は企図されていなかったものの、実際にはプリンス・オブ・ウェールズと砲戦が可能な距離にまで一時接近していたことが作戦後に判明した。その後、第三戦隊は金剛型4隻そろって南雲機動部隊(空母赤城、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)の随伴艦となりインド洋に進出した。この時の第三戦隊隊番号は、旗艦/第1小隊(1)比叡、(2)霧島、第2小隊/(3)榛名、(4)金剛であった。3月6日、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:蒼龍、飛龍)、第三戦隊第2小隊(榛名、金剛)、第一水雷戦隊・第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)は機動部隊本隊から分離、クリスマス島へ向かった。空母2隻の護衛に17駆第2小隊(浜風、磯風)を残すと、別働隊4隻(金剛、榛名、谷風、浦風)はクリスマス島に対し艦砲射撃を実施した。続いてセイロン沖海戦(1942年4月5日 - 4月9日)には第三戦隊として金剛型4隻揃って参加。ミッドウェー海戦(1942年6月5日 - 6月7日)には、第三戦隊第2小隊(比叡、金剛)として攻略部隊に参加する。その後6月9日から北方作戦支援へ従事した。ヘンダーソン基地艦砲射撃(1942年10月13日)ミッドウェー海戦の敗北後、大規模な艦隊編制替により第十一戦隊(司令官阿部弘毅少将:比叡、霧島)が編制され、第三戦隊は金剛型2隻(金剛、榛名)となった。また三川軍一中将は新編の第八艦隊司令長官に補され、後任として栗田健男中将(前職第七戦隊司令官)が三戦隊司令官に着任した。1942年(昭和17年)8月上旬以降のガダルカナル島の戦いに参加。10月13日、挺身攻撃隊指揮官栗田健男三戦隊司令官の指揮下、挺身攻撃隊(第三戦隊《金剛、榛名》、第二水雷戦隊五十鈴〔第二水雷戦隊司令官田中頼三少将〕、第15駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)という戦力でヘンダーソン飛行場(現ホニアラ国際空港)を砲撃した。同飛行場を一時機能停止に追い込んだが完全に破壊することはできず、第四水雷戦隊が護衛していた輸送船団は空襲で大打撃を受けた。続いて南太平洋海戦(1942年10月26日)では陸軍のガダルカナル島での総攻撃支援に従事。第三次ソロモン海戦(1942年11月12日 - 15日)では挺身攻撃隊(第十一戦隊、第十戦隊)や前進部隊(第二艦隊、第四水雷戦隊)を支援。この作戦で金剛型2隻(比叡、霧島)が沈没した。その後ケ号作戦(1943年2月1日 - 7日)ではガダルカナル島からの日本軍撤退のための艦艇支援に従事した。その後、第三戦隊(金剛、榛名)をふくめ日本海軍の戦艦部隊が大規模な海戦にのぞむことは暫くなかった。マリアナ沖海戦(1944年6月19日 - 20日)では、小沢機動部隊・前衛部隊(第一戦隊《大和、武蔵》、第三戦隊《金剛、榛名》、第四戦隊《愛宕〔前衛部隊旗艦〕、高雄、摩耶、鳥海》、第七戦隊《熊野、鈴谷、利根、筑摩》、第二水雷戦隊《能代、長波、朝霜、岸波、沖波、藤波、浜波、玉波、島風》、第三航空戦隊《千代田、千歳、瑞鳳》)としてアメリカ軍機動部隊艦載機と交戦、本戦闘で被弾した榛名の被害は重くレイテ沖海戦時でも最大発揮速力は26ノット程度だった。レイテ沖海戦(1944年10月23日 - 25日)金剛はサマール島沖にて護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツの撃沈に貢献したとされている。栗田艦隊は10月22日にブルネイ湾を出撃、第三戦隊司令官鈴木義尾少将は引続き金剛座乗、第二艦隊(第一遊撃部隊)指揮官栗田健男第二艦隊司令長官(旗艦愛宕)の一艦としてレイテ湾を目指した。23日早朝にはパラワン島沖で米潜水艦2隻(ダーター、デイス)に襲撃され、重巡2隻(愛宕《第二艦隊旗艦》、摩耶)が沈没、重巡1隻(高雄)が大破して駆逐艦2隻(朝霜、長波)に護衛されて離脱という被害を出した。愛宕沈没後の第一遊撃部隊指揮官栗田健男中将は、大和に将旗を掲げた。10月24日、第一遊撃部隊・第二部隊(第三戦隊《金剛、榛名》、第七戦隊《熊野、鈴谷、筑摩、利根》、第十戦隊《矢矧、浦風、浜風、磯風、雪風、野分、清霜》)はシブヤン海の対空戦闘に参加。アメリカ軍機は主に第一戦隊(大和、武蔵、長門)を攻撃し、戦艦武蔵が沈没、重巡妙高も脱落という被害を受けた。第三戦隊はほぼ無傷であった。10月25日午前6時45分、第一遊撃部隊はサマール島沖でトーマス・L・スプレイグ少将率いる第七七・四任務部隊の第三群(通称タフィ3戦隊)と遭遇。米護衛空母群は戦艦部隊(大和、長門、榛名、金剛)の先制砲撃を受け折しも到来していたスコールへと退避するために東方へと遁走。煙幕を展張し、7時6分から次々とスコールへと逃げ込んだ。栗田長官率いる第一遊撃部隊は第五、第七戦隊を先頭に追撃を開始し、金剛は第五、第七戦隊に後続する形で東方へと向かった。榛名もこれに続いたがマリアナ沖海戦での推進機類故障が直っておらず26ktしか出せず金剛との距離が離れ第三戦隊は各艦がバラバラに進撃することになった。28ktで突撃する第七、第五戦隊の後方に続行していた金剛は7時14分に駆逐艦に砲撃を加えた後スコールに突入。同22分には航空からの機銃掃射を受け主砲測距儀を破損(9時に修理が完了)し、スコールに突入したことから7時25分には砲撃を中止する。同33分にはホーエルから発射されたとされる魚雷を回避する事態もあったが、その後はアメリカ艦隊を視認し予測位置とされる東南東に向けて全速で突撃した。同59分にスコールを脱した金剛は米空母群を南西方向に発見し、8時2分から主砲副砲による砲撃を再開したのち、同5分に今度は南方へと艦先を変え落伍していたガンビア・ベイに追い迫り、重巡部隊と共に攻撃を加えた。同20分にガンビア・ベイは金剛主砲の至近弾による機雷効果、もしくは重巡部隊主砲の水中弾により前部機関室が浸水、速度が11ktまで低下する。その結果金剛と重巡部隊の集中攻撃を受け同45分に航行不能に陥り、9時11分に沈没した。金剛は8時50分に「空母一隻大火災大爆発」を報じ、射撃を中止している。金剛は同55分に「われ一四〇度方向の空母に向かう」と報告し南東方向の空母群へと向かおうとしたが、栗田長官は位置的に近い榛名に攻撃を命じたため、金剛は南西方向の空母群へと向かった。その途中、金剛は重巡部隊の砲撃によって40発もの命中弾を受け満身創痍の状態となった護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツと9時2分に遭遇し、これに主砲を一斉射し直撃弾を与えた。金剛の主砲弾を前部5in砲塔と後部機関室に受け、致命傷を負ったサミュエル・B・ロバーツは同35分に総員退去を行った。この後軽巡洋艦矢矧と第十七駆逐隊(駆逐艦浦風、磯風、雪風)」からの止めの砲撃を受け、10時5分に沈没している。しかし金剛は、サミュエル・B・ロバーツとの戦闘により空母群の追撃から脱落することになってしまった。9時11分に旗艦大和より発信された「逐次集レ」の集結命令を同25分に受信した金剛は命令に従い北上を開始した。午後1時28分金剛は航空からの集中的な急降下爆撃を浴びこれまでにないかなりの損傷を受けた。28日ブルネイに帰投した。サマール島沖で金剛が消費した弾薬数は以下のとおりである。艦長付兼甲板士官を務めていた長山兼敏が雑誌「丸」(1977年12月号掲載)に寄稿した金剛沈没時の体験記事『比島洋上決戦にわが金剛主砲の雄叫びよ、ひびけ』の中にも、この海戦における金剛の様子が書き残されている。「距離は僅かに2000メートル」とあるが、これは第二次改装後の金剛の最大射程は33000mに及ぶためである。なおガンビア・ベイをどの艦が撃沈したか、に関しては著書によっては異説も存在し、金剛の他に大和、羽黒、筑摩、利根などの名前が上がることもある。金剛は海戦の戦果報告として空母一隻の共同撃沈と駆逐艦一隻の撃沈を報じており、ガンビア・ベイの戦果を単艦ではなく共同撃沈として挙げる資料もある。また、サマール島沖での重巡洋艦鳥海の被弾に関して、第四戦隊壊滅後に鳥海が配属された第五戦隊(司令官橋本信太郎中将)旗艦羽黒の乗組員だった戦史研究家の石丸法明が、鳥海の被弾を羽黒の艦橋で目撃した同艦通信長元良勇、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した信号兵南里国広二等兵曹、および当時の金剛乗組員3人の証言から、『金剛による誤射があった』という説を述べている。金剛の見張員はすぐに鳥海を誤射したことに気付いて艦橋に報告し、金剛の島崎利雄艦長は、同艦を追撃戦から脱落させた。金剛が鳥海を誤射したことについて、羽黒では艦長、副長から厳しい箝口令が敷かれたという。石丸によれば誤射の原因は橋本司令官の命令を待たずに突撃した鳥海の側にあったとしている。サマール沖海戦後の第三戦隊(金剛、榛名)はフィリピンやブルネイを転々したのち、日本本土への帰還が決定した。戦艦3隻(大和、長門、金剛)、軽巡洋艦1隻(矢矧)、駆逐艦6隻(第17駆逐隊《浦風、磯風、雪風、浜風》、松型駆逐艦《梅、桐》)という編制である。11月16日、艦隊は榛名、羽黒、足柄、大淀等をブルネイに残置して外洋へ出た。11月20日、駆逐艦2隻(梅、桐)が艦隊から分離して台湾の馬公へ向かった。これにより、護衛駆逐艦は第17駆逐隊の4隻だけとなった。川畑(当時桐駆逐艦長)によれば、悪天候のため大和から『桐は大丈夫か』と度々心配され、台湾基隆沖合で直衛任務を解かれたという。川畑は「もう少し(桐と梅が)護衛を続けていたら金剛も無事だったかもしれない」と回想している。磯風乗組員によれば、金剛側に燃料補給を依頼すると『やる油はないから、後からついてこい』との返事があったという。20日20時、大和から陣形変更の信号があり大和→金剛→長門から、金剛→長門→大和に序列が変わったという。ただしブルネイ出港時から金剛→長門→大和だったという証言もある。11月21日零時、先頭金剛、2番長門、3番大和の順で航行する日本艦隊は正体不明の電波を探知、之字運動をやめ速度をあげて現場海域を突き切ろうとした。艦隊の先頭を矢矧が、戦艦戦隊の右舷(左舷)を浦風、雪風(浜風、磯風)が航行していたが、台風に突入したためレイテ沖海戦で損傷していた矢矧は落伍、駆逐艦隊も危険な状態となっていた。ところが午前3時ごろ、金剛は台湾沖・基隆北方50浬で米海軍の潜水艦シーライオン("USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315")の魚雷攻撃を受けた。シーライオンは6本の魚雷を発射し午前3時6分、12ktで航行していた金剛左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中した。この時、長門を狙って外れた魚雷1本が護衛の第17駆逐隊司令駆逐艦の浦風に命中して浦風は轟沈、第17駆逐隊司令部、浦風の艦長以下乗組員全員が戦死している。3隻となった第17駆逐隊は、雪風が大和、長門の護衛として現場海域を離脱。金剛は『六・八罐室浸水、十六節、傾斜十四度』等を報告し、磯風、浜風と共に基隆へ退避することになった。鈴木司令や島崎艦長は金剛夜戦艦橋にて指揮をとった。当時、金剛はすでに艦齢30数年と老朽化が進んでおり、レイテ沖海戦でも至近弾で浸水被害を受けていた。魚雷命中破孔に加えてリベットの継ぎ目などからも浸水、徐々に破損箇所が広がって傾斜が増大する。傾斜12度になり、艦長は左舷副砲指揮官兼衛兵司令の佐藤中尉を呼び、艦長公室の御真影を艦橋に移させた。午前5時の時点でも11ktで航行しており、乗組員の誰もが魚雷2本で沈むとは考えず楽観視していたため、駆逐艦を接舷させての乗員退避は実施されなかった。応急決死隊が潜水具をつけて作業にあたるも手遅れであり、傾斜18度で司令官及び艦長より総員退去命令が出される。5時20分には機関が停止、10分後の午前5時30分に転覆した。沈没直前、弾薬庫の大爆発が起きて艦中央付近にいた多くの乗員が吹き飛ばされ犠牲となった。被雷してから沈没まで2時間があったにもかかわらず、損害の軽視、総員退艦の判断の遅れなどにより、島崎利雄艦長、第三戦隊司令官鈴木義尾少将以下1,300名とともに沈むこととなった。磯風、浜風は準士官以上13名、下士官兵224名、計237名を救助したとされる(浜風:准士官以上7名、下士官兵139名。磯風:准士官以上副長以下6名、下士官兵85名)。23日、浜風は矢矧に金剛生存者を引き渡した。この後、第17駆逐隊は日本帰還後、横須賀へ回航される長門護衛任務につき、折り返して、大和型戦艦を改造した空母信濃の呉回航の護衛任務につくことになった。なお金剛は、日本戦艦で唯一潜水艦の雷撃により撃沈された艦でもあった。。1945年(昭和20年)1月20日、金剛と重巡2隻(熊野、那智)は除籍された。現在、金剛の慰霊碑は長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。1930年の第一次改装で取り外された金剛のボイラーは現在呉市海事歴史科学館に展示されており、2008年に重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00002号に認定された。金剛の沈没時に艦首に掲揚されていた軍艦旗は乗員によって回収され、この乗員が捕虜になった関係から一時、中華民国に接収されていたが、1969年に同国政府より返還され、海軍のOB会「黒潮会」によって管理されていた。その後、2009年に会員の高齢化によって同会が解散した際、旗を回収した乗員の地元である福岡県飯塚市に寄贈され飯塚市歴史資料館に保存されている。※ ←は左に同じ(変更なし)。空白は不明。1944年は推定を含む。※※ 水平防御に缶室64mm、機械室83-89mm、弾薬庫102-114mm、舵取室76mmなど追加。いずれも計画のみで実際には計画変更や中止によってほぼ実現しなかった計画である。

出典:wikipedia

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