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飛鷹 (空母)

飛鷹(ひよう)は、日本海軍の航空母艦。飛鷹型航空母艦の1番艦である。ただし、帝国海軍の公式記録では隼鷹を同型艦の1番艦として、飛鷹を隼鷹型航空母艦の2番艦としている。また飛鷹と隼鷹とでは機関の仕様に差異が認められる。飛鷹は日本郵船が北米航路用に新造した橿原丸級貨客船出雲丸を建造途中で航空母艦に改装したものである。橿原丸、出雲丸とも日本政府が戦時に航空母艦に改造することを条件に建造費が補助されている。改造は徹底しており、外観から見ると客船であった頃の面影はほとんどない。商船改造空母であるため速力は正規空母の30kt以上に比較して遅く、鋼板も薄く防御能力でも見劣りしたが、航空機搭載能力は中型空母の蒼龍に匹敵した。商船改造空母ではあるが、右舷側に煙突と一体となった艦橋を有し、且つ飛行甲板への排煙の影響を避けるため煙突を外側へ26度傾けて設置した最初の艦である。また二号一型電探(対空レーダー)も装備されており、対空兵装は正規空母に見劣りしない。艦橋と煙突を一体化した構造は後の装甲空母の大鳳や大和型戦艦を改造した空母の信濃でも採用されている。旅客船出雲丸は、最初から航空母艦化を想定した設計で、川崎重工業神戸造船所で建造されることになった。起工は1939年(昭和14年)11月であるが、空母への改造は1940年(昭和15年)10月に決定。当時の出雲丸は上甲板附近まで工事が進んでいた。翌年1月に改造工事が開始された。1942年(昭和17年)7月31日に竣工し、軍艦籍に入る。呉鎮守府籍。先に完成した姉妹艦の隼鷹は第四航空戦隊(司令官角田覚治少将:龍驤、隼鷹)を編成し、ミッドウェー海戦の支援作戦であるアリューシャン方面の戦いに参加したが、飛鷹は加わっていない。完成後の飛鷹は旧第四航空戦隊(隼鷹、龍驤)と共に第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:飛鷹、隼鷹、龍驤)を編成したが、錬成中の8月7日にガダルカナル島の戦いがはじまる。隼鷹型2隻(飛鷹、隼鷹)は内地で訓練を続け、龍驤のみ第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)に臨時編入されてソロモン諸島へ進出。8月24日の第二次ソロモン海戦で撃沈され、二航戦は空母2隻(飛鷹、隼鷹)になった。その後、飛鷹は同戦隊の旗艦となった。10月4日、二航戦(飛鷹、隼鷹)、駆逐艦2隻(電、磯波)は内地を出発、トラック島へ進出した。同泊地着後の10月11日、二航戦は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦・愛宕)の指揮下、前進部隊と共に出撃した。別所(当時飛鷹艦長)によれば、最大速力26ノット程度の飛鷹は甲板上風速・秒速15mを得るために苦心したという。最初の任務は第三戦隊(司令官栗田健男少将:金剛、榛名)と第二水雷戦隊によるヘンダーソン基地艦砲射撃の上空警戒だった。二航戦(飛鷹、隼鷹)は駆逐艦3隻(電、磯波、陽炎)と行動を共にした。作戦従事中の10月20日、飛鷹は機関故障(発電機室火災)を起こした。最大発揮速力16ノットに低下、日本軍はアメリカ軍機動部隊との決戦の前に空母1隻分の戦力を失うことになった。10月23日、本艦は旗艦任務を隼鷹に、搭載機を陸上基地と隼鷹に移動し、駆逐艦2隻(電、磯波)護衛下でトラック島に帰還した(10月26日着)。このため、飛鷹は10月25-26日の南太平洋海戦や、11月12日以降の第三次ソロモン海戦に参加できなかった。応急修理を実施したのち、12月上旬にトラック泊地を出発。飛鷹および駆逐艦2隻(雪風、初雪)は12月10日になって内地へ帰着した。1943年(昭和18年)3月22日、二航戦(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、護衛の駆逐艦(涼月、夕暮、陽炎)は大分県佐伯市を出港した。28日、トラック泊地に到着。4月18日、い号作戦指揮中の山本五十六連合艦隊司令長官が海軍甲事件で戦死した。連合艦隊旗艦武蔵は山本長官の遺骨を乗せて日本に帰投することになり、飛鷹も同行する事になった。飛鷹および戦艦3隻(武蔵、金剛、榛名)、重巡洋艦2隻(利根、筑摩)、駆逐艦5隻(時雨、有明、海風、初月、涼月)は5月17日にトラックを出港した。その後、日本海軍はアリューシャン方面のアメリカ軍の動向を踏まえた上で、日本本土の飛鷹に出動準備を命じた。駆逐艦2隻と共にマーシャル諸島へ進出することになった。6月8日、当初護衛艦に指定されていた第27駆逐隊の時雨が機関故障のため修理にまわされ、代艦として同駆逐隊の2隻(有明、夕暮)が選ばれた。6月10日、3隻(飛鷹、有明、夕暮)は午後2時に横須賀を出港したが、夕刻、三宅島沖合にて暗号解読により待ち伏せていたアメリカの潜水艦トリガー("USS Trigger, SS-237")の雷撃に遭った。被雷時刻は18時35分で、発射された魚雷6本のうち4本の魚雷が飛鷹に命中したが、起爆した魚雷は1本のみで沈没に至らなかったが、自力航行不能となった。19時37分、飛鷹は夕暮を浮上した敵潜水艦と錯覚し誤射、軽微な損害を与えた。危機に陥った飛鷹に対し、呉から横須賀へ回航中だった第十四戦隊の軽巡洋艦五十鈴が救援に赴き、飛鷹を曳航して横須賀に向かった。12日午前中、飛鷹隊は横須賀へ帰港。飛鷹の行動不能により、錬成部隊として運用されていた第五十戦隊の軽空母2隻(鳳翔、龍鳳)のうち、龍鳳が第二航空戦隊に編入される。空母3隻(龍鳳、大鷹、冲鷹)、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、五十鈴、駆逐艦部隊(時雨、有明、夕暮、潮、曙、漣、雪風、浜風、谷風、清波、新月)は16日に横須賀を出港、南方へ進出していった。龍鳳は小型空母であるため搭載機数も隼鷹型航空母艦に比べて少なく、したがって飛鷹航空隊の一部は龍鳳に収容しきれず空輸によりトラックへ進出した。修理を行う本艦では、横井大佐が艦長に着任後、艦内調度品、木製品一切、木甲板に至るまで撤去している。ただし客船としての建造が進んでから空母に改造された隼鷹に対し、飛鷹は下甲板段階で改装したので、ほとんど軍艦に近かったという。12月上旬、龍鳳と共に南方への輸送作戦に従事する。トラック泊地に立ち寄った際に航空隊をラバウル方面へ転用するためにおろし、飛鷹は内地へ戻った。「あ号作戦」には、第二航空戦隊(司令官城島高次少将:空母3隻《隼鷹、飛鷹、龍鳳》)、戦艦2隻(長門、扶桑《扶桑は海戦に参加せず》)、重巡洋艦最上、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《野分、満潮、山雲》、第27駆逐隊《時雨、五月雨》、第17駆逐隊《浜風》)等と、小沢機動部隊・乙部隊を編成していた。1944年(昭和19年)6月13日、タウイタウイ泊地を出港し、マリアナ沖へ進出する。18日、夜間航行中に飛鷹は長門と衝突しかけた。また横井艦長、志柿副長とも、旗艦(大鳳)が無線封止をやぶって未帰還索敵機を呼び、探照灯を照射して誘導を試みたことを「米潜水艦を引き寄せる一因になった」と批判している。6月19日、マリアナ沖海戦に参加し、空母大鳳の沈没(アメリカ潜水艦アルバコア (SS-218)の雷撃に起因する)を10浬離れた地点から目撃した。飛鷹が収容した航空機はアメリカの潜水艦カヴァラの雷撃で撃沈された空母翔鶴の3機、飛鷹所属2機、計5機程度だった。6月20日、小沢機動部隊は燃料補給のため、甲部隊(小沢治一郎中将)、乙部隊、前衛部隊(栗田健男中将)、燃料補給部隊が同一海面に集結したところ、アメリカ軍機動部隊艦載機の襲撃を受ける。米空母レキシントン (CV-16)の艦上機が飛鷹を攻撃したとされる。飛鷹幹部による分析によれば、隼鷹を襲撃した雷撃機隊を長門が砲撃して4機を撃墜した際、残2機が目標を旋回運動中の飛鷹に変更した。1機を撃墜したが、まず魚雷1本が右舷後部機械室付近に命中した。機関科兵は全員脱出したが、連動して左舷の機械も止まって航行不能となる。同時に、注排水指揮所が有毒ガスで全滅した。火災は30分で消火に成功した。被雷とは別に、急降下爆撃機が投下した爆弾が艦橋後部マストに命中し、弾片で航海長を含む見張所・飛行指揮所の艦橋要員に多数の死傷者が出る。副長はガソリンタンク外側の空所に注水を命じた。空襲が終わったため長門に曳航準備をさせていたところ、突然前後のエレベーターが煙突の高さ以上に飛び上がり、また元の孔に落ちて傾斜が復元した。砲術長は、米潜水艦が発射した魚雷が後部ガソリンタンク付近に命中したと証言、戦闘詳報にも採用されている。飛鷹艦長も爆発直前に雷跡を発見し、右舷後部に魚雷2本が命中したと回想している。このガソリンタンクの爆発が飛鷹の致命傷となってしまった。飛鷹の副長は「火災全て鎮火」の報告もあって消火に希望をもっていたが、消火ポンプの故障により艦を救うことを諦めている。一方、長門では飛鷹の曳航準備が進み、長門の四番砲塔と飛鷹間にワイヤーロープが渡された。しかし長門が微速前進したところ、ワイヤーは切断されてしまったという。曳航作業の失敗により、飛鷹の救援の見込みはなくなった。軍艦旗降下と総員退去の後、飛鷹は左舷に傾斜、艦尾から沈没した。沈没時刻は19時32分と記録されている。乙部隊に所属する第27駆逐隊(時雨)によれば19時26分。乗組員は随伴駆逐艦(浜風、浜波、秋霜、早霜 、満潮)等に救助された。横田艦長は満潮に救助された。救助に尽力した満潮に飛鷹の副長は「感謝のほかなかった」と述べている。その後、飛鷹の乗員は機動部隊が寄港した沖縄中城湾にて隼鷹に移乗し、本土へ向かった。

出典:wikipedia

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