レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、Battle of Leyte Gulf)は、第二次世界大戦中の1944年10月23日から同25日にかけてフィリピン及びフィリピン周辺海域で発生した、日本海軍とアメリカ海軍・オーストラリア海軍からなる連合国軍との間で交わされた一連の海戦の総称。日本側と連合国側の主攻目標が共にレイテ島(レイテ湾)であったことから、この名が付けられた。比島沖海戦もしくはフィリピン沖海戦(2nd battle of the Philippine Sea)ともいう。本海戦を細分化すればシブヤン海海戦(Battle of the Sibuyan Sea)、スリガオ海峡海戦(Battle of Surigao Strait)、エンガノ岬沖海戦(Battle of Cape Engano)、サマール沖海戦()の4つの海戦からなるが、戦局に与えた影響や評者による議論の仕方によっては事前の様々な背景が採り上げられることもある。連合軍の作戦名はキングII作戦("Operation KING II")でレイテ島奪還が目的、日本側の作戦名は捷一号作戦でアメリカ軍の進攻阻止が目的であった。日本海軍の艦隊戦力はこの海戦での敗北を最後に事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。また、この海戦で日本側ははじめて神風特別攻撃隊による攻撃をおこなった。日本海軍は稼働軍艦の多くの投入を企図するなど総力を挙げ、後の戦闘を見越し陸軍も多数の部隊を配置し、アメリカも太平洋に展開する大半の軍事力(特に海軍)を投じたうえに、同盟国のオーストラリア海軍の支援を得て戦った。その規模の大きさ、戦域が広範囲に及んだことなどから史上最大の海戦と言われる。1944年6月のマリアナ沖海戦は敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥、マリアナ諸島自体の失陥も確実なものとなった日本では国政にも影響があり、反東条の気運の中7月22日に小磯内閣が誕生した。しかし、陸軍軍人とは言え予備役に引いていた小磯國昭に陸軍を抑える力はなく、この政変は陸軍、特に参謀本部の発言力を強める結果となったとされる。その陸軍参謀本部は7月15日、今後の戦争指導方針として次の4案を示した。日本の戦力は既に破断界に達していると認識していた参謀本部は第2案を推薦、梅津美治郎参謀総長もこの案を推し25日陸軍大臣杉山元と協議してこれを採用した。児島襄は「もし第二案の決戦で敵に大打撃を与えれば、同じ和を求めるにしても、ずるずると敗戦するよりも立場は有利になるだろう」と評したこれがいわゆる「一撃講和」の基本的な考えである。大本営は7月18日から3日間にわたり陸海軍合同研究を行い次の防衛作戦を立案、方面別に捷一号から捷四号と名付け、7月24日裁可、陸軍は同日作戦準備を各軍に命じた。フィリピン方面の防衛作戦は、捷一号作戦とされた。日本にとってフィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が途絶されることであり、戦争の敗北に大きく繋がるものであった。8月19日、大本営政府連絡会議から名称を改めた最高戦争指導会議では「世界情勢判断」と「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、前者でドイツが敗北必至であると認め、後者では「欧州情勢の推移如何に関わらず、帝国は決戦的努力を傾倒して敵を破摧、政略施策と相俟って飽く迄も戦争完遂に邁進せざるべからず」と結論し太平洋方面での戦争継続方針を追認、同時に大陸において対ソ連への独ソ和平工作、対重慶(中国国民党)への和平工作を行なうこととした。8月4日、連合艦隊は「機密GF命令作第85号」をもって「連合艦隊捷号作戦要領」を発令。その内容はというものだった。こののち、連合艦隊や参加各部隊より作戦の詳細が発令される。その中で水上艦艇の中核となる第一機動艦隊(第二、三、五艦隊)では、司令長官小沢治三郎中将より「機動部隊命令作第76号 機動部隊捷号作戦要領」が発令され、第一遊撃部隊(第二艦隊 この時点では第一機動部隊所属のため)、機動部隊本隊(第三艦隊)、第二遊撃部隊(第五艦隊)に対して捷一号作戦に関しては要約すると以下のように指示がなされた。作戦では、小沢の指揮する第一機動艦隊が全般の作戦指揮を行うようになっていた。しかし当の小沢自身はこのままでは第一遊撃部隊と機動部隊本隊は2600浬も離れて行動することになり、実際の作戦指揮は不可能だと考えていた。そこで小沢は9月10日、以下の点を連合艦隊司令部に意見具申した。しかし連合艦隊の豊田副武司令長官は9月中旬、参謀の高田利種を派遣し小沢長官の統一指揮を要望した。これに対し小沢長官は賛同せず議論は平行線となった。この問題は結局後に起こった台湾沖航空戦で空母航空兵力を陸上基地に転用してすり潰し、機動部隊本隊の航空兵力が120機ほどしかない状態で捷号作戦に挑む羽目になったことで第一遊撃部隊は連合艦隊直率となり、指揮権に関しては小沢の進言通りになる事となった。この時期、第一遊撃部隊はリンガ泊地にいた。マリアナ沖海戦の失敗後、6月23日に内地に帰還した同隊は次の作戦指示を待ちつつ出撃の準備を行っていた。小柳富次第二艦隊参謀長は上京し、空母部隊が壊滅した現状に於いて今後第一遊撃部隊をどう作戦させるのか中央の意向を確認し、それに合わせた作戦準備と訓練を行おうとした。しかし大敗直後の軍令部はごった返して今後の作戦方針の見通しも立っておらず、連合艦隊司令部に出向いても同様であった。この際小柳は、かねてから懸案されていた第一遊撃部隊の旗艦について、大和型戦艦に変えたいと希望を述べたが賛同を得られなかった。参謀長の帰着後の6月28日、連合艦隊と第一機動艦隊より第一遊撃部隊のリンガ泊地進出の内意を受けた。遊撃部隊は7月1日より南方向け輸送物資人員の搭載を行い随時進発、第一戦隊にはビルマに派遣される歩兵第百六連隊及び大東島に至った歩兵第三六連隊が便乗した。連合艦隊は8月1日、旗艦大淀にて内地在泊の各部隊司令官や参謀長、各艦長らを集めて作戦会議を開いたが、第一遊撃部隊はリンガ泊地にあり参加できなかった。このため連合艦隊参謀神重徳と軍令部参謀榎尾義男がマニラに飛び、南西方面艦隊司令部にて司令長官三川軍一以下司令部要員、第一遊撃部隊からも参謀長の小柳冨次と作戦参謀の大谷藤之助がマニラまで来て、8月10日に会議を行った。第一遊撃部隊を船団攻撃のためレイテ湾に突入させるという作戦を聞いた小柳参謀長は、神参謀と以下の議論をしたと証言している。この後、翌11日まで南西方面艦隊司令部員と打ち合わせが行われ、リンガ泊地に帰着後に第一遊撃部隊所属の司令官、艦長らに作戦説明が行われた。従来の方針から大きく異なる水上艦艇による輸送部隊攻撃の作戦に現場指揮官達から多くの異論がでたが、それを抑えて泊地内に突入して攻撃することを念頭に置いた訓練計画を作成。小柳の陳述では下記の5種に区分して実施したと述べている。それでも指揮官たちの中には輸送船団攻撃で水上部隊をすり減らすことに納得していない者もおり、例えば第一戦隊司令の宇垣纏少将は、自身の日誌戦藻録の9月20日の記述で、自身の座乗する戦艦大和に小柳参謀長、山本祐二参謀が来艦したので、自身の意見として「輸送船団を攻撃するよりも敵主力部隊との決戦を模索すべき」と述べたと記述している。こうした現場指揮官たちの不満を抑えながら、今まで前例のない任務に向けての訓練を実施しつつ、当日を迎える事となった。尚、連合艦隊と第一遊撃部隊は、8月10日の作戦説明以降は全く何らの会合の機会を得ぬまま10月18日の作戦発動を迎えた。そのため作戦内容に対する問題提起などを第一遊撃部隊側からは行うことは難しかった。一方、直接の上級司令部であり、内地にある第一機動艦隊より、前述のように小沢長官の名で9月10日に意見書が出され、その中で第一遊撃部隊の水上戦力の強化と、直接航空支援を行う航空戦隊1個の配属の要望がなされた。しかし水上戦力の強化は第二戦隊(戦艦山城、扶桑)と本来機動部隊の護衛部隊として編成されていた第十戦隊(旗艦矢矧、第17駆逐隊)の第一遊撃部隊への編入が行われたのみで、その後の戦局の緊迫もあり航空戦隊の配属は遂に認められなかった。守りに回った日本側の戦略目的がある意味で明快になりうる環境にあったのに対し、アメリカのフィリピン奪回のスケジュールは対日反攻が相当進展してからも紆余曲折を辿った。その理由は陸海軍、統合参謀本部などの主要指揮官の間の意見の違い、ヨーロッパ戦線との兵力配分、秋のアメリカ大統領選挙を睨んだ主要アクターの行動、対日戦終結後の中華民国の蒋介石政権支援のための大陸への兵力展開といった要素が絡んで考慮されたからであった。1943年11月のカイロ会談で中部太平洋進攻とニューギニアからフィリピン方面への進攻の両者を進める方針が定まり、概略の順番も示されたが、優先度は中部太平洋の方が上であり、アーネスト・キング海軍作戦部長は中華民国との兼ね合いを重視してフィリピンよりは台湾→廈門に至るルートに拘りを見せていた。1944年3月12日、海軍作戦部長アーネスト・キング、ニミッツ太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面最高司令官、マッカーサー南西太平洋方面最高司令官の代理であったサザーランド参謀長等の討議の後、統合参謀本部は当面の攻略予定について決定をした。その中にはマッカーサーの推すハルマヘラ(9月15日に上陸予定)、ミンダナオ(11月15日に上陸予定)など南西太平洋から南部フィリピンに至るものも含まれていた。しかし、6月の段階でも統合参謀本部はフィリピンを素通りしたい意向を示し、海軍作戦部長アーネスト・キングは上記2箇所への進攻を中止し、彼の持論である台湾へ進攻することを提案した。キングの方針は3月12日決定での中国本土接岸目標にも合致していた。統合参謀本部は戦争終結を早めるべく6月13日、マッカーサー、ニミッツの両者に対して次の3つの案での対日進攻の再検討を命じた。しかし、両者ともこれらの計画は急進的に過ぎると考えた。マーシャル陸軍参謀総長は6月24日、マッカーサーに沖縄進攻を提案した。その意図はマッカーサーの面子を潰さずに中国沿岸に接岸し、かつ米本土に残されているヨーロッパ用の予備兵力をキングの台湾進攻案に使わせないためであった。7月8日マッカーサーはマーシャルの提案に反対し、統合参謀本部が3月12日に決定した案を更に短縮し1945年5月ルソン島に進攻するレノ5号("Reno-V")計画を提出した。マッカーサーは軍事的理由として、フィリピンが元々アメリカの植民地支配下にあったこともあり親米ゲリラの助力を期待できること、島嶼への海上進攻と比較し地上拠点も複数確保できることを挙げていた。また、マッカーサーは父親の代よりこの地の利権を多く握っていて、「マッカーサー王国」などと揶揄される状態であった。また、自身の前職はフィリピン軍元帥であり、更に緒戦で日本陸軍に敗北した際に、自分を含む高級軍人達だけが脱出し「私は戻ってくる」と宣言した手前もあった。マーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる書簡を送っている。海軍はマッカーサーの提唱するレノ5号は対日戦早期終結に役立たないと批判した。一方、ニミッツはこの時期、1945年2月に台湾南部に進攻するグラニット2号計画 ("Granite-2") を持っていた。また7月4日、予定通りに進攻が進まなくても既定の作戦計画を遂行することと、マッカーサーの主張する機動部隊と陸上基地とを連携させた作戦が適切である旨の2点を回答した。この理由としてを挙げた。こうした対立のため、統合参謀本部は7月11日、ヨーロッパ情勢と絡め次の提案をし、パラオ占領(当時の予定では9月15日)とミンダナオ攻略の間に決定するとした。キングはこの後エニウェトクなどの視察行に出、17日にサイパンに飛び、スプルーアンス第5艦隊司令官、両用戦の指揮を取っていたリッチモンド・K・ターナーに次期進攻はどこが望ましいかを尋ねたところ、両者ともフィリピンと答え、スプルーアンスはその理由としてサイパンのような島嶼よりも港湾向きの地形が多く、マニラ湾などを活用できることを挙げた。キングはスプルーアンスの論理に理解は示しつつも、持論の台湾進攻による中国大陸接岸案を棄てようとはしなかったなお、この大戦の間、アメリカ本国の政軍関係者には軍の動員限界についての考えが背景にあり、労働人口との兼ね合いから他の連合国への武器供給を含めた生産計画と睨みつつ、動員を行っていた。1943年から44年にかけては本国に留保している予備戦力を含めて、陸軍総兵力を90個師団770万人(海軍は200万人)に制限する決定も出され、これを世界にどう配分するかが戦略討議の前提条件であった。更にこの動員限界を超えて徴兵を行うのは、1944年11月の大統領選挙後でなければ不可能との統合参謀本部の見解もあった。そのためマーシャルはやや後の9月末にレイテ島上陸以後の作戦を計画した際にも、この件を考慮した上で作戦を検討するべき旨を主張している。一方、ルーズベルトはマッカーサーが共和党の大統領候補になることを警戒し、これまで余り手柄を立てさせないようにしてきた。しかし、マッカーサーは4月末に不出馬を宣言し、ルーズベルトは7月初旬の民主党大会で自身が大統領候補に指名されることが確実となり、カリフォルニアに滞在中の20日に指名を受けた。その後ルーズベルトは選挙遊説を行い、その一環として重巡洋艦ボルチモアでオアフ島ホノルルに赴いた。これは選挙中に前線基地に赴くことで、自分を戦争指導者として国民にアピールする狙いがあった。7月26日に到着し、その日の夜に現地の資産家の所有する邸宅で軍関係者を招いての夕食会を開き、その後、リーヒ陸海軍参謀長会議議長、マッカーサー、ニミッツの4者で会談をおこなった。マッカーサーはミンダナオ→レイテ→ルソンというコースを示して持論を述べ、アメリカの植民地であったフィリピンはゲリラ協力が期待できるが、台湾は半世紀も日本の統治下にありむしろ住民が日本側へ協力する、キリスト教徒が多くを占めるフィリピンの住民は1942年に裏切られたと思っているし、フィリピンを見捨てることはアメリカの名誉に大きな汚点となると述べて迫った。ニミッツは台湾には固執していなかった。キングの提唱する台湾進攻には5〜10個の陸軍師団が必要と見られ、陸軍の協力が不可欠だったからである。マッカーサーはルーズベルトと会談後寝室に続く廊下で2人きりになった時、「国民の激しい怒りは、この秋の選挙時に閣下への反対票となって返ってくることになる」と脅した。これに対しルーズベルトは「フィリピンを迂回しない」ことを認め、「これからキングとやり合わねばならない」と述べた。会談はその後も同艦が出港する29日まで続いた。作戦部長キング、この時点で作戦中であった第5艦隊司令官の後任を予定していたハルゼーもそうした中で討議の一部には参加或いは意識していた。しかし、海軍(キング)が主張する台湾進攻とルソン進攻案との関係は後回しとされ、9月のケベック会談でチャーチルと協議した結果により決めるとした。ハワイ会談に対し統合参謀本部は不満で、キング作戦部長は即時台湾攻略を主張し、ニミッツに対して「人事を扱う航海局の出身だから妥協ばかりする」と怒りを露にした。一方海軍側でもハルゼーはフィリピン攻略の意義を認める進言をした。いずれにせよフィリピンへの進攻決定は高度の政治性を含むものではあった。8月に入りテニアン、グアムが相次いで陥落、マリアナ諸島を完全に占領したアメリカ軍は、ペリリュー島、ヤップ、タラウド諸島などが次の目標として見えてきた。8月16日、マーシャルはスケジュールを短縮できるとしたマッカーサーに計画の再提出を命じ、マッカーサーは作戦名称をマスケーティア("Musketeer ")と改名し27日に計画を提出した。それによれば攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。この一部を統合参謀本部は採用した。キングはなおも台湾に拘りマッカーサーはレイテ、海軍と海兵隊は台湾を攻略するよう提案し、暗にレイテ上陸への非協力をほのめかしたが、最終的にはレイテ後を棚上げすることで折れた。こうして9月9日、統合参謀本部はミンダナオ島の攻略(キングI)予定を11月15日、レイテ島の攻略(キングII)予定日を12月20日と指令した。その後ルソンと台湾のどちらに進攻するかは棚上げされたため未定であった。なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディ上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能なことは明白となった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにすることは出来なくなった。キングII作戦ではまずフィリピン周辺の広範囲に亘る日本軍拠点を攻撃して露払いを行い、その後レイテ島に上陸する。陸軍部隊の上陸作戦は、キンケイド中将の第7艦隊が担当し、艦船による砲火支援、輸送艦船の護衛などを行なう。ハルゼー大将の第3艦隊もこれを掩護する。8月29日、第3艦隊はエニウェトクより最初の出撃を行い、31日、第38任務部隊第4群が硫黄島を空襲し、続いて小笠原諸島を襲った。9月4日、第3艦隊(ハルゼー大将)が直接指揮する残りの3つの群はニューギニアのマヌス島から出撃し、9月6日よりパラオ周辺、続いてフィリピンを空襲(下記「ダバオ事件」の項参照)、第4群もヤップを叩きつつパラオに向かい、他の群と入れ替わりに空襲を加えた。ただし、この段階では日本軍はセブ島を中心に航空兵力を配置して敵の攻撃を控え、温存策をとっていた。このために150機分の囮が各基地に配置されていた。一方、アメリカ軍は空襲と併行しながら9月15日、モロタイ島、ペリリュー島へ上陸した(ペリリューの戦い)。17日にはアンガウルに上陸した(アンガウルの戦い)。9月23日にはウルシー環礁を占領しており、後に後方の補給拠点として使用された。第38任務部隊はペリリュー、モロタイ上陸作戦を支援した後、小笠原諸島やヤップを空襲し、9月21日にはフィリピン・マニラを、続いて沖縄を襲って日本軍機200機以上を破壊する戦果を挙げた。ダバオは、アメリカ軍上陸の可能性が高いと見られており、捷一号作戦では敵来寇の第一候補地に挙げられていた。9月に入ると連日のようにビアク島からの基地航空機による空襲を受けるようになり、9月9日から10日にかけアメリカ海軍第38機動部隊は、パラオ諸島に続いてダバオを中心にミンダナオ島各所に空襲を加えた。日本側は事前の空襲のため警戒を強めていたが不運なことに、この日の早朝、サランガニ見張所が敵上陸用舟艇接近と誤認、このことは捷一号作戦警戒を発令することに繋がった。そしてフィリピン南部に陸海軍の基地航空兵力が集結をはじめた矢先の9月12日、再び米機動部隊が来襲し、9月22日までマニラを始めとするフィリピン各地に空襲を続けた。この戦いで日本側は一方的に攻撃を受けるだけで基地上空での邀撃戦に終始し、何ら敵艦隊に打撃を与えることは出来なかった。その反面一航艦の実働兵力は250機から63機に激減し、艦艇7隻、船舶31隻を損失、第一遊撃部隊の出撃時に補給する燃料としてマニラに準備する筈の燃料3万tも失われた。海軍と共同する陸軍の現地航空部隊である第四航空軍も約200機からほぼ全機が失われた。アメリカ軍は上記の南部フィリピン攻撃後、パラオ作戦の支援に第4群を残して第38任務部隊の残りの3群は一旦後退した。10月7日マリアナ諸島の西で合流した第38任務部隊はフィリピン奪回の陽動攻撃の意味も込めて10日に南西諸島を空襲、12日から14日には台湾を空襲。一連の戦闘を「フォルモサの戦い」としている。日本軍の基地航空部隊はこれに応戦し、アメリカ軍に多大な損害を与えたものと判断したが、実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、日本の航空戦力が消耗しただけに終わった。そして、この時の戦果誤認が、後の日本軍の艦隊総出撃という積極的な行動要因の一つとなる。第38任務部隊が陽動を行っている間の10月11日から15日にかけて、ニューギニアのホーランディアとマヌス島に集結していた上陸部隊は続々と出撃していた。連合艦隊司令部は台湾沖航空戦の大戦果を信じ、引き続き基地航空部隊にアメリカ軍空母機動部隊の攻撃を命じた。小沢治三郎中将指揮の第一機動艦隊でも連合艦隊司令部からの「当分空母を作戦に投入しない」と言明された事を受けて、練成途上の艦載機隊を基地航空部隊の指揮下に移して沖縄へ展開させ、戦場に投入した。また、アメリカ軍機動部隊の損傷した残存空母を掃討するために、小沢中将の指揮下にあった志摩清英中将の第二遊撃部隊(第五艦隊)を出撃させた。だが健在な米機動部隊の反撃を被り第一機動艦隊の派遣した航空隊は壊滅的打撃を被った。第二遊撃部隊の進撃は戦果誤報に気付いたため中止され奄美大島へ退避するも、米軍の反攻の予兆が見られたので途中で台湾の馬公に向かうように指示し、更に同艦隊を南西方面艦隊の指揮下に移した。この間、日本側では9月29日、連合艦隊司令部が大淀から日吉の慶應義塾大学構内に移転した。軍令部総長の上奏文によれば高雄にも同様の指揮所を設置する予定だったが実際には設備は造られなかったまた、戦場であるフィリピンは戦前アメリカ本国の議会を通過した法案により1946年7月4日に独立を予定されていたが、フィリピンを占領した日本軍はこの状況を汲み、1943年には形式上はフィリピンを独立させていた。日本はその後連合国への宣戦布告を迫ったが、国土が戦場となり、長年の宗主国アメリカとしこりを生みたくなかった大統領ホセ・ラウレルはこれを引き伸ばすことに努め、1944年9月23日漸く宣戦布告をした。しかしこれも、戦争状態の存在を認める(existense of a state of war)であって正真正銘の宣戦(Declaration of War)ではなかった。日本軍はこの時期、親日を誓うフィリピン人による防衛組織ガナップ隊、11月10日にはマカピリ隊を編制し、後方での役務につけた。1944年4月下旬、アメリカ海軍作戦本部長キングは潜水艦隊に対して護衛艦への積極的な攻撃を命じていた。以後、多数の連合艦隊所属艦を含む駆逐艦、海防艦が撃沈され、ルソン海峡を中心とした通商破壊も月毎に激化した。また、護衛兵力の不足と船舶の合理的使用のため南方資源用の船団とフィリピン防衛用の兵力輸送船団は纏めて運行されたが不要な船舶までが危険海域を通過するようになった。9月に入ると上述のようにハルゼーは日本側の航空兵力が弱体であることを察知し、第38機動部隊による空襲も加わった。このため更に多数の船舶が沈められ、捷号作戦計画に基づいた事前の兵力展開にも支障した。これが捷号作戦時の駆逐艦不足、作戦発令前後の遊撃部隊からの一部戦闘艦艇の引き抜き、油槽船との会合遅延・失敗などにつながった。原勝洋によれば計画段階では14隻存在した連合艦隊の随行油槽船は作戦発動時6隻(日栄丸 良栄丸 厳島丸 雄鳳丸 八紘丸 日邦丸)まで減少していたという。なお、9月末の作戦計画での敵情要約の全般情勢にて、アメリカ軍は「航空機と潜水艦による攻撃は甚大な損失を敵船舶に与えており、それ故に敵のフィリピン各部隊への兵站支援は大きな障害を抱えている」と述べており、攻撃の効果を認識している。10月17日、アメリカ軍レイテ湾スルアン島に上陸を開始する。6時50分に同島の海軍見張所から第1報が発信され、8時の発信を最後に連絡を絶った。同時刻にはマニラやダバオなどにも米艦載機の空襲(先鋒を務めたジョン・C・マケイン・シニア少将の第38任務部隊第1群の攻撃)が、13時には台湾南部にはB29による空襲が行われた。現地部隊は米軍の接近をこの時まで察知できず、スルアン島への上陸は寝耳に水の情報であった。南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は情報に接するや、貴下の第五基地基地航空部隊指揮官で第一航空艦隊司令長官の寺岡謹平中将に対して航空偵察を命じ、直後に作戦発動を発令する。陸軍もレイテ島守備の第十六師団から情報参謀自ら偵察機に乗り込み空中偵察を行うが天候が悪く敵を発見できなかった。第四航空軍も偵察機を出すが敵を発見できなかった。それでも軍司令の富永恭次中将は各地での空襲状況から米軍の来襲は確実と考え捷一号作戦の発動を要請している。対して対して南部フィリピン防衛を担当する第三十五軍は当初は海軍見張所からの情報を信じなかった。理由はというものであり、第十六師団の敵情偵察の報告もその疑念を深くさせていた。連合艦隊では豊田副武連合艦隊司令長官が前線視察で台湾の高雄におり、草鹿龍之介参謀長が通信情報や現地部隊の索敵情報などから判断してハルゼーの部隊が沖縄寄り、ミッチャーの部隊が比島寄りに行動しいて、マッカーサーの攻略部隊も付近に存在していると判断した(実際には比島寄りの部隊とされたミッチャーの部隊はキンゲイト中将貴下の第七艦隊であり、18隻の護衛空母を機動部隊と見誤った。実際はミッチャーはハルゼー機動部隊の第38高速空母部隊指揮官でハルゼーの指揮下にいた)。豊田長官は直ちに「0809発GF軍令作特第14号 捷一号作戦警戒」を発令。日吉の連合艦隊司令部でも26分後に同様の発令をだした。8時48分に潜水艦部隊への進出命令がだされたのを皮切りに、連合艦隊より各部隊への出撃準備命令がだされる。特に連合艦隊司令部から「今後当分空母は使用しない」という言明を受けて台湾沖航空戦になけなしの艦載兵力を投入して磨り潰していた第一機動艦隊司令部にとって本作戦への参加の発令は寝耳に水だった。これは従来の作戦内容であっ「敵機動部隊を牽制する作戦」というよりも必然的に「囮」となる作戦を強要するに等しいからであった。この場当たり的ともいえる連合艦隊司令部の作戦指導に機動部隊司令部には憤懣やるかたない感情を抱くものもいた。小沢は囮とする着想は豊田長官の発想だと戦後の米国の質疑に対して述べている。また第二遊撃部隊(第五艦隊)を台湾沖航空戦の残敵掃討で出撃させており、機動部隊の警戒戦力も不足していた。そこで連合艦隊は対潜哨戒部隊である第31戦隊(司令官:江戸兵太郎少将)を機動部隊に急遽編入させた。10月18日、中比方面の天候が回復し、レイテ島は終日に渡り敵艦載機の猛攻に晒された。第十六師団は「敵艦艇多数湾内に侵入せり」と打電する。14時からは艦砲射撃が始まっている。軍令部はこの時点では敵の意図を察することができず、本格的攻略作戦とは判断していなかった。しかし大本営は米軍が台湾沖の大敗北を隠すために強引に比島を攻略してきたと判断。陸海両総長は直ちに参内し作戦の発動を上奏した。上奏は裁可され、17時1分に捷号作戦を比島方面の1号とするとする総長指示が関係各部隊に通報され、17時32分、連合艦隊司令部より「捷1号作戦発動」が発令された。豊田長官は台湾を離れ内地に向かうが悪天候のため大村に不時着し20日になってようやく日吉に帰着している。その20日、米軍はレイテ湾最深部タクロバンに上陸を開始する。これに対して第十六師団は主力をドラッグ正面に配備し、タクロバンには師団司令部や後方施設を置いていた。そのため米軍が予想に反してタクロバンに大兵力を投入したことで混乱を生み、21日は早くも師団司令部は撤収し、タガミに移動せざるをえなかった。23日には南北の防衛線が突破された。18日の時点でダバオ誤報事件や台湾沖航空戦により、当初の予定と実際のとか大きく違ってしまい、参加艦艇の燃料が欠乏していた。そこで軍令部は10月2日シンガポールを進発し日本に向け南シナ海を航行していたヒ76船団を連合艦隊の指揮下に移し、作戦用燃料を確保したい意向を陸軍に示した。この海軍の突然の申し出に陸軍が反対し、東京都芝の海軍水交社にて折衝を続けた結果、20日の昼に同船団の黒潮丸、東邦丸を指揮下に置く代わりに本土の海軍用燃料15,000キロリットルを一般用に放出することが取り決められた。なお、この際陸軍は制空権が敵にあることを理由に艦隊の突入自体に反対しており、現存艦隊主義をとって、船団についてはフィリピンが落ちたあとのことを考慮して本土に油を還送するべき旨を主張したという。第一遊撃部隊は16日の通達で6隻の油槽船の編入の通告を受けていたが、17日の警戒の発令後も連合艦隊からなんら指令がなかった。そこで栗田司令は独断でシンガポールにあった2隻の油槽船(雄鳳丸、八紘丸)に燃料を満載のうえブルネイに回航するよう下令。また三亜にいた日榮丸に待機命令をだしている。17日時点での第一遊撃部隊のレイテ湾突入期日は22日とされていた。しかし現状では期日内に突入する事は不可能であり、栗田は連合艦隊に宛てて24日夕刻に水道東口に到着予定と打電している。第一遊撃部隊は予定通り18日1時にリンガ泊地を出撃、20日12時に全艦艇がブルネイに入港する。同日午後、第十六戦隊(重巡1、軽巡1、駆逐艦1)を第二遊撃部隊に編成替えとなる。同戦隊はブルネイより出港(21日)、陸軍兵輸送のためマニラへ向かい、本海戦への投入はされなかった。本来ならば栗田艦隊の攻撃に呼応する計画だったが、青葉の被雷のため実現しなかった。夕刻には連合艦隊より「爾後の作戦指導の腹案」を知らされ、突入のX日は24日とされていた。しかしブルネイには第一遊撃部隊に補給する手筈だった連合艦隊の手配した油槽船は結局間に合わず、栗田が独断で手配した2隻が翌21日に到着する予定の状況だった。このため20日の「GF電令作第362号 レイテ決戦要領」でX日は25日と決定され全軍に通達された。21日11時20分、2隻の油槽船はブルネイに到着、直ちに燃料の補給が開始され、22日5時までに補給は完了した。またこの日は第一遊撃部隊各級指揮官および関係科長に対してレイテ突入の具体的要領が初めて指示された。この時、全艦隊を一方向から進出させるよりも南北に分かれて進出することが決まり、第二戦隊(司令:西村祥治中将)を基幹に第三部隊が編成され、4つある航路のうちスリガオ海峡を通過する最短の第四航路から進出。本隊はパラワン水道を通過する第二航路から進出することとなり、25日4時ごろに両隊同時に突入する事と決められた。17日の捷1号作戦警戒の報を受けた際、骨抜き状態だった機動部隊本隊は19日には出撃するよう通知を受け空母搭載兵力の確保を急いだ。当時司令部は大分基地にあったが、直ちに貴下の部隊に集結を命じ、艦載機も練成で台湾沖航空戦に出撃しなかった601空と、台湾進出に間に合わなかった機を含めて116機を確保した(内訳:零戦52型52機、零戦爆装28機、天山艦攻25機、97式艦攻4機、彗星艦爆7機)。機動部隊本隊は18日から19日夕刻にかけて大分沖と八島沖に分かれて集結し、呉からの燃料補給を受けて出撃準備を済ませた。第二遊撃部隊の欠員として配属された第31戦隊は整備中であった軽巡五十鈴、駆逐艦秋風、桐に出動を指示、五十鈴と桐は19日までに進出したが夕風は間に合わず、機動部隊の補給部隊(油槽船2隻、海防艦6隻)にまわされた。19日13時より、機動部隊本隊の各級指揮官が旗艦瑞鶴に集まり作戦の打ち合わせが行われた。20日早朝より艦隊は伊予灘に出動し艦載機を収容、9時30分に小沢提督は関係部隊に機動部隊本隊の行動予定を打電する。豊後水道を通過時に連合艦隊よりX日が25日に変更されたことを知らされたが予定通り行動することにする。艦隊は21日より艦載機による偵察を開始、22日早朝には米潜水艦の襲撃を受けるが被害は無かった。台湾沖航空戦の残敵掃討に出動していた第二遊撃部隊は17日に奄美大島に入り補給を開始した。入港に先立ち志摩長官は捷1号作戦警戒発令と機動部隊本隊の作戦参加を知るが、第二遊撃部隊への今後の作戦行動については特に指示が無かった。そこで夜半に連合艦隊に対して第二遊撃部隊独自の作戦要領を打電するが連合艦隊からの回答は得られなかった。翌18日に艦隊は当初の指示に従い馬公に向かうが、その途上で第十六戦隊の第二遊撃部隊への編入と機動部隊本隊から南西方面艦隊への所属替え、高雄で補給の上マニラへ進出するように命令を受ける。艦隊は直ちに高雄に進路をとるが、夕刻には南西方面艦隊より馬公に待機するよう指示が出て再度馬公に向かう。以後第二遊撃部隊の使い方に関して連合艦隊と南西方面艦隊とで異なった指令が飛び交い、同隊を混乱させた。馬公で補給の上、20日に内地を出撃する機動部隊本隊へ復帰するべきであるという意見が艦隊内でもでた。しかし20日8時30分に馬公入港直後に連合艦隊から「第二遊撃部隊は南西方面艦隊指揮下に置き海上機動反撃作戦を決行」の命令を受け、機動部隊本隊復帰はご破算となる馬公入港後、三亜から移動してほぼ同時に入港した良栄丸より給油を受けた。しかし第二遊撃部隊をどう使用するかについて中々決定をみず、その間に第二航空艦隊から駆逐艦3隻の高雄派遣の要請を受け、第21駆逐隊〈初春、若葉、初霜〉を割くことになる(同駆逐隊は要請を済ませ、本隊に合流すべく行動中の24日に米軍機の攻撃を受け若葉が撃沈される)。結局第二遊撃部隊がレイテ湾に突入することが決まったのは21日午後となった。南西方面艦隊から23日までにマニラ進出を命じられた志摩提督は16時に馬公を出港するが、この時点で第二遊撃部隊は第一遊撃部隊の行動予定の詳細は知らされていなかった。21日夜半にようやく通報を受けるがマニラによっていたら時間の余裕があまり無いことが判明し、行き先を油槽船日榮丸が居る筈のコロン湾に変更する。22日朝、連絡書を載せた水偵をキャビテに向け発進させたが、その連絡書の中には栗田艦隊へ向けた行動予定書も含まれていた。しかし栗田艦隊との連絡は遂に叶わなかった。同隊は23日18時にコロン湾に入るが期待の油槽船の姿は無く、やむなく重巡から駆逐艦に燃料が分配される。第二遊撃部隊は予定通り24日2時にコロン湾を出撃した。侵攻を開始したアメリカ軍はこの時期の他の戦いと同じく、充実した体制が組まれていた。第38機動部隊は10月6日にウルシーを出港してから、1945年1月のリンガエン湾上陸支援と通商路攻撃を終えるまでの約16週間海上にあった。同艦隊各艦は少なくとも85日は洋上に留まり、根拠地等に錨をおろすことはなかった。また、第3艦隊の各部隊は概ね15ノット前後での移動が多かったが、25日の作戦行動など、必要とあれば25ノット以上の速力も選択していた。戦術レベルでは同日第34任務部隊で大型艦から小型艦に給油を行うため数時間速度を落とさざるを得なくなる場面などがあったが、後方の港湾まで後退するようなことはなかった。この長期に亘る洋上行動を支えたのは、強力な役務部隊である。これは艦隊用タンカー34隻、護衛空母11隻、給兵艦6隻、貨物船7隻、駆逐艦19隻、護衛駆逐艦26隻、外洋タグ10隻、計113隻に及ぶ。アメリカ海軍はこれを10〜12のグループに分割し、日本軍の哨戒圏外に補給点を設定、ウルシーとの間を往復させていた。ローテーションは次のようになっていた。補給点(Fueling Area)には常時9〜10隻のタンカーなどが待機し、残量が所定のレベルに下がると、残りを次のタンカーに移載し、3〜4日ごとにウルシーに後退、そこで本国から派遣されてきた商用タンカーから燃料を受け取るというものであった。一方空母は、グアム、エニウェトク、マヌスから、高速空母への補充機と搭乗員を運び、弾薬、需品等も補給していた。冷蔵船や郵便船なども存在していた。一方、日本側は補給点を発見することは出来なかった。補給点はミック("MICK")と呼ばれ東経130度、北緯15度の海上にあった。この他にも補給点は設定されており、本作戦では6つあった。本作戦の兵站計画によれば、需品の供給もニューギニアに設けた後方拠点などに数ヶ月分が備蓄されていた。19日、第一航空艦隊司令長官に内定していた大西瀧治郎中将が着任し寺岡中将と交代する。同日米艦隊がレイテ湾に現れたことを受け、13時30分にクラーク基地を出撃した彗星1、爆装零戦4の攻撃隊がレイテ方面の敵艦隊を攻撃し、陸軍航空隊も反撃を開始、護衛空母サンガモン他1隻が損傷している。20日も攻撃を続け軽巡ホノルルが被弾している。21日には神風特別攻撃隊(後述)が初出撃するも未帰還機1機を出して敵情を得なかった。22日、23日は攻撃作戦は実施しなかった。10月22日、第一遊撃部隊第一部隊・第二部隊が補給を完了し8時にブルネイを出撃。期日に余裕が無いため、危険が予想されたパラワン水道を通過するコースを取る。少し遅れて日本軍第一遊撃部隊第三部隊(戦艦2隻基幹、通称西村艦隊)が15時30分にブルネイを出撃。スリガオ海峡を通過するコースを取る。7時47分、ニミッツはハルゼーに対し、小沢機動部隊が10月20日に日本を出航したことを連絡する。深夜、潜水艦シードラゴン("USS Seadragon, SS-194")が空母に魚雷命中を主張し、第38任務部隊に報告する。同じく潜水艦シャーク("USS Shark, SS-314") が7隻の艦隊発見をハルゼーに報告。潜水艦アイスフィッシュ("USS Icefish, SS-367")が前日9時30分に重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻発見を報告。実際には、この艦隊は10月20日にマニラを出航し、高雄市に向かっていた輸送船団だった。出撃した第一遊撃部隊は18ノットに増速し対潜哨戒を厳にした。14時31分に能代が、15時35分には高雄、17時35には愛宕がそれぞれ潜水艦発見を報じたが流木の誤認だった。17時52分には対潜哨戒中の九六式陸上攻撃機から敵潜水艦発見の報を受けている。10月23日、0時パラワン水道の入り口に達する。この直前に大和田通信隊より敵潜水艦の緊急通信を探知した旨の報告があり、司令部は全艦に通報、対潜警戒を一層厳重にする。1時16分パラワン水道を航行中の栗田艦隊を第7艦隊所属の潜水艦ダーター ("USS Darter, SS-227") とデイス ("USS Dace, SS-247")がレーダーで発見した。両艦はちょうど会合中であった。2隻はこれを報告すると共に艦隊に接近を開始する。6時32分、ダーターは栗田艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕に対し艦首発射管から魚雷6本を発射、それから急旋回して重巡洋艦高雄に対し艦尾発射管から魚雷4本を発射した。この時愛宕は総員配置につきながら早朝訓練を実施していた。乙字運動後の定針直後の6時33分、艦首に1発、続けて中央に2発、遅れて後部に1発の魚雷計4本が命中する。ダーターの攻撃ポイントが愛宕に非常に近く愛宕乗員は誰一人として潜望鏡も雷跡も発見報告できなかった。(左舷高角砲指揮官と見張り員の一部が魚雷発射の気泡のようなものを至近で発見していたが報告のいとまもなく魚雷を受けた)。艦長の荒木伝大佐は被雷後直ちに左舷注水区画などへの注水を命じるが傾斜を止めることはできず機関も停止。栗田は旗艦変更を決断。駆逐艦岸波、朝霜が駆けつけてくるが愛宕の傾斜は23度を超えており横付けは不可能だった。仕方なく栗田ら司令部要員は海に飛び込み泳いで岸波に移乗した。この際小柳参謀長が右上腿部を負傷した。愛宕の傾斜はなおも止まらず54度に達した。荒木艦長は艦の復旧は不可能と判断し総員退艦を指示。6時53分に愛宕は沈没した。機関長以下360名が戦死し、艦長以下492名が朝霜に、221名が岸波に救助された。愛宕の被雷後、後続していた高雄は直ちに取舵を行う。愛宕に命中しなかった魚雷2本が掠める。しかし6時34分、艦橋下右舷と後部右舷に魚雷2本が命中した。主機械が停止し航行不能となったが火災は発生せず、左舷に注水が行われ傾斜も復元した。罐室などに浸水はあったが食い止める事に成功するが舵などが故障し動けなくなる。駆逐艦長波が近づき周囲を警戒する。この被雷により高雄では33名が戦死し31名が負傷した(後に朝霜も合流する)。旗艦愛宕と高雄の被雷を確認した第一戦隊司令の宇垣纏少将は次席指揮官であることもあり直ちに全艦に一斉回頭を命じ当方への回避を命じた。敵潜水艦がいるこの海域からの離脱のためだったが過度の避退も危険と判断し、6時51分基準針路に戻り乙字運動を再開する。ところが其の直後の6時57分、今度は重巡洋艦摩耶に潜水艦デイスの放った魚雷4本が命中する。摩耶では被雷前に水測員が右舷後方に怪しい音源があるという報告を受け、右舷側に警戒の目がいっていた。ところが左舷側より接近する魚雷を発見。艦長の大江賢治大佐は転舵を指示、航海長の独断で取舵一杯が行われるが転舵の効果が出る前に魚雷が次々と命中した。艦はたちまち左舷に傾斜し副長が防水を下令したが手を尽くすまもなく被雷から8分後の7時5分に沈没した。(沈没は7時8分ともいわれる)。艦長以下336名が戦死。短時間での沈没であったが副長以下769名もの乗員がかけつけた駆逐艦秋霜に救助されている。摩耶被雷を受け第一部隊の陣形は大きく乱れる。また後続する第二部隊(第三戦隊司令鈴木義尾貴下)がこの海域にさしかかる。7時に将旗を岸波に掲げた栗田中将は大和に通信の代行を指示、また第四戦隊で唯一健在の鳥海の第五戦隊への編入を命じる。8時30分には旗艦を予備の旗艦に指定してあった戦艦大和に移すことを指示するが、敵潜水艦発見の誤報が各艦から相次ぎ司令部が大和に移乗するのは16時23分となった。旗艦移乗後、艦隊はレイテ湾に向かって進撃を再開、大和戦闘艦橋には、右側に栗田を中心とする艦隊司令部が、左側に宇垣の第一戦隊司令部が陣取り、異様な空気が漂ったという。愛宕(摩耶)生存者の大部分は大和(武蔵)に収容されたが、愛宕水雷長は第七戦隊利根水雷長となり、25日のサマール沖海戦に参加することになる。21時40分、高雄は応急修理の結果自力航行可能となり、駆逐艦朝霜、長波、救援要請を受けて駆けつけた南西方面艦隊所属の水雷艇鵯に護衛されてブルネイに向け避退を始めた。機動部隊本隊は出撃後の22日、航続力の短い丁型駆逐艦に空母と大淀から給油を行なったが悪天候のため完遂できなかった。それでも予定される24日未明第一次攻撃隊発進に向け予定地点へ進撃していた。14時にはパラワン水道での経緯の無電が入り栗田提督が旗艦を大和に変更し作戦を続行中である事も知らされた。午前4時、第十六戦隊の重巡洋艦青葉が米潜水艦ブリーム ("USS Bream, SS-243") の魚雷攻撃を受け青葉は航行不能となった。鬼怒は青葉を曳航し、駆逐艦の浦風と共に退避し22時45分にマニラ湾に到着した。この小部隊は、旗艦を鬼怒に変更した。キンケイドはこの報告を受け取り当初は大規模な東京急行の前兆と誤断していた。ハルゼーは日本軍が第一次ソロモン海戦の再現を狙っていると見抜き、第38任務部隊第3群(シャーマン少将)をルソン島東方140km、第2群(ボーガン少将)をサンベルナルジノ海峡、第4群(デヴィソン少将)をスリガオ海峡に配置した。第1群は補給のためにウルシーへ向かった。10月24日午前2時、西村艦隊の最上の水上偵察機が索敵のため夜間発艦。6時50分にレイテ湾上空に到達し、同海域のの偵察に成功。湾内の敵戦力についてブーラン基地を経由して打電。12時には西村艦隊上空に戻り報告球を投下。その後、同機はサンホセ基地に向かった。レイテ沖海戦を通じ、レイテ湾内の状況の偵察に成功したのはこの最上搭載機だけである。この報告は全艦隊に送信され、日本軍にとっての貴重な情報になった。午前2時15分、ギターロ ("USS Guitarro, SS-363")、アングラー ("USS Angler, SS-240")の2隻の潜水艦が栗田艦隊を発見し、艦艇15隻ないし20隻を報告する。午前7時、第十六戦隊が陸軍兵と物資を乗せ、コロン湾を出撃。レイテ湾へ向かうが、直後に空襲を受けた。アメリカ軍機約100機と交戦したが損害はなく、ミンダナオ島に向かった。第四戦隊を壊滅させた潜水艦のダーターは退避する高雄を追跡中に座礁し、自沈処分となる。ダーターの乗組員はデイスに移乗し、デイスはオーストラリアへと撤退した。米艦載機の第一遊撃部隊への空襲が始まる少し前、第七戦隊重巡洋艦部隊各艦から計6機の水上偵察機が発進した。鈴谷1号機のみ索敵に向い、残る機はサンホセ基地に退避した。7時2分、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡東方の敵機動部隊の索敵を発令、金剛、榛名、鳥海、鈴谷、能代から各1機、矢矧から2機の計7機の索敵機を出す。そのうち金剛の偵察機が9時40分と12時10分に敵艦隊(第2群の一部)を発見し報告、矢矧の偵察機も11時に敵艦隊を発見(第1群)している。シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は24日8時10分、旗艦大和の見張り員が敵偵察機を発見。米軍に見つかった事をしる。この機はアメリカ軍第38任務部隊索敵隊(カボット、イントレピッド)の機で、同乗のモート・エスリック中佐は8時20分、「戦艦4隻、重巡洋艦8隻、駆逐艦13隻」と報告する。この時第38任務部隊は第2群(ボーガン少将指揮、空母5隻基幹)がサンベルナルジノ海峡付近に、第3群(シャーマン少将指揮、空母4隻基幹)がルソン島の東に、第4群(デーヴィソン少将指揮、空母4隻基幹)がレイテ島付近にいた。また、第1群(マケイン中将指揮、空母4隻基幹)は補給中だった。ハルゼー大将は第2、3、4群の3個群を以って栗田艦隊に対し攻撃を開始することを決める。栗田艦隊側は敵の通信を妨害するため武蔵が電波妨害を実施、米機もこれに対応して使用電波を変更するなどして対抗する。10時8分、能代の電探が米攻撃隊を探知。その後も他艦艇の電探が相次いで米攻撃隊を探知する。栗田長官は直ちに24ノットへの増速を指示する。10時26分、第2群の空母イントレピッド ("USS Intrepid, CV-11")、カボット ("USS Cabot, CV-28") からの第1次攻撃隊45機(戦闘機21、爆撃機12、雷撃機9、誘導機ビル・エリス中佐)が攻撃を開始する。栗田艦隊側も旗艦大和が発砲し、各艦続いて砲火を開いた。米軍機は猛烈な砲火をものともせず第一部隊の輪形陣中央の大和、武蔵、長門、妙高を攻撃した。武蔵には10時29分ごろに急降下爆撃を受け推定60キロの爆弾が一番砲塔天蓋に命中。しかし爆弾は跳ね返され空中で爆発。他にも前部艦首付近と中央両舷に各1発が至近弾となり漏水を発生させる。続いて魚雷3本が接近し1本が命中。浸水自体は大したものではなく速力も落ちなかったが、この際の衝撃で主砲の前部方位盤が故障し旋回不能となり、砲撃に支障をきたすことになる。10時29分、妙高に対して3機が雷撃を実施、2本は回避したが1本が右舷後部に命中。後部発電機室、右舷機械室などが満水となり6分後には傾斜が12.5度となり速力も徐々に低下。10時40分には速度18ノット低下し、乗艦していた橋本信太郎第五戦隊司令は旗艦を羽黒に変更する決断し、11時38分に移乗する。戦場を離脱。妙高は単独で列を離れ後退を開始。乗員の必死の応急処置で傾斜も6度ほどにまで回復する。栗田長官は高雄の護衛についていた駆逐艦長波を分離させ、妙高の護衛に向かうよう指示する。第一次攻撃隊撤収後、栗田艦隊は米潜水艦を発見し一斉回頭を何度かおこなったが、すべて流木の誤認であった。駆逐艦が爆雷攻撃をおこなったことも記録されている。第七戦隊では、シブヤン海に米潜水艦1隻乃至2隻が存在していると考えていた。11時56分、武蔵の電探が敵機を探知する。栗田長官は24ノットへの増速を指示、12時6分イントレピッドからの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始した。今回も目標は栗田艦隊の第一部隊であり、その攻撃は大和と武蔵に集中した。米機の攻撃開始と同じくして長門が発砲を開始。激烈な対空戦闘が始まった。大和への攻撃は12時7分から15分ほどまで続き、雷撃は全て回避するも至近弾2発を受けた。武蔵には米機16機が襲い掛かり、うち7機を撃墜するが雲を利用した艦首尾両方向からの爆撃により2発が命中し5発が至近弾。続いて左舷方向からの雷撃を受け3本が命中した。この攻撃で武蔵の速度は22ノットに低下し左に5度傾斜、第二水圧機室が浸水するも右舷への注水により傾斜は1度まで復原した。2発の直撃弾のうち、左舷に命中した1発は中甲板まで貫通し炸裂。その火炎が第2機械室、第10・12罐室に侵入し設備を破壊した。第2機械室では蒸気管が一部破壊され蒸気が噴出、第2機械室は放棄され武蔵は3軸運転を余儀なくされる。以後武蔵は艦首をやや下げた状態で速力が低下し、艦隊から次第に落伍し始める。第二次空襲は8分ほどで終わったが、その被害は武蔵に集中し損害は重大だった。栗田長官は12時25分に関係各隊に敵機襲来とその撃退を報告する。13時15分、武蔵艦長猪口敏平少将より今までの武蔵の損害が報告され、主隊と行動するには致命的損傷を受けたことを知る。しかし武蔵に対する決断を下すよりも早く、米機による第三次空襲が開始される。12時54分、艦隊の先頭を行く駆逐艦島風の電探が敵飛行機と思われる物体を探知する。13時12分に大和見張り員が敵機を発見。3度にわたる米編隊の襲来に友軍の航空攻撃が奏功していないのではと懸念した栗田長官は13時15分に南西方面艦隊司令部と機動部隊本隊に対して督促の意味もこめて「敵艦上機我に雷爆撃を反覆しつつあり、貴隊触接さらに攻撃状況速報を得たし」と電報を打つ。13時19分、ミッチャー中将直率第3群の空母レキシントン ("USS Lexington, CV-16")、エセックス ("USS Essex, CV-9") からの攻撃隊83機が攻撃を開始。部隊は二手に分かれて第一第二両部隊に殺到。13時23分、第二部隊第七戦隊が砲撃を開始し、13時31分には第一部隊も砲撃を開始する。第二部隊への空襲は27分ほど行われ、13時28分に矢矧への急降下爆撃で至近弾が1発。これにより矢矧の艦首が満水となり水測室などが使用不能。速力も22ノットまで低下する。第一部隊には約20分ほど空襲が行われ大和と武蔵が標的となる。大和には13時40分に急降下爆撃により1発が右舷前部に命中し火災が発生、更に1発が右舷に至近弾となる。しかし損害は軽微で火災も10分ほどで鎮火された。武蔵の損害状況は第五次対空戦闘での艦橋への命中弾による航海科の壊滅により、この頃より記録が錯綜し他艦との記録との整合が合わない点が出ている。以後の武蔵の損害は戦史叢書での記録に拠る。武蔵への攻撃は13時50分までの間に2回行われ、第1波の13機は雷爆同時攻撃となる。急降下爆撃により3発が至近弾となり、2発が右舷と艦尾に命中、艦尾のジブクレーンの支柱を破壊した。雷撃は1本が右舷に命中し測程儀室などを破壊した。武蔵側は来襲機13機のうち5機の撃墜を記録している。続く第2波約20機の攻撃は爆弾4発命中、魚雷4本命中と一度の攻撃では最大の被弾を蒙った。二波にわたる空襲で武蔵は合計9本の魚雷が命中し両舷の注水区画は満水となる。特に前部の浸水は甚だしく、艦首は水面近くまで沈み艦隊から急速に落伍し始めた。栗田長官は武蔵の深刻な損害を鑑み、これを連れて進撃することを断念した。その間にも米艦載機の攻撃は続き、第三次空襲から間もない14時15分、第4群の空母フランクリン ("USS Franklin, CV-13")からの第4次攻撃隊65機が来襲した。この攻撃隊は落伍した武蔵は狙わず第一部隊の大和と長門を攻撃した。長門には14時26分に数機が襲い掛かり爆弾3発が至近弾となる。大和に対しては14時30分ごろより攻撃が始まり、爆弾1発が前甲板に命中する。フランクリン攻撃隊(ジョー・キービー中佐)の報告では武蔵に最低爆弾4発、魚雷3本命中、軽巡洋艦1隻撃沈を主張。エンタープライズ攻撃隊(ダン・スミス中佐)は武蔵に爆弾と魚雷集中、利根に爆弾2発命中、駆逐艦2隻に爆弾命中を主している。空襲は14時40分過ぎには終了する。栗田長官は武蔵のコロン回航を決断し14時50分に武蔵に指示、護衛に駆逐艦清霜をつける。14時52分に各隊にその旨を打電し敵の空襲がなお熾烈である事を知らせる。また第七戦隊の重巡利根艦長黛治夫大佐より第二部隊指揮官(第三戦隊司令鈴木義尾少将)宛てに第二部隊全隊での武蔵護衛が具申されるが第二部隊指揮官からは利根単独での武蔵護衛が指示され単独で向かっている。艦隊は第四次空襲の後も速力22ノットを維持していた。しかし空襲終了から僅か15分後、武蔵が接近する敵編隊を探知。14時59分、第2群の攻撃隊30機(戦闘機15、爆撃機12、雷撃機3)が来襲する。この攻撃は武蔵に集中したが他の艦艇にも一部攻撃が行われ損害が出ている。長門は15時20分に25機の急降下爆撃を受け2発が命中3発が至近弾となる。このため3軸運転となり速力は21ノットにまで低下する。駆逐艦藤波は15時15分ごろに前部砲塔右舷に損害を受けたことが羽黒の戦闘詳報に記載されている(藤波自体は27日に撃沈され総員戦死しており同艦自体の記録はない)。また駆逐艦浜風も至近弾1発を受けて速力が28ノットに低下している。武蔵を護衛する2隻のうち、利根は15時17分に至近弾2発、続いて直撃弾2発を受け、清霜は15時15分ごろに至近弾5発、命中弾1発を受けるが命中弾は小型爆弾だったため致命的損傷とはならなかった。武蔵は艦隊から孤立していた事もあり最も激しい攻撃を受けた。敵機の大半である75機近くが武蔵を攻撃し、武蔵も16機撃墜(うち不確実10機)を報告している。損害は命中弾10発、至近弾6発、魚雷命中11本を数えるが、命中弾の最初の1発は防空指揮所右舷に命中し下の第一艦橋で炸裂、指揮所右舷を吹き飛ばし第一艦橋と作戦室を大破、火災を発生させた。指揮所にいた猪口艦長は右肩負傷ですんだが、同所にいた高射長(広瀬栄助少佐)、測的長(山田武男大尉)が戦死。第一艦橋では航海長(仮屋寛大佐)、作戦室では昨日救助された摩耶副長(永井貞三中佐)も戦死。下士官兵も含めると78名が死傷し一時防空指揮と操艦が不能になってしまう。防空指揮所及び第一艦橋は使用不可能となり、猪口艦長は副長のいる第二艦橋へ移動、同所で指揮を執る。死亡した航海長の代理として通信長(三浦徳次郎中佐)が任命されている。第五次空襲で武蔵は各部に深刻な損傷を受け、第4機械室は浸水し使用不能、2軸運転となり速力は6ノットに低下する。傾斜は左舷に6度まで回復するが前への傾斜は増大し前部喫水線の8m付近まで傾斜した。5度にわたる空襲で艦隊の中核である武蔵に大損害を蒙り、他の艦艇にも損害が続出したことで、栗田艦隊司令部には基地航空隊や機動部隊本隊の支援攻撃はどうなっているのか問題となった。両隊からの状況報告は中々届かず、第一報は機動部隊本隊より11時3
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