LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

高坂正堯

高坂 正堯(こうさか まさたか、1934年(昭和9年)5月8日 - 1996年(平成8年)5月15日)は日本の国際政治学者、法学博士、元京都大学法学部教授。現実主義の論客としてもよく知られた。見識が広く日本の歴史書なども著した。専門は、国際政治学、ヨーロッパ外交史。「近代の超克」を唱えた哲学者・高坂正顕の次男。コンパスプロバイダーズL.L.C日本代表、東京都元教育委員並びに経済同友会元幹事で、現在は憲法問題懇談会委員長の高坂節三は実弟。大学では国際法学者の田岡良一や政治学者の猪木正道に師事。猪木は高坂の没後に、「高坂は僕が教えた中では、ピカイチの天才だった」と回想している。高坂が一般に知られるようになった契機は、『中央公論』誌上での活躍である。高坂は当時同誌の編集部次長であった粕谷一希の依頼によって、1963年、ハーバード大学留学から帰国した直後に「現実主義者の平和論」を『中央公論』に寄稿し、論壇にデビューする。高坂は同論文において、当時日本外交の進むべき道として論壇の注目を集めていた坂本義和らの「非武装中立論」の道義的な価値を認めながらも、実現可能性の難しさを指摘し、軍事力の裏付けのある外交政策の必要性を主張した。さらに翌1964年に吉田茂を論じた「宰相吉田茂」は、吉田の築き上げた日米基調・経済重視の戦後外交路線をその内外政に即して積極的に高く評価し、否定的な評価が広まっていた吉田に対する評価を一変させ、現在に至る吉田茂への肯定的評価を定着させることとなる(また、同年に寄稿した「海洋国家日本の構想」では、島国の日本が海洋国家として戦略的・平和的発展を目指すべしと論じて、この議論を補強する論を展開している)。これらの論文を契機として、30歳前後にして高坂は現実主義を代表するオピニオン・リーダーとしての地位を確立することとなる。高坂は冷戦時代から共産主義国家に対しても、国内の中立主義と同様その理想の持つ魅力・意義を認めながら批判的な態度を取った。以後、時事的な外交評論のみならず、国際政治学、文明論などを含む幅広い分野において切れ味鋭い分析と提言を展開することとなる。その議論は人間の本性に即した権力構造を探求していたと言える。高坂は進歩的文化人が主流だった当時の論壇では貴重なアメリカ重視の論客であったため、オピニオン・リーダーとしての言論活動だけでなく、1960年代以降佐藤栄作・大平正芳をはじめとする自民党政権のブレーンとしても長く活動することとなる。とりわけ有識者研究会を幾つも設置し、長期的な政策検討を行なった大平内閣では、その一つである「総合安全保障研究グループ」の幹事として、報告の実質的な取りまとめを行なった。軍事力による安全保障だけでなく、外交政策・経済・エネルギー・食料などを総合して日本の安全保障を追求すべしと論じた同グループの報告書は、高坂が肯定的に評価してきた戦後外交路線の性格を、戦略的なものとして実現しようとする意志の現れであったと評価する研究者もいる。その後、1983年に設置された中曽根康弘首相の私的諮問機関「平和問題研究会」でも座長を務め、防衛費1%枠見直しの提言を行ない、当時の防衛力整備の理論的根拠とされていた基盤的防衛力の見直しを提言した。また、コメンテイターとしてテレビ朝日系の「サンデープロジェクト」にも出演。同じくテレビ朝日系の「朝まで生テレビ」の初期にもパネリストとして出演した。番組内で交流のあった田原総一朗からは、「余人を持って代え難い方」と高い評価を受けた。京大教授退任後は、2000年に開校した静岡文化芸術大学学長に内定していたが、1996年5月15日に肝臓癌のため62歳で死去。その死にあたっては、政治学者としては異例な数の追悼企画が様々な雑誌で設けられた。また、没後には戦後の言論・現実政治の双方に与えた影響から、高坂自身を対象とする研究評伝も現れている。還暦前に運転免許を取得し、FC3S型RX-7を愛車としていた。また熱烈な阪神タイガースのファンとしても有名だった。京都大学での門下生には中西寛、坂元一哉、戸部良一、田所昌幸、佐古丞、岩間陽子、益田実、中西輝政などがおり、多くの研究者を育成した面でも名高い。また、衆議院議員で元民主党代表だった前原誠司も、高坂のゼミナリステンである。前原が高坂正堯ゼミ在籍時に、外交官になるか学者として大学に残ろうか迷っていた際、「外交官は京大出身では偉くなれないし、母子家庭なのでどうか」「学者は天才じゃないといかんが、それほど頭はよくない」「大学院に行くつもりで松下政経塾に行ってこい」とのアドバイスを行い、東京都議会議員であり、のちに日本新党へともに参画する松下政経塾生の山田宏を紹介して、政治家としての道を志すことを決意させた。また、他大学出身の研究者にも分け隔てなく接し、猪口邦子など師弟関係のない研究者からも信頼を寄せられていた。弟の高坂節三によると「高坂家の先祖は甲斐の武田信玄に仕えた武将・高坂弾正忠昌信といわれ、兄は自分が戦国武将の末裔であることを非常に誇(ほこ)りに思っていた」という。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。