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渡哲也

渡 哲也(わたり てつや、1941年12月28日 - )は、日本の俳優・歌手。元・株式会社石原プロモーション代表取締役社長(2011年退任)。俳優の渡瀬恒彦は弟。島根県能義郡安来町(現:安来市)生まれ。父親は日立に勤務、広島県呉市の軍需工場などを転々として、日立の安来工場にいたとき当地出身の渡の母と結婚していた。終戦で父親は日立を退職し実家がある兵庫県津名郡淡路町(現:淡路市)に戻り洋品店を開業、小学校一年生途中から淡路島で育った。出身を淡路島にしているのは、日活に入ったとき石原が神戸市生まれなので、淡路島の方がイメージ的にいい、という判断で決めたからだという。淡路町立岩屋中学校、三田学園高等学校(寮生活)、青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部に在籍し、空手弐段。柔道初段。大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したため、本人は激怒するが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社した。既に斜陽期に差し掛かってた日活では高橋英樹に続くスター候補として、渡を1965年(昭和40年)3月、『あばれ騎士道』で主演デビューさせる。この作品で、エランドール賞新人賞、翌1966年には、『東京流れ者』に主演し、主題歌「東京流れ者」も歌っている。吉永小百合との初共演映画の『愛と死の記録』でブルーリボン賞新人賞を獲得。また裕次郎2世と言われたことから、リバイバル版の『嵐を呼ぶ男』に主演。1968年(昭和43年)舛田利雄監督による『無頼より・大幹部』から始まる『無頼』シリーズ6作品は渡の日活時代の代表作となった。渡は『東京流れ者』や『無頼シリーズ』などで、一躍日活ニューアクション時代のスターとなったが、1971年、日活のロマンポルノ路線への転換にともない、1971年(昭和46年)7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社した。その後、東映など映画会社数社から渡の引き合いがあるものの、石原への尊敬の念などから、渡は1971年(昭和46年)、借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社。1971年(昭和46年)9月封切の『さらば掟』を手始めに『ゴキブリ刑事』、『野良犬まで』などの松竹、東宝の作品に主演、準主演で出演をした。また連続テレビドラマにも出演する中、1974年、大河ドラマ『勝海舟』の主演に抜擢された。しかし収録中に肋膜炎になり入院。第9回まででしか出演出来ず途中降板となる。なお代役は松方弘樹が務めた。風邪をこじらせた後、急性肝機能不全症を併発し入院は9か月に及んだ。一方で前年1973年8月にリリースした「くちなしの花」が年明けからヒットチャートを上昇し、1974年の年間シングルチャートで7位を記録。オリコンセールス:77.4万枚、累計150万枚を売り上げ、全日本有線放送大賞金賞も獲得し渡の代表曲となった。渡の体調も秋には回復し、年末の第25回NHK紅白歌合戦に初出場した。1974年(昭和49年)、再び映画各社の間で激しい争奪戦が起こり、特に弟・恒彦をスカウトした岡田茂東映社長(当時)が「高倉健の次の東映の看板スターにしたい」と熱心に誘い、渡自身も「アクション映画をやりたい、自分のキャラクターを活かしてくれるのは東映を置いて他にない」と強く東映入りを希望したため1975年(昭和50年)に渡は東映入りの報道もされた。当時の東映は俊藤浩滋が高倉らを伴い独立しようとしたお家騒動があった。元々、1973年の『仁義なき戦い』で菅原文太をスターダムに押し上げた広能昌三役も最初にキャスティングされたのは渡であったが、この時期、渡は体調が優れず実現に至らなかった。1974年暮れ『脱獄広島殺人囚』、「新仁義なき戦いシリーズ」とも渡は出演要請を受けたが諸問題で拒否し1975年2月、東映実録ヤクザ路線の極北といわれる『仁義の墓場』でようやく東映初出演、初主演した。同作公開後、岡田社長は「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の"渡路線"を確立することだ」とぶち上げ、この年4月の『大脱獄』で高倉健と、5月の『県警対組織暴力』で菅原文太と競演させ、6月の『スーパー・アクション/強奪』(『資金源強奪』として映画化)と8月の『日本暴力列島・北九州電撃戦』(映画化されず)で主演させ、"東映スター渡"をイメージ付けようとしたが『仁義の墓場』撮影後、再び病に倒れ渡は結局東映と専属契約を結ばず。先の『大脱獄』は、最初は高倉健、渡哲也、五木ひろしの三大共演を予定していたが、五木がギャラ問題で降り、代わりに抜擢されたのが菅原文太で、高倉、渡、菅原という三大共演の可能性もあり、実際に三人の名前の書かれたポスターも製作された。渡が入院したため三大共演はおろか、渡と高倉、渡と菅原の共演も永遠に実現することはなかった。この1975年は、東宝系の芸苑社製作で今井正監督の水上勉原作『その橋まで』の映画化の主演も受けていたがこれも流れた。入院は延べ2年半に及んだ。病み上がりで撮影中に体調が急激に悪化した『仁義の墓場』は点滴を打ちながら演じる渡の負のエネルギーが、石川力夫の怨念が乗り移ったかのような迫力を持ち評価が高い。キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では、日本映画歴代38位に選出されている。1976年(昭和51年)『やくざの墓場 くちなしの花』の主演でブルーリボン賞主演男優賞を獲得。渡はこの後石原プロのテレビドラマに専念するため映画出演は一時的に撤退した。その後1996年、やはり岡田茂東映会長(当時)に促され『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』の宮沢賢治の父・政次郎役で20年ぶりに映画界に本格復帰した。本作でこの年の各映画賞助演男優賞を独占している。石原プロは会社再建と経営安定のため、テレビドラマへ本格進出。渡にとって復帰第一作及び主演ドラマ『大都会 闘いの日々』は『大都会 PARTII』『大都会 PARTIII』とシリーズ化、続いて主演した『西部警察』もシリーズ化され、5年間放映された。これら刑事ドラマでの“角刈りにサングラス”というスタイルは渡のトレードマークとなった。渡は石原プロ再建に貢献し、石原の下で副社長も兼務していた。1987年(昭和62年)7月17日に石原裕次郎が肝細胞癌のため、52歳で死去。10月、渡が石原プロの二代目社長に就任した。1989年(平成元年)3月、渡が社長となって初の石原プロ制作作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の第5話を撮影中、渡扮する倉本班長がヘリから降りて全力疾走するシーンで、ヘリから着地した際、左足に激痛が走ったが「ただの捻挫だろう」と、痛みを感じつつも撮影を続行した。しかし痛みは増すばかりで翌日、病院で診察を受けたところ、全治1か月半の『腓腹筋断裂』と診断された。これは、ヘリから着地した際の腓腹筋の捻挫が、その後の撮影続行で更にひどくなり、遂に断裂したのが原因だった。しかし渡は、撮影に穴を開けるわけにはいかないと、撮影続行を宣言。報道陣の前で「アクションと怪我は紙一重、やるっきゃありません」と、石原プロ社長としての責任感の強さをのぞかせた。その後、この怪我が原因で、足をひきずって歩く後遺症が残る。翌年放映された、時代劇スペシャル『大激闘! 四匹の用心棒』では、足を引きずって歩く主人公の浪人「かかしの半兵衛」こと金子半兵衛役を演じている。1991年(平成3年)に自ら直腸癌であると発表。柏木純一の著書『渡哲也 俺』に壮絶な闘病記が記されている。これにより、オストメイト(人工肛門使用者)であることを明らかにしている。2003年(平成15年)8月、テレビ朝日系「西部警察2003」のロケーションで、石原プロ所属俳優の自動車運転ミスにより、見物客5人が重軽傷を負う事故が発生。名古屋市内で会見した渡は、予定していた連続ドラマの制作、放送中止を明らかにした。その後、第一弾として制作されたスペシャル版については紆余曲折を経て「西部警察 SPECIAL」のタイトルで、翌年2004年10月31日に放送された。2005年(平成17年)に紫綬褒章を受章した。2011年(平成23年)5月11日、2009年(平成21年)の石原裕次郎23回忌を終えたことの区切りや、自らの健康上のこと、社長在籍期間が24年目を迎え、裕次郎の社長在籍期間と並び、「それを越えるわけにはいかない」などの理由から3月28日付をもって石原プロモーション社長を退任したことを発表した。12月23日放送のTBSの年末スペシャルドラマ『帰郷』では、弟の恒彦と約40年ぶりの共演を果たした。1971年(昭和46年)4月から1972年(昭和47年)3月に放送のNHKの連続ドラマ『あまくちからくち』以来のことで、その時と同じく兄弟役で共演した。2015年(平成27年)6月10日、急性心筋梗塞で緊急入院、手術を受けていたことが、7月17日に明らかになる。約1か月で退院。11月10日、宝酒造「松竹梅」のCM撮影で仕事復帰(前年8月の同CM発表会見以来、1年3か月ぶり)。他多数

出典:wikipedia

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