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大沢啓二

大沢 啓二(おおさわ けいじ、1932年3月14日 - 2010年10月7日)は、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。「大澤」と表記されることもある。本名は大沢 昭(おおさわ あきら)、旧名は大沢 昌芳(おおさわ まさよし)。愛称は「親分」「大沢親分」「大沢の親分」。学生時代は悪童で鳴らした。平塚工業学校に入学するも、地元で起こした暴力事件が原因で中退。兄・大沢清の斡旋で清の母校である神奈川県立商工高校に編入し、野球を始める。「野球をやらなければヤクザにしかなれなかったかも知れない」と後年語っている。2年次に夏の甲子園へ出場したが、2回戦で敗退。3年次のに夏の甲子園神奈川大会の試合で、自信を持って投じたストライクをボールと判定されたり、確実にセーフだと思ったタッチプレーを二度もアウトにされるなどの球審の判定に不服を覚える。試合は延長戦となり、最後はフォアボールの押し出しでサヨナラ負けしてしまった。試合終了後、大沢は球場のトイレで偶然その審判と遭遇し、他の選手1名とともに蹴りつけてしまう。この結果、神奈川商工高は1年間の出場停止処分を受けた。後日、大沢が蹴りつけた審判が自宅を訪れ、自分が立教大学硬式野球部関係者であると名乗った上で、「君のような野球がうまくて元気のある選手が立教大学には必要なんだ」とスカウト。これを受けて、野球部推薦で立教大学文学部へ進学。1年春のリーグ戦から出場したが、直後に「出身高校が1年間の出場停止処分を受けているから」という理由で半年間出場停止となった。東京六大学リーグ通算94試合出場、314打数80安打、打率.255、2本塁打、32打点。ベストナイン2回。2学年下の後輩に、後に「立教三羽烏」と呼ばれる長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾がいた。大沢が4年次には砂押邦信監督の猛練習に下級生から「監督の辞任か、自分たちの退部」を求める訴えが上がり、大沢は部員の署名を集めて砂押に掛け合ったが、拒否される。やがて総長やOBまで巻き込んだ話に発展し、最終的に砂押は退任した。大沢は後に「お互い若かった」と述べている。この立大時代に「レフトゴロ」を成立させたことがある。前位の走者の封殺でなく、打者走者を一塁到達前に刺したことによるレフトゴロは非常に珍しい。に南海ホークスへ入団。鶴岡一人監督から勧誘時に「日本一になるには君と長嶋と杉浦の力を借りたい」と言われたとされる。南海への入団には長嶋・杉浦の両選手獲得のためのパイプとしての期待も込められており、南海は大沢を通じて長嶋に当時の大学初任給をはるかに超える額を栄養費として渡すことになる。しかし、栄養費としてではなく善意のおごりという形をとっていたため、後に事態を把握した長嶋は反発。長嶋は最終的に[[読売ジャイアンツへに入団(支給された栄養費の全額も返金)、一方長嶋から誘われて南海入りを決めた杉浦は、鶴岡への仁義を通すとしてそのまま南海へ入団した。大沢はこの事件以降長年に渡り長嶋を裏切り者として敵視した。プロ選手としては頭脳的な守備で鳴らし、1年目で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場。[[1959年の日本シリーズ]]第3戦では、4連投4連勝の杉浦と共に日本一に貢献。打者の打球傾向によって守備位置を変えるという、現在では当たり前になっているプレーを行い、要所要所で見せた好守備によって巨人の反撃を断ち、チームの4連勝に大きく貢献した。現存している写真を確認すると20m以上、守備位置を移動している。シリーズ後、滅多なことでは選手をほめない鶴岡が「大沢、本当によくやってくれた」と直々に労い、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]の[[三原脩]]監督はこのシリーズの総括として、「[[最優秀選手 (野球)|MVP]]の杉浦は副賞として自動車を与えられたが、大沢にも小型の自動車を与えるべき」と語っている。また、ライト前ヒットの際に、ボールを拾ってからフェンスに向かって走り、二塁でランナーを補殺するトリックプレーを見せたこともある。に[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]へ移籍し、同年限りで現役を引退。移籍の理由について、大沢は著書でのオフに球団から突如スカウトになるよう指示されたためとし、その背景には[[フリーエージェント (日本プロ野球)#10年選手制度|10年選手制度]]にかかる前に放出する意図があったからと述べている。大沢は移籍の挨拶に鶴岡の自宅に出向いた際に、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]への移籍の相談に先に来ていた[[村上雅則]]に、「こんな冷たいチームに義理立てする必要はない」と言って鶴岡と口論になったという。一方、当時オリオンズの[[青木一三]]スカウト部長は、10年選手制度が移籍の原因であることを認めた上で、鶴岡が自ら青木に「獲ってやってくれ」という依頼をしてきたと著書で記している。引退後は東京・ロッテで一軍打撃コーチ()→二軍打撃コーチ( - )→二軍監督( - )→監督(1971年[[7月24日]] - )を歴任。二軍監督時代のには[[イースタン・リーグ]]優勝に導き、[[得津高宏]]を指導。得津は「現役の時大沢さんはホームランバッターじゃなかっただけに、アベレージバッターを育てるのが上手いんです。だから僕はアベレージバッターになったんです。それでいい方に変わったんです。」と語っている。1971年7月24日に[[濃人渉]]と交換される形で監督へ就任。最終的に2位となった大沢の手腕は球団に評価され、シーズン終了後に5年の長期契約を結ぶ。「打力だけでは日本一になれない」と[[榎本喜八]]、[[江藤愼一|江藤慎一]]、[[アルト・ロペス]]を放出して[[野村収]]、[[村上公康]]、[[外山義明]]を獲得。高年俸選手を出して「人件費カット」のトレードを断行してシーズンに挑んだが、一度も上位に食い込めず5位に低迷。前年に193本塁打を放った打線を解体してまで強化を図った投手陣は崩壊し、チーム防御率は4.54と当時のリーグワースト記録を打ち立てた。シーズン終了後に5年契約を破棄・解雇される。この時にロッテのオーナーを退任し、太平洋のオーナーに転じた[[中村長芳]]から「将来太平洋の監督に迎える」という内諾を得ていたという。ロッテ退団後は[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東]][[野球解説者|解説者]]( - )を経て、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]監督( - , - )・球団常務( - )を務めた。1期目の1年目は村上・[[高橋一三]]・[[富田勝]]を獲得。オープン戦で一時首位に立ち、シーズン開幕戦ではロッテに快勝。[[オリックス・バファローズ|阪急]]に11勝を挙げるなどリーグを盛り上げたが、戦力不足は否めず総合5位に終わる。高橋は肩の痛みに耐えながら3年ぶりの2桁勝利を挙げ、富田は初の規定打席到達でベストテン入りを果たした。は[[新美敏]]・[[皆川康夫]]を放出して、[[佐伯和司]]・[[宮本幸信]]を獲得。一層の活性化は図ったが、2年連続5位に終わる。は[[柏原純一]]・[[間柴茂有]]・[[杉山知隆]]が加入。柏原が打線の軸となり、11年ぶりのAクラス入りを果たす。は[[島田誠]]・[[古屋英夫]]・[[高代延博]]が活躍し、2年連続Aクラス入り。は[[木田勇]]が史上初の新人王とMVPをダブル受賞し、投手タイトルを総なめ。優勝争いを繰り広げるも、3年連続3位に終わる。は[[江夏豊]]が加入。間柴が無傷の15連勝を挙げ、高橋が14勝、木田は前年の半分以下とはいえ10勝し、左腕三本柱が39勝を挙げた。13勝の[[岡部憲章]]が2.70で最優秀防御率を獲得。[[大宮龍男]]の好リードも光り、後期優勝を決める。プレーオフでロッテを下し、日本シリーズでは同じ本拠地を使用する巨人と対戦。史上初めて全試合が同一球場で行われたが、[[トミー・クルーズ|クルーズ]]の故障離脱が響いて敗退。第1戦でサヨナラヒットを打った[[井上弘昭]]が敢闘賞を受賞。は[[広岡達朗]]が西武の監督に就任し、選手の食事療法まで踏み込む「超管理野球」を標榜すると「草ばっかり食ってヤギさんじゃあるめえし」と噛みつきマスメディアの話題を呼んだ。当時はマイナー扱いされていたパ・リーグの人気盛り上げに一役買った功績は大きい。[[工藤幹夫]]が20勝する活躍もあり、2年連続後期優勝を達成。西武とのプレーオフ第1戦では、当時右手指の故障中であった工藤を強行登板させた。これが工藤の選手生命を縮めたとも言われている。大沢は医者から「プレーオフには間に合う」と聞いて、密かに練習をさせ、周囲を欺いたと記している。[[高橋直樹]]は「日本ハムでは木田や工藤が一年でダメになっているでしょう」と述べている。1983年に6年連続でAクラスを確保すると、8年間に及ぶ1期目の監督生活を勇退。シーズン終了後、自らフロントに推薦した[[植村義信]]へ後を譲る形で辞任。球団常務へ就任するが、植村は成績低迷により1984年[[6月]]に辞任。植村を推薦した責任を取る形で復帰し、シーズン終了まで指揮をとった。1985年から1992年までは再び球団常務を務める。1987年には二軍投手コーチに村上を招聘し、村上は[[松浦宏明]]を一軍に送り出し、松浦は1988年に15勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。頃、『[[フライデー]]』、『[[FOCUS|フォーカス]]』(以下「FF」)などの[[写真週刊誌]]がプロ野球選手を含む有名人のプライベートを掲載し、社会問題にもなったが、日本ハムの選手が登場しないのを嘆き、「『FF』に載れ!」(「FF」に狙われるような選手になれ、の意で)と選手達を叱ったことがある。同じく球団常務時代に日本ハムの試合を観戦に東京ドームに訪れた際、当時『[[プロ野球ニュース]]』のキャスターだった[[中井美穂]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー)から、「常務は野球のルールをご存じなんですか?」と聞かれ笑いが止まらなかったと後日語っている。、再び日本ハムの監督へ3度目の就任。背番号は前回と同じ86に決まった。当初、監督選びが難航する。大沢が推薦した[[上田利治]]は本人や[[大社義規]]オーナー(当時)も積極的だったが、フロントはオーナー以外が好意を示さず、次に要請した[[王貞治]]には、理事長を務めている[[世界少年野球推進財団]]の活動スケジュールの都合から固辞された。人気や知名度を優先するフロントに憤慨した大沢は、「人気だけだったら、[[宮沢りえ]]にやらせろ」とまで言ったが、結局、時間切れで本人が引き受ける羽目になったと述べている。2期目の1年目は[[白井康勝]]を先発に、[[金石昭人]]をリリーフに転向。主に守備固めだった[[広瀬哲朗]]をレギュラーに定着させ、主将にも抜擢。[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]・[[西崎幸広]]の復活や[[リック・シュー]]の活躍もあり、西武と激しいデッドヒートを演じて2位に入る。大沢のユーモアあふれるコメントはマスコミで大々的に報じられたこともあって「親分」の語句はこの年の[[新語・流行語大賞]]の「大衆語部門・金賞」に選ばれている。対ロッテ戦で[[伊良部秀輝]]に抑えられた試合後に「幕張の伊良部[[クラゲ]]に刺されちまった」という有名なコメントを残したのもこの年である。[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]がケガで外野手にコンバートされると、遊撃手のポジションを奪ってレギュラーに定着し、[[1993年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場するなど、飛躍することとなった。は最下位に終わり、最終戦終了後にはファンの前で土下座して謝った。5球団すべてに負け越し、打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位となった。3連敗以上を14度も記録し、逆に3連勝以上は3度しかなかった。同年退団。よりフリー[[野球評論家|評論家]]、[[日本プロ野球OBクラブ]](全国野球振興会)理事長(=平成21年3月まで。4月からは名誉理事長に就任)、[[プロ野球マスターズリーグ]]委員会議長、「[[モルツ#モルツ球団|モルツ球団]]」監督・総監督、[[正力松太郎賞]]選考委員などとして活躍。[[TBSテレビ|TBS]]系『[[サンデーモーニング]]』内のコーナー「週刊御意見番」(1997年頃開始)に[[張本勲]]と共にレギュラー出演。[[ニッポン放送]]「[[日本消防協会#提供番組|おはよう! ニッポン全国消防団]]」(4月スタート)では、消防応援団長の肩書でゲスト出演していた。2009年10月から[[胆嚢癌]]を発症しており、番組などには病をおして出演していた。(平成22年)9月26日と10月3日と2回連続で『サンデーモーニング』に出演せず、9月26日にはその理由に触れなかったが、10月3日に本人からの手紙を[[関口宏]]が紹介、その中で「体調不良」を明らかにした。[[10月7日]]午前7時25分、胆嚢癌のため逝去。。[[戒名]]は將導院球岳日昭大居士。大沢が死去してから約1・2時間後に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[情報プレゼンター とくダネ!]]』に『サンデーモーニング』で共演した張本勲が生電話出演し、「悔しいですよ。元気で過ごしてもらいたかった」「信じられない。先月まではお元気だった。多少体の具合が悪いとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。悲しいより悔しい」と胸の内を明かしていた。また、孫の[[大沢あかね]]は「曾孫を見せることができたのが最後のおじいちゃん孝行だったと信じたいです」、立教大学の後輩でもあった『サンデーモーニング』の司会者・[[関口宏]]は「本当に野球がお好きだったことは、おそばにいてひしひしと感じとっておりました。本当に本当にご苦労さまでした。静かに静かにお休み下さい」とコメントした。なお、『サンデーモーニング』の「週刊御意見番」は今後は張本が単独で出演する形で継続すると報じられたが、[[10月17日]]放送分からは張本に加えて週替わりでゲストコメンテーターを1名招いて放送している([[土橋正幸]]、[[高田繁]]など。野球以外のスポーツ出身者の場合もある)。大沢啓二の[[通夜]]は[[10月13日]]、葬儀は[[10月14日]]に[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]の[[増上寺]]で行われ、「サンデーモーニング」で共演した関口、張本、親交の深かった王、[[徳光和夫]]らが弔問に訪れた。日本ハムオーナーの[[大社啓二]]、関口、張本の3名が弔辞を読んだ。また、[[棺]]には大沢が臨終の瞬間まで握っていた硬式ボールなどが納められた。出棺の際、葬儀委員長を務めた[[黒江透修]]の音頭取りによる「あっぱれ三唱」が行われた。通夜には孫の[[大沢あかね]]が夫の[[劇団ひとり]]と共に参列した。遺体は[[品川区]]の[[桐ヶ谷斎場]]で[[荼毘]]に付された。[[10月9日]]、[[2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ]]ファーストステージの[[埼玉西武ライオンズ]] 対 [[千葉ロッテマリーンズ]]第1回戦([[西武ドーム]])の試合開始前に、大沢の逝去を悼み、両軍選手並びにスタジアムの観衆による黙祷が行われた。実兄の大沢清、[[大沢紀三男]]は元プロ野球選手。孫のあかねに電話を掛けた際、留守電を知らせるメッセージを孫の部屋に侵入した不審者と勘違いしてしまう。留守電には大沢の怒った声が録音されており、孫がビックリしたと語っている。2010年3月に大沢あかねが妊娠を発表、[[9月8日]]にあかねが啓二のひ孫となる女児を出産した。[[サングラス]]を掛けた貫禄のある容貌、親分肌の性格とべらんめぇ口調から、「親分」の[[ニックネーム]]で親しまれた。ホテルで、周囲が「親分、親分」と呼びかけているのを聞いたスタッフがヤクザの親分と間違えて戦々恐々としていたことがある、と本人は講演などで語っている。プロ野球界で「親分」というニックネームは、現役時代の監督である鶴岡が先にいるが、大沢は著書では鶴岡には「さん」と記し、「鶴岡親分」とは書いていない。現役時代のあだ名は、そのいかつい容貌に似合わない「ポッポちゃん」。命名の由来は南海のハワイキャンプ時に、O脚の鳩がふらふら歩いているのを見て、選手の誰かが「大沢にそっくりや」と言った事による。江夏獲得の際には、単身で広島の[[松田耕平]]オーナー宅に乗り込み、松田と同席した[[古葉竹織]]を前に、強くない酒をグイグイ飲んで熱弁を振るい[[トレード]]を実現させた。広島カープとしては、打診が来ている数球団の条件を聞いた上で結論を出す腹づもりであったが、あまりの大沢の熱意に松田オーナーが「負けました。決めましょう」とその場で交渉が成立したという。江夏はファイターズ入団の頃の大沢について「道路工事現場監督みたいな雰囲気で、選手をボカボカ殴りまくっていてびっくりした」という。しかし江夏は大沢の親分肌が非常に気性にあったようで、以後、大沢の死に至るまで大沢を尊敬することになる。大沢も江夏を「うちの勝ちパターンは江夏が出てくるようになる試合のこと」といい強く信頼し、江夏が在籍した三年間のファイターズは常勝チームであった。監督としての成績は通算で1547試合で725勝723敗99引き分け、勝率5割1厘。「勝ち越して監督生活を終われる人間はそう多くない。名将なんておこがましいが、貯金2か。ちょうどいいんじゃねぇか」と自身の監督成績を振り返った 。「親分」の愛称で親しまれ、ユーモアあふれる言動で人気を集めた名物監督でファンからも慕われた。退場の多さで有名で、通算退場回数は7回と[[タフィ・ローズ]](14回)、[[マーティ・ブラウン]](12回)、[[金田正一]](8回)に次ぐ記録を持ち、そのすべてが監督時代である。監督としての退場回数7回は、[[8月27日]]にブラウンに抜かれるまでプロ野球最多記録であった。『サンデーモーニング』内で退場の話題が出ると、「暴力反対」と唱えたり、退場の通算回数ランクが書かれたフリップが提示されるなどと毎回笑いを呼んでいた。また退場の記録を抜かれた際は必ずその話題が出た。退場でよく知られているのは、1976年[[6月17日]]の対阪急戦でのもの。[[竹村一義]]が打者に[[ビーンボール]]を投げ、一塁コーチスボックスから[[マウンド]]に駆け寄り、「てめぇ、今度やったら許さねえぞ!!」と威嚇したが、その後再びビーンボールを投げたので、激怒して竹村を殴って退場になった。竹村を殴った瞬間は報道写真に捉えられた。10日間の出場停止と罰金10万円の処分が科されたが、出場停止の間に代理監督を複数のコーチにさせて、コーチの指揮能力をベンチからチェックしていた。1983年[[6月28日]]近鉄戦の9回裏[[守備妨害]]を巡り[[塁審]]を突き試合終了後に退場宣告を受けた。またこれは退場事件には至らなかったが、オリオンズの監督時代、当時ホークスのエースだった[[江本孟紀]]がいきなりオリオンズの先頭打者に[[デッドボール]]を食らわせたことに激怒、江本いわく「[[パットン戦車]]のような勢いで」大沢がマウンドにやってきて「おい、若僧、うちのものにいきなりぶつけるとはどういう料簡してやがるんだ、この野郎!!」と猛然と怒鳴りつけた。江本も負けじと「先頭バッターにわざわざぶつけるアホがどこにいるんや、このボケ!!」と激しくやり返し、あやうく暴力乱闘というところ、キャッチャー兼監督の野村が間に入って事なきを得た。江本と大沢はこれ以降、大沢の死に至るまで親しくなり、江本が舌禍事件で現役を引退したときも「エモ、もったいないぞ。もっと野球せえや」と現役続行をアドバイスしたという。スポーツ番組で[[ペナントレース]]開幕前に全12球団の監督が総出演してチームの仕上がり具合を話すという企画で、当時常勝を誇っていた[[西武ライオンズ]]監督の[[森祇晶]]が「いやぁ〜、ウチなんか桜に例えたらまだまだ三分咲きですよ」と発言したところ、大沢は激怒し「どうしておめぇは本音で話ができねぇんだ!!」と森を一喝した。このほか、1993年には大沢の発言や行動に対し、[[片平晋作|西武のコーチ]]が揚げ足を取るような発言をしたため、大沢は「西武のコーチは[[黒江透修|子ダヌキ]]に[[杉下茂|海坊主]]、森は岐阜の貯金箱だ(森は岐阜県岐阜市出身であり、金に細かいことで評判であった)」と言い放った。もっとも大沢は森とは親しく、話題作りもあってあえてこうした発言をしたという。ライオンズとの優勝争いに敗れて2位に終った[[1993年]]、大沢は日本シリーズを控えたライオンズの激励に練習現場にあらわれ「いやー、1勝でもできればいいと思っていますよ」と言う森に対して大沢は「[[パリーグ]]の代表としてシリーズに行くんだから、そんなケチなこと言わず必ず優勝しろよな。頑張るんだぞ」と優しく言葉を返し、森は大沢の言葉に「大沢さんらしい。ありがとうございます」と苦笑しつつ恐縮していた。テレビに登場する際は[[和服]]姿が圧倒的に多かったが、野球解説などの時はスーツなどの[[洋服]]を着用することもあった。また、[[大東建託]]のCMには洋服(クラシックタイプの[[ゴルフ]]ウェア)を着て出演したこともある。南海でルーキーだったシーズンには[[カネボウ化粧品]]のポスターにモデルとして起用されたことがある。嫌いな食べ物はなかった([[チョコレート]]系の食べ物、特に[[エクレア]]と[[ココア]]が大好物)。[[動物]]好きで、[[犬]]と[[猫]]を飼っていた。引退後も、マウンドからノーバウンドで捕手めがけて投球することができた。[[ベースボール・チャレンジ・リーグ]]・[[群馬ダイヤモンドペガサス]]の[[始球式]]で、[[群馬県]][[都道府県知事|知事]]の[[大澤正明|大沢正明]]とのダブル大沢での始球式を行ったが、大沢知事がノーバウンドだったのに対し、自身はワンバウンドしてしまった。これに対し、啓二は『サンデーモーニング』の中で大沢知事に「あっぱれ」を、自らに「喝」を与えている。[[東京六大学野球]]の始球式でも投げたことがあり、見事にノーバウンドでキャッチャーの位置まで投球した。しかしサンデーモーニングの中で[[張本勲]]に「始球式なのに着物で出てくることはないでしょ」と言う理由で「喝」を与えられた。[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]が大嫌いであったが、共演している張本勲ほど露骨ではなかった(『サンデーモーニング』より)。日本ハムが北海道に本拠地を移転してからは、[[北海道]]のテレビ番組にたびたびゲスト出演し、[[札幌ドーム]]での日本ハム主催イベントにも度々出席していた。野球以外のスポーツにも通じており、特に[[サッカー]]の[[中村俊輔]]、[[テニス]]の[[マリア・シャラポワ]]のファンでもあった。[[競艇]]に関しての知識に関しては球界随一で、「球界ナンバーワンの競艇通」としても知られる。時折[[競艇場]]などで見かけられた。1985年にフロント入りした頃には「頑固親父の目に涙」という曲をリリースした。また、には[[舘ひろし]]主演の[[日本放送協会|NHK]][[金曜時代劇]]『[[物書同心いねむり紋蔵]]』で舘の演じる藤木紋蔵の上司([[町奉行]])として出演している。立教大の大先輩である[[西本幸雄]]には全く頭が上がらなかった。これは単に西本の方が年上であるというだけでなく、西本が当時から[[和歌山県]]下トップレベルの進学校で鳴らした[[和歌山県立桐蔭高等学校|旧制和歌山中学]]から野球の実力のみならず学力で立教大に入学したのに対し、大沢は野球の実力や学力とは関係なくスカウトを受けて、野球部推薦で入学したことも関係している。[[野村克也]]とは現役時代からそりが合わず、野村が先に南海に入団したにもかかわらず、大沢のほうが年上でありなおかつ大学卒であったためか、野村を呼び捨てにしていた(なお、現在は入団年数が長くても年上の人物には「さん」付けする傾向がある。野村は現役時代、その件などで複雑な思いをしたと『[[ダウンタウンDX]]』で語っている)。引退後も、「鶴岡さんがやめてからの南海の監督は監督の器じゃない人が務めていた」などと野村に批判的な主張をしていた。特に鶴岡の葬儀・告別式に野村が参列しなかったことに対しては激怒した。そのエピソードから「そりが合わない」と言われる大沢と野村だが、野村は「人間・大沢啓二」については「私は大沢のうわべだけ見て嫌いになる人はいても、中身を知って嫌いになる人はいないと思っている」とも述べており、人間的に相容れぬ間柄ではないようである。実際に大沢は、現役時代の1963年に野村が当時のシーズン最多本塁打をマークした際、アウトコース低めの完全なボール球をバックスクリーンに運んだ打撃術を絶賛し、「あの時ほど野村と一緒にプレーできることを幸せに思ったことはなかった」と記している。また、野村はヤクルト監督時代に日本ハムから[[角盈男]]を獲得しているが、その際には当時日本ハム球団常務だった大沢に直接連絡してトレードを申し入れている。また、[[野村克也]]の著書によると、南海時代、その態度が多くのチームメイトの怒りを買うことが多く、「大沢を殴る会」なるものが裏で結成されたという。温厚な[[杉浦忠]]でさえも、「あの人を殴ってやる」と言って、野村が必死で止めたという。ただし、その態度が、監督としての手腕に生かされたことは、評価していた。[[広瀬叔功]]は著書の中で「大沢氏とは仲良くさせてもらった。若い頃から、典型的な親分肌。後年、テレビで「喝!」とか「あっぱれ」とかやっていたが、あの雰囲気は当時から漂っていた。一緒に飲み歩くと、後輩の私には絶対に勘定を払わせなかった。私の方が給料が高くなってからも、大沢氏には100%おごってもらった。プロの掟だと思って、私も後輩に飲み屋の勘定を払わせたことは一度もない。ある意味、プロ野球選手のプライドというか、誇り高い生き方を教えてもらった先輩だったと思っている」と記している。[[プロ野球再編問題 (2004年)|2004年のプロ野球再編問題]]の際、『サンデーモーニング』で流されたスポーツライター・[[玉木正之]]のVTRのコメントに「野球(の現場)を知らん奴が何を言うか」と激昂したことがある。大沢は「玉木、出てこい」とも言ったが、その後番組に玉木を呼ぶこともなく、うやむやとなった。[[Category:日本の野球選手]][[Category:立教大学野球部の選手]][[Category:福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手]][[Category:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手]][[Category:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督]][[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の監督]][[Category:野球解説者]][[Category:日本の野球監督]][[Category:日本の実業家]][[Category:プロ野球チームの経営者]][[Category:神奈川県出身の人物]][[Category:1932年生]][[Category:2010年没]]

出典:wikipedia

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