堀内 恒夫(ほりうち つねお、1948年1月16日 - )は、元プロ野球選手(投手)、元監督、野球解説者。自由民主党所属の前参議院議員(1期)。読売ジャイアンツのV9時代のエースとして活躍。山梨県甲府市出身。養蚕業の家に生まれる。小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、1cmほど切断する大怪我を負っている。しかし、そのことで手の形が変わったことが独特の大きなドロップカーブを生み出すことになった。甲府市立南中学校1年生の時、部活はサッカー部に入っていた。下働きが無いのが魅力というのが理由だった。その後野球部長の熱心な誘いもあって、2年生で野球部に転部、この時は「渋々」だったと言う。甲府市立甲府商業高等学校では1年生次から中堅手、控え投手として活躍。夏の甲子園県予選決勝では、3年生エース大石勝彦(大洋-東映)をリリーフして機山工を降す。しかし第45回記念大会は出場校が多く、会場に阪急西宮球場と甲子園を併用し、甲府商は西宮組に入ったために甲子園を経験することはなかった。これは『巨人の星』でもエピソードに使われている。大会では武雄高、宮崎商を降し山梨県勢初の3回戦に進出するが、優勝した明星に0-11で完敗。堀内はリリーフで2試合に登板している。2年上のチームメートには雨宮捷年右翼手がいた。翌夏はエースとして西関東大会決勝に進出するが、熊谷商工に0-1で惜敗。夏も西関東大会準決勝で熊谷商工に敗れ、甲子園出場を逸する。1965年の第一回ドラフト会議で1位指名を受け読売ジャイアンツに入団。1年目のキャンプ終盤、高橋一三に代わり一軍昇格し5月に一度二軍に落ちたもののすぐ復帰しそのまま1軍に定着。プロ初登板(初先発)の投球練習時には1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐしたという。5月30日の対大洋戦から6月22日の対サンケイ戦にかけて44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録(新人記録でもある)となる開幕13連勝を含む16勝を記録。最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得し、チームの優勝に貢献した。1966年、入団時の背番号は21だったが、翌からは18になった。しかし1月のチームの自主トレ中に腰を痛めて、重症の椎間板ヘルニアを患ってしまう。この時は一軍と二軍の往復を繰り返し7月末に復帰するが、これは堀内が現役をやめるまで持病となり、堀内を悩ませることとなった。1972年、シーズン開始から好調で初の開幕投手を務める。6月9日江夏豊との互いに通算99勝対決を制し、100勝を達成。同年シーズンの巨人は王と長嶋を含めた打線陣が3割打者不在になるなどの不調で堀内以外の投手が勝てなくなっていたが、堀内が48登板34先発26完投、特に阪神戦では毎カード3戦中1先発1リリーフと奮闘し、巨人のリーグ優勝・日本一に貢献。MVP、シリーズMVP、最多勝、沢村賞に輝いた。27歳で150勝を達成するなどまで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍。通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。には26勝を挙げ、セ・リーグMVPに選出されている。この年の堀内を最後にセ・リーグでシーズン25勝以上した投手はいない。V9を含め、巨人はからまでセ・リーグMVPを独占したが、この間ON(王貞治・長嶋茂雄)以外で受賞したのは堀内が唯一である。に引退した王貞治は、同年のファン感謝デーの紅白戦にて堀内を投手として最終打席に立っている。しかし、堀内は2球のドロップに渾身のストレートを投げ王を空振り三振に仕留めている。その後、王が入団時のポジションである投手に、打席には堀内が立って再び勝負をしたが、堀内は王の初球を打って本塁打とした。4月9日の対中日戦で、球団通算3000勝目の勝利投手となる。1980年6月2日の対ヤクルト戦で通算200勝を達成。巨人一筋で200勝を挙げたのは中尾碩志と堀内のみ。しかし、に藤田元司が監督に就任すると、江川卓、西本聖、定岡正二の台頭により登板が急激に減り、同年の日本シリーズでは登板機会がなく、には投手コーチ兼任となる。、現役引退を発表。引退試合(10月22日の対大洋戦)では、巨人3点リードの8回表から登板。8回裏に回ってきた現役最終打席で本塁打を放っている。投手としては2イニングを抑えてセーブを記録。引退試合での現役最終打席は、「ホリさんまで打順を回そう」と野手陣が打ちまくったことにより実現した。引退試合後の1983年の日本シリーズには出場しなかった。現役最後の本塁打を打たれた打者は、広島東洋カープの山本浩二。堀内は引退後に「僕は山本浩二さんに引導を渡されたんですよ。最後に山本浩二さんに打たれたホームランで僕は自分の力を感じて引退した」と語っている。現役引退翌年のから王貞治監督の下で巨人投手コーチ専任。からまで、日本テレビ・RFラジオ日本のプロ野球解説者やスポーツ報知野球評論家。からまでは監督・長嶋茂雄の下で巨人の一軍投手コーチ、ヘッドコーチを歴任した。からまで、日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。また読売新聞スポーツアドバイザーとして、野球教室のイベント等にも携わっていた。3月29日には、東京ドームで開催された日本初のメジャーリーグ公式戦・ニューヨーク・メッツ対シカゴ・カブスで、この試合を観戦に来た皇太子徳仁親王夫妻の横に座り、野球解説を行った。なおこのコーチ時代には1998年遠征先の札幌市円山球場で、あるコーチの一人は雨が降っている外でトレーニングを指図し首脳陣はベンチ裏で弁当を食べるという不躾へ激怒した清原和博らが選手を代表しどなりこんだ事件があったとされる。オフ、原辰徳が突然辞任した後継として巨人監督に就任する。就任会見では「青天の霹靂。この時期に全く予想していなかったし、大変なことになったなと…」と複雑な心境を吐露した。一方で「投手を中心とした守りの野球」「藤田元司さんのようなチーム作りを目指す」と早くも抱負を述べるなど意欲を見せた。監督時代の背番号は88で、これは甲府商時代の恩師・菅沼八十八郎にちなんでつけたもの。なお、2リーグ制以降の投手出身の巨人監督は藤田に続き2人目。大阪近鉄バファローズからタフィ・ローズ、福岡ダイエーホークスから小久保裕紀とパ・リーグ本塁打王経験者が2選手同時に加入。怪我のため前年出場ゼロの小久保は41本塁打、96打点と復活。ローズも45本塁打、99打点と猛打を発揮し、本塁打王とベストナインを獲得。一番から仁志敏久、清水隆行、ローズ、高橋由伸、小久保、ペタジーニ、阿部慎之助、二岡智宏と続く「史上最強打線」はプロ野球記録のチーム259本塁打を記録した。しかし、投手陣の不調を補って前半戦こそ優勝を争ったものの6月の中日戦で同一カード3連敗を喫し、首位を奪われ失速。優勝した中日に8ゲーム差を離されて3位に終わる。開幕に向けて「今年はうちと中日の一騎討ちになるだろう」と語った。前年度の反省から「守りの野球」をフロントに要請し、中堅手としてゲーブ・キャプラー、抑え投手としてメジャーリーグで活躍したダン・ミセリを補強した。また、ペタジーニと清原和博を構想外とし、清水をファーストにコンバートするという構想だったが、これに対し契約を1年残した清原が球団に直訴、堀内自身も球団フロントの意を汲み、一転して4番ファースト清原で開幕を迎えることとなる。しかし補強の目玉だったはずのミセリとキャプラーが大誤算で、ミセリは数試合で解雇となり、キャプラーは古傷の影響もあってかシングルヒットで一塁ランナーに生還されることもあるほどの守備力だった(この両選手には二軍に落とせない契約を交わしていた)。その後、高橋由やキャプラーに代わりセンターを守っていたローズに対し、コーチの弘田澄男が『緩慢』と叱責したことでローズの怒りが爆発し首脳陣批判。また、清原は夏場に打撃不振に加え持病の悪化から二軍落ちし、そのため肩を故障した捕手の阿部をファーストに起用する、など、当初の構想から大幅に外れる戦いを強いられた。シーズン終盤は高橋由・ローズ・清原などが離脱した反面、矢野謙次、亀井義行など生え抜きの若手選手が活躍を見せる光明もあった。しかし、先発投手陣は崩壊したままで、投手陣の明るい話題は工藤公康の11勝のみでチーム防御率は2年連続で球団のワースト記録を更新した。チームはBクラスに低迷し、一部週刊誌には堀内の采配を批判する記事が後を絶たなかった。終盤はやや盛り返して5位となり、30年ぶりの最下位こそ免れたものの、球団シーズンワースト記録となる80敗を喫した。本拠地最終戦の試合後にはライトスタンドを中心に「お前が悪いぞホーリウチ!」というコールが起こり、予定されていた試合後のセレモニーが中止される前代未聞の事態となった。この年を以って「敗軍の将、兵を語らず」の言葉を残し辞任した。後任監督は前任者である原が再登板した。巨人監督辞任後、2005年11月25日の巨人納会に出席。退団会見から約1ヶ月半ぶりに公の場へ姿を現し、選手に対しては「今年の負けた悔しさと痛みをバネに、原監督の下で優勝をして頂きたい」と激励の言葉を発した。選手との確執なども頻繁にタブロイド等で報じられていたものの、辞任会見に際して仁志ら主力野手陣が胴上げできなかったことの無念さを口にしている。堀内やフロントに重用され、投手陣・野手陣のリーダー的選手となった小久保(翌年度FA権を行使してソフトバンクに復帰)と工藤(門倉健のFA人的補償として横浜に移籍)が「巨人でやり残したことは?」と質問を受けた時も同様のことを語っており、小久保は「堀内さん1人のせいにすることも出来ますけど、実際にプレーするのは僕らなんです」と擁護している。工藤は2004年度、通算200勝達成を目前にして負けが続き(本人曰く「何試合か足踏みして意識してしまった」)、チームも下降線を辿っていたが、堀内は変えることなく工藤を先発で起用し続け、200勝を達成した。工藤は引退後「チームがあんな状況で若い子を試してもよかったのに僕を使っていただいて本当に救われました。今でも感謝してもしきれません」と語っている。また、2005年には二軍で投げていた内海哲也の才能を見抜き、先発ローテーションの一角として登板させている。結果は4勝9敗、防御率5点台だったものの、堀内が去った翌年は二桁勝利を挙げる活躍を見せ、以後はチームのエースピッチャーへと成長した。内海自身も「今の自分があるのは勝てなくても堀内さんが使ってくれたおかげです」と述べている。ただし、清原に関しては巨人からの戦力外発表後は「清原選手にさらなる活躍の道を開いて欲しいということで、今回の発表に至ったと思います。故障を直して体を万全にし、来年、雄姿を見せてくれることを願っています。巨人での9年間、本当にご苦労さまでした」とこれまでのプレーを労う発言をしたが、清原は現役引退後も堀内への辛辣な批判や揶揄を公式の場でも公言しており、堀内と清原との確執は深いものがあったとされる。から現在まで、日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。研究と趣味を兼ね、スケジュールの合間をぬってメジャーリーグ観戦に熱心に足を運んでいる。2006年3月5日には、東京ドームで行われたWBC1次リーグの日本vs.韓国戦を皇太子夫妻が観戦に訪れた際、巨人球団会長の渡邉恒雄、コミッショナーの根來泰周とともに同席。解説を務めた。1月11日、野球殿堂競技者表彰選考にて、野球殿堂入り。殿堂入り表彰式は、2008年8月1日のオールスターゲーム第2戦(横浜スタジアム)の際に執り行われた。2009年9月からは読売新聞のTVCMに解説者役として出演している。巨人はレギュラーシーズンで過去5度、相手チームの胴上げを目の前で見る屈辱を喫したが、堀内はそのうち3度もグランドで立ち会ったは後楽園球場で選手、は明治神宮野球場でコーチ、2005年は阪神甲子園球場で監督として見ることになってしまった。2010年4月22日には、同年7月の第22回参議院議員通常選挙に、自由民主党からの出馬を表明した。7月11日の当開票の結果、比例代表で101,840票を獲得し党内で13位につけたが自民党として12名しか当選しなかったため次点で落選した。外国人参政権や選択的夫婦別姓制度に反対していた。2013年7月31日に中村博彦が死去のため、3年ぶりに繰り上げ当選の資格が生じた。これを受けて堀内は「前向きに検討している」とコメントし、同年8月6日に中央選挙管理会告示により正式に3年越しの繰り上げ当選が決定、雪辱を果たし、初当選・初登院し、政治家となった。現在はスポーツの環境づくりに積極的な活動をしている。2016年(平成28年)7月10日の第24回参議院議員通常選挙にて参議院比例区から自由民主党公認で出馬、84,597票(得票率1,7%)を獲得したが落選した(党内22位)。1984年 - 1985年、1993年 - 1997年 読売ジャイアンツ投手コーチ1998年 読売ジャイアンツヘッドコーチ2004年 - 2005年 読売ジャイアンツ監督1986年 - 1992年 日本テレビ・ラジオ日本解説者、スポーツ報知評論家1999年 - 2003年、2006年 - 日本テレビ解説者・スポーツ報知評論家2013年 - 2016年 自由民主党参議院議員2008年 野球殿堂入り球質は軽いが切れがよく、遠くから弓なりに伸びる直球、一度浮き上がってから突然急ブレーキがかかったように曲がり落ちる大きなカーブ、ロサンゼルス・ドジャースのベロビーチキャンプに参加した際、ビル・シンガーから教えを受けたチェンジアップを武器とした。コントロールは危なかったが逆球にはならずピンチに強かった。体重が理想的に配分された身体で、均整のとれた体格であった。新人の開幕連勝記録を更新中の時に、週刊朝日編集部がホームプレート上に光電式の速度計測装置を使用して測定した結果155km/hを記録した。プライベートとは違い野球に関しては非常に真面目。初登板以来自分が投げた結果をスコアラーの資料の元、打者ごとに細かく分析しノートにつけていた。先発前夜になると眠れなくなるほど真剣にピッチングの組み立てを行った。また試合前やキャンプのミーティングで居眠りしてるようできちんと全部ノートに書いていた。入団当時は、投げ終わった後に帽子が横っちょにぶれるぐらいのダイナミックな投球フォームが特徴的であった。しかし、実は少し大きめの帽子を被り、ダイナミックさを演出していた。肩が強く多摩川グランドの左中間フェンスにぴったり身体を貼り付けたまま、ワン・ステップしただけで一塁ベンチの上を越すボールを投げることができた。打撃も上手く通算で21本塁打を記録。特に1967年10月10日の対広島戦(後楽園球場)ではノーヒットノーランを達成し、さらに自ら3打席連続本塁打を放っている。投手による3打席連続本塁打は史上唯一。これに関して本人は現役引退後、「4打席目にホームランを打てず(中前安打)ガッカリしてベンチに戻った際に他の選手に言われるまでノーヒットノーランに気付いていなかった。『4打席連続本塁打の代わりにノーヒットノーランでいいや』『あーあ、しょうがねえ、じゃあノーヒットノーランでもやるか』と思った」と語っている。1973年の日本シリーズ第3戦では2本塁打を放っているが、日本シリーズで投手の1試合複数本塁打も史上唯一。この2本塁打などの活躍で1972年、1973年と2年連続で日本シリーズMVPを受賞。1983年の引退登板でも当時大洋の金沢次男投手からホームランを放っている。守備でも素晴らしい反射神経・運動能力を見せ、ダイヤモンドグラブ賞を創設年のから7年連続で受賞。非常にクイックがうまく、日本シリーズで対戦した福本豊をして「あんなクイックは初めて見た。パ・リーグにあんなことができるピッチャーはいない」と称された。高校3年時、野球部のキャプテンになると、上級生が理由にならない理由を見つけて下級生を殴ることを禁止した。1学年下の江夏豊(阪神タイガース)とはライバル関係にあった。江夏が堀内と呼び捨てに記者に話している事を聞きつけて、腹を立てていたという。ともに99勝で迎えた一戦で投げ合い、この時は堀内が完封で勝利して先に100勝を達成した。その後150勝を懸けた試合でも対戦し、この時は江夏に軍配が上がっている。ふてぶてしい態度から「悪太郎」また「甲斐の小天狗」とあだ名され、実際に「鬼軍曹」と恐れられていた当時寮長の武宮敏明は「巨人歴代三ワル」の一人として堀内を挙げている。寮生活では門限破りの常習犯として知られていて、武宮の目を逃れるため風呂場の窓から入る、寮から抜け出すために非常用のはしごを買っていた、帰宅を待ち構えていた王に殴られた(『見かねた王の鉄拳伝説』)など(ただし、王に殴られたのは堀内自身も認めているが、合宿所ではなく、遠征先での出来事だと言われており、実情は不明で。堀内自身は「自身が成績優秀だったことへの先輩たちの嫉妬から、代表で王さんが殴ったんだろう」と述べているが、「悪太郎」らしいビッグマウスで言っているだけだと記者は解釈している。)。本人曰く、門限破りをするようになったのは入団してから3~4年目からであり、見つかったのは100回以上のうち3回だけと言う。巨人では当時門限を一度破ると8万円、二度目は16万円と回を重ねるごとに罰金が倍になる決まりであったが、当時堀内の毎月の手取りは30万前後だったため、3回目の門限破りをした月には、給料袋にマイナス6万円と書いた紙が入っていたという。外へ飲みに行っていたため、チームメイトと一緒に門限を破っていたわけだが、堀内一人が門限破りで見つかった時も、ほかのチームメイトのことは黙っていたという。読売グループや球団内部の高評価に対して、ファンや応援団からは人気が無いようであり、選手別応援歌が発売されるようになった1985年以降の監督経験者ではただ一人応援歌がつくられていない。以下、{表彰}まではオフィシャルベースボールガイドの各年度版による1010打数 174安打(.172) 21本塁打 82打点(出典:)堀内恒夫の多事正論 - 週刊ベースボール、隔週連載発売コナミ。いずれも解説者役として出演
出典:wikipedia
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