毒蝮 三太夫(どくまむし さんだゆう、本名:石井 伊吉(いしい いよし)、1936年3月31日 - )は、日本の俳優、タレント、ラジオパーソナリティ。聖徳大学短期大学部客員教授。まむしプロダクション所属。愛称は「まむちゃん」、「まむし」、「まむしさん」。身長170cm、体重78kg。既婚。大工の息子として大阪市住吉区(現在の阿倍野区)に生まれたが、生後間もなく東京市荏原区中延(現在の東京都品川区中延)に転居。第二次世界大戦中は、神奈川県横浜市戸塚区の親戚宅に縁故疎開していた。1945年から1950年まで東京の浅草竜泉寺で育ち、1948年、台東区立下谷中学校1年の時、友人と共に『鐘の鳴る丘』の舞台のオーディションに行ったところ、台詞の読みの闊達さを買われて自分だけが採用され、戦災孤児の役で子役デビュー。この舞台をきっかけに児童劇団に入り、NHKのラジオに出演。中学校では人気者で、生徒会の副会長に選ばれた他、卒業式では卒業生代表として講堂で落語を演じた。東京都立大森高等学校卒業までに谷口千吉監督『潮騒』など東宝や大映の青春映画に出演するも、高校卒業の頃に児童劇団を辞め、日本大学芸術学部映画学科では新劇をやるために影万里江、増山江威子、稲吉靖司、北浜晴子、豊原ミツ子らと「劇団山王」を組織し、石原慎太郎の『処刑の部屋』などを演じた。また、この「山王」時代の仲間の一人が、後に『笑点』で共演する立川談志と知り合いで、仲を取り持っていたこともあって、毒蝮曰く、談志とはこの当時から「ウマが合っていた」とのこと。1960年代半ばまでは本名の石井伊吉を芸名に俳優として活動、テレビドラマには草創期である1950年代から出演している。1966年には『ウルトラマン』に科学特捜隊のアラシ隊員役で出演、子どもたちの人気者となった。引き続き翌年の1967年に制作、放送された『ウルトラセブン』でもほぼ同様の役柄であるウルトラ警備隊のフルハシ隊員として出演した。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の両方に起用された理由について、毒蝮は「輝いてるって言うのと同時にね、丈夫で安いんですよ(笑)。病気をしないんです」と述べている。『ウルトラマン』放映中の1967年より別番組で共演していた立川談志の指名により『笑点』に2代目座布団運びとして登場した。最初は本名で出演していたが、ウルトラマン出演中だったこともあって「何で正義の味方が座布団運びやってんだ」といった苦情などがTBSの方に入っていることを聞いて、芸名を付けようということになった。「毒蝮」という芸名は、当時の司会者立川談志が「怪獣ドラマに出演しているなら怪獣風の芸名にした方が良い」「怪獣にも負けないような名前で、蝮ってのはどうだ?」と名付けたもの(談志は石井が登場した当初から「マムシ」と呼んでいたが、5代目三遊亭圓楽が「ただのマムシじゃ面白くねぇ、毒を付けろ」と言ったのを談志が気に入り定着させた)。また下の名前の「三太夫」は『笑点』より前に出演していた『談志専科』という番組で石井が家老・田中三太夫役に扮し、殿様役の談志と社会風刺や世相卷談を繰り広げていたことが元で命名された。番組中で改名披露を行った『笑点』の1968年12月15日放送分から「毒蝮三太夫」に改名した。後年有名になった年配者相手の毒舌トークの原点は『笑点』にある。1969年にはTBSラジオで『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』が放送開始。2016年現在もなお続く長寿番組である(永らく大沢悠里のゆうゆうワイドの内包番組として放送され、2016年4月8日の同番組終了後も当コーナーは継続すると2016年1月18日放送分の同コーナーで明言された。その後、月曜から木曜の週4回ジェーン・スー 生活は踊る内で放送されている。)1971年、当時の立川談志の所属事務所だった「談志プロダクション」の社長に就任、同時に「まむしプロダクション」に改称する。1973年に株式会社を設立(商号は株式会社まむしプロダクション)。他の所属に落語立川流一門の多くの落語家、別れたはずの師匠5代目柳家小さんを擁するなど、規模の大きな芸能プロダクションであった。以降は現在に至るまで、俳優業よりもタレント業での活躍が目立つ。「おばあちゃんのアイドル」「巣鴨のスター」の別名を持ち、ラジオ番組では年配者相手に「ジジイ」「ババア」といった毒舌トークで人気を誇っている。なお、「クソジジイ」「クソババア」と発言すると紹介されることもあるが、この言動について、本人とその関係者は否定している。※石井伊吉名義※毒蝮三太夫名義1968年1969年2001年
出典:wikipedia
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