キリストの墓(キリストのはか)は、キリスト教において、イエス・キリストが埋葬された後、復活したと信じられている墳墓。一般にキリスト教徒に信じられているところでは、キリストの墓の場所はエルサレムの「聖墳墓教会」あるいは「園の墓」である。しかし、異説も存在する。エルサレムにイエス・キリストの墓と信じられているところが2つある。伝えられているところによれば、コンスタンティヌス1世の母ヘレナが326年ごろエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていた地を比定した。 これを取り壊して建てられたのが、現在正教会、非カルケドン派、カトリック教会などが共同管理する聖墳墓教会である。しかし、『ヘブライ人への手紙』(13:12)の記載などから、処刑場は城壁外にあったのではないかとの疑念が出され、聖公会などは旧城壁外にある「園の墓」(Garden Tomb)をそれと信じている。このどちらにもキリストの遺骸は無い。ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従えば、イエス・キリストは十字架上で死に、葬られるが復活し、40日後に天に昇ったとされる。したがって、いったん葬られた場所は存在するが、遺骸は地上には残されていない。その代わりになったともいえるが、カトリック教会では中世、キリストの聖遺物への崇敬が盛んに行われた。たとえば聖十字架とされる物質は早い時期から各地の教会で崇敬の対象となっていた。カトリック教会ではイエスの母マリアも死去することなく天にあげられたと信じられている。仏教の開祖の釈迦の遺骨(仏舎利)も、直後8つの遺骨と灰と容器に別々に分割され、10の墓が作られた。その後それらは分割され、アジア各地に墓が作られ日本にもそれは存在する。それは墓とは呼ばれず仏舎利塔、ストゥーパ、多宝塔などと呼ばれる。ただし、全てを集めると象一頭分を優に上回り、蝋石などが仏舎利の代用とされている場合も多いようである。イスラム教の開祖である預言者ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは預言者のモスクがその霊廟となっている。キリストの遺骸を祭る墓があるかもしれないと主張する人たちも居る。他の宗教の場合と異り、キリスト教においては、キリストの遺骸は失われたのではなく、信仰上存在しないということをまず踏まえなければならない。まったくキリスト教を信じない人は、イエス・キリストが人であったのならば、その遺骸は存在するだろうと考えるかもしれない。しかし、それを祭る墓があるためには、イエス・キリストその人を信奉する人たちの存在を仮定しなければならない。その墓があるためには、イエス・キリストを信奉するが、その肉体が天に上げられたのではないと信じる人が居なければならない。これは正統的なキリスト教からすれば異端となる。グノーシス主義的なもののひとつ、エビオン派の養子的キリスト論を、分かりやすい例として挙げる。彼らによれば人間イエスと神性キリストを区別する。人間イエスはナザレのヨセフとマリアの間に産まれた子であって、彼が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときに聖霊が降り、神の子イエス・キリストとなった。また、十字架につけられるときにキリストの神性はイエスから離れた。十字架上で死んだのは人間イエスであって、キリストではない。この考えに立てばキリストは一足先に天に昇っているから、人間イエスの遺骸は地上に残されているはずである。しかしこの思想では、キリストが去ったあとの人間イエスの遺骸を信奉する意味も無くなるので、墓が存在する理由には多少無理がある。イスラム教の『クルアーン』に登場するイーサー(イエス)は、十字架にはつけられておらず、つけられたのは身代りだとされている。身代りの人物が誰であるかはいろいろだが、この話は16世紀までにはヨーロッパにも伝わっていた。最近では、バーバラ・シーリング(またはスィーリング)が弟ヤコブが身代わりをしたという説を唱えている。イエスが十字架で死なずに生き延びて、別の地で手厚く葬られたのならば、その墓があるかもしれない。正統信仰の説ではないが、イエスが救われ身体を癒した後にユダヤの土地から抜け出し、「イスラエルのさまよえる子羊たち」を探すために、東に向かったと言う説がある。この説の実証のひとつとして、インドのカシミール地方にイエス(ユス・アサフ)と書かれた墓が見つけられている。カシミールのユダヤ人はすべてイスラム教に強制的に改宗させられているが、その墓を守る家族だけが改宗を免れ現在もユダヤ教徒である。古い墓には、ユダヤの言葉であるヘブライ語での記述があり、記述によるとイエスは112歳(100歳以上)まで生きたとされる。また、イエスと書かれたの墓の近くにはモーセと書かれた墓もある。モーセがユダヤ民族の移動の際に失われた人々を探しに出たとされているが、たどり着いたのがカシミールと言うわけである。イスラム教系新宗教アフマディーヤでも、イーサー(イエス)はインドを訪れたと説く。亡くなった場所もカシミールである。創始者であるミールザー・グラーム・アフマドは"Masīh Hindustān Meiń"()という著書を残している。フランスの作家、ジェラール・ド・セードは、南フランスの小さな村レンヌ=ル=シャトーに謎の財宝の秘密が隠されているとする一連の著作を発表した。『アルカディアの牧人たち』と題するニコラ・プッサンの有名な絵がある。この絵に描かれた風景と墓石にそっくりなものが、レンヌ=ル=シャトーの近くに存在した。1970年代セードの著作以降、この地は財宝目当ての人間が引きも切らなかった。中にはダイナマイトを持ち込むぶっそうな者もいたので、けっきょくこの墓石は持ち主が取り壊してしまった。英国のテレビ作家ヘンリー・リンカーンらは、これを追って、BBCのテレビ番組で放映したほか、『レンヌ=ル=シャトーの謎』を著した。墓石の碑文には「ET IN ARCADIA EGO」とある。この碑文はプッサンに先行して1621-1623年のグェルチーノの絵にもあり、「われアルカディアにもあり」とか、いろいろに解釈されている(→ニコラ・プッサン)。リンカーンらは、これはアナグラムであり、「I TEGO ARCANA DEI」(立ち去れ! 私は神の秘密を隠した)と読めるとした。「神の秘密」としてリンカーンらは、イエスの血脈を想定し、シオン修道会がそれを守っているとするのだが、イエスの墓がある可能性も示した。リチャード・アンドルーズとポール・シェレンバーガーもこれを追って、問題の絵はイエスの墓の位置を示しているとして、近くの山中にその位置を推定した。この地域は古くキリスト教の異端カタリ派の拠点であったという歴史を持っている。カタリ派は13世紀前半にアルビジョア十字軍によって壊滅させられているが、彼らがその秘密を残したのではないかというものである。墓があるかは分からないが、コリン・ジョイス(『驚きの英国史』NHK出版新書 2012年pp.86-88)によれば、キリストがおじのアリマタヤのヨセフとともに島を訪れたという。そのために、島は神の祝福を受け、特別な国になることを義務づけられたという。1804年にウィリアム・ブレイクが書いた「エルサレム」という詩がこれを歌っている(ただし、疑問形を使っている)。1935年(昭和10年)8月初に、鳥谷幡山が1934年(昭和9年)10月に見つけた大石神のピラミッド確認のため青森県戸来(へらい)村(現在は三戸郡新郷村大字戸来。)を鳥谷とともに訪ねていた新宗教団体の教祖、竹内巨麿(たけうちきよまろ)は、2間〜3間の長方形の盛り土をみると立ち止まり、それが古文献を一人で調べた結果により、そこに統来訪神と書いた目標と前の野月の二ツ塚に「十来塚」と書くよう村長に話したという。この後竹内巨麿は竹内文書に、「イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。五色人へ遣わし文」にはじまる記述や「イスキリス・クリスマス」の遺言があるとし、イスキリス・クリスマスはゴルゴダの丘で処刑されず、弟のイスキリを身代わりにして日本に渡来して死に、その墓が「十来塚」であるとする。このイスキリス・クリスマスがイエス・キリストであり「十来塚」が「イエス・キリストの墓」であるという。ただし、竹内文書は多くの研究者から偽書と断定されている。この後「古代史書研究会」が来村、戸来村の村名は、ヘブライに由来するとした。アメリカ在住の川守田英二が現地の伝承歌であるナニャドヤラがヤハゥエをたたえるヘブライ語の歌であるという書簡を戸来村に送った。また日本において「桔梗紋」と言われるこの村の旧家に伝わる家紋は五角の形であり、ユダヤのシンボル六芒星である「ダビデの星」と酷似しているとしイスラエルの失われた十氏族やイエスとの関わりを指摘する説もある。戸来村では子供の額に健康祈願などの意味合いを込めて墨で黒い十字を書く風習があったという。東京大学の余郷嘉明助教授による世界34カ国にわたるヒトポリオーマウイルス分布調査によれば、コーカソイドに見られるEUタイプウイルスが秋田県で見つかっている。これはコーカソイドの集団が秋田周辺にやってきた可能性を示すものである。ヘブライ人もコーカソイドであることから、これら遺伝情報調査結果は日ユ同祖論の傍証となっている。ただし、全くの奇説であり、大多数の日本人はおろか、他国でも全く認められておらず。また、その根拠としているものも、学術的な論拠にもならない。1938年、山根キクは著作『光りは東方より』(釈迦、モーゼ、ヨセフ、キリストが修行のため来日したという)で十和田湖畔の十和利山(戸来岳)にキリストの墓があるとした。1968年、エルサレムの北ギヴアット・ハ・ミヴタルで、磔刑の跡のある人骨が発見された。ユダヤ戦争前の1世紀ごろのものと見られる。片方の足には曲がった釘と、木片がくっついていた。骨壷にはその名をイエホカナンと記されていた。3-4歳と見られる彼の息子と、他の一人の成人の骨もいっしょに入っていた。実際にあったこの事件にヒントを得て、アメリカ合衆国の作家リチャード・ベン・サピアが、ミステリー小説 "The Body" を1983年に発表した。小説の中でイスラエルで発見された遺骨にはアラム語で「ユダヤの王」と記された粘土板が掛かっていた。これがイエス・キリストの遺骨とすれば、復活と昇天の教義が覆ることになると恐れたバチカン。それにイスラエルやソヴィエト連邦の政治的思惑とが錯綜し、物語は展開する。人間イエスの秘密をバチカンが恐れ、陰謀が渦巻くという筋書きは、同じアメリカ合衆国の作家ダン・ブラウンによる『ダ・ヴィンチ・コード』にも影響を与えている。"The Body" は、2000年にアメリカ合衆国とイスラエルの共同制作で映画化された。日本公開時の邦題は『抹殺者』。小説の日本語訳は2002年に邦題『遺骨』(新谷寿美香[訳])として青山出版社から、2006年に『キリストの遺骸』上下巻が扶桑社ミステリー文庫として再出版された。アメリカのダニエル・イースターマンの「墓の結社 Brotherhood of the tomb(二見書房 1992)」も、1968年の発見がヒントになっていると思われる。こちらは信仰の内容にはあまり踏み込んでおらず、カトリック教会の歴史の暗部とバチカン内部の権力闘争を描いている。映画監督であるジェームズ・キャメロンとシムハ・ヤコブビッチが製作したドキュメンタリー映画 『キリストの棺』(")では、1980年にアパート建設中であったエルサレムのタルピオットで発見された墓所を、イエスとその家族のものである可能性があるとしている。その内容は書籍化されており、日本語訳も刊行されている。
出典:wikipedia
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