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三式戦闘機

三式戦闘機(さんしきせんとうき)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。開発・製造は川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である。ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した、当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機である。防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮したが、防弾装備や燃料タンク等を追加した量産機では鈍重な戦闘機になり下がり、アメリカ軍に「もっとも食いやすい(つまりアメリカ軍にとっては攻撃し易い)戦闘機」という印象を与えている。基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。そこで星型空冷エンジンを急遽搭載した日本陸軍最後の制式戦闘機、五式戦闘機が生産された。本機は、太平洋戦争に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジン装備機である。当時、同盟国であったドイツ国のダイムラー・ベンツ社製DB 601エンジンは、Bf 109Eに搭載された1000馬力級航空エンジンであった。日本陸軍はこのDB 601をライセンス生産し、ハ40として三式戦闘機に搭載した。空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、本機の外形は水冷エンジン装備機特有の空力学的に滑らかで細身なデザインを持つ。開発者の土井によれば、出力が同じ場合、液冷戦闘機の抵抗面積は空冷戦闘機に比べて20%程度も減少し、速度は6%向上する。ただしラジエーターを要する分重量が増すのが欠点である。その搭載エンジンから「和製メッサー」とも呼ばれたが、エンジンとのちに本機の一部が装備したMG 151/20機関砲以外はBf 109と全く別の設計である。機体設計は川崎設計陣が独自に行ったものであり、左右一体型の主翼と胴体の接合法、ラジエーター配置、主脚構造などがBf 109と大きく異なる。内部構造的には共通点が少ない。1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示。キ60は1940年2月から、キ61は12月から設計が開始された。キ60は不採用となったものの、1941年(昭和16年)12月に初飛行したキ61試作機は最高速度591km/hを発揮し、総合評価で優秀と判定されて直ちに制式採用が決定された。この数値は設計主務者の土井の観点から見ても全くの予想外と評された。しかし、先行して試作され不採用となったキ60の経緯と同様、水冷エンジンに対する日本の生産能力と整備には問題があった。DB 601は日本の基礎工業力では生産や運用が難しい精密な構造のエンジンであったこと、また日本の整備兵は複雑で高性能な液冷エンジンに不慣れで整備作業そのものも難しいものであったことが、安定した稼働と飛行、空戦能力、作戦立案と実行に強く悪影響を及ぼした。海軍では、DB 601のライセンス生産品であるアツタを採用し彗星艦上爆撃機を量産化していたが、同様にエンジンの不調による稼働率の低迷に悩まされた。さらに、陸軍で採用されたハ40系のエンジンは、量産開始後に陸軍からニッケルを使用材料から外す決定が下されるなどしたため、部品強度が落ちた。そのため本機の量産と運用にはなお紆余曲折が存在した。試作名称であるキ番号はキ61であった。制式名称である三式戦闘機という呼称は皇紀2603年(1943年(昭和18年)に制式採用されたことに由来する。制式制定は1943年10月9日。愛称は飛燕(ひえん)、部隊での呼称・略称は三式戦、ロクイチ、「キのロクイチ」、「ロクイチ戦」などがある。川崎社内では「ろくいち」と呼ばれたが、二型登場後は「いちがた」「にがた」と呼ばれるようになった。愛称の「飛燕」は1944年後半に発表されたとする文献もあるが、1945年1月16日付の朝日新聞の、本土防空に当たっていた飛行第244戦隊(後述)の活躍を報じる記事で発表されている。その記事では"「その軽妙俊敏さは、あたかも青空を截って飛ぶ燕にも似ているところから「飛燕」と呼ぶことになった」"としている。なお"碇(2006)"の資料によれば、1945年1月の時点で川崎航空機の年表に愛称が見られるともされる。また『世界の傑作機 陸軍3式戦闘機 飛燕』(1989年) では、高アスペクト比を持つ細長い主翼を持つ、独特のスタイルに由来すると解説している。連合軍におけるコードネームはTony(トニー)であった。これはアメリカではイタリア系移民の典型的な名前とされ、当初、アメリカ軍がさしたる根拠なく本機を日本の同盟国であるイタリア空軍のマッキ MC.202のコピー機と誤認したことに因んで名づけられた。本機の印象、特にファストバック型キャノピーがBf109に類似すること、および同系統のエンジンを搭載していたことから日本でも『和製メッサー』と呼ぶあだ名があった。総生産機数は各型合わせておおよそ3,150機であるが、うち275機の機体が五式戦闘機(キ100)に転用されたため、三式戦闘機としての実数はこれよりやや少なく、2,875機前後となる。総生産数は諸説を列挙する。なお二型は通説では増加試作機30機および量産型374機が生産されているが、文献により413機+α機であるとする説もある。一般に中島飛行機の一式戦闘機が5,751機、同じく中島の四式戦闘機が約3,500機生産されたとされているので、その発動機の生産に多大な問題を抱えながらも、太平洋戦争世代の陸軍戦闘機としては第三位の生産機数を誇る(ただし九七式戦闘機も1943年までに通算3386機が生産されており、それも含めるなら四位である。なお、旧日本軍全体では海軍の零式艦上戦闘機が10,400機程度生産されており、これが一位となる)。川崎は複数の工場を持っており、機体は岐阜工場、エンジンは明石工場で生産されていた。1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された。設計は両機ともに土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦・軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、さらに12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論で発生した語ともされる。しかし"碇(2006年)"の文献では、副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もあるなど、川崎側が発祥であるともされる。土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(九七式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べているまた、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える引き込み足式の、最大速度480km/hに達する高速の複葉機を計画したこともあった。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある。木型審査は1941年6月に行われ、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった。なおこの時期の陸軍戦闘機は、軽戦闘機である一式戦闘機は495km/h乃至515km/h、重戦闘機である二式単座戦闘機(制式採用前)でも580km/hの最高速度しかもたなかった。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた。1936年、ドイツで液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用した、先進的なエンジンであった。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機(のちに愛知航空機と呼ばれる企業)が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった。川崎の鋳谷社長が土井に語った談として、ヒトラーはこの購入に関し「日本政府として購入すれば50万円で済むのに」なる旨の言を発し、また日本の陸海軍は敵同士かと笑ったともされる。"渡辺 (2006年)"などによれば当時の陸海軍の反目がエスカレートしており、別々の購入に至った。また"林(1994年)"の文献によれば、海軍と陸軍は購入に関して別々に交渉を続けており、在ベルリン海軍事務所から在ベルリン日本大使館陸軍航空補佐官加藤敏雄中佐に、既に海軍側が制作権購入の交渉を始めたので手を引いてくれとの電話が有ったとの逸話が紹介されている。また"碇 (2006年)"の文献では、ダイムラーベンツ社が、道徳上同じ国に二度もライセンス料を払わせる訳にはいかないと一旦辞退を申し出たことが記述されている。以上はライセンス購入に際し陸海軍の対立の定説として語られている顛末であるが、"軍事史家である古峰文三"は以下のような説を著述している。DB 600(601ではない)は、愛知がライセンスを購入したものの、愛知が陸軍にエンジンを供給することが許されていた。またDB 601については愛知・川崎とも1社のみで全軍に供給できるだけの生産力が期待できず、2社で生産に当たるのはやむを得なかった。2社で生産する以上ライセンス生産料も2社分支払うのが契約上当然であり、また他の発動機も陸海軍で共用している状況から、DB 601の経緯のみに注目して対立の根拠とすることはし難いとしている。ライセンス生産にあたり、ドイツから日本に輸入されたのは離昇出力1,175馬力のDB 601Aaで、燃料噴射装置の特許を持つボッシュ社がライセンス生産を認めないなどのトラブルがあったものの、1940年12月、ハ40は完成を見た。量産型の完成は1941年7月、書類上では同9月である。なお液冷エンジンを搭載したため機首が長く、地上での前方視界は良いものではなかったとする文献もある。主翼は全幅12m、面積20m、アスペクト比7.2という高い比率の翼形を採用した。当時の戦闘機はアメリカ軍の戦闘機P-51B型でアスペクト比は5.9、Bf109Eで6.0、零式艦上戦闘機は6.4であり、日本陸軍が運用していた他の戦闘機、一式戦闘機、二式単座戦闘機、四式戦闘機も6.0 - 6.08程度となっている。これらと比較して三式戦闘機の主翼はアスペクト比が高い。これは翼面荷重を低めるよりも翼幅荷重を低めた方が、高速性能・運動性能、および高々度性能を確保できるという土井の設計思想によるものである。長大な翼幅からくるロール性能の低下は、補助翼(エルロン)の設計でカバーした。なお翼面荷重は147kg/mで、一式戦闘機(隼)の100kg/mよりは大きいが、二式単座戦闘機(鍾馗)の171kg/mよりは小さい値である。またこの主翼の主桁は左右一体構造で作られた頑丈なものであった。当時、主桁はI型断面のものが多く用いられていたが、三式戦闘機のものは凵型の溝型鋼を二重にしたものを前後のウェブで上下に組み合わせ箱形としたもので、フランジ部は結合された主翼小骨のものも合わせて3重となっており、その上内部にも溝型鋼のトラスが組み込まれると言う頑丈なもので、荷重試験では総重量2,950kgと仮定して主翼に15Gをかけても破壊されず、それ以降の試験を中止した。強度過大であることから性能向上のために主翼の軽量化が検討されたが、キ61は既に十分な性能を示していたために見送られた。三式戦闘機は当初計画の2,950kgから、最大で二型の3,800kgにまで総重量が増加しているが、この面での主翼の設計変更は必要が無く、生産が滞ることはなかった。なお、後方にはT型またはL型をした補助桁も設置されている。また全幅の広い主翼を用いたことから、主脚のスパンは4.05mと降着に際して十分に安定したものであり、荒地での運用に耐えられるものであった。そのため胴体下部は引き込まれた主脚のタイヤと降着装置で占拠されることなく、燃料タンクやラジエーターの艤装が容易となっている。主翼は片側6本のボルトで胴体に取り付けられているが、これはFw190やP-51と類似した取り付け方法である。またこの部分は平らに整形され、将来機体に改造が行われて重心が変わっても、主翼位置の前後修正による重心位置調整が容易である。なお開発時に、土井技師の不適切な対応もあり、急降下時に補助翼がフラッター(異常振動)で千切れ飛ぶと言う事故が発生しているが、無事着陸に成功し事なきを得ている。三式戦闘機の胴体および機首は、日本では一般的かつ大直径の空冷星型エンジンを搭載した各種戦闘機と比べ、液冷エンジン搭載の利点が出たものとなった。全幅は840mmである。キ60より全高は100mm抑えられ、1360mmであった。こうした小型化は空気抵抗を減らして高速化に効果がある。機体の分割部分を減らし、生産性の向上とともに強度と軽量化の両立を図ったのも特長である。胴体は4本の縦貫通材を骨組みの主材とした。ただしこれらは尾翼直前の第12円框で分離されており、一体構造ではない。この構造は生産性向上に役立ったとされる。本機は量産性にも配慮がなされ、主翼取り付け法も生産性を高めた他、飛行機の外形を作ってから工員が中に入り内装を行う従来の手順を改め、各モジュールを内部まである程度作り上げてから最終的に組み立てるシステムが取られた。機体構造はセミ・モノコック構造となっており、また発動機架は通常の鋼管で組み上げたものでなく、前方で胴体と一体構造、言わばモノコック形状ととなっている。これは一体構造の主翼と相まり、降下限界速度が850km/hまで許容されるなど、機体強度は非常に頑丈なものであり、また重量軽減にも貢献している。。土井によれば速度計は700km/hまでのものが採用された。ただし780km/hまで計測できたとの証言や、のちに1,000km/hまでの速度計に変えられたとの証言もある。この構造は重量軽減にも非常に有効だったともいわれる。設計主務の土井によれば、三式戦闘機が空中分解を起こした事例は一度もなかった。また真偽不明であるが、土井は同じ文献で、三式戦闘機が音速を突破したケースがあると耳にしたと著している。機体が頑強なことから、不時着も比較的行いやすかったと証言したパイロットもいる。液冷エンジンに不可欠なラジエーターについては、#ラジエーターで詳述する。キャノピーは日本軍機として珍しい形状を採用した。キャノピー後部と胴体が一体化した、空力学的に有利なファストバック方式が採られている。この型式は後方視界が制限され、空戦に際して見張り能力につき指摘される懸念があった。また前下方をのぞき見るための窓が設けられた。視界に関し、実戦部隊からとりたてて指摘はなかったとする文献と、あったとする文献がある。土井によればこのキャノピー形状と前下方をのぞき見るための窓はBf109からの流用である。なお大戦末期、おおよそ1944年12月以降に作られた機体、あるいは五式戦闘機に改造された機体については、日本で一般的な涙滴型風防に改められている。三式戦闘機の航続距離は8時間以上、3,200kmを飛行可能であった。長大な航続距離で著名な零式艦上戦闘機に匹敵する飛行能力を持つ。燃料は、胴体内タンク、および左右各2つの翼内タンクに820リットルの燃料を収容し、さらに両主翼に200リットルの増槽を懸吊して総計1,220リットルの燃料を確保した。ただしこれは量産型では機体に755リットル、増槽を合わせて1155リットル搭載、後続距離は7時間40分または3070kmと、若干低下している。"和泉(1994)"では一型初期の燃料搭載量は増槽を含め935リットルとしている。なお増槽を懸吊すると最高速度が80km/hほど低下したという。しかし1943年、当時ウエワクに在った実戦部隊・第14飛行団では、侵攻行動半径を550km(往復1100kmに一定の戦闘行動分を足したもの)と判断しており、実戦レベルでは航続力が低下していた傾向がある。詳しい原因は不明だが、エンジンの不調や整備不良が想定される。また、第14飛行団では被弾炎上の危険性を避ける観点から、胴体内増設タンクを降ろしていたともされる。なお、川崎側の資料など、一般には試作機には最初からハ40が搭載されていたと言われているが、審査を担当した荒蒔義次らは、3号機までは輸入したDB 601Aaを搭載していたと証言している。また、ハ40を搭載した4号機からは過給器の不調が多かった。量産型第一号機は1942年8月に完成した。日本陸軍では20mm機関砲の開発が遅れたために、武装は12.7mm機関砲ホ103を採用した。しかしホ103とて制式採用は1941年であり、この時期のホ103の信頼性には懸念が持たれており、採用は機首の2門にとどめ、主翼の2門は7.7mm八九式固定機関銃を装備している。燃料タンクは被弾に対して若干の防弾能力が付与されている。308機目までは3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで防漏しており、388機目までは上面9mm、側面6mm厚のゴムで覆われた。。量産機は1942年末までに34機、エンジンは65台が完成した。試作時、三式戦闘機は最高速度・上昇力・旋回性の全ての比較領域においてBf109-Eを凌駕した。特に最高速度は30km/h優速であった。1942年秋頃、福生で「戦闘機研究会」という名称の比較試験が行われた。内容は日本陸軍戦闘機および月光、雷電などの日本海軍戦闘機と、P-40E、ハリケーン、Bf-109Eなど諸外国機を集めて性能比較を行うものであった。キ61は速度の優勢のほか旋回半径の小ささで外国機に比べて勝り、格闘戦では有利と考え得るものであった。海軍側は三式戦闘機に関し、座席よし、舵やや重きも釣り合いよし、安定性よし、前方視界悪し、上昇悪し、急降下時は舵が非常に重いが座り・出足ともによし、と評価している。三式戦闘機の操縦性には特筆すべき癖や問題はなかった。補助翼・昇降舵の操作にはロッド式が採用され、方向舵には操縦索(ワイヤー)式が採用されている。1942年12月21日の「戦闘機研究会」、または秋に福生の陸軍航空審査部で行われた陸海軍試作機の互乗研究会では、本機に試乗した海軍パイロットの一人が操舵系統の良好さに驚き、こんなに良くできた舵を持った飛行機に乗ったのは初めてだと、陸軍にその秘密を質問した。陸軍側はそれに答えられなかったが、同席していた土井の答えは、液冷戦闘機独特の縦に細長い長方形状の胴体形状が一番大きく影響しているのでは、というものであった。本機の降下制限速度は850km/hと、非常に頑丈な機体である。軽量化を強く追求した零戦52型以前の機体は降下制限速度が670km/hであり、零戦52型甲でも740km/hである。三式戦闘機は離昇出力1175馬力のハ40を搭載する戦闘機であり、1型甲の全備重量は3,170kgである。同質のエンジンを搭載するBf109Eを上昇力で凌駕すると説明する資料があるものの、"大塚(2007)"の文献中の表では、三式戦闘機は全備重量3,170kgで6,000mまでの上昇時間が8分30秒、Bf109E-7は2,540kgで7分30秒、Bf109Fは2,780kgで6分30秒となっている。出力不足は特に上昇力の不足となって性能に現れた。特に燃料満載状態では護衛するはずの爆撃機に劣る上昇力しか持たなかった。また上昇力の不足は、前述の「戦闘機研究会」で海軍側の指摘にも表れている。米軍戦闘機との戦いも必ずしも有利なものではなかった。ウエワクの第14飛行団のパイロットの証言によれば、P-40とは互角またはそれ以上に戦えた。しかしP-38と対戦した場合、速度はP-38が有利で機動性は三式戦闘機が有利とであり、空戦性能で互角だが、火力面で不利があった。さらにP-38相手には劣速であり、格闘戦に持ち込めば勝てるにせよ、アメリカ軍機の一撃離脱戦法は格闘戦そのものを発生させず持ち込みようがなかった。したがって三式戦が勝つ手段は奇襲以外に打つ手が無い状況であり、多少弾を当ててもアメリカ軍機は防弾性能が高く落とせない、また搭載する無線機が使い物にならず隊内での連携に円滑を欠いて大きなハンディがあると、相当な苦戦をみていた。また米軍の捕虜となった飛行第77戦隊のパイロットが語ったところによれば(尋問記録第600号)、単独空戦であれば(P-38の)すきを突くこともできるが編隊空戦では全く勝ち目がないと感じていたと言う(これは一式戦闘機も含めた話)。陸士第55期、後年の統合幕僚会議議長となった竹田五郎大尉は飛行第244戦隊で三式戦に搭乗した。彼は本機の欠点を「離陸の時に前が見えない事と上昇速度が遅い事」と指摘した。当初アメリカ軍は、本機がBf109である可能性を推測したが、Bf109のラジエーターは主翼に設置されており形状が異なるために、何の根拠もなく日本の同盟国であったイタリアのマッキ202のコピーと判断していた。このため、三式戦闘機にはイタリア系移民に多い「Tony」というコードネームがつけられた。その後の調査で日本のオリジナル機とわかり、1943年11月の「航空機識別帳」に修正して記載された。アメリカ軍のパイロットには、三式戦闘機とは戦いやすかったとし、あるいは対決を好んだ。火力と降下性能は従来の日本機より優秀だが、上昇性能・速度性能共に優れてはおらず、旋回性もP-40に対して互角であり、総じてP-40Nと互角と判断していた。またP-38から見れば、三式戦闘機は他の日本戦闘機に比べて多少優速だが、P-38の最高速度に及ぶものではなく、さらに格闘戦も他の日本機より苦手であるために対戦しやすかった。そして特に高度6000m以上ではP-38の方がずっと高速だった。なおP-38は常に4機または2機編隊を崩さずに戦闘を行うことを旨としており、また12.7mm機関砲4門に20mm機関砲1門と言う強力な武装を備えていたことから、日本陸軍の主力である一式戦闘機「隼」相手には、その貧弱な武装(12.7mm機関砲2門)から、そして日本軍機の機動力を無視して雌雄を決せられる、真正面から向き合い攻撃しあう対進攻撃を好んで用いていたが、三式戦闘機は一式戦闘機に比べて格段に強力な武装を持っており、さらに液冷戦闘機特有の比較的小さな前方投影面積もあり、この戦法の有効性は損なわれていた。ただし三式戦闘機は、敵機が他の日本機、例とすれば零式艦上戦闘機や一式戦闘機に対して取った戦術同様、降下で離脱しようとした時、特に比較的低高度では、これに食い付くことができた。なお、1944年のフィリピン戦で三式戦闘機を相手としたF6Fのパイロットも、他の日本機より戦いやすかったとしているようだ。ニューギニアで三式戦闘機と戦ったアメリカの第35戦闘飛行隊、P-40Nのパイロットらも、P-40Nに勝る機体ではない、運動性の高い一式戦闘機の方が怖い、火力と降下速度は従来の日本機より上だが上昇性能と運動性能は劣っており加速性能も良くない、などと証言したという。だが前線のパイロットからの評価と対照的に、アメリカ軍が1943年に鹵獲機体を用いた評価・試験の結果「陸海軍合同識別帳」がまとめられ、この資料の中では三式戦闘機を"「重武装と良好な防弾性能を備えた素晴らしい機体」"と高評価している。また日本本土での迎撃戦において最も活動したのはTonyであったと評している。なお1945年のレポートでは、ハ140を搭載した三式戦闘機二型 - TonyIIについて、高度8,500mで最大速度680km/hなどと過大な表記がみられている。なおこの識別帳では1943年11月版では、最高速度584km/h、武装を12.7mm機関銃2門、7.7mm機関銃2門と、日本側の数値の矛盾しないデータが示されている。また1944年8月版では武装を20mm機関砲2門、12.7mm機関銃2門とし同時に最高速度を573km/hにと減じて収録されている。一方で米海軍航空情報部の評価は辛辣で"「米軍戦闘機と比べ、FM-2より水平速度で優る以外は殆どの面で劣っている。特にP-51に比べると大きく劣る。」"とされている。三式戦闘機は日本ではまだ技術の成熟していない液冷エンジン、それも比較的先進的なものを採用したため、その生産不備や故障、整備の困難性についての指摘が多くなされている。"渡辺(2002年)"などでは三式戦闘機を大歓迎した部隊は一つも無いとまでされており、同じく渡辺 (2010年) によれば、エンジントラブルは前線部隊の三式戦闘機の代名詞であるとまで言われている。このため前線では多少性能が劣っても確実に飛ぶ一式戦闘機や二式戦闘機を装備し、運用することを望む声もあった。新機材の初期不良は多くの場合に存在する。また当時の滑油、機械油は低温での粘性が高く、滑油冷却器まわりでは必要なところにオイルが供給されないという問題が発生したが、これは冷却器の能力を抑えることで解決した。初の実戦部隊である第14飛行団でも燃料噴射装置の圧力調整弁、過給器の故障、冷却器や滑油の漏れなどトラブルが続出した。特に油圧系統と燃料噴射ポンプには故障が続出していた。"和泉 (1994年)"では流体継手の調整不良による出力低下、燃料噴射ポンプの故障、冷却器等からの油漏れが主な故障とされ、さらに燃料噴射装置の調整に対する整備兵の教育不足などが挙げられている。流体継手によるスーパーチャージャーの無段階変速がDB601の特徴であるが、これの調整が適切でないと、全くパワーが出ない。これを地上で調整するには、機体を杭で固定し、オーバーヒートに留意しつつ、ホースでラジエータに水をかけて冷却しながら整備作業を行った。また本来DB 601では、クランク軸をはじめとした重要な部品はニッケル入りのクロムモリブデン鋼で作られていた。しかし、陸軍はハ40エンジン生産にあたり川崎にニッケル不使用を指示した。当時、冶金学の遅れていた日本では、ニッケルを加えないクロムモリムデン鋼は表面に微細なヒビが入り、品質は悪化、クランク軸折損事故を起こした。"鈴木 (2012年)"によれば、当初は表面硬化のために高周波焼き入れが行われていたがこれは硬度不足で100時間以内に表面が剥離してしまうため滲炭処理に変更されたが、これの不良のため表面が剥離する事例が多かったとみられ、またクランク軸の真円度自体も、トラブルを回避するためには1000分の3mm程度の精度が要求されるが、これについても基準に至っていなかったのではないかとしている。ハ140への生産転換を迎える頃に至ってもハ40の気筒部分の生産歩留まりは50%程度であり、クランク軸の生産もはかどらなかった。さらに歴史群像編集部 (2010)によれば、このハ40は一般的な1000馬力級の空冷エンジンに比べて、生産に3倍の工程数を要したとする。またクランク軸のコンロッド接続部のローラーベアリング(ころ軸受け)はローラーが14mm程度の径のものを3列にして用いていたが(複列円筒ころ軸受)、それに用いられた72個のローラーもドイツ製のものと比べて相当に精度が低く、クランク軸の破損に繋がった。当時の日本の基礎工業力は、ボールベアリングのボールの精度でも表面の凹凸がヨーロッパのSKF社製のものは0.001mm以内に収まっていたものが日本製のものは0.012 - 0.015mmと桁違いに悪く、(ハ40ではないが)愛知のアツタでは、ローラーについては真円度0.002 - 0.003mmのものを選別して利用していた。同様の選別が川崎でも行われていたと仮定しても、勤労動員の多かった当時の労働者の質を考慮すると、適切な選別が行われたかには疑問が残る。1998年に現存していたハ40の部品を測定してみたところ、ベアリングケージなど他の箇所については精度は悪くなかったものの、やはりローラーの真円度はよくなく、10 - 22マイクロメートルであった言う。また"鈴木 (2012年)"は、生産上の主要なネックはこのクランク軸ピンの表面剥離であるとし、ローラーの形状自体にも(ベアリングのローラーは単純な円筒形をとってはいない)技術的蓄積が足りなかったのであろうと指摘する。ローラーの形状の不均一性については、愛知のアツタでも問題となっていたようだ。なお、"鈴木(2012年)"では、ベンツ製と川崎製クランク軸の断面顕微鏡写真が比較掲載されている。ベンツ製のクランク軸の結晶構造は均質なマルテンサイトとなっているが、ハ40は滲炭部の組織が完全なマルテンサイトではなく、焼きが入りきらずにトルースタイトが析出している。また滲炭深さにも問題があり、クランクとベアリングが局所的に噛み合うため、硬化の深度は1.5mm以上が必要であるが、データでは1mm程度の深さから硬度が大きく落ちている。また、川崎がこれまで製作していた水冷エンジンと比べ、技術的飛躍が大きかった点も無視できないとする。"碇(2006)"によれば基礎工業力の不足は、全ての部品の質に非常な悪影響を及ぼした。例えば鹵獲した外国機などはエンジンの油漏れを起こすことは滅多になく、しかし日本機は油漏れなどの故障が常態化していた。なお、陸軍へ引き渡す前の川崎での試験飛行では軽量状態であるためそれほど悪いものではなく、引き渡し後武装をはじめとする艤装で重量が増加したことがエンジンに負担をかけトラブルの多発の原因の一つになったようで、ある時期からは艤装に相当するバラストを積載した状態で試験飛行を行っていた。また1944年の晩秋頃にはバラストではなく、実際の艤装をほどこした「全装備」状態でテストを行うことが常態化していた。なお陸軍側の受領テストでは担当であった佐々木康軍曹(最終階級)は200機ほどの受領時テストを担当したが、至極快調と言い得るものは一割にも満たなかったと回想している。その他材料、工作、点火プラグなどの部品はもとより、当時の日本は電線までもビニール被覆などではなく、糸や紙を巻いて絶縁したもので湿気に弱く、またよく漏電した。さらに戦争後期には熟練工が減少し、動員学徒や女子挺身隊が採用されて生産作業に当たった。このような質的な労働力の低下と無理な増産も部品の劣質化につながった。整備に関し、手鏡を芸術的に扱わねば点検できない箇所などもあり、1943年の暮れには航空審査部飛行実験部長今川一策大佐は、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を進言した。ラバウルまで三式戦闘機を空輸した飛行第78戦隊(後述)は1943年5月18日「キ61の実用状況」で18項目にわたり各種の故障を報告しているが、その内訳は4月13日から5月10日までに冷却器修理61回、G型冷却器修理98回、E型冷却器修理43回である。特にオイルクーラーの油漏れがひどく、40分から50分の空戦で空になる、などといった記述が見られ、作動油800リットルを使い尽くしたともされる。第78戦隊と68戦隊はその後ニューギニアに進出するが、発動機の不調は続いた。現地の第4航空軍が1943年10月に中央に提出した意見報告書では、三式戦闘機の稼働率の低さを嘆き、空冷エンジンを装備する二式単座戦闘機鍾馗の配備を求めるほどだった。飛行第56戦隊では訓練時に事故が続発したことから「殺人機」と呼ばれた。1944年10月からのフィリピン決戦では多くの航空機が空輸されたが、九州・沖縄・台湾と飛行した一式戦闘機の落伍率が4%であったのに対して、三式戦闘機は13%にのぼった。空冷エンジンの不調の例としては誉 (エンジン) を搭載した最新鋭機・四式戦闘機の脱落率が20%である。この時期にはハ40の生産と整備の技術が進歩しており、正規の潤滑油でなくヒマシ油で稼働させる様なこともできたらしい。油漏れは多いが、確実な整備をすれば十分に扱えるとの証言もあり、特に故障が多い印象はないとするパイロットもいる。また、1944年7月頃のデータによれば、十分な整備環境があれば70%程度の稼働率が維持されていた。この時点での二式単座戦闘機および四式戦闘機の稼働率は6割から9割とされている。しかし帝都・東京防空を任務とする飛行第244戦隊の戦隊長であった小林照彦少佐は、故障の多いエンジンではあるものの、内地での戦闘であったため、修理もエンジンの交換も容易であったと回想している。しかしそれでも、1945年1月3日の迎撃戦では、当日一回目の出撃こそ40機全機が行えたものの、二回目には25 - 26機、三回目にはたった3機しか出撃できなかった。なおこの日の飛燕の損害は8機にすぎず、すなわち残りは全て故障という情けなさであった。同じく第244戦隊第1中隊長生野文介大尉は、第244戦隊は整備員も慣れているし部品もどんどん供給されるため十分に性能を発揮できたとする。また同様に第244戦隊に所属していた前述の竹田五郎大尉も、「オイル漏れとか、故障が多いとか評判は悪かったが自分の乗機についての不都合は感じなかった」と証言している。ただし同じく調布に展開する第18戦隊では1944年春頃には、50機中可動機は5機と言った日もあった、との証言もある。一方、航空審査部実行試験部(以下、航空審査部)でも1944年、粗製化の傾向はあるものの十分な整備を行えば動作に支障はなく、問題は整備力の低さであると判断している。だが、本土もしくは審査部ではある程度の整備が行えたものの、最前線や実戦部隊での整備・運用は過酷な作業であった。さらに撤退の際、時間をかけて液冷エンジンに習熟した整備兵を最前線に残置したことも、稼働率を下げた要因の一つである。さらに日本の整備マニュアルは欧米のものに比較して難解で、当時必ずしも学力が高いとは言えなかった、また自動車などにも馴染みのなかった一般的な新任整備兵にとって少々荷が重かったとの指摘もある。また本機は日本陸軍では一式戦闘機、四式戦闘機、九七式戦闘機に次ぐ3000機以上が生産されたのであるが、軍事評論家の中には発動機に以上のような大きな問題を抱えつつもそれをこれだけの機数生産し続けねばならなかったところに当時の日本陸軍航空の苦悩が見て取れると評するものもいる。1944年には油漏れに対する生産工程レベルでの抜本的改造が講じられた。この処置で一時的に生産量が落ちており、エンジン無しの機体が工場に並ぶことが多くなった。これについては#二型(キ61-II改)で後述する。1942年春から開発されたハ40改良型のハ140は、吸気圧をあげてエンジン回転数を2,500rpmから2,750rpmに高め、離昇出力を1,175馬力から1,500馬力に高めるものだった。過給器の大型化とその冷却のために水メタノールが導入された。三式戦闘機の場合は95リットルの水メタノールを搭載予定であった。80kg程度の重量増加のほか基本構造はハ40と大差はなかった。航空審査部では、ハ40と比較してさして整備困難と見ておらず、1944年7月の航空審査部による報告ではハ40より信頼性があるとされている。また航空審査部の2名の士官および下士官も少々の問題は有ったが整備しにくいと言うほどでもなく、大体もしくは十分に動いたと回想している。ただし川崎が航空審査部に精度良好な個体を回すのは当然であるし、ハ40の審査に加わった人物が目を光らせている状態であるのであるから、航空審査部で良く回るのはむしろ当然であろうとの見方もある。なお歴史群像編集部 (2010) では、量産性はハ40より更に悪化し、通常の1000馬力級空冷エンジンの5倍の工程数が必要だったという。この生産性の悪さが「首無し機体」の一因になったのではないかとしている。実際の所は、好調なものは良く回ったのであるが、やはり従来よりのベアリングの焼き付き、マグネットギアの摩耗、点火栓側極の溶解、冷却水ポンプの不良、排気弁焼損などトラブルは多発、開発は行き詰まりを見せていた。弁の焼損は、隣接するシリンダー同士の熱膨張や歪みの干渉により弁座が歪み、特に排気弁を損傷させたものだという。ハ140は三式戦闘機二型に搭載される予定であったが、エンジンの完成台数は低調であった。このため二型の多くはのちに空冷エンジンを積んで五式戦闘機に改造されることとなった。ちなみにドイツでは、DB601は改良を重ね、DB603では離昇出力2000馬力を突破、1945年にはやはり水メタノール噴射を併用して2850馬力を出している。なお日本陸軍は1944年以降、燃料不足のため、代用燃料として松根油などから抽出したアルコールをガソリンに混合するか単体で利用し軍用機を飛ばそうとしていた。通常の星型空冷エンジンにはあまりよいものではなかったが、航空審査部でのテストによれば、ハ140を搭載した三式戦闘機二型は、これを用いることでむしろ通常のガソリンよりも高い性能を示したという。愛知で作られていたアツタもDB601を基とするエンジンである。これはハ40と異なる独自の発展を遂げ、離昇出力1,400馬力を発揮するアツタ32型が開発されていた。両社が独自に原型を発展させたために互換性は全くないが、1943年11月に軍需省が設立されるとこの発動機にも統一の目が向けられた。なお品質的には川崎のハ40系より愛知のアツタ系の方が良好であったとされる。エンジン統一にあたり、プロペラ取り付け位置や排気管の位置、重心の位置など問題点が列挙され、標準型エンジンは基本をアツタ32型とし、プロペラ軸や過給器をハ140に合わせ、水メタノール噴射装置を加えたものとなった。液冷エンジンに不可欠なラジエーターは幅約800mm、高さ約480mm、アンドレー式のものである。このラジエーターは胴体下部中央、すなわちパイロットのやや後方あたりに半埋め込み式として配置された。機体から外には250mmが露出している。キ60では上下式としたがこれは重量が嵩むため、三式戦闘機では固定式に改められた。ラジエーターは前方から見て、エンジン冷却水冷却部、潤滑油冷却部、エンジン冷却水冷却部と3つに分かれている。使用された冷却液は化学物質を混合しない通常の淡水であり、冷却するに際して約3.8kg/cmに液を加圧し、沸点を125度として使用した。土井は戦後、同じ箇所にラジエーターを配したP-51を見た時、その気流の処理の見事さに、さすがにアメリカの方が進んでいるとの感想を抱いた。また同時に、このアメリカ軍最優秀機と三式戦闘機のラジエーター処理がほぼ同様であったことは感無量であったともしているが、実際類似しているのは設置した場所だけで、構造や形状などは全く異なっている。なお、三式戦闘機における全空気抵抗の内、ラジエーターのそれは14%を占めていた。飛行第78戦隊ではラジエーターの修理を多く報告しており、中でも油漏れが大きな問題とされた。まず前述のとおり水冷却器と油冷却器が一体構成であり、これを機外に降ろす作業が容易ではなかった。またオイルタンクはパイロットの足下にあり、これは寒冷地やそれなりの高々度では良い暖房になったが、南方の低高度ではコクピット内が相当に暑くなったようである。またこの水油同居形式のラジエーターは、空気取り入れシャッターで各冷却機構の能力を調整するものであったが、調整が難しく、油温の上昇、水漏れなどの不具合が続出した。。なお、水冷方式である本機は地上待機状態であまりエンジンを回すと、すぐに水温が上がり冷却水が沸騰、圧力逃がし弁が開き、蒸気が排出される。これは「お湯を沸かした」などと言われた。またこの状態はオーバーヒートを起こしている状態であり、離陸は困難である。また飛行中に蒸気を通り越して冷却水そのものまで吹き出すようなトラブルも見られた。三式戦闘機の実戦配備は、当初から大きなつまずきを見せた。本来海軍の担当戦域であったニューギニア・ソロモン方面の戦況が悪化し、1942年11月には陸軍航空隊の内、戦闘機2個戦隊(おおよそ39機+予備機若干 × 2)、重爆撃機1個戦隊、軽爆撃機2個戦隊、司偵独立1個中隊の投入が決定された。12月中旬、ラバウルに一式戦闘機を装備した第12飛行団の2個戦闘機戦隊(第1戦隊、第11戦隊)が進出したが、B-17や敵戦闘機との戦闘で戦力が消耗したため、代わりに新鋭のキ61を装備した第14飛行団、第68戦隊と第78戦隊の投入が決定された。第14飛行団は1942年3月に編成され、97式戦闘機を装備して満州で訓練を行っていたが、南方進出にあたり、キ61への機種更新を命じられた。当時キ61の生産が始ったばかりで機数が揃わないため、先に68戦隊から機種更新を始めることとなり、1943年の年明けから明野飛行学校において本格的な機種更新を開始した。しかし、この時点でキ61は、いまだに初期不良を洗い出して切れておらず、川崎側で不具合を逐次改良中という段階だった上、整備兵もその大半が液冷エンジンを扱った経験がなかったこともあり、短時間でハ40の整備をものするのは困難であった。そのため、エンジンの燃料ポンプの故障、冷却水漏れ、ベイバーロックなど機材の故障が頻発し、修理してはまた新たに故障するといった具合で未修飛行(新機材の操作に慣れるための訓練)ははかどらなかった。出撃時期は68戦隊は3月末、78戦隊は6月と決まり、各員の非常な努力によって戦力化は急がれたが、68戦隊の出撃が迫った3月に入っても未修飛行をこなすのが精一杯で、とても戦闘訓練に移行できる状態ではなく、到底不安を払拭するには至らなかったため、68戦隊長下山登(みのる)中佐は陸軍航空本部の河辺虎四郎少将に対し、3ヵ月ほどの進出延期を願い出たものの、取り付くしまもない状態であった。それでも諦め切れなかった下山戦隊長は、航空本部の担当課長に面会を求め、「こんな飛行機を持っていけと言うのなら、辞任したいぐらいだ。」と迫ったが、「そんなことをいうのは日本軍人ではない。これは命令だ。軍人精神が足りないから、動かないのだ。」などと理不尽な言葉を浴びせられた。結局、3月末の段階での68戦隊の訓練の進捗状況は、操縦者全員の未修飛行こそ何とか終えたものの、戦闘訓練は1~2回形だけ行った程度、夜間飛行訓練はおろか、長距離飛行訓練や射撃訓練すらまったく行っていないというひどいものだった。このような経緯を経て、68戦隊には進出予定の3月末までに予備機含め45機ほどのキ61が集められ、空母大鷹に積載のうえ4月10日にはトラック諸島に到着した。ここから空路でラバウルへ向かう事となったが、トラックにおける訓練中にもいくつかの事故が発生して殉職者がでる有様で、キ61への不信感は募っていった。さらに問題となったのが、キ61の航続力であった。落下タンクが不足していたため、戦隊長、中隊長、中隊付先任将校の機には2本付けたものの、大半の機には1本しか装着できなかった。落下タンク1本装備の状態で、カタログデータ上は約2,000㎞飛行できることにはなっていたが、実戦部隊の機、しかも編隊を組むための空中待機の時間などを考慮すると正味1,500~1,600㎞程度、トラックからラバウル間の約1,300kmの距離と比較して余裕があるとは言い難い燃料状況であった。そうした中、4月24日、いよいよラバウルに進出することとなったが、集団で離陸する訓練をしていなかったため、全機が離陸して集合を終えるまで1時間もかかった上、しばらく飛行したところで下山戦隊長機に不具合が発生したことから、進出を断念した。加えて引き返したあたりで、大木正一曹長機がエンジン不調により不時着水し、トラックから300キロ近く離れた地点だったため、曹長はそのまま行方不明となり、初の戦没者を出す事態となった。4月27日、27機が再度ラバウルへ向けて発進した。3日前の反省から、戦隊本部と第1中隊の12機が先行し、約1時間後に第2中隊と第3中隊の15機が後続する形をとった。先発隊の編成は、以下のようになっていた。戦隊本部(4機)第1中隊(8機)しかし、この先発隊の12機が大きな悲劇に巻き込まれてしまう。"渡辺(2006)"の文献によると、先発隊は以下のような経過をたどった。まず、先発隊を先導するはずだった百式司令部偵察機がエンジン故障のため発進できなかったことから、陸軍飛行隊単独で不慣れな洋上計器飛行を行うことを余儀なくされた。飛び始めてまもなく、浅野大尉、中川中尉らは、3日前と景色が異なっていることから異変に気づき、コンパスを見るとほぼ真南である175度の進路を取るところを、145度の進路を取っていた。しかし搭載されていた無線機は不調で、相互の連絡も取れない状況であったことから、戦隊長に誤りを報せることができなかった。そのまま20分ほど飛行を続けたところで、西川曹長機がエンジン故障のためトラックに引き返し、浅野大尉機がこれに同行した(この両名がどうなったのかについての記述はないが、後の戦闘で名前を確認できることから、無事にトラックに帰着したと推定される)。飛行を続けるうちに、下山戦隊長自身も針路に疑問を感じ始めたが、無線が通じないため他機に確認のしようがなく、目標のない洋上飛行で勘を信じるのは危険との判断から、しばらくコンパスにしたがって飛ぶこととした。トラックを離陸して2時間ほどたったところで、正しいコースから東に300kmもずれたグリーニッチ島が見えてきたことから、下山戦隊長機のコンパスが狂っていることは明白となった。ちょうどその頃、小川中尉機と吉田軍曹機が立て続けにエンジン不調となり、両名とも自爆した。出発後3時間半を経たあたりで、下山戦隊長も進路の間違いを確信し、修正を試みたものの、正しく修正できなかったため、たまりかねた中川中尉機が先導してようやく正しい方角に修正したが、既に時機を逸していた。ラバウル北東約250キロメートルにあるヌグリア諸島にさしかかったあたりで、落下タンクが1本の機は燃料が乏しくなっており、それを察した下山戦隊長は、部下が不時着を躊躇しないように自ら同諸島に不時着し、山崎曹長機がこれに続いた。稲見軍曹機はその先のタンガ諸島付近に不時着水し、軍曹は原住民に救助された。残った5機はなおもラバウルを目指したが、池田曹長機はラバウル湾、白山曹長、黒岩曹長、寺脇伍長の機はニューブリテン島内に不時着し、結局先発隊12機のうち、無事にラバウルに辿り着いたのは中川中尉機だけであった。なお、後発隊はこれより先にラバウルに到着していたが、おそらく故障のため途中で1機を失った。進出作戦の結果は、到着した機体が27機中15機、失った搭乗員3名、喪失機材は10機という惨憺たる結果に終わった。この後、トラック島から6機が追加空輸された。なお第14飛行団司令部はまだ到着していないため、暫定的に第12飛行団の指揮下となった。初陣は1943年5月15日、18機で九七式重爆撃機の護衛を行った。戦隊の使用可能機数は5月末時点で18機、その後もトラックからの空輸により補充が行われた。68戦隊に続き、前線に投入された78戦隊は、1943年4月10日より明野飛行学校で本格的な機種変更を開始したが、やはり初期の故障に悩まされ錬成は遅れた。ラバウルへの進出については6月16日から実施された。第68戦隊の航空事故の失敗を繰り返さないため、長距離洋上飛行ではなく、宮崎県から沖縄、台湾、マニラ、ダバオ、メナド、バボ、ホーランジア、ウェワク、ラバウルの行程で、島伝いの進出が計画された。進出した機数は45機、全行程は約9,000kmである。整備班を載せた輸送機が同行したが故障機が続出した。6月29日にラバウルに到着したのはわずか7機に過ぎなかった。その後、落伍機の復帰で7月5日までには合計33機がラバウルに進出したが、12機は途中の飛行場に残置せざるを得なかった。こうして第14飛行団はラバウルへの進出を完了した。"渡辺(2006)"によれば、1943年6月、キ61は「三式戦闘機」の制式呼称を与えられている。7月8日には実戦を開始した。現地の作戦領域の分担としては、海軍がソロモン諸島方面を、陸軍がニューギニア方面を担当した。なおこの方面には三式戦闘機2個戦隊の他に、一式戦闘機8個戦隊が配備されていた。当初は爆撃機の護衛などを行ったが、やはり稼働率は低く、搭乗員は故障知らずの海軍の零式艦上戦闘機をうらやんだとされる。第14飛行団は内地へ引き返す第12飛行団と入れ替わり、7月15日には東部ニューギニアのウエワクへ転進した。ここで本格的な作戦が開始される。7月17日時点で、68戦隊が13機、78戦隊が22機、合計35機の可動機が在った。8月10日には新編された第4航空軍の第7飛行師団隷下となった。なおイギリスの文献『週刊Aircarft』によれば、本機はP-40相手には優勢に戦い、連合軍は一時的に制空権を失い、ヨーロッパに配備予定であったP-38をこの戦線に回すよう、ヘンリー・アーノルドに直訴が行われたという。なお1943年半ばには日本陸軍航空隊も前線でロッテ戦術を採用しているが、無線電話の性能が悪いためにアメリカ軍機のような連携はとれなかった。"古峰(2007)"によればこの頃、1943年10月9日、キ61は制式制定され「三式戦闘機」となる。事実上の制定である仮制式制定時期は不詳であるが、"渡辺(2006)"では制式呼称の通達を1943年6月としているのは前述の通りである。第14飛行団は主にP-38を敵として対戦したが、1943年8月17日には連合軍のB-25 32機、P-38 85機の戦爆連合による奇襲的な空襲を受けた。この結果、第4航空軍の保有する130機の戦力は40機へ低下した。14飛行団も68戦隊が可動機6機、68戦隊は可動機0機と、壊滅的な損害を受けた。その後もマニラで新機材を受領し、空輸を行って戦力の補充に努めた。敵はP-40、P-38および新鋭P-47、B-24爆撃機、B-25爆撃機であり、戦隊は激しい戦闘に従事した。新鋭のP-47はP-38ほど一撃離脱に徹しなかったため、むしろ戦いやすかったともされるが、性能自体は高く、一撃離脱に徹されると脅威であったとの証言もある。1943年12月にはドイツから輸入した20mmマウザー砲を翼内に装備した三式戦闘機が到着し、火力面では格段の向上が見られた。しかしこの時期には戦隊の人員・機材とも消耗しており、三式戦闘機の代替として旧式の一式戦闘機を受領、また多くの期間両戦隊を合わせて可動機が20機を越えることが滅多に無い状況であった。さらにアメーバ赤痢やマラリアが蔓延しており、例え機体が補充されたとしても兵員の質の面で戦力の発揮には大きな問題があった。1944年2月にはウエワクの維持が不可能となりホランジアへ後退、3月には敵空襲により第14飛行団の可動機は合計5機にまで減少した。4月22日にはホランジアに米軍が上陸を開始し、7月25日には第14飛行団は解散した。三式戦闘機のニューギニアでの過酷な戦いは約1年間で幕を閉じた。ニューギニアを制圧した米軍の次の目標はフィリピンであった。一説にはこの頃になると、三式戦闘機は対戦闘機戦闘に不向きと見なされる様になり、敵爆撃機の迎撃任務に回され、制空戦闘については新型の四式戦闘機の方に期待がかけられはじめた。1944年2月には第22飛行団として愛知県小牧で第17戦隊、明野で第19戦隊が編成された。第17戦隊長は開発時より三式戦闘機に携わってきた荒蒔義次少佐である。飛行団は5月内にマニラに進出し、南方軍直轄の第2飛行師団に編入された。ただし7月5日には、第4航空軍隷下に移動している。機材の受領と錬成が順調に進まないものの、6月下旬までには35機を揃えてマニラへの進出を完了した。8月末の時点で可動機は第17戦隊が14機、第19戦隊が18機であった。なお、第4航空軍第7錬成飛行隊の10機程度も戦力として使用が可能で、三式戦闘機の他には第4航空軍全体で318機、海軍は第一航空艦隊241機の航空機を用意している。1944年9月21日、第17戦隊(機数不明)と第19戦隊(20機)、大塚の文献によれば合計約40機がアメリカ第38任務部隊の新鋭艦上戦闘機であるF6Fと交戦した。圧倒的多数の敵機との空戦により約25機から少なくとも22機が失われ、第17戦隊はパイロット12名を失う大損害を受けた。第19戦隊も6名、第7錬成飛行隊も2名を失った。米軍側の損害は対空砲火によるもの以外皆無もしくは僅少であった。翌22日も7機で迎撃を行ったが、さらに2名の戦死者を出し機体3機を失うも、戦果を得なかった。なお10月10日には台湾に対し第38任務部隊による空襲が行われ、ここに駐屯していた飛行第8師団隷下独立飛行第23中隊の、一式戦闘機2機を含む16機または17機(パイロット15名)が爆装で出撃し、薄暮攻撃で敵艦隊への反撃を企図した。また三式戦闘機の可動機10機による全力攻撃が行われようとしたが、離陸直後を20機のF6Fに襲われ、5機撃墜、3機不時着大破、1機炎上と、壊滅的な損害を受けた。ただし田形の文献ではこの戦いは制空戦闘であり、敵機は240機が投入されていた。戦闘高度は3,500mとされ、戦闘状況は離陸直後ではない。やはり中隊は全滅するも、敵機10数機を撃墜・撃破したとする。台湾にはこのほか一式戦闘機8機、三式戦闘機7機の集成防空第一隊があり、10月12日に行われた飛行第8師団(主力54機、その他27機)による総反撃にも加わっている。その内、操縦歴8年のベテランパイロット田形竹雄准尉は初陣の僚機と2機で敵機36機を迎撃し、有利な体勢から攻撃を開始した。僚機は真戸原忠志軍曹が搭乗しており、22歳の彼は初陣であっても操縦歴4年、飛行時間1,500時間を数えるパイロットだった。また彼は田形の僚機を1年半務めており、田形によれば相当な実力をもっていた。何度かの一撃離脱のあと乱戦に移行し、20数分の戦闘を経て力尽き僚機共に撃墜されるも、両者共不時着に成功し生還した。戦果は撃墜6、撃破5を報告した。なお、田形はその手記で、三式戦闘機がF6Fに比べ40km/h優速であった(p.59)ことを敢闘できた要因のひとつとしている。これは三式戦闘機がF6Fに勝利を収めた希有な例である。フィリピン方面では10月10日までに、第17戦隊の可動機は22機に、第19戦隊は25機にまで回復していた。飛行団は戦闘を続け、10月18日に捷一号作戦が発令、20日には敵はレイテ島に上陸した。敵艦船への攻撃に参加した結果、10月22日までに飛行団の可動機は完全に尽きた。24日には苦心して2機から3機の可動機を揃えたが、この段階で既に戦闘の大勢は決していた。11月1日には、第19戦隊の生き残りである10名程度のパイロットに本土帰還が命じられた。しかし荒蒔戦隊長らを含む第17戦隊は戦闘を続行した。11月頃には第2飛行師団全体で40機程度の戦闘機しか保有しないという過酷な戦況の中で戦闘を続け、内地帰還命令が出たのは12月8日である。荒蒔戦

出典:wikipedia

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