ファシズム(結束主義、 )とは、イタリアのベニート・ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱した思想や政治運動、および1922年から1943年までの政権時に行った実践や体制の総称である。広義にはドイツのナチズムなど他国の類似の思想・運動・体制も含めて「ファシズム」と呼ばれる場合も多いが、その範囲は多数の議論がある(詳細は用語、定義等を参照)。「ファシズム」()の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)で、更に「ファッショ」の語源はラテン語の「ファスケス」(fasces、束桿)である。ファスケスは斧の回りにロッド(短杖)を束ねたもので、古代ローマの執政官の権威の象徴とされた。ファスケスは彼のリクトルによって運ばれ、彼の命令で体罰や死刑にも使われた。ファスケスの象徴的意味は「統一による力」で、1本のロッドは簡単に壊れるが、束になると容易に壊せないことに由来する。類似の象徴の例にはスペインのファランヘ党の党旗があり、束にした矢が2頭の牛にかけるくびきと結合されている。イタリアのムッソリーニは、1919年3月に「イタリア戦闘者ファッシ」、1921年には「国家ファシスト党」を結成した。また1919年7月にファシスト・マニフェストが出版された。これらの時期以降は、「ファシズム」とは主にこれらの思想や運動を指して呼ばれるようになった。なお19世紀のイタリアのギルドやシンジケートに似た政治的な組織の「ファッシ」が登場し、その関連も指摘されている。「ファシズム」という用語は、単なる全体主義や軍国主義の意味で使われたり、特に社会主義の立場からの政治的なレッテル貼りにも多く使われた。たとえばドイツのナチスは「国家社会主義」を自称し、「ファシスト」「ファシズム」とは自称しなかった。しかし敵対する共産主義勢力のトロツキーやコミンテルンなどが、イタリアのファシズムを「イタリア・ファシズム」、ドイツのナチズムを「ドイツ・ファシズム」と呼び、更にスペインのフランコ政権なども対象として「反ファシズムの人民戦線」を組織した。このコミンテルンの用法に加えて、主として社会主義国や社会主義者の立場から、日独伊三国軍事同盟に参加した戦前の日本や、各国の軍事独裁政権なども「ファシズム(勢力、陣営)」などと呼ばれる事もある。中国共産党は2014年現在でも日本との戦争(日中戦争)に対して「反ファシズム戦争の勝利」と位置付けている。第二次世界大戦勃発までは、ファシズム自体が批判的に扱われることは少なく、一部を除いては悪口としては使用されなかった。第二次世界大戦中になると、連合国ではファシズム・ファシストを厳密な意味ではなく、枢軸国とその国民に対する一般的な悪口や蔑称ととして使用されるようになった。ジョージ・オーウェルは1944年に「"ファシズム" という語は、ほとんど全く意味が無い。ほとんどのイギリス人は "ファシスト" という語を "bully" (いじめっ子、ガキ大将)の同義語として受け入れている」と書いた。第二次世界大戦で枢軸国が敗北すると、「ファシスト」を悪口や蔑称()として扱う風潮は世界的なものとなった。そしてしばしば、政治運動に対して政治的スペクトルをまたがって幅広く呼ばれるようになった。政治学の論文では「ファシスト」とは通常は権威主義的な傾向を意味するが、政治的な左翼や右翼の両方の信奉者が敵対者を中傷するための軽蔑的な悪口としても使われている。リチャード・グリフィスは2005年に「ファシズム」の用語が「我々の時代に最も誤用され、過剰使用された」と述べた。戦前のファシズムは枢軸国の敗北とともにほぼ消滅したが、戦後もファシズムを再評価する組織や思想が登場しており、これらについて一般的な学術用語としては「ネオ・ファシズム」と呼ばれる。(ネオナチも参照)。批判的な意味での派生語や造語には、イスラム原理主義への批判語であるイスラムファシズム、急進的なエコロジー運動への批判語であるエコファシズム、急進的な禁煙運動への批判語である禁煙ファシズム、あるいは類似のものでは急進的なフェミニズムへの批判語であるフェミナチなどがあるが、これらは必ずしも定着した用語ではない。歴史学者や政治学者や他の学者は、ファシズムの正確な本質や特徴を長年議論してきた。学者達によってファシズムの定義はそれぞれ異なり、非常に幅広すぎる定義や狭い定義など多数の定義が存在している。は『ファシズムの誕生』で「ファシズムは独裁の一種である。これまでの定義の試みはすべてそこから出発している。しかし、この点を除くとおよそ意見の一致は保証されていない」と評している。一般的なファシズムの定義の1つには、3つの概念のグループに焦点を当てた以下がある。ファシズムにたいする見方は立場によって大きく異なっている。例えば多くのファシストはナショナリズムの立場から、コーポラティズムなどの集団主義を主張している。多くの自由主義者や民主主義者は、ファシズムは自由主義と民主主義を破壊する全体主義と批判している。多くのマルクス主義者はその唯物史観や階級闘争論の立場から、ファシズムは社会主義を暴力的に破壊し労働者階級を支配するための資本主義や帝国主義の一形態と批判している。多くのリバタリアニズムはレッセフェールを重視する立場から、ファシズムや共産主義を集産主義の一種と批判している。ガービン・ブライアンやヘンリー・ターナーの定義では、ファシズムは、急進主義的で権威主義的なナショナリストの政治運動である。第一次世界大戦中に、ソレル主義のサンディカリストの政治的視点とナショナリズムを結合した、イタリアの国家サンディカリストにより最初に構築された。通常は極右と記述されるが、ファシズムは右翼と左翼の両方の影響を受けていることが学術的な合意となっている。ムッソリーニは「ザ・ドクトリン・オブ・ファシズム」で、ファシズムを右翼かつ集産主義と見なしたが、ファシズムは階級闘争や社会主義や社会民主主義などの左翼政治運動の高まりから発生した状況の改善に共感し、他方では同時に左が関連する平等主義に反対すると宣言した。ファシズムの主要なテーマはノエルオサリバンによると、コーポラティズム、革命、指導者原理、集団主義、国家的自給自足の5つである。ハワードもファシストは国家の価値や、政治や経済などの体制を、コーポラティズムの観点に従って組織しようと努めると指摘している。A.A.カリスは、コーポラティズムがファシズムの最重要な主張であり、それのみが資本主義と社会主義の間の「第三の道」の展望を創造的に実現すると主張する。ムッソリーニは「コーポラティブ・システムは20世紀の文明となる事が運命づけられている」と宣言し、アドルフ・ヒトラーは「わが闘争」で「国家社会主義のコーポラティブな概念」が最終的には「破滅的な階級闘争に取って代わる」と主張した。ファシズムにおいては、国家が、国家の強さを保つために暴力の実行や戦争を行う意思と能力を持つ、強力なリーダーシップと単一の集団的なアイデンティティを必要とする有機体的な共同体であると信じる。彼らは、文化は全国民的な社会とその国家によって創造され、文化的観念が個人にアイデンティティを与えると主張し、したがって個人主義を拒絶する。彼らは国家を1つの統合された集合的な共同体とみて、多元主義を社会の機能不全の様子とみなし、国家が全てを表すという意味での全体主義国家を正当化する。また、一党制の国家の創設を主張する。つまり、議会制民主主義制度、及び、議会制民主主義思想に対して拒否反応を示す。それゆえに、議会制民主主義によって制定された法制度等に対して全面的に価値を認めない基本的な立場をとる。ファシストは、ファシストの国家の一部とはみなされず、かつ同化を拒否するか同化できない、文化的または民族的な集団による自治を拒絶し抵抗する。彼らはそのような自治を創設する試みは、国家への侮辱や脅威とみなす。ファシストの政府は、ファシストの国家やファシスト運動への反対を禁止し抑圧する。彼らは暴力と戦争を、国家の再生や精神や活力を創造する行動であるとみる。ファシズムは平等主義や物質主義や合理主義の概念を拒絶し、行動や規律や階層的組織や精神や意志を支持する。彼らは、排他的で経済的な階級をベースとした運動であるという理由や「自由主義は共産主義の温床である」「共産主義は国際主義である」という理由で自由主義や共産主義に反対する。ファシストは彼らのイデオロギーを、経済的な階級闘争を終了させて民族の団結を確実にする、経済的に超階級的な運動として提示する。彼らは、経済的な階級には国家を適切に統治する能力は無く、経験豊かな軍人たちからなる優秀さを基礎としたエリート集団が、国家の生産力の組織化や国家独立の確実化などを通して支配するべきであると主張する。ロランド・サルティは、ファシズムは保守主義を、社会秩序への支持という部分的な価値と把握するが、しかしその変革や近代化に対する典型的な反対には賛成しないと述べている。また、強制的な変革を推進する国家管理された近代化を主張する一方で、多元主義や独立した主導権という社会秩序への脅威に反抗することによって、保守主義の利点と欠点を把握した解決方法であるともする。ファシズムは通常は極右と記述されるが、いくつかの学者はファシズムは伝統的な「左翼・右翼」の政治的スペクトルには位置づけ困難としている。学術的な合意の1つでは、ファシズムには左と右の両方の影響が存在している。多くの歴史学者はファシズムを、革命的で中道的な信条か、あるいは左と右の哲学が混合した信条とみなしている。ロジャー・イートウェルは、伝統的な「左翼・右翼」の政治的スペクトルに関連した用語ではファシズムのイデオロギーの複雑な性質を完全にとらえる事には失敗する、と述べた。彼や多くの政治学者は、伝統的な単線の左翼・右翼スペクトラムの代わりに、多面的なスペクトラムを設定する。いくつかの2面分析の政治モデルのうちポリティカル・コンパスでは、ファシズムは経済面の軸では資本主義と社会主義の中間とみなされ、政治面の軸では極端な権威主義に位置している。イタリアのファシズムには、右や左の両方を含む複数の党派が存在した。1920年代にファシズムへの政治的な右の適合が進むと、イタリアのファシスト運動の中で多数の国内党派が作られた。「ファシスト左派」にはや、などを含み、彼らは経済の現代化や労働者や一般民衆の利益の向上のために議会制自由主義を置き換えるとして、国家サンディカリスムの優越性を確信した。「ファシスト右派」にはファシストの民兵組織の「Squadristi」のメンバーや、右翼のイタリア・ナショナリスト協会 (ANI)の前のメンバーが含まれた。「Squadristi」は非妥協的なファシスト達で、完全な独裁制のファシズムの構築を求めたが、他方では以前の ANI メンバーでもあるアルフレッド・ロッコを含めてイタリアで既存のエリートを保持するリベラルな国家を置き換える権威主義的でコーポラティストの国家の陣営を熱望した。更にイタリアのファシスト運動にはより小さい複数の党派も存在し、その中の「聖職者ファシスト」はイタリアのファシズムをその反カトリックの本質から、カトリックを受け入れるように転換することを考え、また極右の「王党派ファシスト」はファシズムを、王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世による絶対君主制の作成に使う事を考えた。多数のファシスト運動は自分達自身を、伝統的な政治的スペクトルの外側の「第三の道」と記述した。ムッソリーニはファシズムに可能な限り多くの人々を結集させるために、ファシズムの位置について曖昧さを進め、以下の発言をしたムッソリーニは、イタリアのファシズムのコーポラティズムの経済システムは、国家資本主義あるいは、場合によっては「国家の経済活動の官僚主義化」である事も含む国家社会主義(state socialism)のいずれよりも、独自性があると主張した。ムッソリーニはファシズムを、いかなる言語でも彼は有用だと発見する、と記した。ムッソリーニは1922年のローマ進軍で、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の認可を得て政権を獲得し、王党派と妥協した形となった。1940年には第二次世界大戦に参戦し、日独伊三国軍事同盟を締結して枢軸国の一員となった。戦況悪化後に1943年の王党派による失脚とドイツ軍による救出後は、北イタリアにイタリア社会共和国の樹立を宣言して社会主義を強調した発言を行い、企業の国営化を進めた。スペインのファシストホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラは、左翼と右翼の両方の政策を重視し、「基本的には、労働などの経済的構造の維持に関しては右の位置だが、他方では経済的構造の転覆が価値あるものの多くの破壊を引き起こすものだとしても、経済的構造の転覆を試みる立場としては左翼である」と述べた。ドイツでは、ナチス(NSDAP)の前身はドイツ労働者党(DAP)で、社会主義やナショナリズムや反ユダヤ主義を特徴とする25カ条綱領を掲げた。ヒトラー自身も初期には以下の発言をした。党内のナチス左派は社会主義を重視したが、1934年の長いナイフの夜で主要メンバーが粛清された以後は、25カ条綱領よりもアドルフ・ヒトラーの指導者原理が強調されるようになった。歴史学者のEugen Weber、David Renton、Robert Soucy ()などは、ファシズムはイデオロギー的に右と見た。Rod Stackelbergは、ファシズムは特に人種的平等や民主主義などの平等主義に反対したが、それらは極端な右翼の運動を特徴づけるとした。Stanley Payneは、戦前のファシズムは右翼運動との同盟を通じて存在意義を持ったと述べた 。Roger Griffinは、第二次世界大戦の終わりまでにファシスト運動は、急進右翼と「ファシスト急進右翼」の一部集団との結びつきになったと主張した。一方、ウォルター・ラカーは歴史的なファシズムについて「極左には属さなかったが、極右の一部との定義は明快ではない」とし、しかし「それは常に、急進的、ポリュリストの要素、極右への重力を持つ他の要素などの結合だった」とした。Stanley Payneは、「ファシストは、左や右や中道など、現在までの全ての主要な確立された彼らの歴史上で、ユニークだった」と述べた。Payneは他方で、ドイツのナチスは他の全ての非共産主義体制よりも、ロシアの共産主義(ソビエト連邦)に近かったと述べた。シーモア・M・リプセット、を含む現代の多数の歴史家や社会学者は、ファシズムの位置は右でも左でもない、との見解を支持している。経済の分野では、ファシストはマルクス主義者や国際的な社会主義者が広く掲げた階級闘争や国際主義の概念を拒否し、階級協調や国家主義的なナショナリズムに賛成した。しかしまた、イタリアのファシストは過度の資本主義への異議を宣言し、それを超資本主義と呼んだ。Zeev Sternhell ()はファシズムを、サンディカリズムによる反正統派マルクス主義とみなしたが、政治的には依然として右と位置づけた。経済学者のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは新自由主義の立場から、ファシズムを左翼に分類した。また経済学者フリードリヒ・ハイエクもリバタリアニズムの立場から著書「隷従への道」の中で、ファシズムはソビエト連邦などの社会主義と同様、国家万能主義の全体主義であり、計画経済や集産主義を行う観点では本質的に同根として、ファシズムやナチズムも左翼に分類した。ナチスは国家社会主義を掲げ、ヒトラーは「わが闘争」で「私はボルシェヴィズムから最も多く学んだ」と述べたほか、ナチスは政治将校や強制収容所などといったソ連の組織論や運動論、共産党のプロパガンダ活動(プラカード、集団行進、シュプレヒコール、戸別訪問、楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布など)を模倣し、党歌「旗を高く掲げよ」についても共産主義者のヴィリ・ブレーデルの詩を焼き直して作ったとする説がある。ゲッベルス自身も「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と公言した。レフ・トロツキーはマルクス主義の唯物史観や階級闘争の立場から、1931年の「ファシズムとは何か」で、イタリアのファシスト運動は「小ブルジョアジー、ルンペン・プロレタリアート、そしてある程度まではプロレタリア大衆から発生した」とし、「元社会主義者のムッソリーニは…」と述べた。また、ドイツのファシスト運動は「イタリアの運動にきわめて類似して」おり、大衆運動を作り上げるために「社会主義的デマゴギーをふんだんに用いて」いると述べた。また1933年の「国家社会主義とは何か」で、ドイツのファシズムを「帝国主義の最悪の形態」と主張した。日本では、丸山眞男が1964年に著書で「ファシズムは二十世紀における反革命の最も尖鋭な最も戦闘的な形態」として、ナチスが「社会主義」を掲げたことは大衆を吸引するための「巧妙な民主主義的偽装」であり、「ファシズムはしばしばその敵の姿に似せて己を扮装する」と述べた。マルクス経済学者の大内力は、ファシズムを「はじめは反社会主義であるとともに、反資本主義でもあったのであり、とくに独占資本にたいして強い敵意をもっていた」と述べた。の哲学者ジョルジュ・ソレルは、ファシズムに大きな影響を与え、またソレルはロシア革命とファシズムをブルジョワ民主主義への挑戦と考えて支持した。ソレルは著作「暴力論」(1908年)で「暴力は道徳になりうる、特に社会に実質的で肯定的な変革をもたらす革命的暴力は」と主張した。ソレルは正統派マルクス主義から出てきた社会民主主義はその議会主義によりブルジョワ民主主義に屈すると批判し、改良主義的な修正主義ではない暴力的な革命的修正主義を主張した。まずソレルはブルジョワ階級の迅速な終焉と労働者階級の勝利のために、正統派マルクス主義の唯物論や合理主義は資本主義への抵抗にならない退廃に陥っていると非難し、代わりに観念や非合理的な神話の道徳的で情熱的なアピールに修正すべきと論じた。彼は、過度の合理主義はブルジョワの特質であり、労働者階級の心はより「原始的」であり更には神話も受容できる、と書いた。ソレルは、労働者階級が道徳的な変革をより受容しようとするという理由で、これを有益と考えた。「暴力論」はイタリアの革命的サンディカリストの間で非常に高い人気となった。ベニート・ムッソリーニもその1人で、彼は後にソレルから彼への影響について「私の師」「ファシズムの精神的指導者」「私自身はソレルに最も負っている」と発言した。政治的活動ではガブリエーレ・ダンヌンツィオ、思想では革命的サンディカリストのジョルジュ・ソレル、更には黄色社会主義を提唱したピエール・ビエトリーなどが、ファシズムの先駆と呼ばれている。ファシズムの創造の鍵となった部分は、第一次世界大戦の勃発で固まった、政治的に右翼のナショナリストと、左翼のソレル主義のサンディカリストの諸政策の融合であった。ソレル主義のサンディカリズムは、他の左翼のイデオロギーとは異なり、労働者階級に対するエリート主義の視点を持ち、彼らの士気を向上させる必要があると信じ、積極的な社会変革をもたらすために自由民主主義は破壊される必要があると主張した。ソレル主義のサンディカリズムの社会戦争の積極的な本質の概念とその道徳的な革命への固執により、多くのサンディカリストは、戦争とは社会変革や道徳的革命の究極の政策表明であり、目的達成の手段と考えた。第一次世界大戦の前には、サンディカリスト達は圧倒的に階級の固有性に焦点を当て、階級闘争を支持し、他方では国家的な戦争を敵視した結果として、反軍国主義であった。イタリアのサンディカリスト達の多くは、革命的サンディカリスムは完全に反軍国主義であってはならないと信じ、平和主義を攻撃した。1907年から、ナショナリストや軍国主義者の影響がサンディカリズムに結合し始め、政治的な左翼に分断が生まれた。この、ナショナリストとサンディカリストが相互に影響しながら増大するという精神は、イタリアで強かった。ソレルの視点と近いモーラス主義のナショナリズムは、急進的なイタリアのナショナリストのに影響を与えた。コラディーニは、イタリアの問題を解決できるであろう闘う意思を通じた直接行動を確約する革命的サンディカリストにも共通する、エリートの貴族や反民主主義に率いられた、国家サンディカリスム運動の必要性のために発言した。コラディーニは、フランスやイギリスの「金権政治」と対決するために、イタリアは帝国主義を続ける必要のある「コロレタリア国家」であると述べた。コラディーニの視点は、イタリアの経済的な後進性はその政治的な階級や自由主義や「下劣な社会主義」によって発生させられた部分によって引き起こされた、と主張する右翼のイタリア・ナショナリスト協会(ANI)の幅広い見解の一部だった。ANIは、保守やカトリックや商売業界の中と結びつき影響を保っていた。イタリアの国家サンディカリストに共通した原則は、ブルジョワの利益や民主主義、自由主義、マルクス主義、国際主義、平和主義の否定であり、英雄主義や生気論や暴力の推進だった。拡張主義や大イタリアの創立を支持し、イタリアを近代国家のリーダーとして「新人類」や「新国家」を創造する文化的な革命を行う事を主張するイタリアの急進的なナショナリズムは、イタリアのリビア征服期間中の1912年に増大しはじめ、イタリアの未来派やANIのメンバーによって支持された。ANIは、自由民主主義は現代の世界にはもはや適合せず、最も強いものが生き残れる世界で人間は本質的には略奪的であり国家は継続的な闘争状態にあると主張し、強い国家と帝国主義を提唱した。1914年まで、1911年の伊土戦争に反対したサンディカリストなどナショナリストの影響が部分的に残っていたイタリアのナショナリストや革命的サンディカリストは、戦争を国家的な事柄ではなく財政的な利益の事柄と考えた。しかし第一次世界大戦の勃発では異なり、ナショナリストやサンディカリストは、戦争を国家的な事柄とみなした。1914年8月の第一次世界大戦の勃発時点では、多数の社会主義政党は当初は参戦への反対を主張していた。しかし戦争が始まるとオーストラリアやイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどの社会主義者は、台頭するナショナリストの流れに追随し、彼らの国家による参戦を支持した。イタリアの左翼は戦争への立場をめぐって深刻な分裂となった。イタリア社会党は社会主義の国際主義を背景に戦争に反対したが、多数のイタリアの革命的サンディカリストは社会主義の成功を確実にするためにドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国の反動的な体制は打破される必要があるとの背景により、それらとの戦争を支持した。はナショナリストの視点からイタリアのための「労働者階級国家」と、反動的なドイツの打倒は、同様に必要と表明した。参戦におけるこの分裂からファシズムの始まりが生まれ、イタリア社会党のは1914年10月に「国際行動のための革命的ファッシ」(、)を組織した。同時期にムッソリーニは参戦主義者の理由に賛同することを決断した。ファシストはナショナリズムを支持し、プロレタリアートの国際主義は間違いだと主張した。この時、ファシストは整合性を持った政策のセットを持たず、運動は非常に小さかった。大集会の開催を試みたが効果的ではなく、常に政府当局や正統な社会主義者から妨害を受けた。ファシストを含めた参戦主義者と、反参戦主義の正統的な社会主義者の間の敵意は、暴力に転じた。反参戦主義の革命的社会主義者による、ファシストや他の参戦主義者に対する反対や攻撃は、非常に暴力的であったため、戦争に反対していた民主社会主義者の Anna Kulliscioff でさえ、イタリア社会党は戦争支持者を沈黙させる運動をするには遠すぎる場所へ行ってしまった、と述べた。1917年にイタリアで開始された「」(Arditi)と呼ばれた命知らずのエリートの「突撃隊」は、ファシズムに重要な影響を与えた。アルディーティは暴力の絶えない生活で特別に訓練された兵士で、独特な黒シャツの制服とフェズ帽を着ていた。1918年11月にアルディーティは国家組織に組織されて "Associazione fra gli Arditi d'Italia" となり、1919年の半ばまでには2000人の若者が所属した。ムッソリーニはアルディーティを気に入り、戦後にアルディーティをベースにしたファシスト突撃隊の「Squadristi」を組織し、黒シャツ隊と呼ばれるようになった。参戦反対で国際主義のマルクス主義者と、参戦賛成でナショナリストやサンディカリストのファシストの暴力的な分裂は戦争終結までには決定的となり、2つの陣営は和解不可能となった。ファシストは彼ら自身を反マルクス主義でソビエトの共産主義に反対すると提示した。ムッソリーニは1919年にファシスト運動の制御を統合し、「イタリア戦闘者ファッシ」を創設し、伝統的な社会主義に反対して以下のように宣言した。ファシズムは初期には未来派と近い関係を持ち、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティによる1909年の「未来派宣言」は「行動、技術、戦争」を美化し、合理主義に対して非合理主義()や、近代美術や暴力的な美術や美学、近代美術を自由にするための全ての過去の伝統的な美術の破壊、愛国心や軍国主義の推進、女性やフェミニズムの概念、などの革命的な陣営となった。未来派はファシズムと同様に、国家をコーポラティズムの流儀で、1つの有機的な身体と定義した。ただし、マリネッティは「イタリアの民主主義は我々にとって、我々を解放する組織である」と民主主義の継続を主張した。マリネッティは当初はファシズムに魅かれたが、イタリアで一時的に力を持ったより近代的な保守的美学を採用した。1919年にファシストは、ファシスト・マニフェストを作成した。このマニフェストは国家サンディカリストのと、未来派運動のマリネッティによって書かれ、1919年6月6日にファシストの新聞である "Il Popolo d'Italia" に掲載された。このマニフェストは政治体制として、男性と女性の両方の参政権を持つ普通選挙や、地域をベースとした比例代表制の選挙制度や、コーポラティストの考えである労働者や工業、交通、公衆衛生、通信などの職業別の領域ごとに選挙されて彼らを代表する法的権限を持った職業人や商人から選出された専門家による「国家評議会」の制度の創設や、イタリア上院(貴族院)の廃止などを主張した。また経済社会政策として、全労働者の8時間労働制限、最低賃金、産業管理における労働者代表、産業別や公共部門の労働組合の平等な信任、交通部門の再編、無効な保険に関する法案の修正、退職年齢の65歳から55歳への引き下げ、資本に対する強力な累進課税、宗教的施設の資産没収や主教の廃止、軍需契約の利益率の抑制などを主張した。軍事政策として、防衛業務に従事する短期の国家的な民兵の創設、軍需産業の国営化、平和的だが競争的に設計された外交政策などを主張した。ファシストに影響した次の出来事は、イタリアのナショナリストのガブリエーレ・ダンヌンツィオによる「未回収のイタリア」の一部であるフィウーメの占拠(カルナーロ=イタリア執政府)と、ダンヌンツィオとアンブリスによる1920年のの発表であった。主筆者であったアンブリスは、ダンヌンツィオの政治的視点に沿った国家サンディカリスムとコーポラティズムの生産主義を組み込んだ憲章を設計した。多くのファシストがカルナーロ憲章を、ファシスト国家イタリアのための理念的な体制とみなした。1920年にファシズムは政治的に右への傾向が始まった。この傾向は、イタリアで工業労働者の過激なストライキ活動が頂点に達して「赤い年」と呼ばれるようになった1919年と1920年に、同時期に起こった。ムッソリーニとファシストは、工業経営者と手を結ぶ事で優位な状況を得て、秩序の維持とイタリア国内の平和という名目で、労働者や小作人を攻撃した。ファシストは、第一次世界大戦への参戦に反対した左派の社会主義者の多数派を、彼らの第一の敵と位置づけた。ファシストとイタリアの右派は、マルクス主義を蔑視し、階級意識を割り引き、エリートの規則を信じるなどの、共通の基盤を持った。ファシストは、国家的なアイデンティティーよりも階級のアイデンティティーを確約するイタリア社会党や労働者組織を破壊するための相互努力の中で、右派との同盟によって右派の反社会主義キャンペーンを支援した。ファシズムは、その従来のポピュリズムや共和主義や反教権主義を捨てていき、イタリアの既存の資本主義の支持やカトリック教会の受容や王制などを受け入れるという、その政策の大きな変更によって、イタリアの保守主義に順応していったとみなされた。ファシズムはイタリアの保守主義者にアピールするために、女性の母としての役割の推進を含む、家族の価値の推進などの政策を採用した。しかし、ファシズムは反動主義者にアピールすることを意図した多くの姿勢の採用にもかかわらず、ファシズムの革命的な性格を維持したとみなされており、Angelo Oliviero Olivettiは「ファシズムは保守主義でもありたいが、しかし革命的であり続けることによってそうなる」と述べた。ファシスト達は、保守主義者達とサンディカリスト達の両方にアピールするために、革命的な行動と、法や秩序の維持の確約の両方を支持した。右傾化の以前には、ファシズムは約1000名のメンバーを持つ、小規模で、都会の、北部イタリアの運動だった。その以後には、ファシスト運動のメンバーは1921年までには 25万名に上昇した。1921年11月には「イタリア戦闘者ファッシ」は政党「ファシスト党」(国家ファシスト党、ファシスタ党)に改組された。1922年になると、ファシストの民兵組織は彼らの戦略を、社会主義者の事務所や社会主義者の指導者の家への攻撃から、都市を占領する暴力へとエスカレートした。しかしボローニャやボルツァーノ、クレモナ、フェラーラ、フィウメ、トレントなどの都市では権威者からのやや激しい抵抗を受け、転覆を続けた。ファシストはクレモナの社会主義者とカトリックの連合の本部を攻撃し、トレントやボルツァーノドイツ語圏の住民にイタリア語化を強制した。これらの都市を制圧すると、ファシストはローマを得る計画を持った。1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党の年次党大会で、ムッソリーリは黒シャツ隊に、公共施設や鉄道を制圧して、ローマ周辺の3個所に集結するよう命じた。この進軍は、黒シャツ隊のリーダーのイタロ・バルボ、将軍のエミーリオ・デ・ボーノ、超サンディカリストのビアンキ()、王党派ファシストのデ・ベッキの、それぞれの異なる党派を代表する4名の主要なファシストの幹部によって率いられる事になった。ムッソリーニ自身はミラノに残り行動の結果を待った。ファシストは北部イタリアの複数の郵便局や鉄道の支配の獲得を達成し、他方では左派連合に率いられたイタリア政府は内部分裂してファシストの優位に対応できなかった。イタリア政府は確実に混乱の状態となり、複数の政府が作られては敗北した。イタリア政府は最初にはファシストのローマへの侵入を防止する行動を採ったが、しかし国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ファシストの高潮を消失させる試みの結果としてのローマでの流血の恐れを懸念した。エマヌエーレ3世はムッソリーニを首相に指名する決断をし、ムッソリーニは10月30日に指名を受けるためにローマに到着した。ファシストはこの事件を、ファシストの英雄的な偉業による権力の「奪取」として、「ローマ進軍」の名称で大きく宣伝した。11月から行われたコミンテルン第四回大会では「国際ファシズム」の危険性を訴え、あらゆるヨーロッパの国でファシズム出現の可能性があるとしたムッソリーニはイタリアの首相に任命されると、ファシストはイタリア議会を支配していなかったため連立政権を形成する必要があった。その連立政権は、内閣の首班はムッソリーニだが、他の13の大臣のうちファシストは僅か3名だけで、残りは陸軍や海軍の代表者や、2名のカトリック組織の構成員、2名の民主自由主義者、1名の保守自由主義者、1名の社会民主主義者、1名のナショナリスト、そして元ファシストの哲学者のジョヴァンニ・ジェンティーレであった。ムッソリーニの連立政権は当初は、自由主義者の財務大臣のの指示のもとで経済的には自由主義の政策を追求し、公務員の大幅削減によって予算の均衡を図った。初期には政府の政策の小さい劇的な変化が起こり、共産主義者に対する抑圧的な警察活動が行われ、ダンヌンツィオ主義者の反乱は限定的だった。しかし同時期にムッソリーニは、彼がその議題を管理するファシスト大評議会で、ファシスト党のための政府高官を作ることによって、ファシスト党への彼の支配力を集約した。更に「Squadristi」や黒シャツ隊と呼ばれる民兵は、常備軍の士官に指導される国営のMVSN()に改組された。「Squadristi」は当初はムッソリーニの政府に非常に不満で、「ファシスト革命」を要求していた。この時期にはイタリア国王をなだめるために、ムッソリーニはイタリアのファシストと、フェデルツォーニ()率いる議会の保守系党派や保守的な王党派やANI構成員のナショナリストとの間で、秘密の政治的同盟を形成した。ANIは1923年にファシスト党に合流した。ナショナリストとファシストの合併により、保守的なナショナリストと、ファシスト運動の革命的サンディカリスト党派との間の緊張が高まった。保守主義者とファシスト運動のサンディカリスト党派は、相互の視点を得る事によって、彼らの相違や安全な統一やファシズムの推進を調和させることを考えた。保守的なナショナリストのファシストは、革命的サンディカリストをなだめるためにファシズムを革命的な運動として推進する一方で、保守的なナショナリストのファシストをなだめるために、革命的サンディカリストのファシストは彼らが社会的安定を確実にして経済的な生産性を保障する事を欲すると宣言した。ファシストは、選挙で25%以上の得票を得たいかなる政党または連立の候補者名簿に対して、議会の座席の過半数を保障するというにより、イタリアでファシズムを堅固にする試みを開始した。アチェルボ法は議決での多数の欠席にかかわらず可決した。1924年の選挙でファシストは穏健主義者や保守主義者とともに統一候補者名簿を形成して、ファシストの多くの暴力と恫喝もあり、その名簿は66%の得票率を獲得して403議席を許され、その大多数がファシストへと進んだ。選挙の直後に、イタリア社会党の書記のジャコモ・マッテオッティがファシストによって誘拐され殺害されたとの危機的で政治的なスキャンダルが噴出した。議会の少数派の自由主義者と左派が抗議の退場をし、古代ローマの故事に倣って「アヴェンティヌスの離脱」()と呼ばれるようになった。1925年1月3日にムッソリーニはファシストが支配的となったイタリア議会で演説し、彼は起こった事に個人的に責任があるが、彼は悪い事は何もしなかったと強く主張した。彼は古代ローマの独裁官に倣って、彼自身をイタリアの独裁者と宣言し、政府と議会の解職発表に関する全責任を持つとした。1925年から1929年にかけてファシズムは着実に力を堅固にし、議会で反対する議員もいたが否決され、検閲が導入され、1925年の命令によりムッソリーニは国王のみに責任を負う事になった。イタリア社会のファシスト化の努力は1926年より加速され、ファシストは地方自治での地位を得ていき、1929年までには行政長官の全体の30%がファシストによる指名となった。1929年には、イタリア政府と断絶状態にあったローマ教皇 ピウス11世と交渉し、教皇のバチカン一帯への国家主権と19世紀に自由主義国家によって没収された教会用地の財政的賠償を与えた、ラテラノ条約として知られる教会との協定に署名が行われ、以後はファシスト体制はローマ・カトリック教会からの政治的な支持と祝福を得た。また1925年には全てを包括する「全体主義」国家としての新体制というファシストのプロパガンダが開始されたが、しかしファシストの党や体制はイタリアの既存権力に関する完全な支配を得た事は決してなく、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は国の長に残り続け、軍隊や司法組織はファシストの政府から大幅な自治を維持し、ファシストの民兵の黒シャツ隊は軍の管理下にあり、当初は経済も同様に比較的自治を持ち続けていた。ファシストの体制はコーポラティストの経済体制の作成を開始し、1925年にイタリアの雇用者連合である Confindustria ()とファシストの労働組合の間で、非ファシストの労働組合を除外して相互をイタリアの唯一の雇用者と被雇用者の代表であると認識することに合意した Palazzo Vidioni 協定が成立した。ファシストの体制は最初に「企業省」を設立し、イタリアの経済を22の産業別の企業に組織し、労働者のストライキやロックアウトを禁止し、1927年には「」を作成して労働者の権利と義務を規定し、雇用者と被雇用者の間の紛争を仲裁する労働審判を作成した。実際には産業別の企業の活動は独立性は低く体制による管理が大きく、被雇用者の組織は被雇用者自身によって指導される事はまれで、代わりに指名されたファシスト党の構成員によって指導された。1920年代にファシストのイタリアは、バルカン半島にイタリアの領土を拡大する目的でのギリシアのケルキラ島への攻撃、トルコとユーゴスラビアへの開戦の計画、クロアチア人とマケドニア人の分離主義者への支援によってユーゴスラビアを内戦に導いてイタリアの内政干渉を合法化する試み、アルバニアをイタリアの「デ・ファクト」(事実上)の保護国とする、などの攻撃的な外交政策を押し出し、一部は1927年までに外交的な手段によって達成された。イタリアの植民地のリビアでの反乱への対応には、ファシストのイタリアは従来の現地指導者との協業による自由主義時代の植民地政策を捨てた。その代わりに、イタリア人はアフリカの人種より優秀な人種であり、従って「二流の」アフリカ人を植民地化する権利を持ち、リビアへの1000万から1500万名のイタリア人の植民が主張された。このことは大量殺害や強制収容所の使用、数千人の人々の強制的な餓死などを含む、リビアの原住民への攻撃的な軍事作戦となった。ファシストは政権獲得により、国際的な注目を浴びた。イタリアのファシストの初期の賞賛者の一人はアドルフ・ヒトラーで、彼はローマ進軍後の1か月以内に、彼自身と国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のモデルを、ムッソリーニとファシストに置き始めた。ヒトラーと第一次世界大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフに率いられたは、1923年11月、ローマ進軍をモデルにした「ベルリン進軍」を試みたが失敗した(ミュンヘン一揆)。ミュンヘン一揆では、州総督グスタフ・フォン・カールを脅迫して仲間に引き入れ、ヒトラーとルーデンドルフ、カールによる三頭政治に指導される新しいドイツの政府の創設が発表された。しかしカールらの反撃とバイエルン警察によって粉砕され、ヒトラーや他の指導者は捕らえられ投獄された。イタリアのファシストの初期の他の賞賛者には、ハンガリー全国防衛連盟(、)の指導者のゲンベシュ・ジュラがおり、彼は(ナチスよりも早く)1919年には自分自身を「国家社会主義者」(national socialist)と定義して資産の大幅な変革の必要性を語り、1923年には「ブダペスト進軍」の必要性を主張した。スペインでは増加するストライキやアナキズムへの支持の高まりなどの政治的危機の中で、1923年に軍人であり侯爵であるミゲル・プリモ・デ・リベラがスペイン政府に対するクーデターに成功し、自分自身を保守的な軍事政権の指導者に据えて、既存の政党政治制度を無効とした。リベラは権力獲得後、彼自身が労働者と上司(経営者)の間の和解の仲裁者となることによって経済的な危機を解決し、彼の統治はイタリアのファシストのモデルをベースとしたコーポラティストの経済体制を創立する、と考えた。1929年に発生した大恐慌は、ファシズムの国際的な高まりをもたらし、複数のファシスト体制の創立や、ファシストの政策の採用が発生した。最も重要で新しいファシストの体制はヒトラーの指導によるナチス・ドイツである。ヒトラーとナチ党の力が高まる中で1933年に権力を掌握した(ナチ党の権力掌握)ドイツの民主主義体制は崩壊し、ナチスは国家を戦争へ向けて動かした。1930年代にナチスは、ユダヤ人や他の人種グループに対する差別や公民権剥奪や迫害を認めた抜本的な人種法(ニュルンベルク法)を制定した。社会ファシズム論は、スターリンやコミンテルンの用語で、社会民主主義とファシズムとを「双生児」と規定し、「共産主義の党(コミンテルンの指導下にある党)はファシズムに対しての戦いよりも、優先して社会民主主義勢力と戦うべき」とした。背景には「ドイツ社会民主党が第一次世界大戦で国家への協力姿勢を示した」ことをレーニンが激しく批判していたことが意識され、「社会民主主義は必然的に反動化する」との理論によって正当化された。この理論のもと1930年代前半のドイツ共産党はナチスに対しなんら有効な攻撃を行わなかったばかりか、ドイツ社会民主党を攻撃するうえでナチスと一致することもあった。労働者の戦線は分裂し、ナチスに対抗することはできなかった。しかし結果として、社会ファシズム論はヒトラー政権の成立を許し、共産党の非合法化を招いたため、1935年のコミンテルン第7回大会では、反ファシズム統一戦線の戦術をとることを決め、社会ファシズム論は放棄された。ハンガリー王国のファシストゲンベシュ・ジュラは、勢力拡大して1932年に首相となり、ファシストのイタリアやナチス・ドイツを訪問してこの2つの体制と良好な関係を固めた。彼は彼の「国家統一党」(Party of National Unity)を、産業での一日8時間労働や週48時間労働、コーポラティストの経済の考え、ハンガリーの隣国への領土回復要求などの追求の拠点とすることを試みた。第二次世界大戦末期にはナチズムに近い矢十字党が勢力を拡大し、ドイツへの協力を主張した。ルーマニア王国のファシスト運動鉄衛団は、1933年以降に政治的な支持を拡大し、1人の鉄衛団のメンバーが総理大臣のを暗殺した。大恐慌の期間中に、ギリシャやリトアニア、ポーランド、ユーゴスラビアなどで、ファシズムから要素を借りた各種のパラ・ファシスト(ファシスト類似)の政府が創立された。大恐慌の間、ムッソリーニは経済に対する積極的な国家の介入を推進した。彼は1914年に「超資本主義」を主張し始めたが、彼は現在の「超資本主義」を、退廃を主張して無限の消費者主義を支持して「人類の標準化」を作成するとの理由により誤りと糾弾した。しかしまたムッソリーニは、初期の「」の経済発展は価値があり、生産的である限り私有財産を支持すると主張した。大恐慌の当初にイタリアのファシストは経済への大規模な介入を行い、産業再建機構(、IRI)や、破綻した民間会社に国家資金を供給する巨大な国営の会社や持ち株会社を創立した。このIRIは1937年に恒久的な機関として創立され、国家的な閉鎖経済を作るというファシストの政策を追求し、軍需生産の最大化では私企業を超えた力を持った。ナチス・ドイツでも同様に、ドイツの鉄鋼産業が高品質の輸入された鉄よりも低品質のドイツの鉄を使用する事を強制されたなど、閉鎖経済や再軍備や強制的な保護貿易政策などの手段により経済政策が追求された。1939年9月にドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発し、1940年には枢軸国側にイタリアも参戦し、戦時体制が強化された。1943年にムッソリーニは王党派などのクーデターにより失脚後、ドイツの支援によりイタリア北部でイタリア社会共和国を宣言し、反資本主義や社会主義を主張して企業の国営化を進めた。連合国は、平和と民主主義を守るための戦いと位置づけ(連合国共同宣言)、ファシズムと民主主義の戦いであるというスローガンが叫ばれた。1945年には枢軸国は降伏してその体制は解体され、ドイツではニュルンベルク裁判でナチスの戦争犯罪などが裁かれた。ファシストは、共産主義者による「階級闘争」という概念に反対し、社会の基礎を「国家や人種の闘争」と見た。ファシストの国家の視点は、1つの組織された全体であり、人々をその祖先により結びつける、自然に統合された人々の力である。ファシズムは経済的、政治的、社会的な問題を解決するために、国家の再生である千年王国の達成や、他の全てを上回る国家や人種の高揚、団結の崇拝の推進、力や純粋さ、などを求める。ムッソリーニは1922年に以下を公言した。元アイルランド共和軍(IRA)(注・IRA自体はファシズム団体には含まれないのが通例)活動家のコーポラティストで、アイルランド青シャツ党の創設者は以下を述べた。ナチスのヨーゼフ・ゲッベルスは、ナチスと権威主義的なナショナリズムの関連を以下のように記述した。イタリアのファシズムの革命的な要因という相違にもかかわらず、保守主義の影響もイタリアのファシズムの強力な要因の1つとなった。家族や、土地所有者の身分や、宗教への信仰などを強調するような共通の社会的伝統を含んだイタリアの保守主義は、他のイデオロギーよりも組織化された政治運動としては弱まっていたが、ファシズムにおいて特に重要な要素となった。有名なナショナリストの新聞「レグノ」(Regno)の記者で、イタリア・ナショナリスト協会(ANI)の設立者の1人でもあるは、ナショナリズムを社会進化論と結びつけ、「鉄の人種法」によって外国からの影響の除去、帝国主義の追求、労働者の国家への組み込み、ブルジョワジーの再生などを含み、他方では「女性的な人道主義」、自由主義、民主主義、社会主義などへの反対を含んだ。コラディーニは「革命としての戦争」と「プロレタリアのナショナリズム」を提唱した。コラディーニはイタリアにおける革命的社会主義を、その反愛国主義や、反軍国主義、国際主義、階級闘争の主張などのために反対したが、彼や他のナショナリストはその革命的で征服的な精神には感銘を受け、1910年の ANI の会合では以下のように「プロレタリアのナショナリズム」への支持を宣言した。コラディーニはまた、ジョルジュ・ソレルの「暴力論」を研究し、サンディカリスムとナショナリズムの間にはいくつかの思想的な相違があるにもかかわらず、彼は「国家の波打ち際で停止して、更に先には進まないようなサンディカリスム」を熱望する、と発言した。ANI出身でファシストとなった他の保守的なナショナリストには、重要な経済理論家のアルフレッド・ロッコがいた。ロッコは経済的なコーポラティズムの提唱者で、経済の国力を強化し労働組合のストライキを禁止して国家の監督と仲裁のもとで経営者と労働者に交渉するよう指図したイタリアでのファシストの経済政策の設計の中心人物だった。ロッコの経済政策は、組織化された労働と彼らが労働者に与えた限定的な権利によって異議を抑制するという保守的な義務と考えられ、結果的には組織化された労働に関連したファシストの多くによってこの政策が敵視された。ロッコはファシスト時代のイタリア司法省大臣となり、ファシズムが構築中の「保守革命」について、多元主義や独立的な構想や大衆による政治変革の試みなどに抵抗する一方で、政策を作成するエリートによって実現される、政治変革の制御と支持された秩序、と説明した。王制などの伝統的な制度に譲歩したイタリアのファシストの複数の党派は、イタリアの政府の基礎として完全なファシズムの陣営化を望んだ民兵の黒シャツ隊などの強硬路線の「非妥協派ファシスト」による抵抗に直面した。ファシストの運動の多くは、全体主義国家の構築を支援する。ムッソリーニは「ザ・ドクトリン・オブ・ファシズム」で以下を記した。いくつかの主張では、ファシズムの全体主義の試みにもかかわらず、ファシズムはムッソリーニを取り巻く個性によって権威主義的な狂信的集団となった、とした。ナチスの政治的理論家のカール・シュミットは著作「全体国家の法的基礎」で、ナチスの意図を「ドイツの民衆を個々に引き裂く破滅的な多元主義」を避けるための「全ての多様性を超えた政治的統一の全体性を保障する強い国家」の構築と記述した。日本のファシストである中野正剛は、民主主義を「その精神を失い、人類の本質を考慮せずに単に数字上の優位のみに固執する1つのメカニズムに堕落した」とし、イタリアやドイツのモデルを「民主制よりも民主的な政府の1形態」として、日本がそれに追随するよう主張した。ファシズムの権威主義的な要素の鍵は、国家や民族の最上位のリーダーへの支持であり、彼らはしばしば単純に「リーダー」(指導者)や、イタリア語では「ドゥーチェ」(総帥など)、ドイツ語では「フューラー」(総統など)、スペイン語では「カウディーリョ」(統領など)、クロアチアでは「」、ルーマニア語では「」などの類似の敬称が使われた。国を支配しているファシズムのリーダーは、イタリアの王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の元で権力を握ったムッソリーニのように、必ずしも常に国家の元首ではないが、政府の長であった。ファシストの運動は通常、国家や人種や社会の視点に社会進化論を持つ。彼らは、国家や人種の永遠の闘争と定義された世界で生き延びるためには、社会的または生物学的に弱いまたは退化した国家や人種は滅び、強い人々の国家や人種は発展すると主張する。イタリアのファシストの哲学者のジョヴァンニ・ジェンティーレは著作「ファシズムの起源と宣言」()で、進歩の行為の衝突の概念を推進し、「人類は分割によってのみ進歩し、進歩は一方が他方と衝突し勝利する事を通じて達成される」と述べた。アルフレッド・ロッコは、この衝突は不可避と主張して以下発言をした。ドイツではナチスが社会進化論を、ドイツ国家における彼らの人種差別主義の概念の推進に使用したが、それには現在も人種間で行われている競争や衝突である「人種闘争」で、アーリア民族やアーリア民族に必要なものが勝利する、というナチスの信じる概念が含まれた。彼らはドイツのアーリア民族が、彼らが弱いとみなした民族を抹殺する事によって強化される事を試みた。最終的には1930年代後半からT4作戦が開始され、約275,000人のドイツ人や非ドイツ人の障害者や高齢者の市民が、一酸化炭素ガスを使用して組織的に殺害された。ナチズムはドイツでアドルフ・ヒトラーに率いられた政治運動で、広義にはファシズムの1形態とみられている。ナチスは極端な国家主義や軍国主義、反共主義などをイタリアのファシストと共有し、ヒトラーはムッソリーニを敬愛して、イタリアのファシストが使用したローマ式敬礼を真似してナチス式敬礼の基礎ともした。しかしながら、ナチスは元々のファシストの概念に、人種差別主義や反ユダヤを追加した。イタリアのファシストは当初は人種差別に関心を持っていなかったが、1930年代までにはイタリアのアフリカ植民地で強硬な白人至上主義のドクトリンを採用した。1930年代の初期にはイタリアのファシストとナチス・ドイツの間には、ドイツによるオーストリア合邦(アンシュルス)や、更に強力な「大ドイツ」の問題で緊張が存在した。イタリアのファシズムはヒトラーの権力の増大とドイツとの同盟の必要性への回答として、反ユダヤのレトリックを徐々に採用し、最終的には反ユダヤの政策を採用した。ファシストは、近代化(特に自由主義と社会主義)の力に対して、社会秩序や伝統的な価値、国民の文化、文明化などをしばしば主張した。同時にまたファシストは、政策への急進主義的な新しいアプローチの提案や、社会を変革できる新体制の政府を主張した。このようにファシズムは、保守主義と急進主義の両方を試みた。ムッソリーニは「私は反動的であり、革命的である」と述べた。第一次世界大戦はヨーロッパに大量の社会変革をもたらし、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、を含む伝統的な王政を消滅に導いた。戦前のヨーロッパでは政治的や経済的や知的なエリートで、それ自体が危機だと気がついた人々を、強力な支持者として保守主義が引きつけた。中央および西ヨーロッパの既成のエリートは、普通選挙の導入や、伝統的な社会階層の崩壊や、古い複数民族の帝国におきかわる国民国家の創設によって、弱体化されるか無力にされた。同時に、特に地方の小作農や熟練工などの人口のいくつかの階層が、近代化の将来や、社会の流動性の増加、福祉国家の創設などに脅威を感じた。更に続く十月革命では、労働者階級が蜂起して共産主義の内乱となる脅威を感じた。通常はこれらの階層は伝統的な保守を頼ってきたが、しかし伝統的な保守政党は戦争の余波で非常に弱体化したため、右の政治的な空白が発生した。この政治的な空白はファシスト運動の台頭により埋められた。彼らは力を得て、より古い保守的な階級から支援を受け、場合によっては伝統的な保守政党からの直接支持も得た。ファシズムはまた大衆運動で、特に下層の中産階級や、熟練工、小作農などの一般大衆から、一般人のメンバーを引きつけた。これらの人々の多くは保守的な経歴からは来ておらず、彼らの一部は古典的自由主義に強く影響を受けていた。その投票者に、ファシズムは自分自身を、エリートと一般人の利益を調整できる新しく革命的な保守主義として提示した。ファシストのイデオロギーは、社会の不平等と階層が富裕者と貧者ともに利益でありうるという階級協調の概念を強調し
出典:wikipedia
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