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ザウバー

ザウバーF1チーム(Sauber F1 Team)は、スイスのヒンウィルに本拠地を置くレーシングチーム。F1に参戦中のコンストラクターとしては4番目に古い歴史を持つ(2016年時点)。チームオーナーはパスカル・ピッチ、チーム代表は女性のモニシャ・カルテンボーン。F1参戦以前、日本のモータースポーツメディアでは「ソーバー」と表記されていた。モータースポーツが禁止されているスイスでは数少ないレーシングチーム。モータースポーツ産業の盛んなイギリスを中心に活動するチームが多い中で、創設者の地元であるスイスに拠点を構えて活動を続けている。1993年のF1参戦以来、F1コンストラクターズ選手権の最高成績は4位()であり、独立系の中堅チームとして定着している。ザウバーの歴史は、資本力をもつ大手自動車メーカーとのパートナーシップの歴史でもある。耐久レース時代はメルセデスのワークスとしてスポーツカー世界選手権を制覇。F1ではメルセデスとの関係解消後、フェラーリからカスタマーエンジン供給を受け、ジュニアチーム的存在であった。2006年にはBMWにチームを売却し、BMWザウバーとして参戦。BMW撤退後は2010年よりプライベーターに戻り、再びフェラーリエンジンを搭載している。経営面においてもレッドブルやペトロナス、テルメックスといった国際的企業をスポンサーとして手堅いチーム運営を行ってきた。マシン開発やレース戦術においてもコンサバティブな傾向を持つが、ドライバーに関しては実績の少ない新人を起用して成功を収めている。また、F1だけでなく、スイスF3用の車両も製作している。1955年のル・マン24時間レースにおいて発生した大惨事の影響でスイス国内における国際モータースポーツ競技が禁止されていたため、参戦までには多くの障害があった。1970年、アマチュアレーサーだったペーター・ザウバーはヒルクライムに参戦するため、自宅の地下室でザウバー・C1を製作。ヒンウィルにガレージを開設し、正式にチーム活動を開始した。1973年、ザウバーはドライバーを引退し、シャシーコンストラクターに専念する。ザウバーの活躍に目をつけた出資者から融資を得て、ザウバー・C3を3台製作。ギ・ボワザンによって設計されたこの車はスイスのスポーツカー選手権で活躍することになる。1974年、フリードリヒ・ヒュルツェラーがヒルクライムレースでC1を駆って優勝を果たした。1975年には自社初のモノコックシャシーとなるザウバー・C4を製作。1976年にはBMWエンジンを搭載するザウバー・C5を製作し、同年のインターセリエでヘルベルト・ミューラー () がシリーズチャンピオンを獲得した。1977年にはル・マン24時間レースに初挑戦し、1978年にはル・マンで2リッタークラス2位を獲得した。一時期スポーツカーレースから離れ、1979年にはローラのF3用シャシーを製作し、同年のスイスF3選手権では1位(ビート・ブラッター)、2位、4位を占めるという成績を収めた。1980年から1981年にかけてはプロカー選手権 () 用のBMW M1の開発に携わった。1982年、コスワースDFLエンジンを搭載するグループCマシン、ザウバー・SHC C6を製作し、GSスポーツとジョイントして世界耐久選手権に参戦。C6はチーム初の風洞施設による設計であり、テクニカルディレクターとしてレオ・レスが参画した。1983年にはBMWエンジンを搭載するザウバー・C7を製作した。1985年、ザウバー・C8の開発にあたり、メルセデス・ベンツから市販ベースのターボエンジンの供給を受けた。奇しくも先述の1955年のル・マンの大惨事によって30年間レースから遠ざかっていたメルセデスを、同事故によってレースから遠ざかっていたスイスのモータースポーツチームが呼び戻したことになる。デビュー戦のル・マン24時間レースでは予選中にユノディエール・ストレートでマシンが宙を舞い、決勝出走を断念した。1986年、世界スポーツプロトタイプカー選手権にC8を本格投入し、第7戦ニュルブルクリンク1000kmにて初優勝を遂げた。1987年、さらに進化したザウバー・C9を開発。1988年にはメルセデスが正式にモータースポーツに復帰することを発表し、チーム名を「チーム・ザウバーメルセデス」とした。これによりザウバーはワークス・チームとなり、選手権開幕戦より優勝を果たすなど11戦中5勝を挙げ、チームズランキング2位を獲得した。1989年、C9は開幕戦鈴鹿で1-2フィニッシュを挙げ、世界三大レースの1つであるル・マン24時間レースにも優勝。同年の選手権8戦中7勝という圧倒的な強さを見せ、ドライバーズとチームズのダブルタイトルを制覇した。1990年もメルセデスベンツ・C11を投入して9戦中8勝、ル・マン優勝こそジャガーXJR-12に譲ったものの、世界スポーツプロトタイプカー選手権連覇。また、前年のドイツF3選手権のランキング上位3名(カール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ミハエル・シューマッハ)を採用し、ヨッヘン・マスらベテランと組ませて交替で参戦させた。この「メルセデス・ジュニアチーム」はメルセデスのレースディレクターであるヨッヘン・ニアパッシュが計画したもので、若手ドライバーの起用に難色を示していたザウバーも彼らの才能を認めることになった。1991年はエンジンレギュレーション変更に合わせNAエンジンのメルセデスベンツ・C291を投入したが、信頼性不足で1勝(ランキング3位)に終わり、この年を以って耐久レースでの活動を終了した。ペーター・ザウバーは「私はスポーツカーレースとともに生まれ、ともに死ぬことを望んでいた」「しかし、メルセデスがF1の計画を研究するよう言ってきたときには、ほかに方法がないのだと理解した」と語っている。ザウバーはF1転向に向けて準備を進め、ティレルからデザイナーのハーベイ・ポスルスウェイトを招いてニューマシンの設計を任せた。また、1991年シーズン中にはドライバー候補のヴェンドリガーとシューマッハを一足先にF1チームへと送り込んだ。しかし、1991年11月28日にダイムラー・ベンツはF1へのワークス参戦を行わないと発表した。ザウバーは代わりに資金援助と技術支援を受け、プライベートチームとして計画を続行することになる。ポスルスウェイトはザウバー・C12の基礎デザインを残してフェラーリへと移籍した。1992年2月、ザウバーは1993年よりF1に参戦し、ヴェンドリンガーとシューマッハを起用することを発表した。シューマッハが所属するベネトンは1995年までの契約を主張し、交渉の結果、ザウバーはシューマッハの意思を尊重してJ.J.レートと契約した。1992年9月にはC12のシェイクダウンを行い、オフシーズンテストではウィリアムズに次ぐタイムを記録した。エンジンはメルセデスが資本協力するイルモアエンジンを「ザウバーV10」として搭載。漆黒のマシンのエンジンカバーには"Concept by Mercedes-Benz"の文字が記され、グッドイヤータイヤの5チームの優遇枠(レース・テストを問わずタイヤの無償かつ無制限供給)に選ばれるなど、デビュー前からルーキーチームらしからぬ存在感を放った。1993年、デビュー戦の南アフリカGPではJ.J.レートが5位に入賞。シーズンを通してマシントラブルが多かったものの、決勝最高4位(2回)、合計12ポイントを獲得し、コンストラクターズランキング6位という上々の成績を収めた。メルセデスの支援は同年末までとされていたが、翌年以降も継続されることになる。1994年、メルセデスはイルモアエンジンを正式に「メルセデスエンジン」と呼称して、F1(ザウバー)とCART(ペンスキー)の両シリーズへ供給した。ザウバーはメインスポンサーとしてドイツで刊行されている金融雑誌「ブローカー」と契約したが、約束の金額が振り込まれないトラブルが発生し、新たにスイスの時計メーカースウォッチ(ブランド名はティソ)がメインスポンサーとなった。ドライバーはレートに代わり、全日本F3000で活躍していた元ジュニアチームのハインツ=ハラルド・フレンツェンを起用した。第4戦モナコGPで、エースドライバーのカール・ヴェンドリンガーがフリー走行中にクラッシュして瀕死の重傷を負った。チームはドライバーの頭部が剥き出し状態であったことが重傷を負った原因と判断し、空力効率よりもドライバーの安全を優先して、次戦よりザウバー・C13のコクピット側面にサイドプロテクターを装着した)。残りのシーズンは「壊し屋」の異名をもつアンドレア・デ・チェザリスを起用した。メルセデスは2年間の結果をみて、翌年からエンジンの独占供給先を強豪チームのマクラーレンに変更すると決定し、長年のパートナーシップに終止符が打たれた。1995年、ザウバーはベネトンに去られたフォードと契約し、ワークスのZETEC-Rエンジンの供給を受け、出直しを図った。また、オーストリアのドリンクメーカーであるレッドブルがチーム株式の一部を取得してメインスポンサーとなり、チーム名も「レッドブル・ザウバー」となった。第12戦イタリアGPではフレンツェンがチーム初となる3位表彰台を獲得したが、V10エンジン全盛期の時代にV8エンジンでは限界があった。1996年はフォード初のV10エンジンを搭載し、レッドブルに加えてマレーシアの石油会社ペトロナスのスポンサーも獲得した。しかし、シーズン開幕前にフォードは翌1997年から参戦するスチュワート・レーシングへ独占供給を行うと発表し、ザウバーはまたしてもワークスエンジンを失うこととなった。フレンツェンはザウバーでの活躍が認められ、ウィリアムズへの移籍が決まった。1997年からはフェラーリの1年型落ちのカスタマーエンジンを獲得。スポンサーであるペトロナスのバッジネームを付けて、「ペトロナスエンジン」として使用することとなった。またホンダ、マクラーレン、フェラーリと渡り歩いた後藤治がエンジン担当としてフェラーリから派遣される形でチームに加入した。後藤は関連会社のザウバー・ベトロナス・エンジン (SPE) でオリジナルのエンジン製造計画に携わるが、この計画は幻に終わった。1998年はベネトンからジャン・アレジが加入し、第10戦オーストリアグランプリ予選でチーム初のフロントロー(2位)を獲得した。またリザーブドライバーにはロビン・フラインスが就いた。この年の車 C32 は車体の配色を前年までの白からグレーに変更。1990年代のザウバーの車に似たものとなった。第2戦であるマレーシアグランプリにて、ヒュルケンベルグが8位を獲得したものの、C32 は前年の車ほどの戦闘力が無いことは明らかで、ヒュルケンベルグでも10位がやっとであった。新人のグティエレスはベルギーグランプリまでポイントが獲得できなかった。しかし、このような状況の中、第12戦イタリアグランプリでは、ヒュルケンベルグが地元かつエンジン供給元のフェラーリ2台を打ち破り予選3位を獲得し衝撃を与えた。2013年7月15日、セルゲイ・シロトキンが開発ドライバーとして加入したことが発表された。これはロシア企業との契約の一部であり、2014年のレースドライバー契約も含まれるとされた。第14戦のシンガポールグランプリでは、ヒュルケンベルグとグティエレスの双方がポイント圏内である6位と7位を走行していたが、タイヤの摩耗が原因となり、ヒュルケンベルグが9位入賞にとどまった。グティエレスは12位に終わった。第15戦の韓国グランプリでは、ヒュルケンベルグが改善を見せ4位入賞。この結果コンストラクターズポイントでトロ・ロッソを抜き7位に浮上した。第16戦の日本グランプリでは、2013年シーズン初めてのダブル入賞。ヒュルケンベルグはレースの大部分で4位を走行していたが終盤アロンソとライコネンに抜かれ6位。グティエレスはニコ・ロズベルグとの接戦を制して7位となった。最終の2戦でもヒュルケンベルグはポイントを獲得。ザウバーは57ポイントを獲得し、コンストラクターズで7位となった。リザーブドライバーがセルゲイ・シロトキンとギド・ヴァン・デル・ガルデというドライバーラインナップとなった。さらに「アフィリエイトドライバー」として前年までインディカー・シリーズで戦っていた地元スイス国籍の女性ドライバーシモーナ・デ・シルベストロと契約した。しかし、マシンの性能は低く、シーズンを通して苦戦を強いられた。最高位はスーティル11位、グティエレス12位で、参戦以来初のノーポイントシーズンとなってしまった。このラインナップは、金銭的理由のためであるとチームが認めている。実際にブラジル銀行のスポンサード(ナッセの持ち込みスポンサー)に伴い、車体の配色が青と黄色に変わった。また、リザーブドライバーはフェラーリ・ドライバー・アカデミーのメンバーでGP2を走るラファエレ・マルチェロが起用された。ペイドライバー2人でのコンビになったが、開幕戦で完走11台のサバイバルレースを生き残りナッセが5位、エリクソンが8位とダブル入賞を記録し、以降も散発的に入賞を記録していき、予選でもQ3進出を複数回果たすなど前年の不振が嘘のような活躍を見せた。本家フェラーリの復活に貢献した大幅パワーアップのフェラーリ製PUがザウバーの性能向上を後押しした。ザウバーのドライバー選択が正解だったことの証明になったが、開幕前にはこの2人の起用が原因でザウバーの存続及びF1界を揺るがす大騒動に発展してしまった(後述)。前年からのドライバー契約騒動と財政難が尾を引き、ついに2月分の給料の一部が支払われない事態に陥り、続く3月分の給与支払いにも遅れが生じた。このため、早くも第3戦中国GP前には参戦自体が危ぶまれたが、エリクソンのスポンサーの前払いにより参戦を継続することができた(同時に3月分までの給与も支払われた)。しかし4月分の給与支払いも遅れ、スペインGP後に行われるバルセロナでの合同テストを欠席しており、財政難が根本的に解決されたわけではなく、チームの売却先を求めることになった。7月20日、共同株主だったスイスのロングボウ・ファイナンスS.A.に所有権を譲ることが正式に発表された。これに伴い、チーム創設者のペーター・ザウバーはすべての業務から完全に引退、後任にロングボウ・ファイナンス社CEOのパスカル・ピッチが就くことが決まった。チーム代表のモニシャ・カルテンボーンは残留する。2015年、ザウバーがレギュラードライバー2名の枠に対し、多数のドライバーと故意に多重契約していたことが発覚し裁判沙汰に発展した騒動。2014年シーズン中、ザウバーは資金難であることが繰り返し報道されており、ケータハム・マルシャに次いで崩壊するとの噂やカナダの億万長者ローレンス・ストロールにチームを売却するとの噂がささやかれる程の状況に陥っていた。そこでこれを解消するためにザウバーが「多数のペイドライバーと契約し、資金を得る」という方法を採ったとされている。レギュラードライバーとして有効な契約を持っていたとされるのは、マーカス・エリクソン、フェリペ・ナッセ、エイドリアン・スーティル、ギド・ヴァン・デル・ガルデの4名であり(後述するが、エステバン・グティエレスとジュール・ビアンキを含む6名との説もある)、このうちザウバーが正式に契約したとするのはエリクソンとナッセであった。しかしスーティルとヴァン・デル・ガルデの両者から契約違反を訴えられ裁判で争うこととなり、最終的にはどちらも敗訴して合計約23億円もの違約金を支払う羽目になってしまう。結果としてザウバーの資金難の解消には繋がらなかった上にザウバーの歴史に大きな汚点を残してしまった。2014年のシーズン後半よりザウバーの2015年のドライバーについては様々な憶測が流れ、契約のあるスーティルが続投、リザーブのヴァン・デル・ガルデまたはシロトキンの昇格などといった噂が報じられていた。しかしザウバーは、まずエリクソンとの契約を発表。残るシートに噂になっていたドライバーの中から1人が入ると思われたが、その後ナッセと契約することを公式発表。この契約発表はF1パドック内で物議を醸した。当然これに対しスーティルが来季も契約が残っていると主張。さらにヴァン・デル・ガルデがすでに2015年のドライバー契約をしており契約違反だと主張し、実際は発表前にシートが埋まっていたことが発覚。ザウバー及びカルテンボーンはこれについて「これが正しい方向への一歩」の一点張りであり、資金難が原因でこのラインナップにしたことを主張していた。しかしこの際に他のドライバーについて明確な説明をしなかったことが後の大騒動の発端となる。2015年シーズン開幕前には両者がメディアに契約違反を訴えるニュースも見られなくなり、何事もなくシーズン開幕と思われていた。しかし開幕戦オーストラリアGP直前になり突然ヴァン・デル・ガルデがシートを明け渡すよう要求、ザウバーを相手取って訴訟を起こす。これによりザウバーとカルテンボーンは法廷に引きずり出されてしまう。裁判の結果、スイスとオーストラリアでの裁判はヴァン・デル・ガルデ側が勝訴。判決では「被告(ザウバー)は、ヴァン・デル・ガルデ氏がザウバーのレースドライバーの1人として2015年のF1シーズンに参加する権利を奪う一切の行為を控えなければならない」と発表された。カルテンボーンは「今回の判決にがっかりしています。(中略)われわれが指名した2人のドライバー仕様にあつらえたマシンに準備が整っていないドライバーを乗せることでチームやコース上にいる他のドライバーの安全を危険に晒すようなことはできません」と反論しているが、この弁護に対しては元F1ドライバーのヤン・ラマースなどから見当違いと批判された。ザウバーは望みを賭けて控訴したがその後棄却され、これによりエリクソンとナッセのどちらかがシートを失うことが決まってしまった。その後もヴァン・デル・ガルデのスーパーライセンスの申請書類にサインを拒否するなどして拒み続けたが、ついにはザウバーがヴァン・デル・ガルデがドライブする権利を妨害しているとして法廷侮辱罪にあたると審議され、ザウバーの資産差し押さえやカルテンボーンが逮捕されるのではという危機に発展してしまう。しかし、バーニー・エクレストンやペーター・ザウバー、その他支援者の仲介によりこの件は最終的にザウバー側がヴァン・デル・ガルデ側に違約金として1500万ユーロ(日本円にして約19億円)を支払うことで合意し、ヴァン・デル・ガルデはザウバーとの契約を解除し2週間近く続いた騒動に一応の解決を迎えた。この訴訟騒動についてカルテンボーンは、責任を取っての辞任について聞かれて「それは考えていません」と話しているほか、実刑判決が下ることを恐れていたことも話している。ヴァン・デル・ガルデはこの一連の騒動に対し、「F1での僕の未来はおそらく終わりだ」と辛い胸中を語った他、「僕のスポンサーたちは2015年シーズンに関連したスポンサー料を全額、2014年の前半にザウバーに支払い済みだ。僕のスポンサーの前払い金によってチームは2014年に生き残ることができたんだ」と裏事情を暴露。ここ2年のザウバーの資金難ぶりが全世界に向けて発信されてしまった。当初、同じくシートを奪われたスーティルは問題を表沙汰にはしていないが訴訟を考えていることが報道されていた。ヴァン・デル・ガルデとの紛争中も特に目立った動きはなかったものの、翌2016年1月になりザウバーを告訴し、裁判所に受理された。ただしスーティルの場合はシートを取り戻すのが目的ではなく、契約違反に対する違約金を求めるものだった。そして裁判の結果スーティルが全面勝訴し、スーティルが要求した違約金350万スイスフラン(約4億1,000万円)をザウバーが支払うこととなった。ザウバー側は裁判においてスーティルとの契約を破棄した理由について「パフォーマンスの低さ」「4,000万スイスフラン(約47億円)のスポンサー資金持ち込みの約束が果たされなかったため」などと弁明したが、認められなかった。スーティルは判決に対し「気が休まったよ。僕は何も間違ったことをしなかったんだからね」と満足している。後にコリン・コレスが語ったところによると、実際にはこの4名に加えてグティエレスとマルシャのビアンキも契約していたとされており、ザウバーないしカルテンボーンが「計算の上で」6人ものドライバーと重複契約を結んでいたと指摘している。このことについてはザウバーはコメントしておらず、新たなトラブルには発展していない。ザウバーの車体形式は(他のカテゴリーで走ったシャーシも)頭文字がCとなっているが、これはペーター・ザウバーの妻であるクリスティーヌ ("Christine" ) のイニシャルが由来である。ただしBMWザウバー時代の4シーズンは「F1.xx」(xxは西暦の下二桁)が使われた。このためか「C25」から「C28」までは欠番となっている(なお、WSPC/SWC時代にも「C10」が欠番)。

出典:wikipedia

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