一般社団法人日本ボクシング連盟(にほんボクシングれんめい、、JABF)は、日本国内におけるアマチュアボクシングの競技統括団体である。日本オリンピック委員会及び国際ボクシング協会 (AIBA) に加盟している。2013年4月1日に社団法人日本アマチュアボクシング連盟より改称、元文部科学省所管。日本のボクシング史では現在のJABFにあたる全日本アマチュア拳闘連盟の発足前にも、アマチュアボクシングの大会が開催されていた。1925年(大正14年)5月16日と18日には、第1回全國学生拳闘選手権大会が開催された。このときの主催団体は渡邊勇次郎創設した日本拳闘倶楽部と学生拳闘連盟だった。しかし、この頃の学生拳闘連盟はしっかりと規定された組織ではなかった。同年11月14日と15日には、さらに第2回大会が行われた。この2回の大会が、整ったアマチュア組織設立の誘引となった。翌年に入ると、学生選手の間で組織確立の動きが活発化するようになり、慶應義塾大学の石川輝や明治大学の臼田金太郎や泉など中心に本格的な新連盟設立の準備が始まった。1926年(大正15年)7月14日に、神田ブラジルにて、「全國学生拳闘連盟」とともに「全日本アマチュア拳闘連盟」の発会式がおこなわれた。学生連盟の会長は勇次郎、アマチュア連盟の会長は大日本帝国陸軍中将の堀内文次郎が就任した。1926年(大正15年)11月27日と28日に、第1回全日本アマチュア拳闘選手権大会を開催した(会場は学生選手権同様に靖国神社相撲場)。翌1927年(昭和2年)5月には大日本体育協会に加盟し、この体育協会の理事には勇次郎、加藤隆世の2人が就任した。さらに、6月25日には、青山会館にて慶應義塾大学と明治大学の間で「第一回慶明対抗戦」が開催された。同年秋には、第4回明治神宮体育大会にボクシング競技が追加され、アマチュア連盟、学生連盟、大日拳の3団体が参加した。1928年(昭和3年)1月に、オリンピック出場を果たす為に、宮澤孝、小丸辰巳、石川の3人がアマチュア連盟の規約が全面的に変更した。さらに、組織の不備を埋める為、まず全國学生拳闘連盟を関東学生拳闘連盟に解消し、関西で関西学生拳闘連盟を発会、加えて、それら2つの組織から全日本学生拳闘連盟を新たに発足した。そして学生選手権も、関東、関西両方で選手権を行い、その優勝者同士で対抗戦を行って学生王者を決定する方式を採用した。同年6月17日に、九段にて第一回東西対抗全日本学生選手権大会が行われた。1928年(昭和3年)7月28日から8月12日にかけて行われた、オランダのアムステルダムで開催されたアムステルダムオリンピックに、渡邊勇次郎の尽力もあって岡本不二と臼田の2人が派遣された。しかし、アマチュア側からは、臼田と渡邊はプロボクシングに関わっているという理由から拒否反応があった。結果的には、ボクシングを盛り上げようとする勢力が勝ち、臼田と渡邊がオリンピックに携わることが可能になった。だが、これが原因でプロアマ間の関係悪化に繋がった。2001年(平成13年)より女子アマチュアボクシングの国際大会が開催されるのを機に2002年(平成14年)にJABFは女子を認定し、6月には女子ボクシングの初の大会「第1回東京都大会」を開催。翌2003年(平成15年)には、3月15日から16日の2日間にかけて、東京の日野市にある日野自動車健保プラザで「第1回全日本女子アマチュアボクシング大会」を開催した。実践競技だけでなく、男子にはない「演技競技」も行われた。全日本女子大会は2010年の第8回より日本選手権となり「全日本女子アマチュアボクシング選手権大会」に改称。2008年(平成20年)には世界女子選手権に初めて日本から選手を派遣した。さらに女子ボクシングが加わった2010年アジア競技大会にも派遣。同様となるロンドンオリンピックを目指したが、予選をかねた世界女子選手権で敗退し当大会には1人も送り込めず。現状では全国レベルの大会が全日本女子選手権に限られており、リオデジャネイロオリンピックへ向けての強化の足かせとなっていた。そのため、連盟では2013年(平成25年)より新大会「女子ボクシング チャレンジマッチ」を新設し、その第1回を後楽園ホールで開催すると発表した。なお、女子アマチュアボクシング自体は非公認としては1996年(平成8年)より開かれており、非公認時代には風神ライカ(当時:来家恵美子)らが活躍し、藤岡奈穂子は非公認・公認合わせて全日本で5度優勝している。また、この大会の中心となって運営にあたったのは現JABF女子委員会委員長の原千恵である。これまで、JABFでは競技者を高校生以上に限定してきたが、指導者達からの要望もあり、「幼年ボクシング」と称した小学校5年生以上を対象とした競技会を開催する方向となった。参加資格としては1年以上の練習経験があり、かつシャドーボクシングで一定水準を持つことが求められる。試合は小学生は1分半3R、中学生は2分3Rとなる。2009年内にも都道府県レベルの大会が開かれ、2012年(平成24年)4月1日に日野市市民の森ふれあいホールにて第1回全日本幼年ボクシング大会を開催。2014年(平成26年)の第3回からは全国アンダージュニアボクシング大会に改称された。現在、小中学生レベルの大会としては日本キッズボクシング協会主催の全国ちびっ子ボクシング大会などが存在し、2008年(平成20年)からはプロボクシング界が中心となって全国U-15ジュニアボクシング大会も開催されている。一部の都道府県連盟では既に小中学生対象の競技会が実施されている。前述した通り(#オリンピックへの選手派遣)、プロボクシング界との交流はオリンピック出場を巡り対立して以来、年間表彰選手を合同で表彰する以外公式には行われておらず、特に1990年代半ば以降のプロアマ間は事実上の断絶状態にあった。プロ転向を目指す選手は強化指定からも除外された。また、元プロ選手のアマ転向やプロアマ交流戦はおろか、アマ関係者がプロと何らかの形で接触する事さえ事実上認められなかった。過去に中岸風太が中学時代にプロのエキシビションに参加したことを理由にアマチュア選手登録を停止され裁判に至ったケースなどがある。このような冷え切った状況が長く続いたプロアマ関係であったが、2010年(平成22年)に数多くのプロボクサーを育成し、プロに対する理解が深い山根明がJABF副会長に就任すると、就任を祝うパーティーで同年に(JBCオーナーライセンス保持者が経営するボクシングジムの組織である)日本プロボクシング協会(JPBA)会長に就任した(自身も学生時代にアマチュア経験のある)大橋秀行と握手を交わし、相互協力を約束した。なお、断絶時にもオリンピック日本代表選手と世界チャンピオンがスパーリングを行うなど選手レベルの交流は全くなかったわけではないが、公にされることはほとんどなく黙認されていた。それが、公式に認められた形となり、ボクシングマスコミでもスパーリングの様子などが取り上げられるようになった。また、一部JPBA加盟ジムではJABFにも加盟してアマチュア活動も行っているが、JABF公式戦ではジム名ではなく選手の勤務先などを所属扱いとし、JBCライセンス保持者のセコンド入りを禁止されていた。2011年(平成23年)8月7日、赤井英和を、プロ経験者のアマチュア復帰を認める規則により、アマチュアボクシング指導資格の第1号適用者とすることを決定する。2013年2月3日、村田諒太のプロ転向問題を受け、プロ側と紳士協定を結ぶ必要性が話し合われた。この前日にはJPBA・大橋から「獲得したジムは連盟に強化費を寄付すべきだ」などと提案を受けていた。JOC(日本オリンピック委員会)からの委託金はあるものの、JOCが設置した第三者特別調査委員会の調査報告書によれば、強化費配分の基準となる2010年度の経常収益およびJOCによる2012年度の競技団体ランクでボクシング競技は五輪競技中で最低レベルの評価を受け、連盟の財政規模は5,446万円程度とされており、連盟は選手育成のため合宿・海外遠征に強化費を費やしている。連盟は、国の資金で強化した選手は連盟の財産であるとして、直接勧誘の禁止、選手の引退後の生活保証などについて内規を設ける方針を示し、同年5月26日の総会でアマチュア規則細則を定めた。この細則は同年7月1日から施行されている。登録選手はあらかじめ、アマチュアボクシング憲章、倫理規定、アマチュア規則、競技規則、アマチュア規則細則に従う旨の誓約書を提出し、またプロから勧誘されたり、対価を得て競技活動したりする場合には申請書(プロ志望届)を提出して連盟の承認を得る必要がある。その後、7月11日開催の緊急執行部会で、アンダージュニア(小学生・中学生)の登録選手には誓約書の提出を求めないことを決議した。1990年代には国際資格を持つ審判員が減り、国際大会に審判を派遣することを停止し、日本国内と国外で試合の判定基準の違いが目立つようになっていたが、山根明が2010年に副会長に就任すると、審判員の資格取得と国外派遣が再開され、国際試合に選手・役員を積極的に派遣するとともに、主要な国際大会の代表選手は選考会を通して決めるようになった。翌2011年(平成23年)に会長に就任すると、「選手が主役」をモットーに国際化を核とした連盟の改革に着手。国内大会でもAIBAオフィシャルルールの全面導入を決定した。第81回全日本選手権が初めて同ルールが採用された大会となり、以降も順次採用される。公式試合用の用具もウイニング製から2012年(平成24年)よりアディダス製に変更された。オリンピックでは、国ごとの代表制から大陸ごとの代表制に変わった1992年のバルセロナ大会以降、日本の代表選手数は激減していたが、2012年のロンドン五輪では5大会ぶりに4人が代表枠を確保して出場。大会前には試合形式の遠征で韓国に選手を派遣したりといった試みも採り入れ、初めて一大会で複数メダルを獲得するという成果を上げた。山根は、国際大会への選手派遣や選手強化費の増額等の改革がロンドン五輪での好成績をもたらしたことなどにより、第67回岐阜国体開催期間中の同年10月7日、国体会場の岐阜産業会館で開催された理事会において全会一致で終身会長に就任し、同年12月には、アジアボクシング連盟 (ASBC) がアジアのボクサーの躍進を機に、関係者に感謝し奨励するために新設したという年間賞で、最優秀会長に選出された。2013年月2月、AIBAが設立するプロ団体APBへの関わりを検討する専門委員会の設置が承認された。また、AIBAのルール変更を受け、同年7月1日以降の国内試合でもルールが改定されることになった。主な変更点は、10点法の採用(10点満点の減点方式で、10対10の採点は避ける。従来は加算方式)、RSCを廃止しTKOとすること(主審はストップを最小限に抑える)、成年男子の試合におけるヘッドギアの廃止、セコンドを3人まで認めること(従来は2人)、出場選手の年齢上限を41歳の誕生日前日とすること(従来は35歳の誕生日前日)、ワンデーソフトコンタクトレンズを申告の上着用容認など。2012年(平成24年)度からは組織名から「アマチュア」を外し、「日本ボクシング連盟」に改称することが承認されたが、手続き等の問題もあるため当該年度の改称は見送った。2013年月2月3日、世界的に「アマチュア」を名称から外す団体が増えている情勢に鑑みて、臨時総会で「一般社団法人日本ボクシング連盟」への改称が決定。同年4月から実施することとなった。2013年4月1日より一般社団法人日本ボクシング連盟に移行された。日本のボクシング史上唯一の天覧試合、アマチュアボクシングでは2013(平成25)年10月7日今上天皇明仁・皇后美智子両陛下が日野市市民の森ふれあいホールでJABF終身会長山根明の解説で第68回国民体育大会ボクシング競技を観戦。少年の部・ライトフライ級とフライ級準決勝合計4試合を観戦。プロボクシングでは前例が皆無。シニア及びジュニアについてはAIBAが定める階級に準ずるが、ミドル級より上の階級については選手層の薄さのため挙行されない場合が多い。一方、AIBA管轄外であるアンダージュニアについては小学生・中学生別、男女共通の階級を独自に定めている。を参照。
出典:wikipedia
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