西東京市(にしとうきょうし)は、東京都の多摩地域東部にある市。地形的には武蔵野台地のほぼ中央に位置し、関東ローム層に覆われている。水利の便の乏しい多摩地域にあって市内に石神井川、白子川、新川(白子川支流)と玉川上水から分水した千川上水があり、比較的水利に恵まれた土地である。市域は東西4.8キロメートル、南北に5.6キロメートル、北側がすぼまった葉の形をしている。区部と境界を接している隣接5市の内の一つである。交通は東京の中心へ向かう東西が主で青梅街道、五日市街道の主要道路、鉄道も西武池袋線、西武新宿線がいずれも市内を東西に連絡している。鉄道は南北への連絡はなく、南北の移動は市域のほぼ中央にあたる谷戸新道、境新道を用いてのバスが中心となる。市内の中心は、西武新宿線西武柳沢駅、田無駅北側と西武池袋線ひばりヶ丘駅、保谷駅南側となる。以下に西東京市成立までの歴史を記述する。(出典)市内にはいくつかの遺跡があり、旧石器時代から人が住んでいたことがわかっている。最も大規模なものは下野谷遺跡(国史跡)で、旧石器時代末の細石器群や縄文時代の住居跡約390軒、竪穴4基、掘立式建物跡19棟など非常に多くの遺構が発掘されている。また、東伏見稲荷神社遺跡では1940年に旧石器が発見されているが、これは日本で初めて旧石器時代の遺跡として認定された岩宿遺跡の発見(1946年)よりも早い(ただし、東伏見稲荷神社遺跡はその時点で旧石器時代のものと認定されていない。)。これらはいずれも市内南部の石神井川流域にある。一方、市内北部の白子川流域からは、北宮ノ脇遺跡(旧石器時代、縄文時代)、上前遺跡(縄文時代)、中荒屋敷遺跡(旧石器時代、縄文時代、弥生時代)などが発見されている。西東京市の地域が属する武蔵国が設置されたのは飛鳥時代である。田無地域は多摩郡、保谷地域は新羅郡に属していた。なお、市内の西原遺跡から奈良時代の土器が、坂下遺跡からは平安時代の住居跡類や土器類が出土している。市内北部を流れる白子川(大泉堀)の流域に下保谷、中部を流れる新川の流域に上保谷と田無の集落が形成された。保谷の地名は熊野那智大社文書(1504年〜1555年)に「ほゝや」の文字が、小田原衆所領役帳(後北条役帳)(1559年(永禄2年))には「保屋」「田無」の文字が見られ、この頃には保谷・田無の地に集落が成立していることがわかる。また、14世紀の後半には、宮山(谷戸町付近)に尉殿権現が、16世紀には下保谷村総鎮守の三十番神社(現天神社)が建立されている。(その後、尉殿権現は17世紀に上保谷の尉殿権現(現尉殿神社)と田無の尉殿権現(現田無神社)に分祀されている。)1600年頃、江戸城造営のための石灰運搬のため青梅街道が開削されたが、田無この街道の宿駅が置かれた。この際、谷戸などの住民が宿駅周辺に移住し、以後、田無は青梅街道の宿場町、交通の要所として栄えていく。一方、保谷では享保期(1716年〜1736年)以降に下保谷新田(現在のひばりが丘周辺)と上保谷新田(現在の新町周辺)が開墾された。特に、玉川上水の分水である千川上水の整備により開墾された上保谷新田は順調に開発が進み、後に上保谷新田村として上保谷村から独立している。1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行に伴い、当時の下保谷村、上保谷村、上保谷新田村が合併し保谷村が成立した。この際、旧村域はそれぞれ保谷村の大字「下保谷」「上保谷」「上保谷新田」となっている。一方、田無では、これに先立ち1879年(明治12年)に田無村が町制を施行し田無町となっている。1889年に開通した甲武鉄道(現在のJR中央線)は、当初、青梅街道沿いに敷設する計画だった。しかしながら、田無の農民・商人の反対により、そのルートは町内を大きく外れた。甲武鉄道は、青梅街道沿いのルートを断念した後に計画した甲州街道沿いのルートも調布の住民の反対で断念し、両街道の中間を通る現在のルートとなっている。このことで、田無は次第にその優先的な地位を失う。一方、保谷では、地元の有力者が駅舎などの土地を寄付するなど積極的に武蔵野鉄道池袋線(現在の西武池袋線)を誘致、池袋〜飯能が1915年(大正4年)に開通した際に保谷駅も開設、また、1922年(大正11年)の池袋〜所沢間の電化の際には保谷車庫も開設されている。(このためか、西武池袋線開業当時の保谷駅隣駅である石神井公園駅(開業当時は石神井駅)と東久留米駅の間のルートは、両駅間を直線で結んだルートに比べてかなり南にずれることで保谷駅を通っている。)その後、1924年(大正13年)に池袋線にひばりヶ丘駅(開業当時は田無町駅)が設置、1927年には西武鉄道村山線(現在の西武新宿線)開通と同時に東伏見駅(開業当時は上保谷駅)、西武柳沢駅、田無駅が設置された。保谷市内の4駅、田無駅ともターミナル駅である池袋、新宿から15-25分程度と比較的近いこともあり、後に両市とも東京のベッドタウンとして発展した。戦時中は、旧田無市内の軍需工場が空襲を受け、旧保谷市南部も中島飛行機武蔵工場に近いため空襲を受けている。そのため南部で隣接する武蔵野市とともに不発弾が発見されることがある。また、1936年(昭和11年)にシチズン時計が田無工場を開設、その後、2001年(平成13年)には本社も西東京市に移転するなど、1941年(昭和16年)には保谷町に東洋光学硝子製造所(現HOYA)が創業と、この時代に企業の進出が続いている。この頃、保谷では1940年(昭和15年)に町制を施行している。戦後は、1959年(昭和34年)に日本住宅公団最大の公団住宅であるひばりが丘団地が保谷町・田無町(および久留米町にまたがる地域に造成されるなど両市とも順調に人口を増加させ、1967年(昭和42年)には保谷町、田無町とも市制を施行して、それぞれ保谷市、田無市となっている。旧保谷市は旧田無市の北、東、南を囲むような形をしており、特に南部が細長い市形となっていたため、行政効率などの点で田無市との合併が古くから考えられてきていた。また、ひばりが丘団地が2市と東久留米市にまたがっており、3市での合併を構想したこともあった。新市名の選考にあたっては、まず公募によって集まった名称から「西東京市」「けやき野市」「北多摩市」「ひばり市」「みどり野市」の5つが候補として絞り込まれた。これを受けて実施された市民意向調査によって最も多くの支持を集めた「西東京市」が、合併協議会によって新市名と決定された。しかし、単に『東○○市』『西○○市』風の方角名称にすることに対しては、同時期に合併が行われた『さいたま市』(埼玉県)や『東かがわ市』(香川県)などと同様に、「安易過ぎる」との批判も多い。しかし、この『西東京市』以降、『西○○市』風の方角自治体が続々と誕生している。なお、それ以前にも東大阪市や東広島市のような例はあった。「西東京」という呼称は、「旧東京市の西」ではなく、「旧東京府の西部」を指すことが多かった。例えば西東京バスは青梅、日野、八王子地区に路線を持っている。そのため、旧東京府の中央部にある市にこの名称を付ける事に疑問を呈する意見もあった。合併協議会でも、東京という市は存在せず、位置的に正確な表現とは言えないのではないかという意見があった。歴史的には、「東京」という地名は、明治維新期に「東の京」という意味から名付けられた。「西東京」では「東の京の西」という意味になる。なお、現在の東京都全体から見てむしろ中央より東寄りに位置することは、その名称に対する疑問の一因である。北多摩市にした場合、北多摩郡の範囲(多摩郡からの分割時点で2町1駅36村)に比べて、西東京市の範囲が北東に寄りすぎており、かつ保谷市は1907年(明治40年)に東京府北多摩郡に編入されるまで埼玉県新座郡(新羅郡)(1896年(明治29年)に北足立郡に合併)に属しており、多摩郡の支配地域ではなかったという問題がある。合併協議会でも、多摩市と混乱を生じる可能性や、地域的に北多摩郡の一部に過ぎず適当ではないといった意見が出されている。また、市内の地名にも方角が付くものが多く(例:南町、東町、北町)、「東京都西東京市南町」などと方角だらけの住所表記となってしまう地域も多い。2007年(平成19年)11月「報酬審議会」で他市との比較を理由に10パーセント引き上げが答申された。答申通り報酬は改訂され、2008年(平成20年)4月1日より市長月額8万5千円の増額(月額105万円の報酬)、議員月額5万5千円の増額(月額55万円の報酬)となった。これに対して、市民から複数の報酬引き上げ撤回を求める陳情が提出されるもいずれも不採択となり、「市長・議員の報酬は増額、市民へは増税」として新聞・テレビ等でも取り上げられた。また、引き上げ分の受け取りを拒否した市議会議員森てるおに対して、市側は報酬(全額)の支払いを停止して法務局に全額を供託する事態となった。東京都25市の中で5番目の人口である。合併後人口は増加傾向にある。2016年4月には推計人口が20万人を超えた。2005年の夜間人口(居住者)は189,386人である。市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は148,056人で、昼は夜の0.782倍の人口で、夜間に比べて昼の人口は4万1千人ほど減る。昼夜間人口比0.782は東京23区および東京都市部25市の中で狛江市、稲城市に次いで3番目に小さい数字で、西東京市がオフィスや工場・学校が少なく住宅の多い街であることが示されている。通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者59,549人、市外から市内へ入る通勤者は24,210人と通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は11,024人、市外から市内へ入る通学生は5,033人と学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い。西東京市では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。合併時の経緯で旧保谷・田無両市役所を流用し2庁舎体制としている。市長室は田無庁舎にあるため実質的な代表庁舎は田無庁舎であるが、部署により設置庁舎を分散させている。谷戸出張所と中原出張所は統合し、移転。(2009年(平成21年)5月7日開設)定数は28人(2008年(平成20年)12月24日決定、2010年(平成22年)12月26日の改選から施行)。平成24年度衆議院小選挙区選挙では東京19区(小平・国分寺・国立・西東京)に属する。近年選出の議員は以下のとおり。本市でひとつの選挙区をなす。定数は2人。近年選出の議員は以下のとおり。なお、合併前は田無市と保谷市で旧「北多摩第四選挙区」という1つの選挙区で、合併後は「西東京市選挙区」と改称されたのみで実質的に変化はない。なお、現在の「北多摩第四選挙区」は旧「北多摩第五選挙区」を改称し、清瀬市と東久留米市で構成されている。警視庁田無警察署が本市(東町4丁目15番の一部は石神井警察署が管轄)と東久留米市全域を管轄している。西東京市発足前後で変化はない。警察署名は主たる自治体名から取るように定められているが(警察法施行令)、2市を管轄しているため、西東京警察署への改称はされなかった。消防は市町村の責任業務であるが、本市は多摩地域の多くの自治体と同様に東京消防庁へ業務を委託している。西東京消防署(旧保谷消防署)が市内全域を管轄している。東京都水道局に統合。東村山浄水場の配水地域であるが、市内には保谷町、西東京栄町、芝久保の3浄水所(地下水汲み上げ)もある。市の下水道課が管理。保谷庁舎のごみ減量推進課にて市内全域の家庭系一般廃棄物の収集を実施。販売は、10枚単位柳泉園組合(東久留米市、清瀬市、西東京市が設置した一般廃棄物の処理施設)で可燃ごみの燃焼処理・不燃ごみ・資源ごみの中間処理を実施する。東京たま広域資源循環組合の谷戸沢処分場(処分終了)、二ツ塚処分場(現用)にて埋立処分およびセメント化事業を実施する。東京法務局府中支局田無出張所自衛隊東京地方協力本部三多摩地区隊本部西東京地域事務所 - 田無町4丁目28-13・自衛隊東京地方協力本部就業人口隣接する武蔵野市に中島飛行機武蔵製作所があり、当市内にはその関連工場・施設があったため、数次の空襲を受ける。戦後、当市内のそれら関連工場・施設は民需に転換して存続したが、旧保谷市の革新市政の政策や近年の産業構造の改革等により、その多くが閉鎖された。跡地は大規模マンションなどになっており、人口増につながっている。都立私立以前は明治薬科大学があったが清瀬市に移転している。跡地はマンションなどに整備された。また、東京教育大学の運動場もあった。こちらは文理台公園になっている。市立私立市域内に公立病院はないが当市も参画する昭和病院組合が小平市に公立昭和病院を開設。その通院連絡のため、西武柳沢駅から同病院前を経て青梅車庫へ至る都営バス梅70系統が運行されていたが、2015年3月31日をもって運行短縮によって(小平市の花小金井駅以遠の運行に)、当市内を運行しなくなった。市の東西を以下の2路線が走り東京都中心部と結ばれている。西武池袋線は終点池袋駅で、西武新宿線は高田馬場駅で山手線と接続している。市の代表駅(JTB時刻表による)は田無庁舎最寄の田無駅としている。なし。
出典:wikipedia
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