賀茂 真淵(かも の まぶち)は、江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した。荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を「県居(あがたい)学派」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。賀茂真淵は荷田春満を師とし、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿であるとして、古道説を確立した。弟子の加藤千蔭の伝えるところによれば「外見は普通の人とかなり異なっており、ややもすると明敏さに欠ける頭の回転の鈍い人とも見受けられそうだったが、時々彼の言葉には日本人の真の心が突如として迸(ほとばし)りでた。その時には非の打ちどころのないほど雄弁になった。」という。主な著書に『歌意考』、『万葉考』、『国意考』、『祝詞考』、『にひまなび』、『文意考』、『五意考』、『冠辞考』、『神楽考』、『源氏物語新釈』、『ことばもゝくさ』などがある。全集として、明治期に『賀茂真淵全集』(6巻、國學院編、吉川弘文館)、昭和初期に『増訂 賀茂真淵全集』(12巻、佐佐木信綱監修、吉川弘文館)および『校本 賀茂真淵全集』(思想編上下、弘文堂)、昭和後期に『賀茂真淵全集』(28巻ただし7巻分は未刊、久松潜一監修、続群書類従完成会)が刊行されている。なお、靖国神社の第二代宮司を務めた賀茂水穂はその子孫といわれる。元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)に岡部政信の三男として生まれた。岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で、父政信は分家筋で農を業とした。宝永4年(1707年)、10歳のときに杉浦国頭(くにあきら)のもとで手習いを受ける。国頭は江戸の国学者・荷田春満の弟子で、春満の姪真崎(まさき)を妻とし浜松で私塾を開いていた。真淵は享保8年(1723年)に結婚するが翌年に妻を亡くし、翌享保10年には浜松宿脇本陣梅谷(うめや)家の養子になる。30歳をすぎたころ、家を捨てて京都に移り荷田春満を師として学んだ。元文元年(1736年)に春満が死去すると浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎える。翌元文2年(1737年)には江戸に移り、師として遇せられ国学を講じた。延享3年(1746年)、50歳となっていた真淵は御三卿田安徳川家の和学御用掛となって徳川宗武に仕えた。宝暦13年(1763年)、本居宣長が、伊勢神宮の旅の途中伊勢松阪の旅籠に宿泊していた真淵を訪れ、生涯一度限りの教えを受けた(「松阪の一夜」)。宣長はのちに入門し、以後文通(『万葉集問目』)が続いた。真淵は教育者としても長じ、門下には本居宣長、荒木田久老、加藤千蔭、村田春海、楫取魚彦、塙保己一、内山真龍(うちやままたつ)、栗田土満、森繁子などがおり、県居学派と呼ばれる。高名な弟子として特に優れた女性3人を県門の三才女(けんもんのさんさいじょ)、特に優れた男性4人を県門の四天王(けんもんのしてんのう)と称した。また、県門の四天王に8人を加え、県門十二大家(けんもんじゅうにたいか)と称される。江戸の住居跡は賀茂真淵県居の跡として東京都中央区(日本橋久松町9先)に説明書きが立っている。また、墓は東海寺大山墓地(東京都品川区北品川三丁目)にある。浜松の生家の側には「賀茂真淵記念館」(静岡県浜松市中区東伊場一丁目22-2)がある。
出典:wikipedia
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