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箱根登山鉄道鉄道線

軌間は現状を示す箱根登山鉄道鉄道線(はこねとざんてつどうてつどうせん)は、神奈川県小田原市の小田原駅を起点とし、神奈川県足柄下郡箱根町の強羅駅までを結ぶ箱根登山鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はOH 。旅客案内上で正式名称が使われることはほとんどなく、対外的には「箱根登山電車」の名が使われる。最急80‰(パーミル)という、ラックレールやケーブルに頼らない粘着式鉄道(普通鉄道)としては日本最急の勾配が存在する。建設にあたってスイスのベルニナ鉄道(その後のレーティッシュ鉄道ベルニナ線)を参考にしており、その縁で1979年に、箱根登山鉄道とレーティッシュ鉄道は、スイス政府観光局の協力を得て姉妹鉄道提携を結んでいる。日本国外を外遊した名士からの提案を契機として1919年に開業した鉄道路線である。当初は箱根湯本駅と強羅駅の間を結ぶ路線で、箱根湯本駅までは軌道線(小田原市内線)が接続していたが、1935年に小田原駅発着となった。1950年以降は箱根湯本駅まで小田急電鉄の列車が乗り入れている。日本の粘着式鉄道では最急の勾配や急カーブ、スイッチバックなどがある山岳鉄道で、「日本唯一の(本格的な)登山電車」とも紹介されることがある。本路線は、以下のような数々の特徴を有する。箱根湯本駅と小涌谷駅の間には、80‰という日本の粘着式鉄道では最急となる勾配が存在する。80‰の勾配とは、1,000m進む間に高低差が80mにもなるというもので、これは軌条(レール)を固定せずに枕木の上に置いただけでは、自然に下に滑り落ちてしまうほどの勾配であり、角度にすると約5度である。1両の全長が14.6mの車両でも、80‰勾配においては前後で1.1mほどの高低差がつく。建設当時の時点において日本における最急勾配だったのは信越本線の碓氷峠66.7‰で、建設時に参考としたベルニナ鉄道の最急勾配は70‰、粘着性能の高いゴムタイヤを用いた新交通システムでも最急勾配は70‰程度で、本路線の80‰という勾配はそれらを上回る。仙人台信号場と宮ノ下駅の間、小涌谷駅と彫刻の森駅の間には、半径30mという急な曲線が存在する。これは歴史節で後述するように、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられており、しかも温泉脈に悪影響を与えるという理由でトンネル掘削ができなくなった区間もあり、山肌に沿った急曲線で軌道を敷設するしか方法がなかったためである。半径30mの曲線上では、3両編成の登山電車の先頭と最後部の車両の向きは120度ほどの角度がつく。日本の普通鉄道において、本線上で半径30mもの急曲線が設定されている事例は、特殊狭軌線や専用鉄道以外にはほとんどない。入生田駅と箱根湯本駅の間には、国際標準軌の1,435mm・狭軌の1,067mmという異なる軌間において、片側のレールを共用する三線軌条が存在する。これは後述するように、狭軌を採用している小田急の電車が、標準軌の本路線に乗り入れるために考えられた方法で、乗り入れ当初は小田原駅から箱根湯本駅までの区間に三線軌条が採用された。これは片側のレールを共用し、もう片側には2本のレールを並べて敷設するもので、分岐器も複雑な構造となった。狭軌と標準軌の双方の列車密度や分岐器の数などを考慮すると、世界的に見ても本路線を上回るものはなく、東日本旅客鉄道では山形新幹線運行のために奥羽本線の一部区間で三線軌条を導入するのに先立って本路線の設備を視察、分岐器の構造などについて学んでいる。しかし、輸送力の違いやバリアフリー化対応などの理由により、2006年以降、車庫のある入生田駅と箱根湯本駅以外の区間については三線軌条は解消された。箱根に登山電車を走らせる計画は、1896年に設立された箱根遊覧鉄道が路線免許を出願するなどの動きがあったが、計画が具体化するのは、1900年に国府津と湯本を結ぶ電気鉄道の路線を開業した小田原電気鉄道に対して、同年5月23日付けで温泉村から「路線を当村まで延長して欲しい」という路線延長の要請を受けたときからである。小田原電気鉄道ではこの要望に前向きに対処し、同年9月までに「箱根遊覧鉄道の創立に要した費用を負担した上で、路線自体は小田原電気鉄道の延長線として敷設する」という方向性をまとめたが、同年9月の臨時株主総会では否決されてしまった。登山電車の建設計画が再び具体化するのは1907年、スイスにおける登山鉄道の実況を視察した者から、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけとなる。また、益田孝や井上馨などの実業家もこの事業を小田原電気鉄道に勧告したことを受け、1910年1月の臨時株主総会において、湯本駅(当時)から強羅駅へ路線を延長することが決定した。同年4月には路線延長を出願し、さらに翌月には強羅駅から仙石原を経て東海道本線(当時)の佐野駅(当時)への延伸計画を追加し、1911年3月1日に登山鉄道建設の免許が交付されたが、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられた。当初の免許では、須雲川の右岸を遡り、須雲川集落から北上して大平台駅へ抜け、宮ノ下駅からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13kmになるルートであったが、この時期に軌道線が早川の洪水によって軌道が流失してしまい、ルート変更を余儀なくされたため、登山鉄道のルートも再検討することとなった。そこで、1911年5月には塔ノ沢駅までは早川の左岸を進み、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された。このルート案では、電気機関車が客車2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125‰(パーミル)のアプト式鉄道とする計画で、湯本から強羅までの距離は7.1kmほどとなるルート設定であったが、当時既に最急勾配が66.7‰のアプト式鉄道として開通していた信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠)よりも急な勾配であることから、社内で不安の声が上がった。また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあったため、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢をヨーロッパに派遣した。半田は半年ほどの視察の後に帰国したが、スイスのベルニナ鉄道においては70‰の急勾配が20kmほど連続しており、これから敷設しようとしている登山鉄道と似た点が多く、大いに参考になったという。しかし、粘着式鉄道では125‰もの急勾配は登れないことが分かったため、スイッチバックを途中3箇所に設けた、最急勾配80‰の粘着式鉄道として建設することになった。建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていたが、すぐに中断となり、1913年3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した。この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている。こうして、ようやく建設は開始された。ところが、1914年に第一次世界大戦が勃発した影響で、計画していた資材の輸入が途絶、建設工事にも影響を及ぼした。早川橋梁の建設に当たっては東海道本線の天竜川橋梁のトラス鋼体の払い下げを受けることになったが、景観破壊の恐れがあると神奈川県知事からクレームが入り、改築を条件にしてようやく認められた。この早川橋梁の架設工事が終了したのは1917年5月31日で、1915年に架橋工事が開始されてから2年近くかかっており、もっとも難航を極めた工事とされている。車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが実現せず、アメリカ製の車両を購入することになった。さらに、1916年に行われた地質調査では、宮ノ下駅から二ノ平駅までの区間にトンネルを掘削することによって、蛇骨川の温泉脈に悪影響を与えることが判明した。山を切り崩すこともできず、トンネル掘削もできない状況では、山肌に沿って軌道を敷設するしか方法はなく、仕方なく遠回りのルートに変更された。当初計画になかった小涌谷駅は、この時に開設が決まった。このようなことから、工事は大幅に遅れ、建設費は計画当初と比較すると大幅に上回ることになり、資金調達のために3度にわたり社債の発行や増資などを行う必要に迫られている。着工から7年以上が経過した1919年5月24日にようやくすべての工事が完了、同年6月1日、箱根湯本駅から強羅駅までを結ぶ登山電車の運行が開始された。しかし、当初の登山電車は山を登るときにだけ利用され、下りは歩いて湯本まで出る利用者も多かった。同日に開業した乗合自動車より運賃は安かったものの、当時の往復運賃は職人の1日分の日当と同じ金額であったのである。1923年9月1日に発生した関東大震災では、鉄道線は甚大な被害を蒙った。箱根湯本駅では裏山が崩れて構内が埋没してしまったなど、軌道は大部分が崩壊や埋没し、建造物も半数近くが半壊、ほとんどのトンネルも入口部分が崩壊した。橋梁は1箇所を除いてすべて破壊されてしまったが、最も心配されていた早川橋梁だけは橋台の軽微な損傷とわずかにずれた程度で、被害を免れた。7両あった登山電車もすべて脱線転覆や埋没してしまったが、焼失した車両はなかった。早期復旧は不可能であったため、同年中に復旧の準備を整え、翌1924年1月から復旧工事が開始された。復旧工事も難工事で、運行が再開されたのは、箱根湯本駅 - 出山仮停留場間が同年9月10日、出山仮停留場 - 大平台駅間、小涌谷駅 - 強羅駅間が11月24日、宮ノ下駅 - 小涌谷駅間が12月24日、そして大平台駅 - 宮ノ下駅間が12月28日であった。震災の被害から復帰した後の1926年1月16日には、小涌谷を発車した登山電車が宮ノ下付近でカーブで脱線して民家に転落するという事故が発生した。運転士は生存していたが精神に異常をきたしたため事故原因は明らかにならなかったが、速度制御に失敗したものとみられている。この事故の後しばらくした1928年1月に、小田原電気鉄道はいったん日本電力に合併したあと、同年8月に再度箱根登山鉄道として分社化された。日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された。この計画では小田原から風祭までは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった。1927年4月1日に新宿駅を起点とする小田原急行鉄道(小田急)が小田原駅まで開通したことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請、1930年には小田急との連絡について協定を結んだ。1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手、1935年9月21日にすべての工事が完了した。小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている。これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった。しかし、鉄道線の線路は最小曲線半径が30mという厳しい線形であり、勾配も日本最急となる80‰で、安全な連結器を開発する必要があった。そこで、鉄道省に連結器についての指導を仰いだ結果、芝浦製作所の設計による連結器の試作が実現した。数ヶ月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため、チキ2形の連結器をすべて交換した。こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された。これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した。戦時体制に入ってからは、1942年5月30日付で五島慶太が社長に就任するなどの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった。終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両が進駐軍専用車両となった。1948年9月15日にはアイオン台風が上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり、復旧は翌1949年7月6日までずれ込んだ。これより少し遡る1946年には東京急行電鉄(大東急)が策定した「鉄軌道復興3カ年計画」の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた。1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップ特急の運行を開始していたが、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え、この乗り入れ計画を推進することになった。しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。鉄道線の軌間は国際的な標準である1,435mmであったが、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067mmであった。どちらかに統一しようにも、80‰の急勾配を上る能力のある電動機は当時の技術では1,067mmの規格では収まらなかったため、鉄道線の軌間を1,067mmに改軌することは不可能であった。また、小田急を1,435mmに改軌するのは、車両数が多いうえ距離も相当なものとなってしまうため、膨大な費用が必要で、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった上、国鉄との貨物輸送において貨車の直通が不可能となり、貨物収入が激減してしまうことになる。そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設する三線軌条を採用することとなった。なお、共用するレールについては山側(小田原を発車すると進行方向右側)とされたが、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、国道1号が併走)への転落を防ぐためである。通常の分岐器は可動箇所が2箇所であるが、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり、当初は手動で梃子によって切り替えを行っていたが、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという。その後分岐器の切り替えは電動化された。三線軌条の導入によって、問題になったのは車両の連結器であった。登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急では自動連結器を使用していた。通常ならアダプターの役割を果たす中間連結器を介して非常時の連結に備えることになるが、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない。このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった。車体中心のずれは駅のプラットホームと車両の間にも影響し、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800mmであるのに対し、登山電車の車体幅は2,520mmと狭いことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30cm以上の隙間ができてしまうことになった。また、鉄道線の架線電圧は当時直流600Vであったが、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500Vであったため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500Vに昇圧し、箱根湯本駅構内には架線死区間(デッドセクション)が設置され、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった。ただし、これによって直流600Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり、箱根湯本から送電線による給電をせざるをえなくなった。その上、軌道条件も異なっていた。小田原と箱根湯本の間は最急勾配は40‰で、箱根湯本から先の80‰と比べれば緩い勾配であったため、箱根登山ではこの区間を「平坦線」と称していた。しかし、当時の小田急における最急勾配は25‰で、40‰という勾配はそれをはるかに超えており、小田急の車両にとっては平坦どころではない。そのような勾配が1km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった。このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった。このほか、風祭駅に列車交換設備を新設したり、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた。技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた。これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった。これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。東京芝浦電気と汽車会社の労働争議によって車両関係の改造が遅れるという障害もあったが、1950年8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された。乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝してアーチが飾られ、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた。この乗り入れ開始によって、小田急を利用して箱根を訪れる利用者は倍増、鉄道線の利用者数も前年と比較して27%の増加をみるなど、利用者数は著しく増加した。1964年にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設、1972年には列車集中制御装置 (CTC) が導入された。1972年3月15日には箱根彫刻の森美術館最寄の二ノ平駅が彫刻の森駅に改称された。1980年からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され、1982年7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20mの車両による6両編成に増強された。鉄道線を利用する観光客は増加し、1991年には年間輸送人員が1千万人を超えた。この当時、箱根を訪れる観光客のうち52%は何らかの形で箱根登山鉄道を利用していた。当時の登山電車は2両編成で15分間隔が最大の輸送力であり、ゴールデンウィークや箱根大名行列が開催される11月などは登山電車に乗るのに2時間待ちという状況となっていた。しかし、特有の線路条件から増発はできないため、列車を最大3両編成にすることが決定した。鉄道線の箱根湯本駅から強羅駅までの各駅は開業以来2両編成に対応した設備となっており、全駅においてホーム延伸対応工事が実施された。もっとも難工事だったのは塔ノ沢駅の工事で、駅の両側がトンネルに囲まれ、開業当時から強羅側の分岐器がトンネル内に設置されている状況で、しかも駅へ通じる道は細い人道があるだけで、工事にあたって大型機械を導入することはできなかった。このため、小田原側のトンネル拡幅はほぼ全てを手掘りで施工することになり、文字通り人海戦術での工事を余儀なくされた。塔ノ沢駅の工事だけで、総工費20億円のうちの半分近くが費やされた。これ以外にも、変電所の増強や、架線電圧を600Vから750Vへ昇圧、一部車両の2両固定編成化などが行われた。塔ノ沢駅の工事が予定より早く終了したため、当初は1993年10月からを予定していた3両編成化の日程は繰り上がり、同年7月14日から3両編成での運行が開始された。しかし、箱根湯本駅まで乗り入れてくる小田急の電車は20m級の車両が最大6両編成であるのに対して、登山電車の1列車の輸送力は全長15m級の3両編成が最大で、輸送力が小さかった。このため、1995年以降、ゴールデンウィークなど特に多客が予想される日には日中の登山電車をすべて箱根湯本と強羅の間でのみ運行し、小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両で6両編成の各駅停車を運行する措置もとられていた。また、各駅での乗車位置も小田急の車両と登山電車では異なる上、途中の風祭駅ではホーム長が短いために、小田急の車両ではドアコックを使用して手動で扉を開けるという状態であった。さらにバリアフリー対応にも問題が生じた。小田急の車両と登山電車では車体規格が異なる上、三線軌条ではそれぞれの車両の中心もずれるため、交通バリアフリー法に抵触する可能性も出てきた。こうした事情から、まず2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を倍増させ、代わりに小田原駅と箱根湯本駅の間を運行する登山電車は朝夕のみとなった。さらに、2006年3月18日のダイヤ改正では、小田原駅と箱根湯本駅の間の列車はすべて小田急の車両に置き換えられることになった。これ以後、小田原駅と入生田駅の間の三線軌条は順次撤去されたが、入生田駅には登山電車の車庫があるため、入生田駅と箱根湯本駅の間のみ三線軌条が残された。2008年3月15日のダイヤ改正からは風祭駅の改良工事が完了し、小田急の車両は特急ロマンスカー以外は4両編成での運行となった。なお、2011年に発生した東日本大震災以来、小田原市内では海抜表示が随所に表示されるようになったが、箱根登山鉄道が公表していた数値と異なることが問題となり、2013年11月に修正されることになった(後述)。箱根湯本駅 - 強羅駅間は、車輪とレールの間の粘着力だけで走る鉄道としては日本で最も急な勾配(80‰)を登る。この区間に3か所(出山信号場・大平台駅・上大平台信号場)あるスイッチバックも山岳鉄道的な特徴である。このほか、カーブの最小半径も30mと小さい。全線が単線で、軌条(レール)は小田原駅 - 箱根湯本駅間が50kgレールであるが、箱根湯本駅 - 強羅駅間では長さ10mの37kgレールを使用している。37kgレールを使用している理由は、途中のトンネル内で50kgレールを使用すると高さ方向の限界を支障すること、通過トン数にも十分対応しているといった理由が挙げられている。小田原駅 - 箱根湯本駅間の最高速度は55km/h、箱根湯本駅 - 強羅駅間での最高速度は40km/hである。また、下り勾配においては、30‰以下では55km/h、40‰以下では50km/h、50‰以下では40km/h、60‰以下では35km/h、70‰以下では30km/h、80‰以下では25km/hまでに速度が制限されている。半径30mの曲線における速度制限は15km/hである。運行開始当時は、箱根湯本駅 - 強羅駅間には片道27本の列車が設定されており、軌道線の市内電車との接続が図られていた。戦後の1950年に小田急の電車が直通運転を開始した際には、小田急の乗り入れ電車は特急が3往復と急行が7往復であった。その後増発され、1959年の時点では日中は特急が最大11往復、日中の急行は30分間隔での運転で、これに登山電車が接続していた。その後、1982年時点においては、小田原駅 - 箱根湯本駅間では小田原駅 - 強羅駅間を直通する登山電車が1時間あたり2本、これに小田急小田原線から乗り入れてくる特急ロマンスカーと急行がそれぞれ1時間あたり2本ずつとなっており、箱根湯本駅 - 強羅駅間ではこの区間を往復する列車が1時間あたり2本設定されており、小田原駅発着の直通電車とあわせて1時間あたり4本という運行形態であった。しかし、登山電車は小型の車両で輸送力が低く、輸送力にやや難があったため、1990年3月ダイヤ改正では小田急の車両で運行する小田原発の箱根湯本行きが設定された。さらに、2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を運行本数は1時間あたり2本から4本に倍増、箱根登山鉄道の車両は日中は小田原駅 - 箱根湯本駅間を走らなくなった。さらに、2006年3月18日改正では、小田原駅 - 箱根湯本駅間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた。これによって小田原駅 - 入生田駅間は自社の車両が全く走らない区間となった。2012年3月17日のダイヤ改正からは、小田原駅 - 箱根湯本駅間の折り返し運転の各駅停車が1時間あたり4本、小田急小田原線新宿・東京メトロ千代田線北千住方面から特急ロマンスカーが1時間あたり2本という運行体制が基本となった。箱根湯本駅 - 強羅駅間は、日中1時間あたり4本で運行される。小涌谷駅に隣接する小涌谷踏切は東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースとなっていて、出場選手や大会関係車両が通過する。これに対応して、開催日の1月2日(往路)昼頃と1月3日(復路)午前8時台は踏切に係員を待機させ、選手や大会関係車両の通過時には電車を踏切手前で停止させる。これは選手が踏切で足止めされ、遮断機をくぐって電車の前に飛び出すという出来事があってから始められた措置である。東海地震の警戒宣言が発令された場合、全線で運転を見合わせることになっている。鉄道線の開業当初より、線内の乗車券は片道でも2日間有効で途中下車可能であったが、2002年4月1日よりこの取り扱いは廃止され、片道乗車券は他の多くの路線同様通用発売当日限り・下車前途無効に変更された。特急ロマンスカーについては箱根登山線内のみの利用はできなかったが、2005年10月1日から座席券(大人200円)の発売が開始され、空席がある場合に限り利用可能になった。この座席券は、小田原駅・箱根湯本駅のホームにおいて、当日のみ購入可能である。小田原駅から箱根湯本駅までの区間における最急勾配は40‰、急曲線の半径も160m程度と、箱根登山鉄道としては緩やかである。箱根登山鉄道ではこの区間を「平坦線」と称しており、空を見上げるような急勾配で初めて山を登る気分になっていたというが、それでも一般の鉄道と比較すると厳しい条件である。箱根湯本駅までの区間の沿線には集落が連なる。箱根湯本駅から強羅駅まで8.9kmの区間のうち、半分近い4.2kmが80‰の勾配となる区間である。箱根湯本駅と強羅駅の標高差は445mで、この区間の平均勾配は50‰と計算される。この区間では大半の区間で樹木に囲まれており、夏季には併走する国道1号からでさえも電車の姿は見えなくなる。標高14mの小田原駅を発車した列車は、しばらくJR東海道本線と並行して南に下る。平坦線では唯一のトンネルである小峰隧道を抜けると、半径160mのカーブで右にカーブ、同時に20‰の坂を下って東海道新幹線をくぐり、標高16mの箱根板橋駅に到着する。ここからは早川沿いを国道1号と併走して箱根湯本に向かうが、箱根板橋駅を発車するとすぐに40‰の上り勾配となり、国道1号を跨ぎ、しばらく国道1号と併走した後に33.3‰の下り勾配となるが、強羅へ向かう方向ではこれが最後の下り勾配である。この下り勾配を下りきって小田原厚木道路の高架橋をくぐると標高36mの風祭駅である。風祭駅を過ぎると最大28.5‰の上り勾配が続き、勾配が緩くなると標高54mの入生田で、登山電車の車庫が併設されている。入生田駅を発車するとほどなくすると箱根町に入るが、38.4‰から40‰程度の勾配が約1kmも続く。この間に、進行方向右側の斜面に送水管が見えるが、この送水管は登山鉄道開業のために建設された三枚橋発電所への水路で、発電所自体はその後東京電力に移管されている。勾配が緩くなり、国道1号から箱根旧街道が分かれるのを見つつ、標高96mの箱根湯本に到着する。箱根湯本を発車すると、急勾配を登る前の助走区間のようなものは存在せず、100m弱走っただけで直ちに80‰の急勾配にかかる。車内でも吊革が斜めになっていることが分かる。3番目のトンネルを抜けると標高153mの塔ノ沢駅に到着する。上りホームの片隅には銭洗弁天がある。塔ノ沢駅を発車すると箱根登山鉄道では最長のトンネル (317.9m) である大ヶ嶽隧道に入るが、トンネルの中でも80‰の勾配が続く。トンネルの出口はかなり上の方にあり、井戸の底から空を見上げるようにも見え、この電車が登れるのかと驚く人もいる。次の杉山隧道を抜けると早川橋梁で深さ43mの谷を渡る。国道1号を越え、出山隧道に入るとトンネルの中でも80‰の勾配で、その後の松山隧道左へのカーブが続き、ほぼ180度向きが変わると右手から線路が下ってきて、標高222mの出山信号場である。ここで左下を見ると、先ほど渡った早川橋梁が眼下に見える。早川橋梁と出山信号場は直線距離で500mも離れていない。スイッチバックのため、ここで進行方向が変わり、先ほど右手から下ってきた線路を登ることになるが、出山信号場を発車すると80‰の勾配は1.3kmほども続く。勾配が71‰程度に緩くなり、左から線路が下ってくると標高337mの大平台駅に到着である。出山信号場から大平台駅までの1.6kmで、一気に115mも高度を上げたことになる。大平台はスイッチバック駅のため、また進行方向が変わる。66.67‰の勾配を500mほど進むと標高346mの上大平台信号場。ここもスイッチバックで、さらに進行方向が変わり、上り80‰勾配の線路を登る。強羅行きの電車にとっては最後のトンネルとなる大平台隧道を抜けると、標高398mの仙人台信号場である。仙人台からは再び国道1号と並行するが、この辺りでは随所に半径30mから40m程度の急カーブが連続する。3両編成の列車(全長45m)の場合、先頭車と後尾車では120度の角度の差がつく。50‰から55‰程度の勾配で徐々に高度を上げ、標高436mの宮ノ下駅に到着する。ホームの向こうには明星ヶ岳が一望できる。宮ノ下駅を発車すると、眼下に温泉街を見下ろしつつ、80‰の上り勾配で高度を上げてゆく。ここから先の区間では本来はトンネルで抜けるところを、温泉脈に悪影響を与えないように地形に逆らわないルート設定となった。やがて、勾配が55‰程度に緩くなり、半径40mの右カーブと左カーブが連続したあとに国道1号の踏切がある。箱根駅伝では選手の通過時にこの踏切の手前で電車を停車させる。踏切を過ぎるとまもなく標高523mの小涌谷駅である。小涌谷駅を発車すると、山肌に沿って半径30mの左カーブと右カーブが連続する。これも地形に逆らわないルート設定の結果である。ここから先は勾配も33‰程度に緩くなり、カーブも最急でも半径60m程度に緩くなる。彫刻の森美術館の敷地の脇を通りぬけ、標高539mの彫刻の森駅に到着である。ここから先はほとんど平坦な線形で、地獄澤橋梁を渡るとほどなく標高541mの強羅駅に到着する。スイッチバックが3回あったため、箱根湯本を出発した時とは進行方向が逆になった状態での到着である。沿線の線路沿いには1万株以上の紫陽花(あじさい)が植えられている。これは、元来は土止めの目的で植えられたもので、開業当時には存在しなかったものである。しかし、沿線には車窓の開ける場所があまりないことから、季節ごとに車窓から花を楽しめるようにするため、箱根登山鉄道社員の手で植えられたものである。紫陽花の花が見ごろとなる6月中旬から7月中旬にかけては、登山電車は「あじさい電車」とも呼ばれるようになり、1975年ごろからは社内で「沿線美化委員会」が構成され、紫陽花が見ごろになる前の時期に下刈りをするなどの勤労奉仕が行われている。1981年11月には「全国花いっぱい『花と緑の駅』コンクール」において環境庁長官賞を受賞した。1990年代からは夜間に紫陽花のライトアップも行われており、定期列車よりもゆっくりあじさいを鑑賞するための専用列車として、座席指定制の「夜のあじさい電車」の運行も行なわれるようになった。また、ライトアップ期間中には定期列車でも紫陽花のみどころで臨時停車が行われることがあるが、臨時停車する地点は80‰勾配の途中にも設定されている。箱根湯本駅 - 強羅駅の区間は、最大80‰の急勾配と地形に沿った非常に急なカーブを持つ路線を走るため、電車は以下のように特殊な仕様となっている。保安ブレーキとして設けられているもので、空気圧により作動し台車からカーボランダムのブレーキシューをレールに押付け圧着させるブレーキである。通常の鉄道車両では車輪とレールは点または線による接触であるが、このブレーキを使用した場合はわずかに車両が持ち上げられ、カーボランダムシューとレールの面接触によってブレーキが作動する仕組みである。このブレーキは他の常用ブレーキ(空気ブレーキ・電気ブレーキ・手ブレーキ)とは別系統となっており、300‰の坂でも停止できる性能を備えている。レールに使用される鋼とカーボランダムの静止摩擦係数(数字が大きいほど摩擦が大きい)は、乾燥した状態で0.30、撒水した状態では0.42である。これは鋼同士、つまり車輪とレールの静止摩擦係数が乾燥時で0.15、撒水時で0.123であるのと比べると2倍から3倍もの差がついており、大きな摩擦力が働くことが分かる。開業時の1919年に導入されたチキ1形では電磁吸着ブレーキを装備していたが、その後1927年に増備されたチキ2形からはカーボランダムを使用したブレーキを採用した。その後、電磁吸着ブレーキは一度滑走が始まると効果がなくなるため、全車両がレール圧着ブレーキに統一された。一時期はカーボランダムの代わりにアランダム(アルミナ)が使用されたことがある。常用ブレーキの制輪子(ブレーキシュー)については、鉄道線の車両では鋳鉄制輪子が使用されている。これは、合成制輪子よりも鋳鉄制輪子の方が車輪の踏面が荒れるため、高い粘着力を確保できるという理由である。鉄道車両においては、レールが車輪を誘導することによって曲線を通過させる仕組みとなっているが、この結果としてカーブ外側のレールに強い力がかかることになる。レールと車輪では車輪の方が硬く、レールの磨耗が発生するため、これを防ぐ必要があり、通常の鉄道ではレールの頭部側面に塗油したり、台車側に塗油を設けることによってレールの磨耗を抑える。しかし、急勾配線区においては塗油することによってレールと車輪の摩擦係数が低下して上り勾配での空転や下り勾配での滑走が発生し、極めて危険な状態となる。そこで、カーブではレールと車輪の間に撒水することによって磨耗を防ぐこととした。このため、各車両とも車両の両端部に容量360Lの水タンクを設け、運転士の操作によって水を車輪の踏面に撒水する装置を装備している。片道1回の運行でおよそ50Lから80Lの水を消費する。開業当時のチキ1形には撒水装置がなかったため、レール交換が多く繰り返されたという。このため、チキ1形では屋根上に水タンクを設けたが、1927年に増備されたチキ2形以降の車両では連結器の下に水タンクを設置した。なお、開業当初は粘着力を増す目的で全車両の台車に撒砂装置を設けていたが、撒水したところに砂を撒くことによってレールの磨耗が激しくなったため、撒砂装置は後年すべて撤去されている。開業当時に製造されたチキ1形ではリンク式連結器を装備しており、1927年に登場したチキ2形では自動連結器を装備していた。しかし、登山電車の急勾配や急カーブには対応しておらず、1935年に登山電車用の連結器が開発されるまでは、連結して運用されることはなかった。この登山電車用の連結器では、急勾配や急カーブで連結器が外れる事を防止するため、上下左右に大きく振れる構造となっている。ただし、「サン・モリッツ号」の編成中間部では半永久連結器が使用されている。また、連結器の突き出し部分は長くとられており、連結面間距離においても通常の20mの通勤電車で500mm程度なのに対して、「ベルニナ号」では860mmも空いている。なお、車両間の貫通路は非常用であり、貫通幌も設置されておらず、通常は施錠されている。電車の走行・ブレーキに使用する抵抗器は下り坂での発電ブレーキで使用の際に大量の熱が発生するため、冷却しやすいように屋根上に搭載している。開業当時のチキ1形では床下に抵抗器を設けていたが、1927年に導入されたチキ2形では屋根上にニクロム合金製の抵抗器を設けた。その後、旅客車両ではすべて屋根上に抵抗器を搭載している。1950年以降に小田急の電車が乗り入れた当初は、小田急から乗り入れてくる車両は1600形・1900形などの30両に限定されていた。これは小田急の線路条件を上回る勾配に対応するため、ブレーキ装置に改良を施した車両に限定したためである。その後1400形や2200形・2400形なども乗り入れるようになった。その後、1982年ごろまでは小田急の乗り入れ車両は、通勤車両は2400形に限定されるようになった。これは乗り入れ区間の3駅のホームの長さが短かったためであったが、1982年7月からは5200形・9000形などの大型車両も6両編成で乗り入れるようになった。ただし、しばらくの間は特急車両以外の乗り入れ車両は側面窓が一段下降窓の車両に限定された。2000年ごろには側面窓が二段上昇窓となっている小田急の電車も下段の窓から手が出せないように対策を行い、通勤車両は6両編成までならすべての形式が乗り入れ可能となった。2008年3月15日のダイヤ改正からは、小田急の車両は特急車両以外は4両編成の車両のみが乗り入れている。2009年3月14日のダイヤ改正からは、1000形のうち4両固定編成×3編成が登山電車と同様のカラーリングを変更され、2012年2月ごろにはさらに4両固定編成×1編成が登山色に変更された。なお、特急車両については、1910形(2000形)以降のすべての特急車両が乗り入れている。1985年時点で、箱根登山鉄道が公表している標高と、国土地理院の地図に記載されている標高は異なっていた。これは、箱根登山鉄道の建設時の測量の際の水準点が異なるためであった。しかし、東日本大震災の後に小田原市内各所で海抜表示が行われた際に、駅前の標高と箱根登山鉄道の駅名標の標高が異なるとの指摘を受けて標高を確認したところ、2013年7月に全ての駅で数値が異なっていたことが判明したため、2013年11月に各駅の表示を修正することになった。下表の表では、建設時の測量結果と2013年の表記変更後を併記する。

出典:wikipedia

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