田中 正明(たなか まさあき、1911年2月11日 - 2006年1月8日)は日本の新聞編集者、活動家、近現代史評論家、著述家。戦時中は松井石根の元私設秘書としてアジア解放運動に従事した。大亜細亜協会編集責任者、戦後は世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事を務めるほか、近現代史評論家として著述活動を行った。長野県下伊那郡喬木村出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)卒業。1933年、興亜学塾卒業。松井石根の元私設秘書、松井が設立発起人となった大亜細亜協会編集責任者となる。応召し、無錫で終戦を迎える。戦後、南信時事新聞編集長、世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事。拓殖大学講師。日本アラブ協会常任理事。極東国際軍事裁判インド代表判事のラダ・ビノード・パールとの親交が深く、日本で初めてパール判決を紹介する『パール博士の日本無罪論』を1952年のサンフランシスコ講和条約発効日に公表。パール判決に基づく日本無罪論の紹介者・主導者として知られる。1966年(昭和41年)9月に岸信介元首相の名代として訪台した5名の日本人台湾使節団の一人として、蒋介石と面談した。晩年には南京事件の存在に否定的な立場からの言論活動を活発に行った。その主張から、同じ下伊那郡出身のジャーナリストで南京事件肯定派の本多勝一(松川町出身)とは犬猿の仲であった。2006年1月8日、肺炎のため東京都小金井市の病院で死去、。板垣正が葬儀委員長、深田匠が葬儀副委員長を務めた。南京事件についての田中の主張は、田中の弟子にあたるジャーナリストの水間政憲などが引き継いでいる。田中は1963年の『パール判事の日本無罪論』(慧文社)で、ラダ・ビノード・パール判決書について、松井石根ら極東国際軍事裁判の被告に対し全員無罪を主張したことを説明している。これに対して2007年中島岳志は「パール判決書は日本無罪論ではない」と批判し、小林よしのりとのパール判決論争が起こった。1985年に芙蓉書房から田中が編集した『松井石根大将の陣中日記』が出版された。同書について板倉由明は、「南京占領後の態度方針を説明するため外人記者団と会見をした」といった原文の松井の日記にない記述を加えたり、また「松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けた様子は全くみられない」という注釈などの修正加筆があり、細部まで含めると300以上にのぼると指摘し、「発見された改竄は、脱落だけならまだしも書き加えまであり、しかもそれらすべて南京虐殺事件否定の方向で行なわれている。これは明らかに編者・田中氏の意図的行為であると断ぜざるを得ない』と批判した。その後、松井石根大将の陣中日記は板倉によって翻刻、『南京戦史資料集Ⅱ』に収録された。また、本多勝一は朝日新聞で900ヶ所の改ざんがあると報道した。この件は、秦郁彦も批判した。田中は1987年の著書『南京事件の総括』で、板倉由明による日誌原文とのズレの指摘について「氏の推定箇所以外はほぼまちがいありません」と認めたうえで、「「南京事件」を隠すために、意図的に改ざんしたものでは毛頭ありません。だいいち大将の日誌には、南京に“虐殺”事件があった、なかった、などということとはまったく無関係なのです。隠さなければならぬことは何もないのです。そのほとんどは、私の筆耕の誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものであります。それを「『南京虐殺』ひたすら隠す」といかにも私が実在した“虐殺事件”を秘匿したかのごとく誹謗したのです。なにぶんにも兵馬こうそうの間に走り書きされた日記で、しかも大将独特の難解な草書体で読みとることのできない不明の箇所が多く、その中の一字を判読するのに、三時間も四時間も要し、それでもなお読みとることができなかった例がいく箇所もありました。このほかに、不鮮(すくなからず)、如此(かくのごとき)、不詳(くわしからず)、併(ならびに)、方(まさに)、不審(つまびらかならず)、仍而(よって)、太(はなはだ)、此(かかる)、遽(にわか)・・・・・・・等々数えあげれば際限ありませんが、これらの漢文調の文字を、現代の読者に読みやすくする配慮から、かなまじり文になおし、あるいは新かなづかいにそって、おくりがなを付したり、句読点を付すなど、語句の扱いに配慮を欠いた点は認めますが、原文を勝手に書き直して、虐殺事件を隠したとか、大将の不利を補ったとかいったようなことは毛頭もありません。」と述べた。また、朝日新聞は「私が言いもしない「申し訳ない」という詫びごとまでねつ造して、いかにも私が意図的な改ざんを認めたかのような記事」を書いたと批判し、「朝日新聞をはじめ洞富雄氏ら虐殺派の人々は、ニセ写真やウソの記述までならびたてて、ありもせぬ20万、30万の“大虐殺”がさもあったかのごとく宣伝し著述しています。これこそ歴史の改ざんでなくてなんでしょうか。」と反論した。また、田中を朝日新聞紙面で批判した本多勝一に対して板倉由明は、「改ざんの常習者」と批判していることはその一例と述べた。さらに田中は、洞富雄、藤原彰、吉田裕、秦郁彦、また南京市文史資料研究会編の『証言・南京大虐殺』の「白髪三千丈式の大デタラメ」の被害者証言も批判的に考証した。近年では、笠原十九司が田中を批判している。1966年の台湾使節団としての蒋介石との面談の際、田中が1936年(昭和11年)に松井大将の秘書として蒋に一度会ったことを伝えると、蒋は「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、手を震わせ、目を真っ赤にして、涙ぐみながら「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」「南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何應欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と言いながら、涙しつつ田中の手を二度三度握り締めたと、田中は2001年の講演で述べ、また2003年出版した著書でもこのエピソードを紹介し、田中は「あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉したばかりか、留学生当時から自分(蒋)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何ら酬いることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪で刑死せしめた。悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる」と述べた。深田匠は2004年の著書で同じエピソードを紹介し、「この蒋介石の涙の謝罪は、日本人訪台団、通訳、蒋介石の側近らが全員耳にした歴然たる事実であり、南京大虐殺なるものは一切存在しなかったことを当事者が認めた貴重な証言である」と評している。なお、サンケイ新聞社編『蒋介石秘録12』(1976年)では蒋介石は1938年1月22日の日記に「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている」と記述したとあり、また「南京防衛戦における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である」「こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二カ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである」と書かれている。また、何應欽著、中日文化経済協会編『中日関係と世界の前途』(1974年)では「南京陥落後の大屠殺で、殺害された市民が十万人以上にも達した」と書かれている。全て展転社刊
出典:wikipedia
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