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宇垣纏

宇垣 纏(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない。岡山中学校を経て1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校。同期に大西瀧治郎、山口多聞、多田武雄ら。1912年(明治44年)7月17日、海軍兵学校を成績順位144名中第9位で卒業し、少尉候補生となる。1919年(大正8年)12月、海軍砲術学校高等科学生を次席で修了。1924年(大正13年)11月、海軍大学校甲種学生22期を卒業し、12月1日に海軍少佐昇進。1932年(昭和7年)11月15日、海大教官(兼陸軍大学校教官)となる。この頃、速力の落ちていた金剛型戦艦の高速化を周囲に主張し、その改装に関与した。1937年(昭和12年)12月1日、戦艦「日向」艦長を務める。造船士官・堀元美によれば、宇垣は夜の巡検後に浴衣姿で士官室に現れて士官達と歓談し、乗艦していた技術士官達と今後の軍艦のアイデアや、新型の巡洋戦艦の試案などを語り合ったという。1938年(昭和13年)11月15日、海軍少将に昇進、軍令部出仕となり、12月15日、軍令部第一部長に補される。宇垣は作戦課長・中澤佑大佐と共に、日独伊三国同盟締結は米国を挑発し、日米戦争の危機を招き最悪の事態に陥ると、一貫して反対の立場をとった。しかし、1940年(昭和15年)夏以降の親独ムードの盛り上がりから、海軍がこれ以上反対することはもはや国内の政治事情が許さぬ(海軍次官・豊田貞次郎中将の弁)と海軍首脳部が総じて同盟締結に賛意を示したこともあり、最終的に宇垣も参戦の自主性維持(自動参戦の禁止)を条件として同盟締結に賛成した。三代一就(当時軍令部作戦課航空主務部員)は、9月15日、海軍大臣・及川古志郎、次官・豊田貞次郎、軍令部次長・近藤信竹等が出席した会議で宇垣は軍令部を代表し単独で三国同盟に反対するも、陸軍との決裂を恐れる他の出席者達に押し切られてしまったと回想している。その後、宇垣は対米戦準備を積極的に主張、推進するようになった。千早正隆は、山本五十六は宇垣が軍令部で大艦巨砲主義者として大和型戦艦3・4番艦(信濃、111号艦)の建造を推進したことに不快感を抱き、日独伊三国同盟締結問題における宇垣の変節に対しても山本は嫌悪感を抱き、その後、宇垣が連合艦隊参謀長着任してからもしばらくの間、山本と宇垣には不和が生じていたと指摘する。1941年(昭和16年)4月10日、第8戦隊(重巡洋艦「利根」「筑摩」)司令官を拝命。わずか3ヶ月間の勤務であったが、宇垣によれば「餘が最も眞劍に且最も愉快に指揮統率せし戦隊」であり、2隻が真珠湾攻撃から帰還した際には「よくぞ偉勲を奏して目出度帰着せる子供の凱旋を迎ふる親心なるべし」と喜んでいる。その後も「利根」「筑摩」の事を気に掛けていた描写がある。1941年(昭和16年)8月1日、連合艦隊参謀長(兼第一艦隊参謀長)。長官は山本五十六大将。連合艦隊司令部で宇垣は「参謀連は第二段作戦の研究会を開くも参謀長(宇垣)は敬遠せられて閑暇なり」と自嘲する状態であった。戦艦「大和」艦長・松田千秋が宇垣に着任の挨拶をした時にも、参謀長としての仕事がないこと、作戦は山本五十六と黒島亀人が決定していることを打ち明けている。着任以降、宇垣は山本が希望する真珠湾奇襲作戦の実現のために動き出した。9月中旬、海軍大学校で行われた真珠湾攻撃の図上演習が行われた。図上演習では、日本軍は戦果をあげたものの日本の空母3隻も撃沈判定となる結果になったが、宇垣によってその撃沈判定は取り消された。9月24日、特別討議で宇垣は軍令部第一部長・福留繁に対し、「自分は着任後日も浅く確たる自信はないが、山本長官は職を賭してもこの作戦を決行する決意である」と伝える。10月16日、将来何かに必要になるだろうと考え、『戦藻録』を書き始め、その死の当日まで書き続けられる。GHQ戦史室長ゴードン・プランゲらはこれは公刊を予期して書かれてあると指摘している。10月19日、空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)での奇襲作戦は承認されたが、当時竣工したばかりの翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)を含む6隻という山本の希望は容認されず、宇垣ら参謀が再び派遣され、この時にも「職を賭しても断行する決意である」と伝えられ、強硬な申し入れが行われた。これにより軍令部総長・永野修身の「山本長官がそれほどまでに自信があるというのならば」という一言で、軍令部側は全面的に譲歩して6隻使用を認めた。10月22日、第一航空艦隊から長官・南雲忠一、参謀長・草鹿龍之介を更迭し、小沢治三郎を長官に任命するように山本に進言して同意を得たと宇垣の日記にあるが、実現はしていない。12月8日、太平洋戦争勃発。真珠湾攻撃後、連合艦隊司令部では実行部隊である第一航空艦隊による再攻撃を訴える声があったが、宇垣は今から下令しても時機を失し攻撃は翌朝になるので反対した。第一航空艦隊も再攻撃は行わず予定通り帰投する。宇垣は、ドーリットル空襲の2ヶ月前である1942年(昭和17年)2月2日と3月11日の日記で、米軍機動部隊が帝都を空襲する可能性について記述している。3月1日、連合艦隊司令部にフィリピン・インドネシア方面の報告に来た大西瀧治郎が所見として、軍備の中心は航空である、戦艦はこれまでとは違った役割に使える兵器に転落したと説かれると、宇垣はフィリピンやインドネシアなどの陸続きの作戦から結論を出すのは早すぎると応酬した。宇垣はその日の日記に「広漠たる大洋上基地航空兵力の使用は困難なり。航空を前進せしむる為には航空母艦のみにて足れりや」「敵にして戦艦を有するも、凡有る場合之を無効ならしめる方策だに立たば、何億円と多大の資材を投ずるの要なし」と所見を記した。4月23日には、空母・潜水艦の建造を優先、海軍航空隊に全力を集中すべしと軍令部と協議しているが、大和型戦艦3番艦(後の空母「信濃」)の建造に未練を残す記述があり、陸軍との勢力争いにも言及した。昭和17年(1942年)4月28日から1週間かけて戦艦「大和」で「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」が行われた。兵棋図演で宇垣は統監・審判長・青軍長官の一人三役を担うが、日本艦隊が著しく不利な状況にあっても日本艦隊の攻撃結果を過剰に大きく、被害を恣意的に少なく判定した。この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戦続行が難しい状況となったが、爆弾9発命中判定で沈没判定になった空母「加賀」に対して宇垣は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、「加賀」を復活させるなどして図上演習を続行させた。攻略は成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部駆逐艦は座礁した。宇垣は「連合艦隊はこのようにならないように作戦を指導する」と明言した。また、その後のニューカレドニア、フィジー攻略でも「加賀」を復活させる。この図上演習で米軍(赤軍)指揮官をつとめた松田千秋は、既に連合艦隊の作戦が決定している以上「加賀」を復活させて図上演習を続けることはやむをえないと述べ、そもそも山本や黒島が決定した作戦そのものに無理があったと述べている。戦訓分科研究会において、宇垣は第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介に対し「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が草鹿を追及すると、航空参謀の源田が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣は注意喚起を続けていたが、作戦打ち合わせ前に「第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備える」ことになった。6月5-6日のミッドウェー海戦では、第一航空艦隊の主力空母が次々に被弾炎上。連合艦隊司令部では黒島亀人ら参謀達がパニックに陥ったが、宇垣は冷静に対応して参加部隊を統率して撤退させた。出撃前、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介は、攻撃日が決まっているので奇襲の機動余地がなく、空母はアンテナ受信能力不足で敵情がわかりにくいので、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示することを宇垣に取りつけた。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった。宇垣は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している。海戦後、旗艦「大和」から辞去する草鹿らを慰問し慰問品を送るなど激励している。ミッドウェーで山口多聞が戦死したことを宇垣は「余の級友中最も優秀の人傑を失ふものなり」と嘆き、その後もたびたび山口の最期を惜しんでいる。宇垣は敗因を振り返り、「今日の敵は正に飛行機」として高角砲の射程延長やレーダーの活用、対潜水艦装備の拡充が必要と認識した。8月上旬、米軍のガダルカナル島上陸により戦艦「大和」に乗艦してトラック泊地へ移動、連合艦隊参謀長としてガダルカナル島の戦いが始まる。千早正隆は、ガダルカナル島作戦のころから山本の黒島への信頼が揺らいでおり、次第に宇垣に頼ることが多くなっていたと指摘する。10月1日には山本が宇垣の自室を尋ねて雑談し、宇垣は山本と気兼ねなく話せた事を喜んでいる。宇垣は、その後も南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、い号作戦などを指導する。11月1日、海軍中将に昇進。1943年(昭和18年)4月18日、山本五十六と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃され、山本搭乗機、宇垣搭乗機ともに撃墜されて山本は戦死、宇垣も負傷した(海軍甲事件)。宇垣は山本の遺骨と共に、戦艦「武蔵」で内地に帰還した。その後、山本の形見として短刀を貰う。陣中録には「かねて山本長官身代わりたらんと覚悟せる身が、長官を失い、かえって生還す」と記してある。宇垣は負傷中も部下を使って口述で戦藻録に記入させた。1944年(昭和19年)2月25日、第一戦隊(大和、武蔵)司令官。4月26日 - 27日、旗艦/空母「大鳳」で行われた図上演習を部外者として見学。第一機動部隊に対し「生死の岐るゝ本圖演に於て、徒らに青軍に有利なる経過あるは指導部として注意すべき點なり」と苦言を呈している。5月5日の「大鳳」での図上演習では「全體を通じ見るにKdF司令部は手前味噌の感無き能はず。戦は一人角力に非ず。噴戒を要す」と怒っているが、栗田健男の第二艦隊研究会でも「決戦を前にして現實に如何なるかを決定し、其の訓練を積むべきに兎角「研究を要する」と云ふ事司令部も各艦も仲々多し。此の物と此の人を以て戦ひ而も勝たざるべからざる腹仲々に固め難きは通弊にして噴戒すべき處なり「という状態であり、最後には「やつて見れば案外甘く行くものなるべし」「此の通實行出来たら上出来此の上無しと思ふ」と諦めかけている。古村啓蔵(第一機動部隊参謀長)によれば、5月27日午後11時に空母「大鳳」を来艦し第一機動部隊長官・小沢治三郎に激しく意見する宇垣を目撃しており、「今また第一戦隊司令官としてビアク島のことが心配でたまらず、この戦勢を何とかして挽回しようとあせっているように見受けられた」と回想している。5月の第三次渾作戦、6月のあ号作戦、10月の捷号作戦に従事。1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官に就任する。第五航空艦隊鹿屋特攻隊昭和隊所属の杉山幸照少尉は戦後「中将は自らが戦局打開の鍵を握っていると錯覚していた」と語っている。沖縄戦では、特攻を主体とした米艦隊への海軍の航空総攻撃作戦である菊水作戦を指揮する。また、沖縄戦直前には、陸上爆撃機「銀河」24機によるウルシー泊地の米軍機動部隊への特攻作戦である「丹作戦」や、九州沖航空戦なども指揮した。2月10日第五航空艦隊の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われ、第五航空艦隊長官となった宇垣は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた。夜襲攻撃に専念した芙蓉部隊を視察した際には、彼らの戦法を賞賛している。この時、既に日本軍には米機動部隊に通常航空攻撃をかけられる高性能機材も、機体数も、熟練パイロットの人数も揃えられなくなっており、主に特攻攻撃を主体とした攻撃法を余儀なくされた。第五航空艦隊ですら、寄せ集めの戦闘部隊に過ぎなかったのである。さらに索敵機に用いる燃料すら確保困難な情況であり、南九州作戦基地の収容力も加わって、不十分な偵察情報を基に散発的に少数機で特攻攻撃や通常攻撃をかけざるを得なくなった。出撃した攻撃隊の多くは米機動部隊の物量とシステム化された迎撃網の前に散るばかりであった。一部迎撃網を突破して空母など主力艦に攻撃を成功させたものもあったものの、特攻機の攻撃力の低さから、終戦まで巡洋艦以上の中型艦を1隻も撃沈できなかった。しかし一方では正規空母を大破させるほどの大損害を与えることに成功した例もあり、特攻により損傷した艦艇は修理のために戦場からの一時離脱を余儀なくされた。米軍は沖縄戦だけで駆逐艦12隻を含む34隻を特攻攻撃により撃沈され、250隻が損傷を受けた。また、出撃時期や部隊運用の判断についても混乱があった。長駆鹿屋基地から3,000km離れた米軍機動部隊本拠地のウルシー環礁まで特攻攻撃に出した銀河部隊「梓隊」24機・誘導の二式飛行艇3機に対して「万一天候其ノ他ノ渉外ノ為指揮官ニ於テ成功覚束ナシト認メタル場合ハ 機ヲ失セズ善処シテ再挙ヲ計レ 決シテ事ヲ急グ必要ハナイ」と訓示、出撃時期を迷い、3月10日には発進した攻撃隊を一度引き返させている。3月11日の再出撃では、銀河のエンジン不調により24機中7機が脱落して帰投。さらに発進を1時間遅らせたため梓隊の到着は夜間となり、結果は米軍正規空母1隻(ランドルフ)を大破させたにとどまった。その1週間後、本土空襲に来襲した米軍機動部隊に対し、3日間の通常攻撃及び70機の特攻機を散発的に出撃させ攻撃後、不十分な敵情把握と戦果の過大判断の末に4日目の3月21日現地部隊の反対を「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」として押し切り桜花特攻部隊神雷部隊を出撃させ、護衛部隊の零式艦上戦闘機をのぞけば「桜花」は母機諸共全機帰還しなかった。4月6日になって菊水一号作戦が発動されると一日の出撃数としては海軍特攻として過去最多の161機を出撃させたが、これも目標到達時間を統一しなかったことから飽和攻撃とはならず、結果的に散発的攻撃ではあったが、陸軍も第一次航空総攻撃(特攻機61機)を実施しており、7日の56機出撃と合わせると戦果は駆逐艦3隻、掃海艇4隻、揚陸艇 (LST) 2隻、貨物船2隻撃沈、正規空母1隻、護衛空母1隻、戦艦1隻、駆逐艦大破7隻を含む15隻、掃海艇7隻損傷(他に魚雷艇2隻、LCIなど)にまで上った。この際、連合艦隊司令部の強引な作戦指導により戦艦「大和」以下第二艦隊が米軍機動部隊航空機の猛攻により壊滅している。宇垣は突然決まった水上特攻作戦に不満を抱きつつも、特攻隊護衛機の一部を割いて第二艦隊の上空護衛を行っている。この2日間の戦闘で損傷した正規空母は「ハンコック」中破のみであり、主力艦で言えば護衛空母が2隻、戦艦が3隻小中破した程度であった。戦艦「大和」以下の第二艦隊による水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)の際、連合艦隊司令部は第二艦隊に対し護衛戦闘機を出す事を計画していなかったが、宇垣は第五航空艦隊長官の権限で大和以下の艦隊に護衛戦闘機(零戦)部隊を出撃させた。護衛戦闘機搭乗員には他の任務がある都合上、途中までの護衛となる。その後も菊水作戦は6月以降まで行われたが兵力の枯渇や、散発的な使用により、果果しい戦果を挙げられないまま終戦に至った。8月10日付で第五航空艦隊司令長官の職を解かれ、後任には草鹿龍之介中将が内定している。宇垣の用兵に対し、「特攻隊を人と見るより物と見る思想」、「軍人は死ぬことが名誉であると思っていた」という批判が戦後軍令部や関係者からなされた。なお甲標的に対する宇垣の意見は「繊弱なる本兵器は一度放たばその後の収容極めて困難なり。的確なる目標をつかんで基地より進発してこそ、甲斐あれ。連れて来たるに依り何とか使用してやらんの思ひ遣りは宜しきも、人命と兵器を軽んじ死地に投じて何等作戦上寄興せざるの結果に陥らしむるは余の最も残念とする所なり。小乗に堕すべからず」である。1945年(昭和20年)8月12日、宇垣は第七〇一航空隊の佐藤大尉に稼動彗星艦上爆撃機の稼動機数を尋ね、11機という返答を得た際に「5機もあれば」とつぶやいたという。8月15日早朝、宇垣は「彗星」を5機用意するように部下の宮崎先任参謀、田中航空参謀、中津留達雄大尉に命じた。特攻機は6機多い11機が用意された。これに対し宇垣は「命令は5機」と発言したが、指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、そのことについて宇垣が問いかけると、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と答えたという。8月15日正午、日本の降伏とポツダム宣言の受諾を伝える玉音放送が発せられる。これを受けて宇垣は「未だ停戦命令に接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ特攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし」「余又楠公精神を以て永久に尽くすところあるを期す。一六〇〇幕僚集合、別杯を持ちあり。之にて本戦藻録の頁を閉ず」と戦藻録の最後を記す。宇垣自ら中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった。海軍兵学校同期である第十二航空戦隊司令官・城島高次少将、及び幕僚である先任参謀・宮崎隆、参謀長・横井俊之から「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとかとりやめることはできないか」などと翻意を促されたが、宇垣は「武人としての死に場所を与えてくれ」と、その決意は揺らぐことはなかった。特攻隊は合計11機(3機不時着)で、沖縄沖に向かって大分基地から離陸した。出撃前の彗星前で撮った写真に彼は笑顔で写っている。高官が死地に赴くときには階級を示すものを外す習慣があったため、軍服から中将の階級を外し、そして山本五十六から遺贈された短刀を持参している。宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に無電は途絶えた。宇垣は、ポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため、戦死とは見做されず大将昇級は行われていない。むしろ、停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法第三十一条に抵触していたのではないかとする意見もある。ただし、玉音放送を正式な「停戦命令」と解釈できるかどうかを巡って見解が分かれ、作家の秦郁彦は8月16日16時に発せられた大陸命第1382号および大海令第48号を正式な停戦命令としている。連合艦隊司令長官・小沢治三郎は8月16日朝に連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐に対し「皇軍の指揮統率は大命の代行であり、私情を以て一兵も動かしてはならない。玉音放送で終戦の大命が下されたのち、兵を道連れにすることはもってのほかである。自決して特攻将兵のあとを追うというのなら一人でやるべきである」と述べ、宇垣達に対する感謝状は起案させなかった。元鹿屋特攻隊昭和隊に所属していた杉山幸照は著書で「死ぬことは誰にでもできる、いと易いことだが、死地に歩を進めることは、死ぬ以上の覚悟がなければできない事を知るのである」と書き記している。また、玉音放送後の出撃でいたずらに16名を犠牲にしたとして、遺族の非難も受けた。この部隊の指揮を取った中津留大尉の父親は、戦後のインタビューで「何故宇垣中将は息子を連れて行ったのでしょう」と歯を食いしばりながら答えた。しかし、中津留大尉の遺族によれば、晩年の父親は宇垣の行為を「仕方のないこと」として受け入れる心境に達していたとのことである。上記の問題点により戦死者(あるいは殉難者)とは認められず、戦後しばらくは靖国神社に合祀されていなかったが、現在では合祀されており、遊就館の常設展示に宇垣を取り扱ったコーナーも存在する。また死後に勲一等旭日大綬章を授与された他、1972年(昭和47年)9月17日、郷里である岡山県護国神社の境内に彼と部下の慰霊碑が建立された。この直前に東京水交社で行われた海兵四十五期級友会でも、土井申二(海兵45期)が「宇垣纏中将並に十七勇士菊水塔」への献詠を吟詠したところ、その中に「精忠不朽湊川似」の一節があったことから幹事長の古村啓蔵が「宇垣中将は終戦時の陛下の命を奉じなかったばかりでなく、部下十七名を伴い、敵地に投入した。何が湊川に似たりか」と憤激。すると土井が「一人息子を戦陣で失ったことのないものに私の気持ちがわかるか」と古村に反論する一幕があり、宇垣の特攻を巡って海兵四十五期クラス会は喧々囂々になったという。戦藻録の翻訳を行った千早正隆中佐は、宇垣は常に不機嫌そうで「鉄仮面(黄金仮面)」と渾名されるなど「喜怒哀楽を見せない冷血漢」と思われていたが、一方で戦藻録に見られる様な家族思いな意外な一面もあったと評している。自信家で当直参謀に艦隊運動の指揮を任せずに自ら執ったため、常に艦橋に立っていたという。プライドの高い人物であり、上官に対してもあまり敬礼をせず、同期であっても海軍兵学校や海軍大学校での成績が自分より下の人物であれば無視をしたり、下級者からの敬礼や挨拶には眼を逸らしたり「おう」とだけ言って頭を後ろに反らす傲慢な態度を繰り返していたので、海軍内での評判は良くなかったという。千早によれば、宇垣による陣中日記『戦藻録』は枢要な職を歴任した宇垣の見聞、人生哲学、処世感、思考などが読めるため、GHQ戦史室長ゴードン・プランゲは第一級資料として評価したという。海軍甲事件で負傷した宇垣の秘書役を務めた蝦名賢造は、宇垣には人情的な一面があり事前の予想より仕えやすく、家族思いであり、若い部下、従兵、宿屋料亭の関係者から不思議と親しまれていたと述べている。草鹿龍之介は宇垣を「木で鼻をくくったような冷淡な男」と評しているが、宇垣が死に触れた草鹿は「彼もまた偉い武人であった」と評している。松田千秋は、「早馬みたいに力がある」と述べた。家庭ではセパードの「エリー」を飼っており、エリー死亡の知らせを聞いた時にはその死を悼み延ばしていた髪を切った。また家族が新しく飼い始めた三毛猫の姿に喜んでいる。狩猟を趣味としており、鳥撃ちでは常に獲物を仕留めた。戦艦「長門」や「大和」に持ち帰った鳥は夕食に供せられ、宇垣と確執のあった山本も、この時ばかりは上機嫌であったという。狩猟に行く暇のない時には戦艦の舷側から釣りも楽しんでいる。また酒を好んだ。

出典:wikipedia

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