ジェロム・レ・バンナ(、1972年12月26日 - )はフランス・セーヌ=マリティーム県ル・アーヴル出身のキックボクサー、総合格闘家、俳優。Le Banner X tream Team所属。右利きだが構えはサウスポー。K-1・キックボクシング界で屈指のハードパンチャーかつハードキッカーであり、常にKO勝ちを狙うファイトスタイルや歯に衣着せぬ言動からK-1の番長とも呼ばれているほか、進化し続けるハイパー・バトルサイボーグ、無冠の帝王、ワンマッチ最強、ジェロニモなどの異名を持つ。得意技の左ストレートは「黄金の左」とも称される。元プロボクシング国内ヘビー級王者で、“Normandy Bull(ノルマンディーの闘牛)”の異名を持つ父フィリップに憧れたバンナはボクシングかキックボクシングをやりたがっていたが、母親の猛烈な反対に遭い、自らの意思でフルコンタクトのクラブに入会できる18歳になるまで出来なかった。代わりに6歳から14歳まで柔道を学び、優秀な成績を残していたが、ある試合で不当な判定に対して父親が審判に不服を訴えたことがきっかけで柔道の世界から退くことになる。なお、得意の柔道技は大外刈りであった。14歳の時に映画『ドラゴン怒りの鉄拳』を見てブルース・リーに憧れ、空手とジークンドーを学び、右利きだがブルース・リーにあやかってサウスポーに構えて、コンバーテッド・サウスポーとなった。18歳で念願叶ってキックボクシングを始め、早くから頭角を現し、20歳の時にISKAフルコンタクト・フランス王座を獲得。さらに1994年4月16日にはアンディ・マヨにKO勝ちしてISKAヨーロッパ王座を、アンドレ・ブァン・ブァーレンにKO勝利してRCFA世界スーパーヘビー級王座を獲得。そして南アフリカのケープタウンで行われたISKAインターコンチネンタル王座戦でマイク・ベルナルドと対戦し、激闘の末に判定勝利し同王座を獲得。この試合をK-1主催者が高く評価したため、K-1に参戦することになった。1995年3月3日、「K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦」に出場。それまでローキック禁止のフルコンタクトルールを主戦場としてきたバンナにとってローキック有りのルールはこの試合が初めてであったが、タイのムエタイ戦士ノックウィー・デービーを3-0の判定勝ちで下し、決勝トーナメント進出を決める。5月4日、「K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦」では準々決勝で佐竹雅昭に左ストレートで3ラウンドKO勝ち。準決勝でマイク・ベルナルドと再戦し、ベルナルドの膝蹴りを浴びて鼻を骨折しながらもローキックを効かせて2ラウンドKO勝ち。決勝戦で前年度K-1 GP王者ピーター・アーツに1ラウンドKO負けし準優勝。準決勝のベルナルド戦で負った鼻の骨折は現在でも完治しない古傷となっている。その後の約1年間は兵役につきながらK-1に参戦した。12月9日、K-1 HERCULESにてアンディ・フグと対戦し判定負け。1996年3月10日、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」に出場。ミルコ・タイガーと対戦し、判定負け。4月に兵役を終え、6月1日、パリで行われたISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチのカーチス・シュースター戦に判定勝利し、ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座を獲得。10月18日、K-1 STAR WARS '96にて、アーネスト・ホーストと対戦、2ラウンドKO勝利。12月8日、K-1 HERCULES '96にて、サム・グレコと対戦。パワー溢れるハードパンチャー同士の対戦とあって打ち合いが期待されたが、引き分けとなった。1997年2月1日、フランスで行われたISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチのモーリス・スミス戦に判定勝利し、ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座の防衛に成功。4月29日のK-1 BRAVES '97ではレイ・セフォーと対戦。前戦のスミス戦で膝の怪我を負ったため、一度は大会への欠場が発表されたが、主催者側の説得に応じて大会1週間前に急遽参戦が決定した。試合前のミット打ちでも蹴りを打たなかった様子が記者からも目撃されており、怪我の影響を感じさせたが1ラウンドに右フックで先制のダウンを奪うも、直後にセフォーのブーメランフックを喰らいKO負け。7月20日、K-1 DREAM '97にて、欠場したアーネスト・ホーストに代わって急遽ピーター・アーツと対戦し2ラウンドKO負け。試合後、「1Rに反則のサミングをされて目が見えなくなった」とレフェリーに不満を述べた。9月7日、K-1 GRAND PRIX '97 開幕戦ではリック・ルーファスに3ラウンドTKO勝利。試合後、ルーファスに「あなたは自分にとって永遠のチャンピオンだ」と言って敬意を表した。11月9日、K-1 GRAND PRIX '97 決勝戦準々決勝ではアーネスト・ホーストに1ラウンド逆転KO負け。1998年にはプロボクシングの世界2大プロモーターと評価されるドン・キングと契約を結んで、K-1と並行してボクシングにも挑戦。イベンダー・ホリフィールドのトレーナーを務めるドン・ターナー、ロバート・リーとも契約し、ホリフィールドらと練習を積んだ。ホリフィールドはバンナについて「強い選手だと思う。特にパンチ力は物凄い。パンチの破壊力だけなら俺が今まで戦った相手の中でも最強クラスだ。あとはどれだけテクニックを身に付けられるか期待してるよ」と当時語っていた。同年のボクシングでの戦績は4戦4勝3KOで、KOにならなかった試合はバンナがダウンを奪った後に相手がホールディングを連発したことによる反則勝ち。1998年7月18日、K-1 DREAM '98にて、サム・グレコと再戦し、1ラウンドにハイキックとパンチで2度のダウンを奪われながらも、2ラウンドに左ストレートで逆転のKO勝利。9月19日にアメリカ合衆国・アトランタで、ドン・キング主催のボクシング興行でイベンダー・ホリフィールド対ボーン・ビーン戦が行われたが、前座のキックボクシングマッチでブラジルのエスペディト・ダ・シウバ(Espedito DA SILVA)と対戦して左ハイキックで1ラウンドKO勝ちし、WKNムエタイ世界スーパーヘビー級王者になった。その後も1998年は11月28日に1試合、さらにマディソン・スクエア・ガーデンで行われた1999年2月20日のフェリックス・トリニダード対パーネル・ウィテカー戦及び3月13日のイベンダー・ホリフィールド対レノックス・ルイス戦の前座でのボクシングマッチ出場が予定されていたが、ドン・キングとの仲介役を担っていたフランス人マネージャーのジャン・クリストフ・クレージュの業務怠慢に対して抗議すると、干されて試合が出来なくなってしまい、当時のK-1プロデューサー石井和義に契約問題の解決を頼んでK-1に復帰する。1999年、K-1に復帰。なお、クレージュとの契約は解除したが、プロボクシングへの並行参戦は続けていく予定だった。契約問題によって試合枯れに陥っている間に、「試合が決まらなくてスパーリング等の実戦的な練習を重視する段階でもないし、新しい練習環境を求めて他国に出稽古に行こうにも娘が生まれたばかりで家を離れられず、他に何もすることがないから筋力トレーニングばかりやっていた」と語るほど集中的なトレーニングによって、元々が筋肉質な体質だったバンナは大幅な肉体改造に成功し、通常体重は筋肉主体で130kgを超えるようになり、試合に出場する際には付き過ぎた筋肉を減量で落として臨むようになった。10月3日、K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦に参戦。ローキック以外でのダウン経験が一度も無いほどの打たれ強さから「大英帝国の不沈艦」の異名を持ち、後にプロボクシングのヘビー級世界ランカーとなってWBA世界ヘビー級王座に挑戦するマット・スケルトンをパンチで圧倒して1ラウンドKO勝利。アーツやグレコを苦しめ、アーツからは「K-1でトップ5に入る実力」と高評価されていたスケルトンを何もさせずに圧倒して一方的にKOしたことで一躍、優勝候補として脚光を浴びた。また、テクニック面でも前年のグレコ戦ではボクシングに傾倒した構えによって、こねるような蹴り方になっていたローキックや、相手のローキックに対する防御もやや改善されたところを披露した.試合後には次戦となる準々決勝で前年のK-1 GPを3試合連続1ラウンドKO勝ちで通算3度目の優勝を果たすなど9連勝中と最盛期だった絶対王者ピーター・アーツとの対戦を熱望。翌日に行われたトーナメント組み合わせ抽選会ではバンナ以外の誰もがアーツとの対戦を避けるなか、希望通りにアーツを指名した。12月5日、K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦の決勝トーナメントに出場。トーナメント初戦となる準々決勝で希望通り前年度王者ピーター・アーツと対戦。大会前から「最強の王者であるアーツを倒せば俺が最強だと証明されるから、初戦のアーツ戦に全てを集中する。準決勝以降のことは何も考えてない」と明言していた。一方のアーツも、自身が苦戦したスケルトンを簡単に倒したバンナの実力を警戒しており、「バンナ戦が最大の難関だから彼を倒す事に専念する」と語っていた。試合開始から15秒でアーツの強烈なカウンターの右ハイキックでダウンを奪われる。しかし、それでもKOされることなく立ち上がり、その直後に圧力をかけて左フックで逆転の1ラウンド失神KO勝利。続く準決勝では、下馬評を覆してアンディ・フグに勝利してきたアーネスト・ホーストと対戦。1ラウンド、バンナはパンチで猛ラッシュを仕掛け、優勢に進める。しかし、1ラウンドのラッシュによってスタミナを大きく消耗したバンナは、2ラウンドに入るとローキックを放った際の隙を突かれてカウンターの右ストレートからラッシュを受け逆転KO負けを喫した。大会後のインタビューでは「アーツを倒したので自分が最強だということは証明できたと思う。準決勝のホースト戦は、決勝に備えて消耗を少なく勝ち上がりたいと考えていたので1ラウンドKO勝ちを狙ってラッシュを仕掛けたが、それによって力み過ぎてしまい、2ラウンドにはスタミナ切れしてしまった。力まず普段通りに戦えばスタミナは切れなかったので、これからはワンマッチだけでなく、トーナメント用に消耗を少なく勝ち上がる戦い方を研究しないといけない」とコメントした。一方、ホーストは大会後の格闘技通信のインタビューで「(所属する)ボスジムのヨハン・ボス会長と共に準決勝はバンナが勝ちあがってくると予想していたので対策はしていた」「仮に私が優勝できなくても、少なくともバンナとマイク・ベルナルドの優勝だけは絶対に阻止しなければと思っていた。別に彼らに個人的な恨みがあるわけではない。しかし、ボクシング主体で蹴り技に欠けるファイトスタイルの彼らが優勝したらK-1・キックボクシングという競技そのものの存在意義が否定されてしまうので、彼らが蹴りが上手くない間は絶対に優勝させてはいけないと思った。実際に、バンナはこの2年間ボクシングを学んだことでパンチは良くなったが、上手かったはずの蹴りが下手になっていて、その下手になったローキックにカウンターを合わせて私が勝ったんだ」とコメントした。また、アンディ・フグは「私が準々決勝でホーストの足にローキックでダメージを与えていたのだから、バンナはローキックを蹴り、頭を使って戦術的に戦えば優勝できたはず」とコメントした。2000年2月19日、マンダレイ・ベイ・イベント・センターで行われたマルコ・アントニオ・バレラ対エリック・モラレス戦の前座でボクシングルールの試合を行う予定だったが試合が消滅。代わりに2月26日にマルセイユでプロボクシングのフランス・ヘビー級王座に挑戦することが決定していたが、当時のフランス・ヘビー級王者がシリル・アビディをスパーリング・パートナーとして呼んだところ、逆にスパーリングでのされてしまい、アビディ以上のK-1の実力者であるバンナを恐れて対戦を拒否してしまった。その後もボクシングへの並行参戦を望んでいたが、今度はドン・キングと契約問題で対立し、戦う機会を得られないままボクシングから撤退する不運に遭った。3月17日、ラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナにてパリス・バシリコスと対戦して2ラウンドKO勝利、ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座の防衛に成功。4月23日、K-1 THE MILLENNIUMで当時の現役極真空手世界王者フランシスコ・フィリォと対戦。試合前の記者会見では「(試合会場の)大阪ドームから一番近い病院のベッドをフィリォのために予約しておいてやってくれ!」と強気なKO勝利宣言を行い、注目を集めた。左ストレート一撃でフィリォを失神させ1ラウンドKO勝利。この試合は「千年に一度のKO劇」と呼ばれる伝説のKO劇となった。試合後、痙攣しながら倒れこんでいたフィリォが意識を取り戻して悔し涙を流しているところに駆け寄り、「泣くな!君は極真の王者なんだから!」と激励した。5月28日、K-1 SURVIVAL 2000にてヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ。『1ラウンド2分以内のノルキヤタイム内であればK-1王者クラス』とも評される実力を持つ大巨人ノルキヤに対して開始早々に真っ向勝負で殴り合い、1ラウンド1分7秒でKO勝ち。7月30日、K-1 WORLD GP 2000 in 名古屋の予選トーナメントに参戦。「俺はワンマッチでは最強だが、トーナメントは苦手だと言われることが多いから、今回は12月の決勝トーナメントに向けてトーナメント用の戦い方を身に付けたところを見せる。1回戦から全力は出さずに消耗を抑えて優勝する」と宣言して臨んだこの大会の1回戦でマーク・ハントと対戦。3-0の判定勝利。続く準決勝でニコラス・ペタスと対戦。大会前にペタスが「極真の仲間であるフィリォの仇を討つためにバンナを倒す」とコメントしたことや、フィリォが「たしかにバンナは強いがまだ私より強いとは証明していない。もう一度私に勝ったらバンナが私より強いと認めるから再戦してほしい」とコメントしていたため、バンナは当初は極真勢に対して敬意を表していたが、これらのコメントを伝え聞いて群れることを嫌う一匹狼な性格のバンナは不快感を露にするようになり、ペタス戦は試合前から殺気立った表情で臨んだ。1ラウンドKO勝利。試合後、バンナが両手を挙げて勝利を喜んでいる最中に、まだ負けた事に気付いていないペタスがバンナに殴りかかろうとしたことで、これに激怒したバンナが右フックを打ち込んで再びペタスをKOした。試合後の攻撃による反則に批判も起きたものの、バンナの1ラウンドKO勝利という結果に変更は無かった。続く決勝戦ではアーネスト・ホーストと対戦し、1ラウンド終了間際に左ストレートをクリーンヒットさせたところでラウンド終了となり、1ラウンド終了時にタオル投入によるTKO勝ちで予選トーナメントを優勝した。これにより12月10日に開催されるK-1 WORLD GP 2000 決勝戦への出場権を得た。K-1 WORLD GP 2000 決勝トーナメントの組み合わせ抽選会に向かう途中で交通事故に遭い、抽選会を欠席。自身が乗っていた車は大破し、同乗していたスパーリング・パートナーのフィリップ・ゴミスは意識不明の重体になるほど大きな事故であったが、それでも優勝に懸けるバンナは出場を決意。抽選会当日には国際電話で参加し、代理で引かれた抽選クジの結果を伝えられると、準々決勝の相手にフランシスコ・フィリォを指名し、「奴がもう一度病院送りにされたいようだからやってやることにした。アイ・ドント・ライク・キョクシン!」とコメントして怒りを露にした。この大会では前年度王者ホーストを差し置いて優勝候補本命と目されていたが、伝染性単核球症により本大会を欠場。2001年になるとバンナが欠場したK-1 WGP 2000決勝トーナメントが判定決着続出の低調な内容だったこともあり、さらにバンナに注目が集まるようになり、本人も「俺様が触った物は全て黄金になる!日出ずる国・日本のK-1を俺がさらに輝かせてやるよ!」と強気な発言を繰り返した。3月4日、マルセイユでアンドレイ・ズラウコフと対戦し、2RKO勝ち。しかし、この試合で左脛に怪我を負い、14針を縫った。3月17日、K-1 GLADIATORS 2001にてマイク・ベルナルドと対戦。この試合では負傷したバンナの左脛にサポーターを着けることが両者合意の下、特別に承認された。1ラウンド終了間際、ベルナルドの体を入れ替えての左右のフックがバンナの顔面に直撃しそのままマットに沈み、一度は1ラウンドKO負けと判定されるも、バンナ陣営はこの結果に抗議。検証の結果、ダウンする数秒前にゴングが鳴っていたことに加えて、観客の歓声でゴングの音がかき消されレフェリーには聞こえていなかった。ゆえにノーコンテスト(無効試合)となった。4月29日、K-1 WORLD GP 2001 in 大阪の予選トーナメントで、全試合1ラウンドKO勝利で優勝。大会後、「この優勝を天国にいるアンディに捧げる」と言って前年8月24日に死去したアンディ・フグへの追悼の意を示した。また、石井館長からは「強引なラッシュ頼りではなく、バックギアも使った冷静な試合運びで、トーナメント用の戦い方をした上での全試合1ラウンドKO勝ちによる優勝は素晴らしい!」と評価された。6月24日、K-1 SURVIVAL 2001 〜JAPAN GP 開幕戦〜にてステファン・レコと対戦。3月に負傷した左脛の怪我が完治せず簡易サポーターを巻いたまま臨んだが、左ハイキックでダウンを奪って判定勝ち。12月8日、K-1 WORLD GP 2001 決勝戦の1回戦でマーク・ハントと再戦。3月に負傷した左脛は相変わらず完治せず簡易サポーターを着けたままながらそれでも揺るがぬ優勝候補本命とされたバンナは、試合直前のインタビューで「今回はワンマッチではなくトーナメントだから、初戦から全力は出さない。初戦は力をセーブして消耗少なく勝ち上がるよ」とコメントしていた。しかし、ハントのラッシュにより2ラウンドKO負け、リベンジを許した。12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2001」で総合格闘技に初挑戦。安田忠夫と対戦し、1ラウンドは優勢だったが、2ラウンドに前腕チョーク(公式記録はギロチンチョーク)で一本負け。2001年の反省を踏まえ、2002年に入るとチーム、トレーナーを一新。マイク・タイソンのセコンドを務めていたボクシング・トレーナーを解雇し、フランスの名ムエタイ選手だったステファン・ニキエマをトレーナーとして招聘し、2001年まではパンチとローキック主体だったファイトスタイルを、ムエタイテクニックを学び。新しいファイトスタイルに進化することに成功。2002年3月3日、K-1 WORLD GP 2002 in 名古屋にて天田ヒロミと対戦。天田の隙を突いて新しい武器である豪快な左ハイキックでダウンを奪い、再開後はテンカオとパンチの連打で1ラウンドKO勝利し、コーナーに駆け上がって雄叫びをあげた。足が伸びきっていないやや不完全なハイキックではあるものの、右手で顎の部分をガードしていた天田のガードごと吹っ飛ばしてダウンさせる強烈な蹴りで新たな進化の一端を披露した。5月25日、K-1 WORLD GP 2002 in Parisにて、前年のK-1 WORLD GP王者となったマーク・ハントとラバーマッチ。この試合はバンナの母国フランスのパリで開催となったため、凱旋試合として気合いが入っているかと思いきや、対戦発表会見でバンナは「俺は生まれも育ちもフランスのフランス人だが、俺はフランス人が嫌いだし、日本の方が好きだ!フランスの国民性ってのは有名人に取り入ろうとしたり妬んだりする奴が多い。ハントとのビッグファイトは愛する日本のファンの前でやりたかった」と不満を述べた。また、同大会はフランスのスポーツ省が「暴力性が高い」との意向で、蹴り足をつかんでの攻撃・膝蹴りなどが反則となる特別ルールで行われる大会前日に正式決定したため、これらの技が当然使えると思い、接近戦でのハント対策として膝蹴りを重要視して練習してきたバンナにとって、母国開催にも関わらず大きな痛手となった。2R終了後のインターバル中にハントがドクターチェックを受け、ハントサイドが目の負傷によりタオルを投入し、バンナが2ラウンド終了TKO勝利で前回のリベンジを果たして2勝1敗と勝ち越して母国凱旋を飾った。8月28日、Dynamite!にてマーク・ハントの欠場に伴う代役として急遽試合当日に来日してドン・フライと対戦し、左ハイキックからのパンチ連打で最初のダウンを奪うと、最後は右フック一発で1ラウンド失神KO勝ち。その後、ステファン・ニキエマと袂を分かち(後年になって和解)、WGP開幕戦を前に再びチームを再編成。10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦でPRIDEからの外敵ゲーリー・グッドリッジと対戦。マイク・ベルナルドに1ラウンドKO勝ちして出場権を得てきた外敵グッドリッジが「ベルナルドがトップ選手の一人だって言うならK-1 WGP優勝なんて簡単だ」と発言したことに激怒したバンナは試合開始のゴングが鳴る直前から「かかってこいよ!」と手招きをして挑発。壮絶な打ち合いの末に1ラウンドKO勝ち。翌日に行われた決勝トーナメント抽選会に出席。開幕戦の前の時点では抽選会ではミルコ・クロコップを相手に選ぶことを宣言していたバンナだったが、ミルコがWGPを欠場していた。そして抽選の結果、バンナは武蔵を指名する形となった。武蔵を相手に選んだ理由について「今回はワンマッチではなくトーナメントだから優勝することが一番大切だ。優勝するために一番楽な相手を選んだんだ、省エネだよ」とコメントした。12月7日、K-1 WORLD GP 2002 決勝戦で、準々決勝で武蔵と対戦。やはり今回も「トーナメントなので消耗を少なく勝ち上がることが大切なので力をセーブして頭を使って戦う」とコメントしていたバンナは慎重な戦いぶりを見せる。武蔵が、普段の足を使ったアウトボクシングをやらず、フットワークを使って出入りしながらパンチの打ち合いを仕掛ける戦術を取る。いつも通りのアウトボクサースタイルの武蔵ならダメージは少ないと踏んでいたバンナは意表を突かれ、鼻にパンチを浴びて鼻血を出してしまうが、1ラウンド終了直前にダウンを奪う。武蔵はふらつきながら辛うじて立ち上がったものの、レフェリーストップとはならず、インターバルに突入。そして2ラウンドに武蔵のハイキックをブロックした直後に隙を突いてTKO勝利。準決勝はマーク・ハントとの4度目の対戦。結果は3-0の判定勝利。決勝ではアーネスト・ホーストと対戦。ホーストの右ミドルキックを受けて左腕を粉砕骨折し、3ラウンドKO負け。この試合で粉砕骨折したバンナの左肘部分が完全に砕けて骨が外部に飛び出ているにも関わらずレフェリーストップもせず、ドクターチェックも受けさせず、3ノックダウン・ルールによって自動的に試合終了となるまで何もしなかったレフェリー角田信朗のレフェリングが問題視された(詳細は角田信朗#レフェリングに対する批判の項を参照)。粉砕骨折した左腕を治すためにプレート2本とボルト13本を埋め込む手術を行った。なお、バンナ本人はこの試合については「俺は侍のようなネバー・ギブアップをスピリットで戦ったから最後まで諦めずに戦ったんだ」とコメントしており、角田に対して何かを語ったことは無い。WGP決勝戦におけるダメージによって、最大の武器である左腕を粉砕骨折する重傷を負って以来、バンナの左パンチに時折異変が見られ、対戦相手からも左腕を集中攻撃されることが多くなった。2003年6月14日、K-1 WORLD GP 2003 in PARISで復帰し、ヴィタリ・オフラメンコと対戦して2ラウンドKO勝利。同年のWORLD GP開幕戦に出場予定だったが、練習中に左腕に埋まっている金属ボルトがズレたため欠場。ジャン=クロード・ヴァン・ダムがジムに来訪したため、練習に力が入りすぎたとのこと。2004年7月17日、K-1 WORLD GP 2004 in SEOULにてテレンス・リーズビィと対戦し、1ラウンドKO勝利。9月25日、K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦でフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタと対戦。バンナが圧倒するも2ラウンドにダウンを奪われる。ダウンを奪われた後にはすぐ反撃し終始バンナペースで判定でドローとなるが、延長ラウンドを前にタオル投入によるTKO負け。この試合についてバンナは「俺がネバー・ギブアップの精神を唯一失ってしまったのが、あの試合だ。あの試合では母が死んだ辛さで頭の中が真っ白になっちまった。俺は肘や鼻など自分の体が破壊されても戦えるが、あの時は延長戦をやろうと思った時、時速230kmの速さで俺自身のスピリットがぶっ飛んでしまった。あの時の俺を思い出すと、ホント自分自身に腹が立つね!もう二度とあんな試合はしないと誓ったんだ!」と語っている。12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!にてボブ・サップとK-1と総合格闘技のMIXルールで対戦。K-1ルールで行われた1ラウンドと3ラウンドでは圧倒するも、総合格闘技ルールで行われた2ラウンドと4ラウンドでは巻き返され、引き分け。2005年3月26日、HERO'Sで秋山成勲と総合格闘技ルールで対戦。膝蹴りで1ラウンドKO勝利し、総合格闘技での初勝利を挙げた。4月30日、スイスのジュネーヴでオリヴァー・ヴァン・ダムに1ラウンドKO勝利し、WKNムエタイ世界スーパーヘビー級王座の初防衛に成功。5月27日、K-1 WORLD GP 2005 IN PARISでシリル・アビディと対戦。5ラウンドTKO勝利。9月23日、K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦にてゲーリー・グッドリッジと対戦し、1ラウンドKO勝利。試合後、バンナは控え室に戻らずにグッドリッジの元へと向かい、バンナのローキックのダメージによって歩けなくなっているグッドリッジを自分の背中におんぶして医者の元へと連れていった。11月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦の準々決勝でピーター・アーツと対戦し、延長1ラウンド判定負け。しかし、勝ったアーツも肋骨を骨折して準決勝を棄権した。12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!でアラン・カラエフと総合格闘技ルールで対戦し、左ミドルキックで2ラウンドKO勝利。なお、カラエフは試合後、意識不明の重体のまま救急車で病院に運ばれ、生死の境を彷徨う重傷を負っていたことが同大会に出場していた大山峻護のブログにて明かされた。2006年3月15日、HERO'S 2006にてジミー・アンブリッツと総合格闘技ルールで対戦し、1ラウンドKO勝利。5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMでレミー・ボンヤスキーと対戦。一度は判定0-2での敗北となるも、この結果にバンナ陣営から抗議が申し立てられ、日本で再審議し、日本人6名、アメリカ人2名で構成された検証審判員によるビデオ検証の結果、6月30日付けで判定3-0でのバンナの勝利に変更された。9月30日、K-1 WORLD GP 2006 IN OSAKA 開幕戦ではチェ・ホンマンと対戦。バンナは後述の諸事情によって調整不足のまま試合当日に来日する不運に遭った(ジェロム・レ・バンナ#芸能活動を参照)が、延長1ラウンド判定勝利。12月2日、K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦の準々決勝では抽選会で自ら対戦相手に指名した前年のK-1 WORLD GP王者セーム・シュルトと対戦。2ラウンドに左ハイキックでダウンを奪われる。ダウンから再会直後に左ストレートをヒットさせてシュルトのマウスピースを弾き飛ばすも及ばず3ラウンド判定負け。大会後シュルトからは「今日戦った三人(バンナ、ホースト、アーツ)の中でバンナ戦が一番難しかった」と評された。3月4日、K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMAで澤屋敷純一と対戦。1ラウンドと3ラウンドの計2度のダウンを喫し判定負け。K-1ルールによる日本人選手との対戦で初めての敗戦となった。この試合ではリング上を逃げ回りながらカウンター狙いに徹する澤屋敷の戦い方が物議を醸したが、バンナは試合後に「1月に右膝を痛め、充分な練習ができなかった。澤屋敷のことは知らなかった。彼はあの作戦でしか勝てないと判断したのだろう。でも作戦は作戦。審判も注意をしていたから彼に対する悪意は無い。ぜひ彼にリベンジしたい」とコメントした。6月には2002年末以来、左腕に埋め込まれたままになっていた2本のプレートと金属のボルト13本を手術によって除去。また、澤屋敷戦の前に怪我した右膝も手術した。9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16でルスラン・カラエフと対戦予定だったが、ルスランが試合直前に交通事故で欠場となり、急遽パク・ヨンスと対戦。右フックで1ラウンドKO勝ち。12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALの準々決勝でチェ・ホンマンと再戦し、判定勝ち。準決勝では王者セーム・シュルトと対戦。1ラウンド開始からシュルトの前蹴りと左ジャブを巧みにかわして積極的に前に出るが終盤に右膝蹴りを顔に受けぐらつくもゴングに救われる。2ラウンドに同年に手術した膝に右ローキックを受けダウン、それを見たセコンドがタオルを投入しTKO負け。大会後、1年近く続く右膝の怪我を治しての再起を誓うと共にシュルトの持つK-1世界スーパーヘビー級王座への挑戦、マイティ・モー、メルヴィン・マヌーフ、バダ・ハリとの対戦を熱望した。2008年6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1世界スーパーヘビー級タイトルマッチでセーム・シュルトと対戦。2ラウンドまでのジャッジの採点はイーブンだったが、3ラウンドに首相撲からの膝蹴りを2連続で打つ反則攻撃を浴びて大きなダメージを受け、この反則以降に失速し判定負け。なお、レフェリーの角田信朗はシュルトの反則に対して減点をとらず注意のみに留めた。9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16で澤屋敷純一と対戦。ダウンを奪って3-0判定勝ちでリベンジを果たした。12月6日、K-1 WORLD GP 2008 FINALの準々決勝でレミー・ボンヤスキー戦と対戦。2ラウンドまで互角の展開だったが、3ラウンドにレミーのミドルキックが左腕に直撃し、ダウンカウントの後に左腕骨折の疑いでドクターストップがかかりTKO負け。会見にて「レミーは前蹴りが得意だから、それをディフェンスする練習をしてる時に左腕を怪我してしまい、そこを攻められた。まだ戦いたかったが残念だ」とコメントした。なお、同大会で優勝したレミーは「今日の3試合(バンナ、グーカン・サキ、バダ・ハリ)の中でバンナが一番強かった」とコメントした。2009年2月18日、かつてボクシングでのプロモーターだったジャン・クリストフ・クレージュと和解して再契約し、また、ドン・ターナーとも再契約した。3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAのスーパーファイトにてエヴェルトン・テイシェイラと対戦し、延長2ラウンドまで縺れ込むも2-1の判定負け。この試合をテレビ解説していた魔裟斗と会場で見ていたピーター・アーツは「バンナの勝ちだった」と明言しており、一部の観客も判定に対してブーイングを飛ばしていた。バンナ自身も4ラウンド終了時の判定に対しては不満を露わにしたが、試合後は苦笑しながらも潔くテイシェイラと握手をかわした。5月23日、フランスのドーヴィルで11年ぶりにプロボクシングの試合を行い4ラウンドTKO勝ち。9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16で引退を賭けた武蔵と対戦し、3ラウンドにダウンを奪うなどして判定勝ち。試合後、リング上でバンナは武蔵に対し土下座で敬意を表した。11月13日、ドーヴィルでプロボクシング4回戦に出場し、左ストレートで2ラウンドTKO勝ち。12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALでセーム・シュルトと対戦し、1ラウンドKO負け。試合後のインタビューで戦前言われていた引退説を否定した。2009年は引退後の生活のために練習と並行して映画撮影をやらざるをえなかったため、戦いへのモチベーションが落ちていたことを反省。2010年2月には再びモントリオールのトライスタージムでジョルジュ・サンピエールらと練習した後、3月からはアムステルダムに単身赴任して名門ドージョー・チャクリキで練習に集中するようになった。なお、元プロボクシングWBA・WBC世界クルーザー級統一王者ジャン=マルク・モルメクとボクシングルールでの対戦を3月または4月にフランスで実現させるために交渉していたが、モルメクが対戦を拒否したため実現しなかった。4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAでタイロン・スポーンと対戦し、1ラウンドにダウンを奪い判定勝ちを収めた。7月23日、レユニオンのサン=ドニにて、3分5ラウンドのムエタイルールでWPMFムエタイ世界スーパーヘビー級王者トーマス・ノヴァクに挑戦し、1ラウンドにダウンを奪い、5ラウンドに右フックで失神KO勝ちを収め、同王座を獲得。また、試合前から怪我していた足の治療をすることを公言した。その後、同王座は返上した。10月2日、K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16にてK-1世界ヘビー級王者・京太郎と対戦。試合は判定に入り、日本人ジャッジ3人のうち1人がバンナを支持するも1-0でドローとなり延長ラウンドへ突入する。しかし、判定の結果が告げられると判定に対して怒りを露にしたバンナがリングを下り控え室へ戻ってしまったため、試合放棄とみなされ敗退となった。試合後の会見でバンナは「京太郎は素晴らしい選手だが、判定は公平じゃなかった」と不満を語った。一方の京太郎は「今まで21試合してきて初めて勝ちたいと思ったし、一番怖かった試合でした。僕は判定を聞くまで"90パーセント負けた"と思っていた」と語った。12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜にて4年ぶりの総合格闘技ルールマッチで北京オリンピック柔道男子100kg超級の金メダリスト石井慧と対戦。スタンドで膝蹴りを浴びせ、寝技では石井の関節技をかわしきってマウントポジションを奪う場面もあり、バンナがパウンドを打つ際には日本人の石井が相手でありながら観客から掛け声があがったが、3Rに抑え込まれて判定負け。試合後、石井から「バンナ選手の寝技が予想以上にうまかった。僕は吉田秀彦さんからパスガードしてサイドポジションを奪うことは出来たし、今回の試合に備えてエメリヤーエンコ・ヒョードルに一本勝ちした柔術世界王者ファブリシオ・ヴェウドゥムと練習してきて、寝技スパーリングで僕はファブリシオからパスガードしてサイドポジションを奪って抑え込めていたから寝技には自信があった。しかし、バンナは寝技でもファブリシオと同じくらい足が利いていて、今までで一番パスガードするのが難しい相手だったし、アキレス腱固めやヒールホールドの防御のやり方も出来ていて、寝技で下から打ってくるパンチも強かった」」と評された。バンナは「今年はあまり寝技の練習ができなかった。自分も6歳から柔道をやっていたので、嘉納治五郎のような柔道マスターで金メダリストの石井と対戦できて光栄」と語った。2011年になるとK-1の経営母体であるFEGの経営難が表面化し、特にバンナが主戦場とする無差別級のK-1 WORLD GPシリーズは大会開催の目処が全く立たない状況となり、バンナも前年大晦日の石井慧戦のファイトマネーが未払いにされたままとなった。K-1優勝を目指して前年からオランダに単身赴任してドージョー・チャクリキで練習するようになったバンナだが、K-1の開催自体が出来なくなったことで目標を失い、拠点をフランスに戻すことにする。そんななか3月11日に東日本大震災が起こり、愛する日本のために何かしたいと考えたバンナは新たな道を進むことになる。4月28日、IGFの東日本大震災復興チャリティー大会として開催されたGENOME15に電撃参戦し、IGFチャンピオンシップ・トーナメント一回戦にて異種格闘技戦で鈴川真一と対戦し、6度のダウンを奪ってKO勝ち。この試合を見た青木真也や北岡悟らはTwitter上で、「プロレス興行での試合だが(ケーフェイの無い)、完全にガチンコの試合だった」とコメントしている。2011年6月11日、スイスのジュネーヴで行われたISKAフリースタイル世界スーパーヘビー級タイトルマッチでステファン・レコと再戦し判定勝ちして王座を獲得。この試合はレコの引退試合であり、試合後バンナは土下座でレコへの敬意を表した(しかし、その後にレコは引退を撤回)。2011年7月10日、東日本大震災復興チャリティー大会GENOME16でのIGFトーナメント準決勝で、レイ・セフォーに勝利してIGF戦績12戦全勝としていたエリック・ハマーと異種格闘技戦で対戦し、5度のダウンを奪ってKO勝ち。2011年8月22日、8月27日のIGFトーナメント決勝戦の対戦相手であるジョシュ・バーネットの欠場が決まったため、バンナの不戦勝扱いとして初代IGF王者に認定された。8月24日、IGF王座のチャンピオンベルトが授与された。同日に放送されたSアリーナに生出演した際には、「今日は友人であるアンディ・フグの命日だから、このベルトを手に入れたことでアンディに良い報告が出来ると思う」と語り、「皆さんは僕の人生の一部です」と日本語でコメントして日本のファンへの感謝を現した。2011年8月27日、INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜でのIGF王座初防衛戦で藤田和之と対戦し、KO勝ちで初防衛に成功した。2011年9月3日、GENOME17にてノンタイトル戦でモンターニャ・シウバにKO勝ち。2011年12月2日、INOKI BOM-BA-YE 2011でのIGF王座防衛戦で、トーナメント決勝戦で対戦するはずだったジョシュ・バーネットと対戦し、KO勝ちで2度目の防衛に成功した。2011年12月4日、震災被災地である福島県いわき市のいわき明星大学で開催された「闘魂祭り in いわき」にて、チャリティー・エキシビションマッチで角谷正義と対戦し、3度のダウンを奪って1RKO勝ち。2011年12月30日、タイのパタヤにてアンドレイ・キルサノフと対戦。かつて石井和義から「マーク・ハント以上に打たれ強い」と評されたキルサノフから2度ダウンを奪って3RKO勝ちを収め、初代World Pro Leagueムエタイ世界スーパーヘビー級王座を獲得した。この興行はバンナがタイでトレーニングする際に拠点としているフェアテックスジム・パタヤへの恩返しと、タイ洪水の被災者へのチャリティーマッチとして行われた。試合後、リング上でのマイク・パフォーマンスで交際中の恋人にプロポーズした。2012年2月17日、GENOME18でのIGF王座防衛戦でピーター・アーツと対戦し、腕ひしぎ十字固めでアーツをタップアウトさせて勝利し、3度目の防衛に成功した。試合前には、2月14日に死去した盟友マイク・ベルナルドへの追悼10カウントゴングがバンナの提案によって行われ、試合後のリング上でもバンナは「マイク、見守ってくれてありがとう。天国の君にこの試合を捧げる。君のことは絶対忘れない。君のために戦った。安らかに眠ってくれ」とベルナルドに追悼メッセージを送った。また、自ら希望してアントニオ猪木の闘魂ビンタをくらった。2012年2月25日、ポーランドの総合格闘技団体KSWの大会KSW 18のメインイベントで地元出身のマーティン・ロザルスキーと対戦予定だったが、試合直前に膝の半月板を負傷し、欠場した。2012年5月26日、GENOME20でのIGF王座防衛戦でアレキサンダー・コズロフにKO勝ちで4度目の防衛成功。レフェリーストップに納得がいかないコズロフと試合後にも乱闘を繰り広げた。2012年7月10日、IGF初の上海興行でコズロフと再戦し、パンチでダウンを奪ってフォール勝ちで5度目の防衛成功。なお、この試合で古傷の左腕を負傷するというアングルが組まれた。4日後の7月14日、GENOME21で藤田和之と再戦し、フォール負けでIGF王座6度目の防衛に失敗。その後はアメリカでヴァンダレイ・シウバのジムやマーク・ムニョスのジムなどで石井慧らと共に練習を重ねていたが、負傷によって9月15日のKSW 20、9月29日のGENOME22を欠場した。2012年12月31日、K-1に代わる世界最大のキックボクシング団体となったGLORYの初の日本大会DREAM.18 & GLORY 4のGLORY Grand Slamヘビー級トーナメントに参戦予定だったが、怪我が治りきっていないため、トーナメントは回避し、2分3ラウンドのワンマッチでKOICHIと対戦。来日のための機内で病気を移されため前日会見を欠席し、試合当日の朝になっても発熱し嘔吐を繰り返すほどの体調不良でありながら強行出場。試合前から宣言していた通り、IGFとアントニオ猪木のTシャツを羽織って入場し、左ミドルキックを効かせて最後は右フック一発でKO勝ち。試合後も休むことなく、直後に行われたチームメイトのブリース・ギドンのセコンドに就いた。2013年5月3日、GLORY 8 TOKYOでKOICHIと再戦。2Rにダウン寸前まで追い詰めるなど終始圧倒しフルマークの判定勝ち。6月16日、ロマン・クレイブルと対戦し、2Rに左ミドルキックでクレイブルの腕を骨折させてKO勝ち。8月4日、13連勝中だったヴィタリ・オフラメンコと10年ぶりに再戦し、前回同様に2RKO勝ちでWKNオリエンタル・キックボクシング世界スーパーヘビー級王座の防衛に成功。試合後、俳優のシルヴェスター・スタローンから祝福され、チャンピオンベルトを腰に巻かれた。11月23日、マルセイユにてシンデン・ハマーレインと対戦し、1Rにスリップで転倒した際に追撃の蹴りをくらう反則をくらい、そのダメージが残るなかで直後にハイキックでダウンを喫するが、2RにKO勝ちを収めた。地方テレビLCMの取材に対し、「反則の蹴りは効いたが、彼とは一緒に練習したこともある友人だし、責める気はない。ストレスの溜まる状況で少しミスもしたが、俺はまだ戦うことが好きだから頑張っていきたい」と語った。12月21日、GLORY 13 TOKYOにてセルゲイ・ハリトーノフと対戦し、1Rはやや優勢だったが2R以降にダウンを奪われ判定負け。練習中の怪我によって本来の強い蹴りが打てず動きが悪かったことが試合後に明らかになった。12月30日、フジテレビのテレビ番組ジャイアントキリング 3にて各スポーツの世界トップアスリート32名による腕相撲トーナメントに参戦し、マーク・ハント、大相撲の遠藤聖大、ハンドボールの宮崎大輔に勝利しベスト4入りした。2014年5月30日、現在も居住するル・アーヴルでの故郷凱旋試合でルシアン・ダニレンクと対戦。近年で最高のコンディションで臨み、圧倒的なパワーとキレの良さで開始早々からダニレンクを圧倒し、2R開始早々に左ミドルキックでダウンを奪うと、すぐさま左ミドルで2度目のダウンを奪い、この際に左足を痛めると今度は強烈な右ボディフックで3度目のダウンを奪ってKO勝ち。バンナのボディフックを浴びたダニレンクの身体が浮き上がるほど豪快なKO勝ちとなり、セコンドに飛びついて喜びを爆発させた。試合後にマイクを握るとファンと仲間への感謝を何度も連発し、勢いで「明日死んでも後悔しないくらいだぜ」と英語で語るほど興奮し、「この5ヶ月間で怪我を治して身体作りに専念してきた成果が出た」と語った。2014年7月20日~22日にかけて行われたIGFの東日本大震災復興支援チャリティー大会『元気祭り2014』に参戦し、福島県のいわき明星大学、スポーツアリーナそうま、宮城県の岩沼市総合体育館でチャリティー・プロレスマッチを戦った。8月4日、サントロペにてマイクスジムのダニエル・サムと対戦予定だったが、直前でサムが欠場したため、サムと同門で身長207cmのコリン・ジョージと対戦し、2RKO勝ち。8月23日、INOKI GENOME FIGHT 2にて小川直也とのタッグで藤田和之・クラッシャー川口組と対戦。試合前に小川は「何でバンナとタッグを組まされるのか分からない。控え室が同じかどうかも知らない。全員が敵だと思って戦う」と語っていたが、いざ試合が始まるとプロレスルールに順応したバンナが連携ブレーンバスターを繰り出すなど意外な好連携を発揮して勝利。試合後、小川からタッグ継続を希望された。8月30日~31日、IGF初の北朝鮮での大会『インターナショナル・プロレスリング・フェスティバルin平壌』に参戦。2014年10月26日、フランスのメディアに対して2015年にキックボクシングを引退することを表明。また、IGFでのプロレスに関しては「俺は日本を心底愛してるからオファーがある限りは続ける」とコメントした。2015年、『JLBグッバイツアー』と題し4月25日エヴルー、6月12日リヨン、8月4日サントロペの3試合でキックボクシングを引退することを正式発表。6月12日のリヨンではメルヴィン・マヌーフ等オランダ人強豪と対戦を希望した。2015年4月25日、エヴルーでの引退ツアー第1戦にてISKA K-1世界スーパーヘビー級王座決定戦でクラウディオ・イストラーテと対戦。バンナはこの試合を3週間前に控えたスパーリング中に左の中足骨を骨折してしまう。しかし、3月26日に心臓発作で急死したフランスの格闘技雑誌カラテ・ブシドー・マガジンの名物記者パスカル・イギリキのために、引退ツアー発表直後に第1戦のチケットが完売し遠い各地から観戦に来るファンのために、強行出場を決意。試合では骨折した左足を一切庇わず、躊躇なく左ミドルキックを連打する気迫の全力ファイトでKO勝ちして同王座を獲得した。しかし、試合終了直後に足を引きずっており、この強行出場が祟って全治8週間と診断され、6月12日の第2戦を欠場することとなった。8月4日、サントロペでのFight Night Saint-Tropez IIIにてフランス国内引退試合となるWKNオリエンタルキックボクシング世界スーパーヘビー級王座防衛戦を行った。当初の予定では第1戦をステップとして、第2戦と今回の引退試合で現役世界トップクラスの強豪との対戦をバンナ本人と主催者は希望しており、6月の第2戦を欠場したこともあって引退試合の相手に相応しいより強い相手と戦うべく、高額な好条件を用意して元K-1世界王者の某選手をはじめとする様々な強豪選手にオファーをしたものの、ことごとく対戦を断られてしまい、直前まで対戦相手が決まらず、最終的に直前でカール・ロバーソンとの対戦が決定した。具体的な内容は伏せられているものの、試合直前に深刻な出来事があり、一度は欠場の可能性もあったものの強行出場。K-1デビュー以前から愛用するニックネーム「ジェロニモ(アパッチ戦争に身を投じたアメリカインディアンの戦士)」の衣装を着け、フランスの人気ヒップホップグループシュープレムNTMのジョーイ・スターがバンナの入場曲の生歌を披露するなか、大歓声で迎えられてリングイン。試合は1ラウンドからローキックを的確にヒットさせていくが2ラウンドにダウンを奪われる。4ラウンドにバンナが右ミドルキックをロバーソンの腹部にヒットさせるが、ロバーソンはローブローをアピールしながら倒れ込む。レフェリーは迷いながら一度はローブローと裁定するが、リングサイドのサブレフェリー二人はダウンと判断。スリップの裁定を覆す事は出来ないが、ロバーソンがレフェリーの試合再開の指示に応じずに休もうとしたためダウンを宣告した。なお、テレビ中継ではダウンカウントを数えている最中にちょうどVTRが流れていたため視聴者に困惑を招いた。これで優勢になったバンナが逆転の判定勝ちで王座防衛に成功した。なお、試合後にロバーソンは「4Rのローブローは正直言うとダウンだね。ジェロムの左の蹴りが強いのは知ってたけど、右の蹴りはローだけだと思ってたから右ミドルがくると思ってなかった。ちょうど呼吸の合間で力が抜けてる時にくらったから効いてしまった。ローブローにしてもらえそうだったけど、レフェリーはよく見てたね(苦笑)。2Rに左を当てて倒したのにダウンにならなかった事だけが不満だけど、それ以外は公平なレフェリーだったし、あれがダウンになったとしても採点では俺の負けは変わりない」と4ラウンドのローブローが演技だったことと自身の負けを認めてバンナを称えた。8月8日、日本の格闘技サイトBoutreviewのインタビューに応じたバンナは最後に日本のファンへのメッセージに求められ、「勝っている時も、負けたり怪我している時も、ずっと応援し続けてくれている日本のファンの皆には感謝してもしきれないくらいだ。本当に嬉しいし、俺は心の底から日本を愛している。俺は『JLB Goodbye Tour』と題した現役引退ツアーで3試合を戦うはずだった。しかし、6月に予定していた第2戦を、対戦相手との交渉が難航したのと、3月に骨折した俺の左足が治りきっていないのもあって出場できなかったことで、ファンの皆に俺の戦いを見せる機会が1試合減ってしまったことが申し訳ないと思ってるし、俺を成長させて応援してくれた愛する日本のファンの前で試合が出来ないまま終わってしまうのが心残りなんだ。だから俺としては、あくまで日本のプロモーターが望めばだが・・・、あと1試合だけ日本で戦いたいと思っている。現時点では何も決まっていないし、このまま今回の試合が現役最後になるかもしれない。だが、俺は愛する日本のファンに恩返しがしたい。それに 『決着をつけたい奴』もいるから、出来ればそいつと対戦したいと思っている。俺がフランスではなく日本を最後の引退試合に選んで戦うことによって大会への注目が集まってくれれば、同じ大会に出る若手選手たちにもスポットが当たるようになれば日本のキックボクシング界の未来にも繋がると思う。日本のファンに最後のKO勝ちを捧げたいと思ってるから待っていてくれ!」と、因縁の相手との現役最後の引退試合を母国フランスではなく日本で行うことを熱望した。12月31日にさいたまスーパーアリーナで開催する、榊原信行主宰の総合格闘技団体RIZIN FIGHTING FEDERATIONの興行イベント「RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYS」にて、元大関把瑠都(バルト)と総合格闘技ルールで対戦する事が決定していたが、バンナのマネージャーがフランスのメディアに対して「当初はエメリヤーエンコ・ヒョードルとエキシビションマッチをする予定だったのがバルト戦に変更されたこと、日本でのチャリティー活動を拒否されたことから不信感を抱いたので出場しない。現在は日本の他団体と2016年にチャリティーマッチをする交渉をしている」とコメントした。また、フランス在住の日本人記者からは試合の契約をした後に主催者からファイトマネーを減らされたため出場拒否したと言われている。2006年頃から映画俳優としても活動しており、『ザ・スコーピオン キング・オブ・リングス』(原題:Scorpion)やハリウッドデビュー作となった『バビロンA.D.』ではアクション演技を披露した。マッドワールドのフランス版CMなどにも出演している。さらにヨーロッパ映画史上歴代2位の制作費122億円がかかった映画アステリックスシリーズ第3作『Asterix aux jeux olympiques』では、ジャン=クロード・ヴァン・ダムに代わってClaudius Cornedurusという映画内でも重要な役に抜擢され、友人であるアラン・ドロンとの共演も果たした。また、その撮影期間中の2006年9月30日に行われたK-1 WORLD GP開幕戦のメインイベントでバンナはチェ・ホンマンと対戦予定だった。しかし、バンナのマネージャーが「撮影が終わる11月2日までは格闘技の試合はもちろん、スパーリングなどの怪我しやすい練習もしてはいけない」という契約を映画会社と結んでいたことによって欠場が濃厚となっていた。しかし、バンナのマネージメント側は開幕戦の半年以上前からK-1主催者とフジテレビに映画撮影のため、開幕戦に出場できないことを伝えていたにもかかわらず、フジテレビから「出場しなければ契約を解除する」と通告され、K-1ファイター人生の危機に陥っていた。そこでドロンが「君は戦うために生まれてきた男だ。そんな契約は気にせず、日本で試合をしてきなさい。後のことはこっちで何とかするから」と言ってバンナを撮影地のスペインから送り出したことにより、何とか開幕戦当日の試合開始6時間前に来日を果たした。そしてホンマン戦では顔に傷が付くことを恐れない真っ向勝負の戦い方で勝利した後、リング上でマイクを握ったバンナは「快く送り出してくれたアラン・ドロンに感謝します」とコメントした(通訳者はこの言葉を省略)。2007年1月16日に日本テレビで放送された現代に甦った闇の死置人 あなたの怨み晴らしますというドラマに本人役として出演した。お互いが公平な条件で戦えるワンマッチでは圧倒的な強さとKO率の高さを誇る一方で、K-1 WORLD GP決勝トーナメントには10度出場しながらも準優勝が最高位のため、「無冠の帝王」「ワンマッチ最強」と呼ばれる。10度の決勝トーナメントのうち、2005年を除く9度が優勝者に敗れており、決して弱い相手に敗れているわけではない。唯一該当しない2005年はバンナに勝利したアーツはバンナ戦のダメージで肋骨を骨折したため準決勝をドクターストップで棄権している。また、優勝者が「今日戦った3試合の中でバンナ戦が一番厳しい試合だった」と答えたのは1995年と2007年を除く7度である。1998年は同年に優勝するピーター・アーツからも警戒する相手としてバンナの名前を挙げられていたが、プロボクシングのプロモーターとの契約問題によって欠場となり、怪我をしてるわけでもないのに観客席からの観戦という無念を味わった。優勝候補大本命と目され、他の出場者も決して好調ではなかった2000年の決勝トーナメントは直前で病気によって無念の欠場。2001年は前述のようにKOされた際に反則の肘打ちを浴びているにも関わらずレフェリーが反則をとらずに終わった。2002年の決勝トーナメントで最大の武器である黄金の左腕を角田信朗の不可解なレフェリングもあって粉砕骨折して以降は左パンチの数と威力が激減。他の優勝候補4人が怪我や病気、PRIDE移籍などでことごとく欠場した2003年の決勝トーナメントはバンナ自身も左腕粉砕骨折の怪我の悪化によって欠場。以後も左腕の怪我に悩まされ続けている。また、2010年にK-1優勝を目指してフランスを離れてオランダの名門ドージョー・チャクリキに入門した際に、チャクリキのトム・ハーリック会長から「3年計画でバンナを王者にする」との計画の元で猛特訓を積んできたが、2011年にK-1の運営会社が活動を停止し、以後K-1の無差別級は実質消滅しており、チャクリキの3年計画は丸1年にして戦う場所を失う形で頓挫してしまった。2012年にK-1に代わって世界最大のキックボクシング団体となったGLORYと契約し、2012年大晦日のDREAM.18 & GLORY 4でのGLORYグランドスラム・ヘビー級世界トーナメントに参戦予定だったが、同年9月に負った怪我が治りきっていないため、トーナメントは回避することになった。2000年まではバンナの好きな映画「コナン・ザ・グレート」のテーマ曲を使うことが多かった。2001年から2002年までの間、バンナの友人であるシュープレムNTMの曲「Back dans les bacs」を入場曲としてしばしば使用していたが、2002年 - 2006年と2008年9月 - 現在はカルミナ・ブラーナを入場曲として使用している。なお2001年以降、バンナの入場の際、入場曲が流れる前にバンナを呼び込む声はシュープレムNTMが担当している。
出典:wikipedia
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